三日目 その拾
さっきまでだったら開始と同時に突っ込んでいた。でも今はウォッカを、この得体の知れない大男を観察するだけの余裕があった。闘う以前に何故ミリアムは一撃を加える事すら出来なかったのか、そこに純粋に興味があった。こちらの身が竦むようなものがあるなら、それが何なのか知りたかった。
ウォッカはさっきと変わらなかった。構えを取らない。拳を握る事もせず、腕を体の脇にだらりとぶら下げたままだった。積極的に闘おうと言う意欲は全く窺えない。相手が相手なら鼻っ柱に思い切り拳を叩き込んでいるところだけど、この男の場合は少し勝手が違っていた。これだけ恵まれた体躯の持ち主をこれまで相手にした事がなかった。迂闊に飛び込んだら手痛い反撃に見舞われるかも知れない。そうか、やっぱり動けなかったのは体格の差か。こうして突っ立っているだけでも相当な威圧感がある。そこに踏み込むにはそれ相応の勇気と度胸が必要だ。だとしたら怖じ気づいたのか。それは積極的に認めたくなかった。姉であると同時に昔から切磋琢磨して来たミリアムが、そんな理由で対戦を放棄するなど考えたくなかった。それにさっき見せた表情は恐れをなして逃げ出した人間のそれではない。遥かに清々しく、そして潔かった。敵に背中を見せて逃亡を図るような腰抜けが見せる顔には程遠いものがあった。
構えたままもう一度正面を見据える。その気になれば一瞬で縮められる程度の間合いしかない。ウォッカの表情を窺った時、思わず目を剥いてしまった。目を閉じていた。完全に視覚を絶っていた。昼寝でもするつもりかと言いたくなるくらい穏やかな表情で目を閉じている。しかもこれから闘おうとしている最中に、だ。真っ当な感覚ではまず考えられない行動だった。隙だらけなのか、それとも隙がないのか、それすら判らなくなって来た。動くべきか止まるべきか判断がつかなくなっている。混乱している自分に気付いて更に驚いた。いつもはそんな事を考える間もなく攻撃に転じている。
そこまで考えたところで迷いが吹っ切れた。余計な事ばかり考えているから体が動かないのだ。迷いを捨てて一気に攻めればいい。そう思った瞬間には足が床を蹴っていた。元々広くはなかった間合いが瞬時に縮まる。下から上に向けて放たれた横蹴りがウォッカの顎を貫いたかと思った瞬間、そのまま体を前に引っ張られたような錯覚に陥った。
蹴りは紙一重のところで綺麗にかわされていた。引っ張られたように感じたのはぶつからなかったせいで体が伸び切ってしまったからだった。首を傾げたウォッカがこちらを見て笑っている。慌てて足を引っ込める。そのまま後ろに飛び退いて距離を取った。あのまま足を捕まれでもしていたら危なかった。と言ってもそこまでえげつない真似をするとは思わないけど。
それよりも何よりも、どうして蹴りをかわす事が出来たのか。それが判らない。直前まで目は閉じていたはずだ。でも蹴りは当たらなかった。当たる直前にかわしていた、そう考えるしかない。目を閉じた状態でどうやってかわしたと言うのか。
「何だ? 一発で終いか?」
声にも表情にも随分余裕があった。途端に体中が熱くなる。気付いた時には思い切り踏み込んでいた。考えての行動ではない。いつもの事だった。
牽制で上段に放った突きはさっきと同様に首を捻ってかわされた。体が前に出た勢いを回転に変えて足に載せる。勢いよく振り回した踵は虚しく空を薙いだ。僅かに後ろに身を引いただけだった。たったそれだけの動作でかわされていた。首を捻る、半歩下がる。さっきからウォッカは必要最低限しか動いていない。それで難なくかわされている。そして焦っている様子もない。こんなにアッサリと攻撃をいなされたのは初めてだった。動きを完全に見切られているのか、それとも見てからても余裕でかわせるのか、何れにしても只者ではない。握り込んだ拳からネットリとした汗が滴る。
不意に視線を感じて顔を上げた。ウォッカが笑っている。本当に穏やかな笑顔だった。場違いにも程遠い。こいつの立場からして見れば不敵に笑うべきところだ。その方が自分の優位を相手に思い知らせる事が出来る。でもそんな気配は微塵もない。暗い穴倉の中で春の到来を待ち侘びていた熊でもこんな顔はしないに違いない。それくらい平和的で間が抜けていた。
