三日目 その九
握っている木槍の感覚を確かめる。よく手に馴染んだそれだった。対するウォッカは一尺強の木製の短剣を携えている。
彼の得物に関してはここに来る時にヨハンからいくらか聞いている。短剣はよく使い込まれているけど長剣は新品同様だ、とも。使いもしない剣を差す必要があるのかと言う素朴な疑問より、何故そこまで短剣に重きを置くのか、そちらの方が気になった。槍と短剣では長さが全く違う。懐に入る事が出来れば勝機も見えるだろうけど、それが叶わなかったら間合いの外から一方的になぶり殺しにされるだけだ。間合いを一瞬で無に出来るものでもあれば話は別だろうけど。仮にそれがあるとしたら、それが絶対に負けないと言う自信の拠り所になっているかも知れない。
ミリアムは目を閉じるとゆっくり深呼吸した。気持ちだけが無駄に昂るとロクな目に合わない。焦る気持ちを抑える手綱は絶対に必要だ。特にこういう勝負事には。
「両者、前へ」
主審を務める師匠が呼び掛けた。ウォッカは構えると言うよりぶら下げるようにして短剣を持っている。とてもこれから闘いに臨むようには見えない。目が釣り上がった。ウォッカは心待ちにしていた出来事の到来を歓迎するように笑った。緊張感の欠片もない。表情が険しくなった。馬鹿にしているのか。
「急所への攻撃は不可。また戦意を喪失した相手への攻撃も厳禁とする。その場合はすぐに申し出るように」
「承知しました」
ウォッカは素直に頷いた。
「それと、素手で攻撃する場合は肘、膝の使用は禁止」
そんな事は百も承知だけど、事前に説明しておく義務は間違いなくある。まさかウォッカがそんな危険な真似をするとも思えないけど。
「以上だ。何か質問は?」
前を見据えたまま首を横に振った。相手から視線を外さないミリアムとは対照的に、ウォッカは武道場の周りを取り囲んでいる観客を眺めている。
「始め」
開始と同時に槍を構えた。対するウォッカは左手に短剣を握ったままダラリとぶら下げている。構える気配はな い。やっぱり馬鹿にしているのか。首筋が熱くなった。
巨体には不釣り合いな短剣を携えているだけだ。体格の大きさは確かに脅威だけど、槍ならば彼の足よりは絶対長いから間合いの外から攻撃出来るし、体が大きければその分的もデカい事になる。当然こちらからの攻撃も当たりやすい。
なのに、打ち込めなかった。動く事すら出来なかった。構えすらまともに取っていない相手に攻撃を加えられない。構えていないのに隙がなかった。何をしても即座に反応する、そんな気配が肌を通して痛いくらいに伝わってくる。周囲がザワつき始めた。お互いにさっきから突っ立っているだけだ、不審に思われるのも無理はない。
「どうした?」
実に涼しい顔で言った。目の前に刃物を突き付けられたように体が強張る。短剣の峰で肩をトントン叩きながら笑っている。どうしてこんなに落ち着いているのか。いや、そうではない。殺気はおろか戦闘意欲すらない人間を相手に明らかに動揺している自分がいる。確かに強そうではある。それに怖じ気づいて動けなくなると言うのは有り得ない話ではない。でも、そういう輩が決まって持っている荒々しさを伴った殺気や殺伐とした雰囲気は欠片もない。日向を散歩するように穏やかに笑っている。何故そんな相手に打ち込む事すら出来ないのか。
呼吸が乱れている。動いた訳でもないのに、気付けば肩で息をしていた。手から滲んだ汗が板の間に滴り落ちた。
周囲がザワついているせいでうるさくて仕方ない。誰もが派手に打ち合う様を想像していたはずだ。それが蓋を開けてみれば黙りの睨めっこだ。確かに動きがないのは不自然だろうけど、そうなるだけの理由は必ずある。それを自分でロクに探ろうともせずに対峙しているミリアムと一緒に動揺しているのだから話にならない。ま、経験のない人間ならそれも仕方ないか。
師匠も本来ならばもっと積極的に打ち合うよう両者に促すところだろうけど、普通とは明らかに違う雰囲気を感じ取ったのか事態を静観している。さっき楽しそうに闘うところを目の当たりにしているだけに、こういう展開は予想しなかった。何故、打ち込もうとしないのか。その疑問に押し潰されそうになっているのは向き合っているミリアム本人だろうけど。
「ねえ」
無駄に硬い声が背中から聞こえた。
「どうして、動かないのかしら」
「さあね」
阿呆な質問だった。そんな事知る訳がない。
「イリナ姉はおかしいとか思わないの?」
「さっきからずっと思ってるわよ」
たとえ僅かでもウォッカが闘っている様子を知っているから尚更不自然に感じる。ウォッカは短剣をだらりとぶら下げているだけで微動だにしない。ミリアムも槍を構えたまま石膏で固められたように動かない。まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。
ただ、構えすら取らない相手に対してまともに打ち込む事も出来ないようならもう勝敗は決まっていると考えた方が良さそうだった。そして、それを認められるだけの素直さと潔さをミリアムは備えている。全く、姉に似ず出来た妹だ。
不意にウォッカが軽く首を傾げた。一瞬目を疑った。笑っていた。本当に穏やかな笑顔だった。これから全力で殴り合うには絶対に不似合いな表情だ。闘っている最中にそんな顔を見せる事もまず考えられない。興奮や緊張に晒された精神がすぐさま落ち着きを取り戻すなど有り得ない。なのに、酒でも煽るように笑っている。そんな人間を恐れる道理が何処にあると言うのか。
