三日目 その六
研いでいた剣を上げると日の光にかざした。物騒な光が黒目を射抜く。目の前に突きつけられたらと思うとゾッとするが、こうして見る分には純粋に美しかった。こんな立派な剣を差しているウォッカが素直に羨ましい。と言っても長剣はヨハンの手に余るが。これは持ち主を選ぶ。何より気の毒なのはこれだけ見事な拵えなのにほぼ全くと言っていいほど使われていない事だろう。持ち主を選ぶ剣だが、その持ち主から選ばれていない。これを気の毒と言わずしてなんと言えばいいのか。出来る事なら使ってやりたいとは思うが、この剣はヨハンには扱えない。旅に出る時無理矢理持たされたとは聞いたが持たせる方も持たせる方だ。どうして使わない事を知っていてわざわざ持たせたのか。その一方で残りの二本はかなり使い込まれている。この差は一体何なのか。
旅をしていれば厄介事に巻き込まれる事もあるだろう。或いは一昨日のように自分から首を突っ込む事もあるかも知れない。その時鞘から抜かれるのは長剣ではなく短剣なのだろう。一本だけが蚊帳の外に置かれている。不憫な奴だ。
気になるのはウォッカがどんな闘い方をするかと言う事だ。長さで劣る短剣でいかに立ち回るか。短剣の方が扱いやすいと言う事は、離れた間合いよりも詰まっている方が楽に事が運ぶと言う事なのだろう。或いは離れた間合いを無に出来るくらいの技術があると言う事か。そんな事を考えていたらどんどん興味が湧いて来た。いかん。
部活は昼過ぎからだ。その前にここに寄る事を想定して済ませておいたが、果たして来るだろうか。それを期待している。ウォッカがどんな風に闘うのか、三人と拳や剣を交える様子を見てみたくなった。実際にここに来てくれた方がそういう話もしやすい。定休日でもないのに店を抜け出すにはそれなりの口実が要る。
長剣と短剣、それと丁度その中間くらいの中太刀、合わせて三本を行儀良く並べる。短剣ほどではないにしても、この中太刀もかなり使い込まれていた。これをある程度使いこなせれば戦闘を有利に進める事も出来るかも知れない。ただ、扱うには長さも大きさも中途半端な中太刀を積極的に使うと言うのはこれまであまり聞いた事がなかった。すると攻撃の矢面に立つのは飽くまで短剣か。ヤバい、ますます気になって来た。早いところここに来ないものか。仮に来なかったとしたら、適当に口実をでっち上げて店を出よう。学校まで行く時間を考慮すると一時までにはここを出るのが望ましい。
頬を伝う滴を首にかけた手拭いで拭く。いい案配で腹も減って来た。まだ少し早いが食事を済ませるか。出来ているかどうかは不明だが。
背後でドアが開く音がした。
「ヨハン、お客様が見えてるわよ」
レンがドアを開けて顔を覗かせていた。
「お通ししてもいい?」
「ウォッカだろ? ああ、頼むよ。俺も話があるんだ」
レンの顔が微妙に歪んだ。どうしてそんな顔をするのか判らない。
「どうぞ」
通そうと体を開いたレンの脇で客人が頭を下げるのが見えた。ん? ウォッカにしては体格が小さすぎる。疑問を整理する間もなく人影が部屋に入って来た。瞬間、度肝を抜かれた。
「し、失礼します」
会釈すると切り揃えられた髪が綺麗に揺れた。彼女は額に滲んでいた汗を手の甲で拭った。
どうして彼女がここに来るのか。その理由が見当たらない。だから余計に混乱する。どうすればいいのか、何を言えばいいのか。
「あ、あの…少し……」
よく見れば肩で息をしていた。息苦しそうに胸に手を置く。
「少し休ませて頂いても、よろしいですか?」
壁に背中を預けたまま肩をゆっくり上下させて深呼吸する。悩ましそうに微妙に表情を歪めている。背筋がゾッとするほど色っぽかった。十八になる娘が見せる表情ではない。
「だ、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
息遣いは激しいが雰囲気も体調もそこまで悪そうには見えない。疲れているだけだ。ただ、どうしてここまで極端に体を酷使する必要があるのか。そこまで考えて初めてハッとした。水曜は半日で授業は終わりだが午後には部活があるのだ。つまり学校を途中で抜け出している事になる。そうか、だから走って来たんだ。
「学校から、走ってここまで?」
「はい。午後には戻らないといけないから」
学校からここまで優に一里はある。午前の授業の終わりが十二時過ぎだから、それから二十分弱しか経っていない。大した体力だ。
ミリアムはもう一度胸に手を置くと余った左手を膝に当てた。まだ呼吸が整っていない。肩を激しく上下させている。胸が揺れた。ボタンの隙間から胸の上の辺りがが覗けている。腰が砕けそうになった。こんな色っぽい十八歳がいるか。