いつの間にか肌が粟立っていた。前を睨む。ウォッカが泣く子供をあやすように首を傾げていた。脇を締めると同時に床を思い切り蹴っていた。
拳が振り抜かれるたびに風を切るような鋭い音が聞こえる。蹴りも当たる事はまずない。殆どがかわされ、一部は手で弾かれた。急所はおろか、一発も体に命中していない。
その様子を誰もが黙りこくって見守っていた。道場に詰め掛けた観衆はもっと派手な打ち合いを期待していたのかも知れない。だとすればそれは見事に裏切られた事になる。ここまで一方的な展開になるとは誰も考えなかっただろう。
「ねえ」
妹は呼び掛けに応じてこちらに首を捻った。
「こうなる事が予想出来たから潔く身を引いたの?」
ミリアムは黙って首を横に振った。反応に迷いがない。
「確かに私がやっていてもこんな感じだったのかも知れない。でも攻撃が当たらないのは自分が未熟だからでしょ? それを相手のせいにするくらいなら武術なんて最初から養うべきじゃないわ」
実に模範的な回答だった。でも拍手したら絶対睨まれるな。
「あなたらしいわね」
「でも質問の答えになってないって言うんでしょ?」
流石に気付いていたか。下の妹二人との会話ではこうも行かない。
「彼、構えなかったでしょ」
「そうね」
「今も構えようとしない」
あれだけの猛攻を受けているにも関わらず、その全てを綺麗に受け流している。それだけでも相当な技量が必要だ。
下から打ち上げられたアリスの右の突きを左手で綺麗に捌いた。右手を外に弾かれたせいで顔面がガラ空きになっている。
ウォッカは握り込んだ右の拳を一気に打ち下ろした。今度はアリスがそれを紙一重でかわした。膝を曲げて体勢を下げたのだ。その後すぐに間合いを取る事も忘れない。大した反射神経だ。アリスは距離を置いたまま動かない。確かに、あんな一撃を見せつけられたら迂闊に踏み込めない。
「今の、どう思う?」
「見事な突きね」
ミリアムは軽く肩を上下させて溜め息を吐いた。
「本気で言ってるようなら呆れるわ」
「突きそのものに対する評価よ」
咄嗟の反応でありながら勿論腰は入っているし、拳を出した後の引きも速い。正に一撃必殺の突きだった。そう、当たりさえすれば。
「イリナだったら、今のは当てられた?」
「当然でしょ」
反撃の機会としてはこれ以上ないくらい打ってつけだった。むしろ外す方が信じられない。でも実際は当たらなかった。いや、当てなかったと考える方が自然だろう。
「話してなかったけど、午前中ウォッカと散歩してた時にあいつらに襲われたの」
流石に冷静は維持出来なかったのか、流石にミリアムの表情が強張った。
「で、無事に撃退出来たからこそ今ここにいると」
応えるまでもなかった。冷静に観察するとその時とは明らかに違う。本気で、いや倒すつもりで臨んでいない。
「手を抜いているって訳ではないと思う。でも、不用意に踏み込むような真似はしない」
「不用意に踏み込まない、って事は攻撃を加える事はしないって言う風に解釈してもいいのかしら?」
闘う二人を見据えていたミリアムの横顔が微妙に歪んだ。
「攻撃云々とは少し違うのよね」
もどかしそうに唇を噛む。気持ちを上手く言葉に出来ないのだろう。でも、言わんとしたい事は判る。一つだけハッキリしているのは昼間奴らを、昨日カティを守りながら闘っていた時とは明らかに違うと言う事だ。
それでもどうしても不可解な事がある。こうして誰かと闘う事は絶対に好きに違いない。多少の手加減は判るにしても、もう少し積極的に前に出てもいいはずだ。それに、ここまでまざまざと実力の差を見せつけられたらアリスも平静でいられるはずがない。只でさえ血の気が多いのだ、その心中は推して知るべしと言ったところだろう。
飛んで来た拳をウォッカは腕で受け止めた。休む間もなく、顔と言わず体と言わず拳が続けざまに浴びせられる。その全てを折り曲げた両腕で綺麗に受け止めていた。
「中々いい連打だったな」
