三日目 その七
門から守衛室前まで真っ直ぐ歩いて行く。本当は道場まで直行したいけど、それは流石にちょっと失礼だろう。
「何だ? 暴れに来たか?」
守衛室で挨拶しようとしたら馴染みの先生に開口一番こう言われた。
「違います。彼と汗を流しに来たんです」
「イリナが相手とはなあ」
軽く頭を下げて挨拶したウォッカを気の毒そうな目で見ると溜め息を吐いた。一体人の事を何だと思っているのか。
「怪我はさせないようにな」
「私が怪我をするとは思わないんですか?」
「それはないだろ、絶対」
一考の余地もなく否定された。少しは考えろよ。
「ちゃんと手加減するんだぞ」
肩を叩かれた。女が男を相手にするのだ、一般的には心配されるのは女の方だろう。それが逆なのが全く以て腹立たしい。ここで殴りたくなるからそういう印象を払拭出来ないんだろうな。でも一連の反応は絶対失礼だと思う。
「歓迎されてるな」
「何処がよ」
壁に凭れていたウォッカは腕を組んだまま言った。目が少し眠そうなのは食後だからだろうか。
先を歩くイリナの後ろを大人しくついてくる。一瞬、犬でも散歩させているような気分になった。
実際拳を交えるとなれば、背中など絶対に見せられない。戦場ならば即死に直結する。試合でもそこで勝負ありだ。今はそんな緊張感など欠片もない。欠伸までしている。
ついさっき三人の男を叩きのめしたとは到底思えない。その直前には拷問された挙げ句無惨に殺された死体を目の当たりにしているのだ。この落ち着きようは一体何なのだろう。ただの馬鹿なのかも知れないけど。
それがこの後どう変わるのか。だらけているとしか思えない表情は引き締まるのか、それとも変わらないのか。多分、いや絶対変わらないだろうな。さっきも眉一つ動かさずに一瞬で臨戦態勢になっていた。こいつにとって、誰かと闘う事は別に珍しい事ではないのだ。日常のかなり近い場所に無造作に転がっている。だとしたら、こいつが過ごして来た日常はどんなものなのか。想像するとかなり怖い。そこまで暴力的な人間には見えないけど。でも、人を殴り付ける事にも蹴り飛ばす事にもこれと言って躊躇っている様子はない。最初はそこに不可解なものを感じたけど、昼寝でも始めそうな雰囲気を漂わせているのを改めて目にした時、ウォッカに対する印象がまた少し変わった。明確な敵にしか手を出さない、それだけの話だ。敵を排除するに足る充分な力と経験も持ち合わせている。
それをこれから試そうとしているのだ。無謀と言う以外に言葉が見当たらない。
校舎を横切ると裏口から外に出た。道場は校庭のすぐ脇にある。見ると扉が既に開いていた。熱心な数人が支度を済ませて待っているのだ。かつてイリナもそうだったように。
「あ」
道場の側で体を解していた一人が顔を上げた。
「先輩、お久し振りです」
「お久し振りって、まだ卒業して二ヶ月も経ってないでしょ」
頭を下げた男子部員に笑いかける。入部当初はしごかれてよく泣いていたけど、今はそんな面影すらない。人間変われば変わるものだ。
「今日は何を?」
「彼と組手しにね」
あからさまに表情が緩んだ。一安心したような顔だった。
「じゃ、俺らは相手しなくていいんですね」
シゴきに来たと思ってたな。だったらその期待に応えてやろうか。
「じゃ、練習前に走り込み三十本と腕立て百回ね」
今度は露骨にシマッタと言う顔をした。余計な事言うんじゃなかったと言ったところだろうか。遅い。
「行っといで」
泣きそうな顔で微妙に首を横に振っている。イリナもにこやかに笑いながら首を横に振った。
「ちょっとマジ勘弁して下さいよ」
「じゃ、代わりに私と組み手する?」
うんざりを通り越して泣きそうな顔をしていた。背中を向けると校庭の方へ向かって脱兎の如く突っ走って行く。なかなか潔い反応だ。
「頑張ってね~」
他人事だと声も大きくなる。手をブンブン振ると情けない悲鳴が尾を引いて耳に届いた。
「久し振りに顔出した先輩に挨拶しただけなのにエラい目に遭ってるな」
気の毒に。大して気の毒ではなさそうな口調だった。
「何言ってんのよ、これ以上ないくらいの愛情表現じゃない」
