三日目 その拾壱
耳に入る息遣いがうるさかった。ここまで自分の呼吸を意識する事は久しくなかった。やっぱり真剣勝負はいい。肌を刺すような緊張感が感覚を徐々に研ぎ澄まして行く。両足の踵を少しだけ浮かせて膝から無駄な力を抜く。緊張感は大事だけど張り詰め過ぎると逆に動けなくなる。気持ちが焦ると全てが台無しになる。暴れる犬を手懐けるようにゆっくり深呼吸する。
ウォッカは相変わらず体の両脇に腕を垂らしたまま微動だにしなかった。でも隙はない。こちらの動きに瞬時に反応する。さっきアリスと闘った時もそうだった。相手のどんな動きに対しても即座に対処出来る。迂闊に踏み込めない。それが緊張感を更に研ぎ澄ませていた。ただ、ここで腰が引けていては絶対前には踏み出せない。体を軽く前後に揺すりながら少しずつ間合いを積めていく。動かなければ何も始まらない。ほんの少しであっても動かないよりかはナンボかマシだ。出来れば一足飛びで踏み込める距離まで縮めたいけど、流石にそれは無理だろうな。
「どうした? 来ねえのか?」
相変わらず穏やかな口調だった。何を考えてこんな話し方をしているのか。
行きたいのは山々だけど、そのお誘いには素直に乗れない。下手に動けば隙が出来る。無駄な動作を極力晒さず一気に踏み込める間合いまで詰める必要があった。そうでもしないとこいつにはまず当てられない。
「随分慎重なんだな」
アリスとは大違いだ。感心したように言った。あんな単細胞と一緒にしないで欲しい。相手の出方もロクに見ずに踏み込むような真似は出来ない。
「ま、流石長女ってところか。下二人とはやっぱ風格が違うな」
アリスはともかく、ミリアムとはそこまで大きくは変わらないと思う。猪突猛進は絶対に有り得ない。
「まだしばらくは来ねえんだろ?」
さっきと同様に返事はしない。そんな余裕はないと言った方が正しい。
「じゃ、こっちから行くか」
次の瞬間には目の前にいた。左手に持った短剣を一気に斜めに振り下ろす。
防げたのは丁度後ろに置いていた足に重心が載っていたからだった。前に傾いていたらまともに受けていた。それにしてもどういう速さだろうか。動作に途中がなかった。踏み込みから攻撃に至るまでが綺麗に繋がっていて切れ目が全くない。見ていても反応する事は相当難しい。切っ先を斜め下にして構えた剣に肘を添えて両手で受け止めた。速いだけでなく、重い。次の瞬間、思い切り後ろに跳んだ。すぐ目の前を、轟音を立てて回し蹴りが通過した。一瞬だけ背中が見えたけど当然踏み込めるような時間的な余裕はない。いや、精神的にもかなりキツい。
「当たったかと思ったんだけどな」
当てが外れたのか、ウォッカはガリガリと音を立てて頭を掻いた。
「やっぱり、動きも心構えも二人とは違うな」
短剣が宙に浮いたかと思ったら、左手に持ち替えていた。大上段から振り下ろされた短剣を真横にした剣で受ける。それだけで手が痺れた。間髪入れずに今度は短剣を真横に薙いだ。これも脇を締めた上で剣を垂直にして止める。
「なかなかいい反応だ」
今の今まで目の前いたウォッカがそこにはいなかった。視界の片隅に見覚えのあるものが映った。拳だった。
鼻先ギリギリを拳が掠める。短剣でこちらの動きを固定していた僅かな間に攻撃に適した位置に移動する。動く距離が僅かであっても視界から消えるせいで余計に速く感じる。と言うより咄嗟に反応出来ない。
何より動きを判りづらくしているのは短剣に徒手空拳を織り交ぜて来る事だ。短剣に蹴りだけならまだしも、突きが加わるせいでより攻撃が複雑になっている。それに、間合いが詰まり過ぎると蹴りは使えない。精々使えたとしても膝くらいのものだろうけど、首相撲ならともかく単純に振るだけでは当たったとしてもそこまで大きな痛手にはならない。その点、突きなら距離が近くても充分攻撃として通用する。その気になれば、短剣でこちらの動きを封じたまま突きを振る事も出来るに違いない。
たとえ短くても右にも左にも自在に持ち替えられる。そして間合いさえ確保出来れば接近戦に特化した手段で一方的に攻め立てる。これがウォッカの攻撃の型なのだろう。それをこちらが真似ようとしてもまず無理だ。長さが邪魔になって安易に持ち替える事が出来ないし、そもそも持ち替えると言う発想がない。蹴りを使うとしても長さが剣に劣る分使い勝手が悪い。下手には振れない。切りつけてくれと言っているようなものだ。