手が所々赤くなっている。袖の下の腕はアザだらけに違いない。それでも顔や胴には一発も当たっていない。あれだけ打ち込まれたのに痛手に至る一撃は一発も入っていないのだ。攻撃だけでなく防御に関しても相当な技術を持っている。
終始涼しい顔をしているウォッカとは対照的に、アリスは眉間に深いシワを刻んだまま肩で息をしていた。さっきからほぼ休みなく動き続けているのだ、疲れて当然だった。そして冷静さは完全に失われている。一挙一動の全てが怒りに満ちていた。胸を埋め尽くす絶望から懸命に逃れようとしている。でも眼光だけは鋭かった。肩で激しく息をしながら、それでも現状を打開する最善策を必死に模索していた。
体が一瞬沈んだと思った瞬間には突っ込んでいた。間合いを一瞬で無にする瞬発力、それを最大限に発揮させた突進だった。ウォッカはそれに合わせて拳を突き出した。当たったと思った刹那、ウォッカの表情が僅かに曇った。アリスが下から打ち上げた拳がウォッカの拳を弾き飛ばしていた。その反動を利用して体を反転させ、右の肘を上に突き出して飛び上がった。
止める間もなかった。ウォッカの顔の真ん中、そのやや上の辺りに肘が叩き込まれた。そのまま後ろに吹っ飛ぶ。単に肘が当たっただけでなく突進の勢いも加わっているのだ、普通ならばその場で昏倒、打ち所次第では最悪死んでいてもおかしくない。禁じられている肘で、しかも顔面を何の躊躇いもなく攻撃しているのだ。つくづく末恐ろしい妹だと思う。吹っ飛ばされたウォッカはその勢いを止める事はせず後方に宙返りした。巨体に見合わぬ身軽さだった。着地と同時に体を捻る。ウォッカの放った回し蹴りが轟音を立ててアリスの頭上を掠めた。食らっていたら首から上が吹き飛びそうな蹴りだった。それを紙一重でかわすアリスも大概だけど。さっきウォッカがそうしたように体を後ろに反らした勢いを殺さず後方に宙返りした。アリスがウォッカから目を離したのはその僅かな時間だけだった。だから着地した瞬間目の前にウォッカが迫っていたのを知った本人はさぞかし驚いた事だろう。イリナも度肝を抜かれた。蹴りを放ってから移動に到るまでの速さが尋常ではない。
次の瞬間、轟音が耳朶を打った。と思ったらアリスの背中が目の前にあった。慌てて受け止める。後ろでミリアムが支えてくれなかったら倒れていた。つまりウォッカの一連の動きが見えていた事になる。そしてそれに対して的確に反応した。全く、大した妹だ。
「イリナ、大丈夫?」
「私は何ともないわよ。心配する相手が間違ってるんじゃない?」
僅かに間があった。背後にいたミリアムが前に回り込む。
「アリス、怪我は?」
「む、胸が痛い……。ねえ、それより何が起こったの?」
こっちが聞きたかった。この一瞬の出来事を正確に理解出来た人は果たして何人いるのだろう。
「それまで」
二人の間に立っていた師匠は決着がついた事を告げるようにウォッカの方に手を上げた。体をやや前傾姿勢にしたウォッカが握り拳を脇に添えて立っていた。その瞬間を見た訳ではない。でも何が起こったのか粗方察しはついた。
「大丈夫かい?」
ウォッカはアリスの元に歩み寄ると膝を折った。今の今まで闘っていたのに殺気や荒々しさの名残など欠片もない。何処までも穏やかだった。やっぱり、さっきとは明らかに雰囲気が違う。そして、額の丁度真ん中の辺りが微かに赤みを帯びている。あの僅かな瞬間に体の中で一番硬い骨で攻撃を受け止めている。
「一応寸止めはしたんだけどな」
今度は耳を疑った。アリスは目を剥いている。直接当てていないのに吹っ飛ぶほどの衝撃があるなんて、俄かに信じられる話じゃない。
「直撃したら骨が砕けるどころじゃ……」
「馬鹿ね、即死よ」
愕然と呟いたアリスの言葉をミリアムが硬い声で否定、いや訂正した。赤かったアリスの顔が一気に蒼白になった。実際に直撃していたらそれこそ粉微塵に砕け散るだろう。顔色を無くすのも無理はない。
「大した拳だな」
ウォッカの隣に立った師匠が呆れるように言った。
「いや、拳だけじゃない。踏み込みも相当なもんだ。よく床が抜けなかったな」