「ただのイジメだろ」
厳密に言うと少し違う。これはシゴキと言うものだ。
「少し気の抜けた顔してたから、軽く喝入れてやっただけよ」
「ま、そうかもな」
思うところがあるのか、ウォッカも否定はしなかった。部外者の目にもそう映ったのだろう。確かにちょっと腑抜けていた。気が緩み過ぎている。今この街が置かれている状況を考えればそんな真似は出来ないはずだ。それが少し、本当にほんのちょっとだけ腹立たしかった。
「ウォッカも、シゴかれたんでしょ?」
「どうしてそう思う?」
「そういう顔してるわ」
「ご想像にお任せるよ」
今度も否定しなかった。思い出したくないのか、単に機嫌が悪いだけなのか、苦味走ったような顔をして唇を歪めていた。
「もうヘトヘトで動けない、そんな状態でも自分を奮い立たせて動き出せるかどうかじゃない?」
「ま、そうだな」
自分一人でそれを実行するのはかなり難儀だ。自分で自分をそこまで追い込めない。辛くて立てないならば誰も無理矢理立とうとは思わない。誰しも、自分に対してそこまで厳しくは出来ない。それが自分一人で出来る奴が前に進める。そういう奴の方が見る方も扱き甲斐があると言うものだ。必死こいて立ち上がった弟子の尻を喜んでひっぱたくに違いない。
たとえ自分一人で立ち上がる事が出来たとしても、そこで背中を押してくれる誰かがいるのといないのとでは大きく違う。そして、多分この男にもそんな人が傍にいたのだろう。きっと、背中を押すなんて生やさしいものじゃなかったんだろうな。平気で蹴飛ばすくらいの事はしていたに違いない。でなければあんな顔はしない。
「ウォッカのお師匠様って、どんな人だったの?」
「俺の?」
自分を指差したまま目を丸くしているウォッカに普通に頷いてみせた。
「熊みたいな奴だよ」
あっさり口を開いたところを見ても、思い出す事は嫌でも話す事には抵抗はないようだ。ならば素直に聞きたくなる。それが人情と言うものだ。
「熊って、見た目が本当に熊みたいなの?」
「背丈もガタイも俺より上だからな。熊の筋肉が異常に肥大して体を覆い尽くしたような感じと言うか」
どんな感じだと言うのだ。それは最早人とは言わない。人の姿をした化け物のようにしか思えない。とても口には出せないけど。
「人間、なの?」
「人間じゃねぇ」
真顔だった。笑うに笑えない。じゃ、何なのよ、とも聞けなかった。
「でも、しっかりしてるのは判るわ」
「どうしてそんなに自信たっぷりに言い切れるんだよ」
「だってそうでしょ?」
イリナは軽く肩を竦めて見せた。ウォッカは腕を組んだままムッツリと押し黙っている。
「並の人間には腕が塞がった状態で十人以上の相手を蹴散らすなんて真似はまず出来ないでしょ。それを授けたのがあなたのお師匠様なんだから」
「本人の努力に依る部分もあると思うけどな」
「ないとは言わない。でも、それの基礎になるものがないと芽は出ないわよ」
素質や才能が備わった人間などそうそうお目にかかれるものではない。だからウォッカの言葉も間違ってはいない。見渡す限りの地平線しか見えない荒野に取り残された時に何処へどう進むか、それを傍らで示す誰かの存在は非常に大きく、そして重い。
「何だ、随分早いじゃねえか」
濃い灰色の繋ぎがこれほど似合う六十代のジジイもそうはいないだろう。むしろ袴や道着よりも似合っているかも知れない。
「酒は抜けましたか?」
「あんな量で二日酔いになるようじゃお先真っ暗だな。そう言うお前はどうなんだよ」
酒が残っている様子など微塵もない。剣も肝臓もまだまだ現役なのは間違いなさそうだった。
「あの量で潰れてるようだったら今ここにいないですね」
「全くだな」
剣と武術は師匠から、酒の飲み方は父から学んだ。そして、ふと気付いた。自分だけで身につけたものが何一つない。
「客人、汚ねぇところだが取り敢えず入ってくれ。外にいられたんじゃ茶も出せねえ」
師匠は閉まっていた片方の扉を開けて全開にした。中からおはようございます、と言う声が聞こえる。
「客人だなんて堅苦しい呼び方しないで下さいよ。昨夜一緒にシコタマ呑んだ仲じゃないですか」