ただ、組手に蹴りを交えた事はこれまで何度かあった。飽くまで牽制程度で決め手にはならないけど、そちらも素人ではない。当たればそれなりに痛手にはなる。別に当てなくても構わないのだ。惑わす事が出来ればそれで役目は充分に果たしている。
「どうする? 素手の使用は禁止にするか?」
「いえ、構わないわ。続けて」
剣を改めて正眼に構え直した。切っ先の向こうには相変わらずムカつくくらい穏やかに笑うウォッカがいた。頬が引き攣った。鼻っ柱に一発見舞ってやらない事には気が済まない。
肩を上下させて呼吸を整える。そう、熱くなるのは上手くない。体は熱くて頭は冷えているのが理想だけど、体が熱い時は決まって頭も熱い。体の熱さと気持ちの冷静さは常に反比例している。このままではこいつに触れる事すら出来ない。普通でないとは思っていたけど、それを遥かに凌いでいる。さて、どうしたものか。
斬撃にしても拳にしても重い。そして鋭く速い。体力的には勿論だけど、精神的にも相当キツい。これと何処まで対峙出来るか。この重圧から解放されたいがために先を焦るのは本末転倒だ。当たる当たらないは関係ない。動揺を誘えるだけでもいい。
両腕から力を抜いた。剣を振り上げる事も振りかぶる事もせず真っ直ぐに突っ込んだ。出来る事なら喉元に切っ先を突き入れたかった。そうしなかったのは突きが禁じ手である事は勿論だけど、ウォッカの反応を見たかったからだ。
ウォッカはイリナが初めて仕掛けた攻撃に対して反撃ではなく純粋に回避で応じた。イリナも相手の反応をここまでじっくり観察するのは初めてだった。腕に力が入っていないのは一目瞭然だ。故に防ぐには値しないと判断したのだろう、体を左にずらした。
前に出ていた左足に重心を載せた。体を捌く勢いを右足に載せ背中を半分見せるようにして下から上に蹴り上げる。足の裏に鈍い衝撃があった。右足の向こうにウォッカの右腕があった。右足を下ろす反動を利用して振り回した左足でウォッカの横面を狙う。顔を、いや上半身を僅かに後ろに逸らせた。目の前を掠める足の動きを冷静に観察している。完全に背後を見せるその瞬間まで相手の挙動を注視していた自分に気付いて更に驚いた。ここまで対戦相手を、その一挙一動を細かく観察した事などこれまでない。否、そうでもしなければ敗けは避けられない。勝つ以前の問題だ。
背後を晒す僅かな時間でも背筋が凍る。振り向き様に剣を降り下ろす事も忘れない。ウォッカは後ろに身を引いて間合いを広げた。その隙にイリナも後ろに飛び退いた。左手の小指の辺りで柄尻を包み込むように掴むと切っ先を正面に向けた。仕切り直しだ。
頬や首筋をネットリとした汗が伝う。喉を通る息が熱い。気付けば肩で息をしていた。時間にすれば一分も経っていない、数十秒がいいところだ。それなのに一里を全力疾走した直後のような疲労を覚えていた。アリスはこんな重圧の中で何分も真っ向から撃ち合っていたのかと思うと驚くのを通り越して呆れる。気を抜いたらそれこそ的にされる。そんな緊張感はそう長々維持出来るものではない。緊張の糸が切れたら、それは即ち敗北を意味する。
予想通りの、いやそれ以上の速さだった。次の一手を考える間もなく相手の攻撃に晒される。考えがまとまらないから余計に混乱し疲労が蓄積する。それがウォッカの戦略なのかも知れない。そこまで頭を使って闘っているようには思えないけど。ただ速さについていけていない事は確かだった。ウォッカの速さに合わせて動き、考えなければならない。それに遅れを取っているなら疲れて当然だ。
ただ、一つ不可解な事があった。脳天に降り下ろされた剣を素手で叩き折り、腰の砕けた相手の顔を蹴飛ばした時のような積極的な戦意が今は全く窺えない。でも手を抜いている訳ではない、それは判った。でも本気とは明らかに違う。矛盾しているようにも思えるけど、ならば何故ウォッカはこの勝負を受けたのか。実力の差は歴然だ。今も殆ど遊ばれているような扱いだ。こうなるかも知れない、それはアリスとの勝負を目の当たりにしてから、いやそれ以前から感じていた。でも引く気はなかった。むしろ気持ちは昂る一方だった。