思わずミリアムを見た。それまで硬かった表情が少しずつ解れていく。ミリアムも笑った。いい笑顔だった。闘うには全く相応しくないけど。構えていた槍と一緒に一歩身を退いた。
「参りました」
綺麗な角度で一礼した。道場に動揺とざわめきが波紋のように拡がった。
「ちょっと、ミリー姉!」
隣にいた熱血娘は納得出来ないようだった。気持ちは判る。
「いいのかい?」
「はい」
実に清々しい笑顔だった。敗北を認めた人間が見せる表情には見えなかった。その逆なら大いに納得も出来るけど。
「君の妹さんは納得してないみたいだけど」
「私は納得しています。あなたのお考えは理解したつもりです」
「それは良かった」
社交辞令でもお世辞でもない。心からの本音に違いなかった。こんなに穏やかに笑っているのにそれが嘘だったら人間不信になりそうだ。
二人はもう一度開始線の前に立った。丁寧な動作で頭を下げる。
場内から出たミリアムにアリスが真っ先に駆け寄った。ミリアムとは対照的な表情だった。
「ねえ」
「言いたい事は判るわ」
手渡された手拭いで汗を拭きながらミリアムは言った。激しく動いた訳でもないのに全身から汗が滴っていた。眉間から流れ落ちた汗をそっと拭う。
「どうして打ち込もうとしなかったのよ!」
「その必要がなかったからよ」
アリスは両手で髪をクシャクシャにした。打ち込む必要がない、その意味が判らないのだろう。
「説明は、してくれるわよね?」
溜め息を吐いたかと思ったら、今度は胸に手を置いてゆっくり深呼吸した。
「恐らく、彼はこうする事なんか望んでいないと思う」
「こうする事?」
「闘う事よ」
ならば何故応じたのか。それがウォッカの本意なら最初から断ればいい、それだけの話だ。
「だったら何で最初にそれを言わないのよ。って、勝負を受けてる時点で既に矛盾してるじゃない」
珍しくもっともな指摘だった。やはり得意分野になると普段よりもいくらか頭も回るのだろう。
「私が知る訳ないじゃない。本人に直接聞いてみたら?」
「言われなくてもそうするわよ」
闘おうともせず敗けを認めたミリアムに、何を考えてこの勝負を受けたか判らないウォッカに対して大いに苛立っている。当のウォッカは相変わらず開始線の前に立ったまま、頭の後ろで手を組んで目を閉じていた。寝ているのか、或いはそれを装って聞き耳を立てているのか、そのどちらとも取れる雰囲気だった。
「お~い、次は誰がやるんだ?」
「私が行きます」
師匠の声にアリスはすぐさま応えた。授業中もこれくらい歯切れが良ければいいんだけど。
場内に入る前に一礼した。でも、肩や背中、髪までもが苛立ちと怒りで震えている。闘いを目前に控えているけど、精神状態は最悪と言っていい。
ウォッカは持っていた短剣を師匠に預けていた。
「やけにご立腹みたいだけど何かあったの?」
顔を上げた拍子にウォッカがたじろいだ、ように見えた。本気で怒るとそれくらい迫力がある。でもすぐさまさっきまでの表情に戻った。これから昼寝を始めるような、およそ闘うには不似合いな顔だった。
「アリス、少し落ち着け」
「落ち着いてますよ」
師匠はうんざりしたように溜め息を吐いた。これの何処が落ち着いているのか。出来る事なら顔でも洗って頭を冷やしたいところだろう。
師匠は白髪だらけの頭を掻き毟った。
「いいか。お前も含めてイリナもミリアムも実力は全く申し分ない。だがお前の場合、姉二人に比べて圧倒的に劣っているものが一つあるんだが、判るか?」
「判りません」
一考の余地もなく即答して見せるのがアリスの凄さだった。少しは考えろよ。
「ならばウォッカとの組手は俺が許可しない」
有無を言わさぬ口調だった。流石にそれは嫌なのか、アリスの背中が動揺するように強張った。
「何だ、それだけは勘弁か?」
「はい」
動揺している癖に返事だけは歯切れがいい。単にウォッカと本気で殴り合いたいだけだろうけど。
「じゃ、せめて顔を洗って来い」
返事をすると同時に一目散に駆け出した。顔を洗うと言うより頭を冷やせと言う意味なんだけど、果たしてそれが伝わっているか。
「悪いな、ウォッカ。あいつは昔から無駄に血の気が多くてな」
それこそ下手な男より余程血気盛んで手が早い。こなした喧嘩の数も去る事ながら、仲裁に入った経験も数知れない。その度両親が相手の親に頭を下げた事も。アリスの場合、生まれる時代と言うより性別を間違えている。でも、顔立ちは女性のそれそのものだ。敢えて女の子らしさを演出する格好をさせてニッコリ笑って手でも振らせれば大抵の男は振り向く。問題なのは当の本人にそういう事をする気が全くないと言う事だ。女らしさの欠片もない。一番似合う格好は袴だった。アリスに対してはそれが侮辱ではなく誉め言葉として通用する。
「別に気にしないで下さい。俺もそういう事を気にする類いの人間じゃないんで」
「それじゃあいつとは似た者同士って事になっちまうんじゃないか?」
「否定はしません」
確かにこの男も見てくれを気にするようには思えない。いや絶対に気にしない。そういう意味では案外気が合うのかも知れない。
「お待たせしました」
道場の出入口にアリスが立っていた。まだ顔にいくらか滴がついている。
「少しは頭は冷えたか?」
「はい」
さっきよりかはいくらかまともな顔つきになっている。頭に血が上ると何をしでかすか判らない。危険人物扱いされるのも無理はない。
「じゃ、再開と行きますか」
開始線の前に立った二人は互いにゆっくりと頭を下げた。
「始め!」