「ま、そうだな」
師匠は片方の唇の端を上げて笑った。見るからに機嫌が良さそうだった。
道場に足を入れる。見慣れているはずの風景が随分懐かしく感じた。もう少し頻繁に足を運ぼうかな、と思った。
「あ、先輩!」
かつての後輩の何人かが声を上げた。軽く手を上げて応える。
「お久し振りです、っていつもお店でお会いしてますけど」
「そうよ、それの何処が久し振りなのよ」
「いや、顔はしょっちゅう合わせてても卒業してからここには来なかったじゃないですか」
確かにそうだった。特別これと言った理由はないけど、時間の制約から解放されたせいか純粋に家業に専念していたように思う。我ながら仕事熱心だ。もう少し遊びを覚えた方がいいな。
「今なら先輩の相手も少しくらいなら務まるかな」
こちらを上目遣いに伺うと、彼女は照れ臭そうに笑った。まだ走り込みをしているであろうさっきの男子部員よりも余程可愛いげがある。昔から面倒を見ていた子の一人だ、実際可愛い。
「じゃ、この後やってみる?」
「え~、やっぱりそれはちょっと怖いかも~」
隣に立っていた子の背中に隠れる。うむ、素直でよろしい。
「あの、先輩」
後ろに立っていた子が遠慮がちに手を上げた。
「ひょっとして、あそこに突っ立ってる人が、例の……」
目を合わせる勇気がないのか、顔をこちらに向けたままウォッカを指差している。確かに、これと言って用もないのに視線が互いにぶつかったらかなり気不味い。ましてや初対面なら尚更だ。
応える代わりに黙って頷いた。途端に全員の目が丸くなる。内容の良し悪しではなく、女の目になっていた。
「あんな感じの人だったんだぁ、もっと若くて穏やかな雰囲気を想像してたんだけど」
「でも結構落ち着いてない? 少なくとも軽そうには見えないな」
「まあ、あの体格なら軽いなんて事はまず有り得ないでしょうけど」
好き勝手言っている。軒先で小鳥がさえずり合っているようだった。女が集まれば下らない世間話に華が咲く。それは何処であっても変わりはないハズだ。話題を提供している当の本人は壁に背中を預けたままやっぱり眠そうに欠伸していた。こいつ、本当に何しに来たんだ。
「凄く大人な雰囲気ですね。いいなあ」
同年代の軽いノリとは違う空気を感じ取ったのかも知れない。かける言葉に詰まった。的確なのか的外れなのか判らない。
「あれ、いくつに見えるの?」
「えっと、三十代半ば前後くらいですよね。少なくとも四十は超えてないと思いますけど」
一瞬大笑いしそうになった。腹筋が痙攣している。
「二十歳よ」
後輩全員の目が点になった。ある意味全うな反応だった。
「嘘、ですよね」
無言で首を横に振る。目を見開いてウォッカをマジマジと見詰める。
「あれで、二十歳ですか?」
「信じられる?」
今度は後輩全員が無言で首を横に振った。確かにあの老けようは尋常ではない。
「若いのに若く見えないなんて気の毒ですね」
「別にいいんじゃないの? 本人は大して気にしてないみたいだし」
全身埃まみれでも空腹を満たす事を優先させるような奴だ、自分の見てくれを気にかけるような事など絶対にない。
「期待して損した?」
「別に期待なんかしてないですよ、ただ気になっただけです」
小さな街だ、誰かが来ればそれだけで話題になる。ましてや女の身で男が来たとなれば、気にならい方がおかしい。ただ実物を前にして驚きは隠せないようだった。磨けば光る要素もあるだろうけど、肝心の本人にその気が全くない。
「今日は、その彼と試合をしに」
無意識に首を捻っていた。どうしてそれを知っているのだろう。まだ話していないはずだ。
「昨日から、アリスがやるやるって散々喚いてましたから」
年頃の女が人前で口にする言葉ではない。女が男とやるって、おい。
「先輩も」
促すように右手を差し出した後輩に、イリナは黙って頷いた。
「腕は確かなんですよね?」
「それは間違いないわ」