ボサッと突っ立っていた自分が馬鹿みたいに思えた。工房の隅に転がっていた椅子を掴むとミリアムのすぐ後ろに置いた。
「取り敢えず、座ろうよ」
「あ、ありがとうございます」
息を吐きながら頭を下げた。呼吸が整うにはまだしばらく時間がかかりそうだった。椅子に腰を据えた彼女はここに来て初めてホッとしたような表情を見せた。少なくとも、ヨハンにはそう見えた。あまりに気が利かない自分が本当に腹立たしくなった。部屋から出ようと走り出した時、見計らったようにドアが開いた。
「はい」
レンは手招きするとヨハンを部屋から出した。持っていたお盆を差し出す。水差しとコップが二つ置かれていた。
「それと、これも忘れずに渡してね」
余っていた左手に綺麗に畳まれた手拭いを載せる。首にかけていた手拭いに手が伸びそうになったが、当然こんなものは渡せない。
レンは肘で脇腹を突っつくと上目遣いでヨハンを見た。
「頑張ってね」
健闘を祈る、とでも言うように手を肩に置いた。返す言葉を探している間にこちらに背中を向けていた。
頭の中が整理出来ていない。これからどうすべきなのか、そもそもあの子はここに何をしに来たのか。どういう顔をして迎えればいいかも判らない。気の利かない弟に代わって、いやそれを見越して水と手拭いを届けてくれたレンの気持ちを無駄にしないためにもすぐ工房に戻らなくては。
背中を向けて俯いていた彼女はドアの音に気付くと慌てて顔を上げた。水差しの水をコップに注いで差し出す。
「ど、どうぞ」
やっぱりつっかえた。舌が上手く回らない。
「ありがとうございます」
どうしてここまで礼儀正しいのだろう。親の躾の賜物かとも思うが、彼女の場合性格に依る部分が大きい。年長者を相手にする時は敬語は基本だし、年下に対しても敬意を払う事を忘れない。相手が誰であっても常に礼節を以て接する。それが彼女だった。コップの下に片手を添えてゆっくり傾ける。誰かみたいに腰に手を当てて一気に飲み干すような真似はしない。
どうして姉妹でこうも違うのか。男の前だからと言う事もあるかも知れないが。
ミリアムは空になったコップを台に置いた。ヨハンに顔を向けると座ったまま綺麗な角度で会釈した。何だかこっちの方が恐縮しそうだ。
コップに注ごうとした水が零れた。手が震えている。水差しに左手を添えた。
彼女の方に振り向くと手近にあった椅子に腰を下ろす。コップの水が風に吹かれるように揺れていた。
すぐ隣に座るのは露骨に図々しいし、かと言って向き合うのは明らかに不自然だった。椅子が二つ並ぶくらいの空きを作ると初めてコップの水を飲んだ。何の味もしなかった。
気持ちが言葉にならない。聞かないといけない事があるのに、舌が固まったように動かなかった。ふと見ると、ミリアムも再び顔を俯けていた。肩を軽く上下させて息を吐いた。自分から動かなくては何も始まらない。
「どんなご用で、こちらに?」
他に聞き方はないのかと内心で突っ込みたくなった。だが正攻法以外の選択肢しか見当たらなかった。緊張しているせいでそこまでする余裕がないと言った方が正しい。何れにしても、事の発端はそこにある。
「あ、あの」
ミリアムは体をこちらに向けた。ヨハンも反射的に腰を浮かせて体の向きを変えた。膝を突き合わせて向かい合う形になった。
明らかに脈と体温が上がった。
「ウォッカさんが、昨日こちらに剣を預けられましたよね」
返事をするより先に頷いていた。言葉を返すべきなのは判っているが、頭がまともに働いていない。
「それを、取りに伺いました」
一瞬目が泳いだ。ウォッカが剣を預けたのは確かだし今の今まで来るのを待っていたけど、どうして今彼女が来なければならないのか。しかもわざわざ学校を抜け出してだ。別に無理に聞く事もないとは思う。でも気になった。
「でも、大変だったろ? 全然近くないしそこを全力疾走して来たんだから」
「確かにそうですけど……、でも」
ミリアムは頬を赤らめるとヨハンから少しだけ顔を背けた。
「学校の帰りだと誰かがついてくるかも知れないし、でも今なら、今ならば二人だけでお会い出来るから」
赤らめた顔をこちらに向けると、それまで硬かった表情がようやく解れた。花が咲いたような笑顔だった。
頭が真っ白になった。それって、つまり俺に気があるって事、だよな? 嘘だろ? 真面目で礼儀正しくて気が利いて、家事は完璧にこなせる上に何より指折りの美人だ。
イリナは、この子の姉とはガキの頃から付き合いだ。確かに美人は美人だが、女として意識した事は一度もない。そういう対象として見ようと言う発想すらなかった。イリナとは飽くまで互いに切磋琢磨する仲であって、それ以上の感情を抱く事はなかった。