言われて初めて気付いた。さっきの凄まじい轟音は震脚の音だ。普通ならそこに気合いを入れる一声を加えるところだけど、それは絶対にないと断言出来る。弾みで出てしまう事はあるかも知れないけど。そんな事をしたら寸止めした意味がなくなる。瞬間的にだけど、声を出す事で限界以上の力が出せるからだ。
「そこまで強く踏み込んだつもりもないんですけどね」
あれだけ凄まじい轟音を響かせておいて何を言うか。しかし手加減したのは事実だろう。でなければ胸が痛む程度の怪我では済まなかったはずだ。
「ちょっと見せて」
袴の前を少しだけはだけさせると胸を覗き込む。丁度胸の真ん中、胸骨の中央の辺りに拳をぶつけたような痣があった。これが寸止めの痕か。つまり拳を突き出した風圧だけで人一人を吹っ飛ばした事になる。
「確かに最後の突きは実に見事だったな」
「光栄ですね」
「それ以外に見るべき部分もかなりあったが」
ウォッカは応えなかった。聞いているのかいないのか判らない、見様によっては神妙にもふざけているようにも見える。そんな表情で耳の穴をほじっていた。教師の説教を待ち侘びる悪ガキのようだった。
「回し蹴りから止めの正拳突きまでの一連の流れに無駄がない。いや、それに限らず全ての動作が速い」
ウォッカの隣に立った師匠は腕を組んだまま神妙な表情で言った。珍しくマジだ。対するウォッカは懸命に便意を堪えるような顔で突っ立っている。
「速さの理由は相手の動きが見えてるから、いやそれを見越した上で動きを読んでいるから、そのどちらかだとしたらどっちだ?」
「いちいちそこまで意識してないですね」
手を組んで大きく伸びをしたウォッカを、師匠は粘着質な目で睨んだ。
「相手の動きが見えてればその後にどう動くかもある程度予測がつく。確か昨夜もそんな事言ってたよな」
二人が闘っている様子を端から見ていて奇妙な違和感を覚えた。そしてそれはイリナだけではなかった。
そう、とにかく速かった。巨体には不似合いなくらいの速さで終始動いていた。どうしてそんな速さで動けるのか。しかもあの図体で、だ。
ウォッカにはアリスの動きが全て見えていた。見えていただけではない、それに対応出来るだけの技量もある。でも動きそのものの速さと言うより、相手の先を行く速さに秀でていた。突きを打つ直前にそこにいた事は見えていても、腕が伸び切った時にはもうそこにはいない。その繰り返しだったように思う。だから裏をかかれる、背後を取られる。
「動きが見えてりゃ読むのも容易い。かわす事なんて訳ないだろ」
単純に、端的に表現するとそうなる。ただウォッカの場合はそれだけではない。それを超える何かがある。
「ちょっと外すぜ」
師匠は断るとツカツカとこちらに歩み寄って来た。アリスの前で立ち止まると腕を組んだまま見下ろす。
「今の勝負、ウォッカの一本勝ちじゃねえ。お前の反則負けだ」
軽く首を傾げると師匠は小指で耳の穴を掻きながら言った。怒鳴り付けたいのを我慢しているようだった。
「判るか?」
アリスは応えなかった。目を伏せたまま悔しそうに唇を噛んでいる。
「応えろ。お前にはその義務と責任がある」
有無を言わさぬ口調だった。端で聞いているこちらも自然と背筋が伸びた。腹筋にも力が入る。
アリスは俯いたままだった。拳骨がアリスの脳天に落ちた。声は上げなかった。頭を押さえたまま上目遣いで師匠を睨む。
「組手で肘や膝による攻撃は厳禁だ。知らないとは言わさねえぞ」
頭に血が上っていたとは言え、決して許される事ではない。と言うより普通はまずそんな事はしない。その一線をアッサリ超えてしまうのがこいつの恐ろしさだ。
それだけではない。そちらの方がもっと深刻だった。
「お前、何処を狙った?」
声に少しずつ剣呑なものが混ざり始めている。無理もない。
「ガイデルさん、もうその辺にしておいてやって下さい」
「悪いがウォッカは黙っててくれ。これはこいつの問題なんだ」
ウォッカも師匠が言わんとしたい事は当然理解している。それが故に止めようとしたのだろうけどそういう訳にもいかない。
「眉間か、鼻の頭だな」
アリスは俯いたまま頷いた。師匠は肩の高さまで振り上げた拳をゆっくりと下ろした。溜め息を吐く横顔に何処かやるせないものを感じた。