大の大人を片手で軽々投げ飛ばす腕力に最初は度肝を抜かれたけど、本当に凄いのはそんな事ではない。戦闘に際して気持ちが昂ると言う事が一切ない。戦う事に慣れているのだ、それこそ恐ろしいまでに。どんな経験を積んで来たかと言うよりどんな生活を送っていたのかが物凄く気になる。イリナ達が過ごしているような日常とは全く違う場所にいたのではないか。
「怖くないんですか? あんなに体格のいい人とやるなんて」
「まあ、全く怖くないって言ったら嘘になるけど、あいつがどれだけ強いのか試してみたいって気持ちの方が強いかな」
笑おうとした後輩の顔がぎこちなく歪んだ。やっぱり普通の感覚の持ち主には受け入れ難い発想なのかも知れない。
アリスは見た目通りの熱血娘だし、普段は冷静なミリアムも勝負事になると内に秘めている熱さに火が点く。たまに勘違いされるけど、断じて争いが好きな訳ではない。全力を誰かとぶつけ合うのが好きなのだ。自分のありったけを晒して、それが何処まで通用するのか。考えるだけでワクワクする。腕が震える。
「突きにしても蹴りにしても、手足があれだけ立派だったら防げても相当聞きますよね、きっと」
そんな事は百も承知だ。体格だけでも相当に不利だけど引く気は全くない。
「あなたもやる?」
「いえ、私は……」
喜んで首を横に振られた。受ける訳がないか。判ってはいたけどやっぱり少し寂しい。引かれているのがアリアリと判る。でも気持ちが変わる事はない。
さて。
持っていたカゴを道場の脇に置いた。上に伸ばした腕を掴んで引っ張る。体を解しておかないと、少しでも体を動かしておかないと昂る気持ちを抑えられない。この闘争心の強さは確かに異常だ。
「おはようございます」
やたら威勢のいい声が聞こえた。言わずと知れた声の主だった。
「イリナ姉、来てたんだ」
「来てるわよ。アリスこそ意外に遅かったわね。あんたの事だからとっくに来てるものかと思ったけど」
「お昼ご飯も食べておきたいし、食べたらすぐには動けないでしょ。だから少し早めにお昼済ませて一休みしてたの」
早弁して授業中に堂々と寝ていたのではあるまいな。有り得ない話ではない。イリナもよくやっていた事だ。
「イリナ姉もお昼は済んでるんでしょ?」
「当たり前でしょ。ところでミリアムは?」
「さっき校舎の玄関で見かけたわよ。慌てて出ていったけど」
落ち着きのないヤツね。やれやれ、とでも言うように肩を竦めている。いや、あんたにだけは言われたくないから。
「そろそろ戻ってくるでしょうけど、何処に行ったのかしら?」
「さあ」
知らない事にしておこう。ミリアムも誰にも知られたくないからこそ今を選んだのだ。人の恋路を邪魔するような野暮な真似は流石にしない。
「彼も一緒でしょ?」
「そこにいるわよ」
見ると師匠と談笑しながら時折コップを傾けている。まさか酒ではあるまいな。
「本当にやるのね」
「怖じ気づいたの? イリナ姉らしくないな」
「まさか」
こいつも全く退く気がない。やっぱり同じ血を分けた姉妹だ。今の会話を父が聞いたらどんな顔をしていただろうか。
「イリナ姉は何でやるの? 素手? それとも剣?」
「私は剣にしてもらえれば有り難いけど、まあウォッカ次第かな」
そういう事にすら拘りを持たないようにも思える。実際、昨日も今日も素手で相手にしている。ただ、得意の獲物でどんな戦い方をするのか。そちらにも純粋に興味がある。
「ウォッカ」
座布団に腰を据えていたウォッカが顔を上げた。
「武器は使う? それとも素手?」
「どちらでも構わないよ」
思った通りの反応だった。見てくれと違って拘りがないのではなく、素手でも武器でもいけるのだ。イリナやミリアムも剣や槍の他に素手でも戦えるけど、恐らく次元が違う。
「獲物は?」
「何でもいい」
それにすら拘りがないのか本当に何でもいいのか判らない。
「何がある?」
アリスと何人かが用具置き場から武器の入ったカゴを引っ張って来た。
「さて、どれにしようかな」
剣(全部木製)を手に取って刀身全体を舐めるように眺める。何でもいいと言っていた割には結構細かく観察している。そこまで適当ではない、と言う事だろうか。仮にもこれから身を守るものだ、そこまでいい加減に選ぶとは考えづらい。