そこまで考えた時、頭の中で音を立てて閃くものがあった。そうか、だから引き受けたのか。どれだけ実力に差がある事を見せつけても絶対に引かない、ウォッカはそれを知っていた。応じた理由はそれだろう。そして下手に手加減する事もしない。全く攻撃しなければ何故この勝負を受けたのかが判らなくなる。断れば済む、それだけの話になってしまう。
折角付き合ってくれているのだ、全力をぶつけないのは明らかに勿体無い。とは言っても、下手に動けば無駄に体力を消耗するし、止まれば的にされる。ウォッカの体が僅かに沈んだ。次の瞬間には飛びかかって来ていた。短剣を袈裟斬りに降り下ろす。受けるだけで精一杯だった。相手の動きを観察する余裕などない。ウォッカの体が若干左にずれたと思った刹那、踵の辺りに軽い衝撃を感じた。その直後には体が宙に浮いていた。無意識に腕で床を叩いていた。眼前に迫っていた短剣を剣で弾き飛ばす。足を狙って振り回した剣は軽く飛んでかわされた。急いで跳ね起きるとすぐさま距離を取る。
「凄ぇ反射神経だな」
嫌味にしか聞こえない。斬撃が止められた僅かな間に足を踵から刈られたのだ。見事な足払いだった。よく受け身が取れたものだ、そこは自分を誉めてやりたい。
短剣だけでなく、素手による攻撃も非常に高い次元で完成されている。帯刀した十五人の兵士を足技だけで片付けるような男だ、推して知るべしと言ったところだろう。
それにしても。
こんなに強い人間がいるなんて。それに素直に驚いていた。確かにこの小さな街から出た事はこれまで一度もない。井の中の蛙と言われればそれまでだった。でも、相応のものを身につけて来た自信はあった。それが根底から覆されそうになっているのに不思議と悔しくはなかった。身体中が熱い。でもそれは怒りに依るものではなかった。この男相手に何処まで自分をぶつける事が出来るのか。そんな期待が胸の中で渦巻いていた。
どう攻めるかをオチオチ考えている暇はない。でも考えない訳にはいかない。動きながら考えるしかない。相手よりも先に、そして速く動く。動けば隙が出来るけど、相手がどう動くのか見越した上で動けばいい。昨夜誰かが似たような事を話していた気がする。
さて、どうしたものか。動きは全て読まれている。それを逆手に取って利用するしかない。一歩踏み出した。間髪入れずに二歩、三歩と続く。正眼に構えていた剣を大上段に振り上げた。そのまま一気に袈裟斬りに降り下ろした。イリナからは左から右に。ウォッカからは右から左に。安全圏に移るには剣と逆の動きを辿ればいい。つまり、イリナから見て右から左に動けばそこが確実に安全だ。
ウォッカの左膝が床を蹴った。刃先の動きを見送りながら剣とは逆に動く。イリナの左に立った時、左足を旋回させた。ウォッカの膝の裏に踵が入った。ウォッカの上半身が大きく傾いた。完全に虚を突かれた顔をしていた。読み通りだった。
右から左に跳んだ。握り直した剣をウォッカの胴目掛けて一気に振り下ろした。
硬い衝撃が剣から腕に伝った。腕が痺れた。背後で床を軽く叩くような音が聞こえた。
「いや~危なかった」
床の上に剣があった。板の間を木剣で思い切り叩けば腕が痺れて当然だ。
「ちょっと!」
鏡があったらどんな顔をしていたか見てみたかった。さぞ愕然とした表情だった事だろう。
「跳んだんだよ」
「どうやって!」
説明してくれた師匠に思わず怒鳴り返していた。あの状態では跳ぶ事など到底不可能だ。そもそも足が使えないのに跳ねる事など有り得ない。
「倒れる間際に手で床を叩いてな」
足が使えない以上手を使うしかないけど、そもそも手の力で飛び跳ねるような真似など普通は出来ない。しかも目に映らないような速さでだ。俄に信じられるような話ではない。
「信じる信じないじゃねぇ。それが事実なんだ、受け入れる以外ねえだろ」
目を背けているつもりはない。でもはいそうですかと聞き入れる事はかなり困難だった。目の前から突然姿を消したかと思ったら背後に回り込んでいる。でも、かわせていなかったら木剣で板の間を思い切り叩くような目にも遭わなかった。痺れが残る手で木剣を握り直す。
「随分人がいいのね」
「そうか?」
「完全に相手の裏をかいて背後を取ったのに斬りかかって来ないなんて」
「かわすだけで精一杯だったんだよ。さっきの蹴りはそれくらい見事だった」