「その二ヶ所は急所として教えた。絶対に攻撃するな、そういう意味でな」
そこに別段躊躇う事もなく硬くて尖った肘を、勢いをつけて叩き込むと言うのはやはり絶対に普通ではない。相当熱くなっていた証拠でもあるだろうけど。
「ウォッカに感謝しろよ」
それはその通りかも知れない。あの一撃を眉間か鼻にまともにもらっていたらただの怪我では済まない。最悪死んでもおかしくないのだ。
「当たった時の感覚はどうだった?」
「やけに軽かった、かな?」
「だろうな」
軽いというのは当たった感じがしなかった、という事だろうか。だとすると可能性は一つしかない。
「当たる瞬間後ろに飛んで衝撃を逃がしてたからな」
あの僅かな瞬間の何処にそんな事をする余裕があるのか。突きを弾かれたと同時に動かなければまず間に合わない。要はそうしていたと言う事なのだろう。
「取り敢えず、ウォッカに一言詫び入れて来い」
アリスの背筋が音を立てて伸びた。武道に携わる者としては絶対にやってはいけない事だった。その一線を見事に超えている。
ウォッカの前で立ち止まると、アリスは改めるように姿勢を正した。
「ごめんなさい」
背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま綺麗な角度で頭を下げた。当のウォッカは困ったような顔をして頭を掻いている。
「人に頭下げられるのって苦手なんだよなぁ」
「すみません。でも、もう少しだけ私に付き合って下さい」
体の前で組んでいた手を気まずそうに動かしている。気持ちをどうやって言葉にすればいいのか判らないのかも知れない。
「昨日の件もそうですけど、何て言うか、私昔から気持ちが入っちゃうと周りが全然見えなくなっちゃうみたいで」
「知ってる」
苦笑するウォッカを余所に顔が歪んだ。昨日の件? 隣にいるミリアムも困ったように頬を引き攣らせている。
「何があったの?」
何かがあった事は間違いない。そしてそれをミリアムも知っている。それを前提にしておかないと話をはぐらかされる恐れがある。絵に描いたようなクソ真面目のミリアムがそこまでセコい事をするとも思えないけど、万全を期しておくに越した事はない。
「あまり言いたくはなかったんだけど」
「何よ」
「背中を見せたウォッカに殴りかかったの」
言いにくそうにしていた割にはアッサリ白状した。直接係わっていないのだから、そこまで口を固くする必要もないのだろう。他人事と言ってしまえばそれまでだった。
「詳しく聞かせて」
「私もその瞬間を見た訳じゃないから詳細は知らない。でもあの子が彼に殴りかかったのは事実よ」
「どうして見てないのにそうと言い切れるの?」
「その直後なら見た。だから、」
少し考えれば何が起こったのかくらい大方察しはつく、そんなところだろう。
「具体的に、どんな瞬間を見たの?」
「恐らくだろうけど、無防備に背中を見せたウォッカの背後からあの子が一気に踏み込んで殴ろうとした」
「でもかわされた訳ね」
ミリアムは黙って頷いた。膝が折れそうになった。本当に相手がウォッカで良かった。
「でも真後ろから殴ろうとした訳でしょ? よくかわせたわね」
「私も最初は信じられなかったけど、今の動きを目の前で見せられたら頷かざるを得ないかな」
論より証拠、いや百聞は一見にしかずか。さっきから冷や汗が止まらない。
「本当にごめんなさい」
体の前に手を添えたままもう一度腰を折った。
「君をそこまで熱くさせた俺にも原因はある訳だし、そこまで気にしなくていいよと言いたいところだけど、やっぱり急所狙いは止めた方がいいな」
ご指摘ごもっともだった。過失ではなく、故意によるものだ。ごめんで済む話ではない。それにウォッカもこうなる前に終わらせる事も出来たはずだ。
「さっきガイデルさんにも言われたと思うけど、君は物理的な修行よりも精神的な修行を積んだ方がいいね」
「……はい」
本人もさぞ耳が痛かろう。いつも異口同音に口を酸っぱくして言われている事だ。
「俺も熱くなりやすい方だし熱くなるのも好きだけど、体は熱くなってもここは冷えてる方がいい」