「おはようございます」
あ、と言う声が上がった。反射的に声のした方を向く。ミリアムだった。男と一緒だ。男は実に慣れた感じで手を振っている。
「珍しいですね、ヨハン先輩も来るなんて」
「仕事も一段落ついたからな」
師匠、お久し振りです。愛想よく頭を下げる。
「何だ? お前もウォッカとやりに来たか」
「そうしようかなとは思ってたんですけど、ちょっと腹が苦しくて」
苦笑いにしては随分嬉しそうだった。
「腹が苦しい? 水分取りすぎて弛いのか?」
「いや、ちょっと昼飯を食い過ぎまして」
何故食い過ぎるほどの昼飯にありつく事が出来たのか、と言う素朴な疑問に関心を示す様子もなく師匠は二人の来訪を歓迎するように笑った。口にする事はまずないけど、表情には僅かに現れる。素直に言葉にした方が余程楽だと思うけど、そうしないのは何か理由でもあるのだろうか。
「誰かの手料理でも食って来たのかな」
独り言のように小声で呟いた。人を指導する立場にあるだけあってよく見ている。そこから導き出された推論を当事者にぶつけるような無粋な真似はせず、師匠は腕を組んだまま壁に寄り掛かった。
「お前さんも、ウォッカとこの時間まで何してたんだ?」
心臓が音を立てて跳ねた。別にやましい事なんて何処にもないのに。
「ど、どうして二人で出掛けてたなんて思うんですか?」
師匠は黙ったまま入口の脇にあるカゴを顎で示した。
「あれ、中は弁当箱だろ」
「どうしてそう思うんですか?」
「昔、あの中から四人分の弁当箱が出てきたのを見かけた記憶がある」
あいつが食うには丁度いい量だろ。果たして丁度いいのだろうか。多すぎるのが一般的な見解だと思うけど。
「それに、何で袖がそんなにボロボロなんだ?」
そこまでボロボロと言うほどボロボロではないと思う。ただ明らかに不自然に切れ目が入っているし切り裂かれているところもある。このシャツは着古して捨てようと思っていたから別に構わないんだけど。って、そういう問題じゃない。
「で、それが何故ウォッカと一緒に行動している事に繋がるんですか?」
「どうせ午後にはここに来る事になってたんだし、それまで二人で暇を潰してたって別に不思議はないだろ」
発想自体は単純に思えるけど成り行きとしては極自然だ。少なくともそれまでは別々に行動していて時間前に待ち合わせる方が余程不自然に思えた。
「楽しかったか?」
「はい、とても」
いきなり真剣で切りつけられましたから。世間話でもするように言った。師匠は頭の後ろで両手を組んだままへぇ、とだけ言った。
「で、どうしてそうなった?」
「ウォッカが、探し物があるって言って朝店を出たんで私もついて行ったんです」
「その探し物ってのは?」
言葉に詰まった。どう応えるべきか迷ったからだ。
「消えた兵士ですよ、昨夜奴らが店でも話してましたよね」
「単に見つけられなかっただけだろうけどな」
やっぱり見透かしている。元より隠すつもりもなかったけど、この人にならありのままを伝えても差して問題はないだろう。
「首尾は?」
「見つかりましたよ。話は出来ませんでしたけど」
壁に背中を預けていた師匠が小さく息を吐いた。
「どんな状態だった?」
「鼻も顎も頬骨も砕けて歯は粉々になってて、原型を留めていないくらいグシャグシャな顔をした男が後ろ手に縛られたまま胸を剣で貫かれてました」
「手酷く拷問されていた、と」
思い出すだけで胸に不気味な熱さが込み上げる。途端に口の中が音もなく渇いて行く。
「それはお気の毒に」
師匠は壁に背中を預けたまま腕を組んでいた。一日中真冬の空風に晒されたような渇いた目をしていた。これ以上気持ちのこもっていない言葉も他にないだろう。
「それにしても、よく見つかったな。イリナが見つけたのか?」
首を横に振ると、師匠は少し考えるように視線を宙に泳がせた。
「って事は、」
今度は頷いた。ウォッカは壁に凭れたまま道場の中をのんびりと眺め回している。そんなウォッカを師匠は珍獣でも見るような目で観察している。
「どうやって?」
「血の匂いを辿って行ったみたいで」
「冗談だろ?」