ただその妹には、ミリアムには惹かれるものを感じていた。それを表に晒す気は一切なかったが。成就するとはとても思えなかったし、レンに対する想いも胸の中で揺れ動いていた。諦めがついたのは兄が姿を消してからだ。レンにとってヨハンは飽くまで弟でしかない。入り込める余地など最初からなかったのだ。兄がいなくなってから哀しみに暮れるレンを目の当たりにした時、そんな現実をまざまざと見せつけられた気がした。ならばミリアムの方に気持ちが傾くかと言えば、別にそんな事はなかった。そこまで単純には考えていないし、何より競争率が高すぎる。所詮高嶺の花だった。手が届く訳がない、そんな風に考えていた。
改めて前を見る。耳の先まで真っ赤にしたミリアムがこちらを見て笑っている。夢だったら覚めないで欲しい、絶対。現実であればなお良い。何と言えばいいか判らない。こういう時は一体どんな顔をすればいいのだろう。嬉し過ぎて気持ちが言葉にならない。
でも悠長にヨロコビに浸る時間はない。少なくとも、彼女には。
立て掛けていた剣を手に取る。ズッシリと重い。大人の男でも堪える重さだ。ちょっと不安になった。
「よろしいですか?」
ミリアムが椅子から腰を浮かせて手を差し出した。
「気を付けて。本当に重いから」
「はい」
受け取った瞬間、ミリアムの目がまん丸になった。取り落としそうになった剣を両手で抱える。
「重いだろ?」
声も出さずに頷く彼女の横顔がヨハンには殊更新鮮に見えた。歳に似合わずいつも冷静沈着で男勝りな芯の強さを持っているこの子でも、こんな風に素直に驚いたりするのか。やっぱり、女の子なんだな。可愛い。純粋にそう思った。
「まだ中くらいのと短剣があるけど、持てるかな」
「ええ、何とか。でも行きほど速くは走れないですね。でもお弁当食べる時間も必要だから少し急がないと……」
そこまで言ったところでミリアムの顔が露骨に歪んだ。鋭く息を飲む音がした。口を押さえている右手が小刻みに震えている。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
何が起こったのか判らなかった。どうしてこんなに哀しそうな顔をするのだろう。
「ど、どうしたの?」
俺、何かマズイ事言ったかなと言う思いが胸を過った。冷静を装ってはいるけど内心ではすっかり動揺していた。
「お弁当……」
喉の奥から絞り出したような声だった。目尻から雫が一筋流れ落ちた。
「ヨハンさんに召し上がって頂ければと思って作ったのに……」
ミリアムが持っているものはつい今しがた渡したばかりの剣だけだ。何も持たずに、息を切らして大急ぎでここに来てくれた。あまりに急いでいたから忘れてしまったに違いない。
鼻の奥がツンとした。目の周りが熱くなる。こうして来てくれただけでも充分嬉しいのにその上お弁当まで作ってくれていたなんて。その気持ちだけで充分嬉しかった。天にも昇りそうだった。
台に置いていた手拭いを手に取るとミリアムの目元に宛がった。
「ありがとう」
自然と口から零れ落ちたような言葉だった。照れも気恥ずかしさもない。涙を拭きながら見上げたミリアムに、ヨハンは笑いかけた。
「馬車で送るよ」
思いもしなかった言葉だったのだろう、ミリアムの目がさっき以上に丸くなった。慌てて首を横に振った。そんな彼女に、ヨハンも笑いながら首を横に振った。
「何れにしてもそれだけ重い剣を三本も持ったらまともに走れないし、それが出来たとしても相当時間がかかる」
部活の開始には間に合っても、少なくともゆっくりお弁当を食べるような時間はない。それは確かだ。
「傾斜の緩い道を使ったとしても走って行くよりは余程早く着くよ」
馬車だと近道は使えない。傾斜がキツすぎるからだ。遠回りにはなるが緩い坂を登った方が無難だ。それに、多少でも時間がかかった方がこの子と一緒にいられる。下心とは思いたくはなかった。彼女も望んでいる事だ。
ミリアムは椅子から立ち上がった。両手を体の前で重ねると綺麗な角度でお辞儀した。言葉以上に気持ちのこもったお辞儀だった。何処に出しても恥ずかしくない娘だ。将来こんな娘が出来たら絶対周囲に自慢して回っている。両親もさぞ鼻が高かろう。
「ありがとうございます」
何だか可笑しくなって来た。お礼を言わなくてはならないのはこちらの方なのに。
「ここで少し待ってて」
何故待つ必要があるのか判らなかったのか、子供のように目を丸くして小首を傾げた。ここで頭を撫でたらどんな顔をするだろうか。そこまで図々しくはないが。
「馬車、用意して来るから」
視界の片隅に映った彼女はやっぱり笑っていた。出来る事ならばずっと笑っていて欲しかった。泣かせるような真似だけは絶対しない、そう心に誓った。