こめかみの辺りを人差し指で叩いている。冷静であらねばならない。ここに来た時も、そして昨夜もそんな事を言っていた。
「熱くなると周りも見えなくなるし力むせいで一発がどうしても大きくなるから相手にするこっちには好都合なんだけどな」
「どうしてですか?」
「動作が大きくなるから動きもよく見えるし、だからその分先も読みやすい」
穴があったら入りたい、と思っていてくれたら助かるなと内心では思うけど、果たしてそれがアリスに伝わっているだろうか。振り下ろされた剣を素手で叩き折れるような動体視力の持ち主からすれば、怒りで大振りになった突きや蹴りが見えない事など有り得ない。当たらないのも道理だ。
「だから細かく鋭く、そして素早く。その繰り返しだな」
その全てを実行出来るだけの技術がアリスにはある。それを見越した上での忠告だろう。
「あの、私って強いんですか? それともまだまだなのかな」
「充分強いよ。自分の身一つ守れるだけのものはある」
ウォッカは腕を組むと斜め上の宙を睨んだ。
「いや、それ以上か」
俯き加減だったアリスが顔を上げた。頬が紅潮している。
「兵士連中なんかまず相手にならないな。油断さえしなければ負ける事はないよ」
「それと、熱くならなければ」
ウォッカは声を上げて笑った。アリスにしては的を射た分析だった。
「有り難うございました。まだまだ足りないものがいっぱいあるって、改めて判りました」
「それはお互い様だよ。足りないものがない奴なんて何処を探したっていやしないさ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
少し拡大解釈している気もするけど、言わんとしたい事は判る。でも、ならばウォッカの足りない部分は一体何でそれは何処にあるのか。
それを探す旅なのかも知れない。
最後に一礼したアリスが場外に出た。頬を伝う汗を手の甲で拭う。ミリアムは首にかけていた手拭いを手渡した。
「負けた割には随分スッキリした顔してるわね」
「悔しくないって言ったら嘘になるけど、学んだ事もいっぱいあるから」
隣で聞いていた師匠が目を丸くした。思わずミリアムと目を見合わせる。
「で、具体的に何を学んだんだ?」
師匠が前に身を乗り出した。ある種の期待がこもっていた。
伏し目がちだったアリスが顔を上げた。目がキラキラしていた。
「突きにしても蹴りにしても動作が遅すぎる。あれじゃかわされて当然ですよ。あと無駄な予備動作も多すぎ。余計な部分を削ぎ落として最短距離で動けるようにならないと。それに踏み込みがまだまだ甘い。もっと速く突っ込めたらひょっとしたら当たってたかも知れない。となると鍛えるのはふくらはぎですよね。これから移動する時は極力爪先立ちでするようにしよう。組手よりも基礎練習が大切だっていつも師匠おっしゃってますよね、それが良く判った気がします。今日から基本を一から見直しますね。それから……」
余程興奮しているのか早口で一気に捲し立てた。
師匠は腰に手を置いて溜め息を吐いた。ミリアムは頭痛を堪えるように頭を抱えている。かける言葉が見つからない。
ダメだ、こいつ筋金入りの脳筋娘だわ。肝心なところが何一つ判っていない。
「そんな訳で師匠、改めてよろしくお願いします!」
元気いっぱいで頭を下げた。負けた悔しさで動けなくなるよりもこうして新たに目標を見つけて前進する方が余程いい。そもそも、何かに悩むほどこいつは脳ミソが詰まっていない。
「さてと」
頬を両手で叩く。膝に手を付いて屈伸した。膝をしっかり伸ばす。大して動いてもいないのに首筋が熱い。額から滲んだ汗が床に落ちる。
「もう準備万端みたいね」
「見てただけなのにどうして体が温まってるのよ」
苦笑するしかなかった。どうして既に臨戦態勢に入っているのか。
「あんた達がやり合ってるのを目の前で見せつけられたらイヤでもこうなるわよ」
静と動、全く対照的な勝負だった。ただそのどちらにしても体を熱くさせる、血を沸き立たせる何かがあった。
「イリナ」
見上げるとヨハンが目の前に立っていた。手に握っていた木剣を差し出す。
「気が利くじゃない」