今度は首を捻った。このままだとそのうち首が回らなくなりそうな気がした。
「心臓を貫かれて殺されてましたからね」
「じゃ、現場は血の海か。で、その匂いを辿って行き着いたと」
それ以上説明出来ない。ウォッカの言葉の何処までが本当なのか、イリナには判らないからだ。
「どうだ? 死体と対面した気分は?」
「その場で吐き戻さなかっただけまだ良かったかなと」
「お前らしいな」
師匠は声を上げてガガガと笑った。何がらしいのか判らない。
「で、そいつを殺したのは誰なんだ?」
首を横に振るしかなかった。でも手掛かりはある。本当に僅かだけど。
「死体を見つけた家から出ようとした時に奴らに襲われたんです」
「おいおい、どうしてイリナ達がそこにいるなんて判るんだよ」
「見計らったように来ましたからね。最初は驚きましたけど奴らから話を聞いて少し見えて来ましたよ」
「是非聞きたいな」
「死体のあった家の近くを大男が彷徨いていたみたいです。そいつをつけて行ったら廃屋から話し声が聞こえて来たと」
「それで問答無用で襲って来るのが奴らの凄さだな」
全くだった。それで斬りかかる大胆さは市井の人間には絶対にない。人を蹂躙する事に何ら躊躇いを持たない、それが奴らの特徴でもある。
「で、襲って来たのは何人だ?」
「五人です」
「無事返り討ちにしたと」
そうでなければ今ここにはいない。我ながらよくやるなと思う。一歩間違えていたら確実に殺されていたけど。殺されるどころか逆に一撃で仕留めた。それを授けた人物は考え事をするように黙って腕を組んでいた。
「武器持ち相手に素手は流石に無理か」
「私は。でもウォッカは何の問題もありませんでしたよ」
「だろうな」
別段驚いた様子もなく師匠は至極アッサリと頷いた。足技だけで十五人を無傷で返り討ちにするような男だ、驚くには値しない。
「これからそんな奴と一戦交えようって言うんだぜ」
師匠はからかうような目でイリナを見た。
「怖くねえのかい?」
「全然怖くない、って言ったら流石に嘘になりますね。でもどれだけの腕前なのか早く試したいって気持ちの方が強いかな」
師匠は肩を上下に揺らして笑った。
「どうしてお前達三人はこうも血の気が多いかな」
「何でですかね」
こればっかりは説明のしようがない。持って生まれたもの、ひょっとしたら生まれる前から備わっていたのかも知れない。母のお腹に宿る前からそんな気質を持つ事が決まっていたとしたら。
戦後の今に生まれて良かったのか、それとも戦禍の只中に生を受けるべきだったのか。どちらであっても力を欲していた事に変わりはない。武を養い、己を磨く事に躍起になっている。そんな自分を想像して笑いそうになった。いつに生まれても変わらないならきっと死ぬまでこんな風に全力の自分を誰かにぶつけようとしているのだろう。一体いつになったら落ち着くのか。
「イリナ姉、そんなところで何油売ってるのよ」
袴姿のアリスが甲高い声を上げた。すぐ後ろでやっぱり袴に着替えたミリアムが両方の耳に人差し指を突っ込んでいた。
「早く着替えて来てよ。そんな格好じゃ始めるに始められないじゃない」
袴を用意するのをすっかり忘れていた。更衣室に控えが何着かあったと思うけど、体に合うか判らない。
「イリナ、私のがあるからそれ使って」
「助かる」
ミリアムのものなら着られる。余るのは胸元くらいだ。アリスは無理だ。袖も丈も合わない。
本来ならばウォッカにも着替えてもらうところだ。でもあの体格に合う袴などない。
「師匠、ウォッカはあのままでいいですよね」
「あれじゃ仕方無いだろ」
イリナも生まれてこの方あれだけデカい人間は見た事がない。それを持て余す事なく見事に鍛え上げている。
鼓動が徐々に速まって来た。ゆっくりと深呼吸する。吐く息が震えていた。
「じゃ、着替えて来ます」
更衣室に入る前に首を捻って後ろを振り向いた。倒立したウォッカがトコトコ歩いていた。準備体操なら他にもあるだろうに、あれだけたらふく食った後に頭を下にしてよく口から出ないなと感心する。
あの土手っ腹に一発叩き込む。掌で思い切り拳を叩いた。