誉めてくれているのに素直に喜べない。蹴りは見事だったとしても肝心のその後の攻撃をあっさりかわされているのだ。しかも有り得ない方法で。
「それを容易くかわすあんたは何なのよ」
「ただの大飯食らいの大酒呑みだよ」
確かに間違ってはいない。でも事実とも言えない。飲み食いと強さを同じ器で扱う事自体既におかしい。指摘する気にはなれないけど。
「さてと」
ウォッカは逆手に持っていた短剣を順手に持ち替えた。
「もっとよく見た方が良さそうだな」
やっぱり構える事はせずにダラリとぶら下げる。何気無く見ると隙だらけに見えるけど実際はそれには程遠いものがある。でも、さっきに比べればこちらの目もいくらか慣れている。ひょっとしたら、ひょっとするかも知れない。無駄に力の入った両腕から力を抜く。切っ先を僅かに下げた。そのまま一気に踏み込んだ。余計な動作は一切入れていない。何の前触れもなく突進して来たように見えていたら、こちらの目論見は半ば達成出来た事になる。踏み込みと同時に剣を降り下ろした。
動こうとしなかった。防ごうとすらしない。ただじっと前を睨んだままだった。剣がウォッカの肩口に当たったと思った刹那、つんのめるようにして体が前に傾いた。見事な空振りだった。
「今のも良かったぜ」
背後から声が聞こえた。距離を取りながら振り向く。反射的に後ろを見ていた。さっきまでそこにいたはずなのに。それが何故背後に立っているのか。狐に摘ままれたような気分だった。さっきまでとは速さの質が違う。共通しているのは当たらないと言う点だけだった。一つだけ確信を持って言える事は、動く速さは今の方が格段に速いと言う事くらいだ。それでも絶望的な気持ちにならないのは何故だろう。
さっきまでは動きが見えた時点でその先の動きを読んでかわしていた。動きそのものよりも、イリナの動きを読むのが速かったのだ。だから速く感じた。でもそのやり方には重大な欠点がある。正確な動きを把握する前に予測でかわすため、フェイントにかかりやすい。さっきもイリナの動きを読んで斬撃はかわしたけど、足の動きは見ていなかった。何より予測の範囲外にあったのだろう。だからかわせなかった。
でも今は違う。こちらの一挙手一投足を見極めた上でかわしている。空振りする直前まで命中を確信していたのはそのためだ。相手の動きを見て、ギリギリまで引き付けても回避が間に合う。それを可能にする動体視力と運動神経がウォッカにはあるのだ。
これでイリナの攻撃が当たる見込みはほぼなくなった事になる。油断でもしない限りまず当たらない。掠りもしない。絶望的過ぎるくらいの窮地に立たされたと言うのに、心拍にも脈拍にも大きな乱れはなかった。命をかけた闘いの場で今の精神状態を維持出来たら大したものだろう。落ち着いていられるのは案外そういう理由なのかも知れない。
でも、一矢報いたい。一太刀返したい。このまま何も出来ずに引き下がる事だけはしたくなかった。
柄を握る両手から僅かに力を抜いた。それを足に込める。爪先だけを床につけて踵を浮かせた。足の運びに全身の神経を集中させた。どう斬るかは二の次だった。
間合いが一瞬で縮まった。ウォッカは相変わらず構えを取っていなかった。無意識に上段に構えていた剣をそのまま一気に振り下ろした。否、下ろせなかった。上段に構えた瞬間、木剣が宙を待っていた。
何が起こったのか判らなかった。手がやけに軽く感じた。いつの間に踏み込んだのか、すぐ目の前にウォッカがいた。一瞬、笑ったような気がした。ウォッカは体を反転させるとイリナの背後に回り込んだ。それを何もせずに見送る自分がいた。首筋に冷たい何かが触れた。それが短剣だと気付くのにさして時間はかからなかった。木でも、金属でなくてもやっぱり冷たいな、と思った。少なくとも人肌のような温もりは欠片も感じない。そしてそれを見送るだけで防ごうとすらしなかった。いや、出来なかった。ウォッカが落ちて来た何かを左手で掴んだ。木剣だった。何処から湧いて出たのか、いや降って来たのか。手元を見ると何もなかった。つい今しがたまで、イリナが持っていたものだった。何故それが落ちて来たのか、ようやくそれが判った。
「それまで」
試合終了を告げる師匠の声がやけに遠くから聞こえた気がした。