ヨハンは露骨に顔をしかめた。剣を持って来た事を後悔するように溜め息を吐いた。でも、僅かに強張っていた顔からすぐに力が抜けた。
「ただ渡しに来た、って訳じゃなさそうね」
「言うまでもないかも知れねえけど」
「じゃ、言わなくていいわよ」
今度こそ本当に顔をしかめた。隣にいたミリアムの頬が引き攣った。
「あんた達二人とも無駄に硬すぎよ。もう少し肩の力抜いた方が楽に生きられると思うけど」
「別に楽に生きようなんて考えてねえよ。やるべき事を一つずつ片付けていくだけだろ」
「だから、その発想が既に硬いのよ」
義務をこなす事は大切だけど、それすらこなさずに済むならそれに越した事はない。時間も労力も節約出来る。
「ま、いいわ。取り敢えず聞いてあげる」
眉間にシワを寄せたヨハンは微妙に首を傾げてこちらを見ている。端からは睨んでいるようにしか見えないだろうけど、笑いを堪える時は昔からいつもこういう顔をする。
「昨日ウォッカから剣を預かった時からずっと疑問に感じてた事があったんだが」
「で、その疑問は解消されたの?」
「ああ」
実にスッキリした顔をしている。強がりでもハッタリでもなさそうだった。
「で、その疑問って何なの?」
「大中小三本の剣、使い込まれてたのは一番短い短剣で、長剣は使われた形跡すらなかった」
どうして使いもしないものを持っているのかと言う思いよりも、短剣の方を武器として重用する理由が気にかかった。
当然扱う武器によって間合いは変わる。相手より間合いが狭ければ不利にはなるけど間合いが広い方が必ずしも有利になる訳ではない。自分に適した間合いがあるからだ。ウォッカの間合いはイリナやミリアムのそれよりも遥かに狭い。単純に言えばそれだけの話だ。でもその距離で有利に勝負を進めるには相応の、いや相当な技術が要る。そしてそれがウォッカの距離なのだ。
「最初は短剣の距離で闘う事自体が難しいんじゃないかって思ってたから、どんな風に戦うのか気になってたんだ。それがようやく少し見えて来た気がするな」
アリスの突きも蹴りも、まともに入ったものは一発もない。かわす、そして捌く技術に秀でているだけでなく動きそのものの速さが尋常ではない。あれだけの速さで動ければどんなに離れていても一瞬で間合いを詰める事が出来る。それ故の距離なのだろう。
そうなった場合、どちらが不利になるかは一目瞭然だった。それまで有利な立場にいた方が不利に立たされる事になる。見事なまでの形勢逆転だ。懐に潜り込まれたら剣の長さが仇になる。いいようにいたぶられるのは明白だ。
それでも気持ちは萎えなかった。むしろ熱さは増すばかりだ。ゆっくり息を吐き出すと頬を汗が伝って落ちた。
「中に入られたら終わりだ」
「百も承知よ」
「お前なら自分の距離を維持して闘えるだけの技術は充分にある」
肩に置いていた剣を一気に降り下ろした。風を切る音が耳に心地よい。ウォッカはさっきそうしていたように頭の後ろで手を組んだまま昼寝でもするように目を閉じている。でも、決して舐めている訳ではない。それだけは判った。
「あなたの期待に応える気はないけど、取り敢えず今持ってるものは全部置いてくるわ」
「相変わらずイヤな言い方だな」
それでも笑っている辺り、やっぱりこいつとはいい腐れ縁だった。
持っているもの全てをぶつけたとしてもそれが何処まで通用するのか。太刀打ち出来ないとは思いたくなかった。始める前から諦めていたら勝てるものも勝てなくなる。こういう場合なら尚更だ。
場内に入る前に一礼した。ウォッカは握っている短剣を玩具のように弄んでいる。こいつからしてみれば木製の武器など玩具同然なのだろう。
目を上げたウォッカが笑った。高揚した心が頬を弛ませた。でも、組手の前は嫌でも気が張るものだ。こんな風に笑える事の方が少ない。むしろ笑えるくらい気持ちが落ち着いている方がいい。確かに普段とは勝手が違う。でも決して悪い流れではない。
「お互いに、礼」
剣を脇に携えて頭を下げる。顔を上げた拍子に目が合った。
「始め」
左手で柄尻を握り、右手を軽く鍔元に添える。正眼に構えた剣をウォッカの顎の高さに合わせた。




