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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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三日目 その伍

 黒板をチョークが叩く音が殊更耳障りに聞こえた。気付けば鉛筆のお尻で机を叩いていた。当然授業の内容は全く頭に入らない。さっきから時計ばかり見ている。四時限目の授業が終わるのが十二時十分、部活が始まるのが二時からだから二時間弱の余裕はある。でもその間にお昼ご飯も済まさなければならない。何より食べてすぐには動けない。やるならば万全の状態で臨みたい。彼に対しても失礼だと思う。

 ハア。窓の外を眺めていたら溜め息が漏れた。もう、早く終わらないかな。気持ちが落ち着かない。でも、本当にあと少しで終わる。それが終われば、終わりさえすれば大手を振って彼に会いに行ける。寝て時間を潰すと言う考え方もあるけど肝心の眠気がない。むしろ目は冴える一方だ。この後の事を考えると呑気に寝ている暇なんてない。

 授業の終わりを報せる鐘がなった。机の上を素早く片付ける。先生が教壇の前でまだ何かブツクサ言っている。完全に授業が終わる前に教室を出るのは流石にまずい。餌を前にして飼い主から「待て」と言われた犬はきっとこんな気持ちなのかも知れない。バラけていた教科書や出席簿を教壇でトントン叩いて整える。先生が教室から出て行った瞬間、ドアに向かって走った。何人かが明らかに驚いた様子でこちらを見ていたけど気にしている余裕はなかった。トイレを我慢しているとでも思ってくれたら助かる。かなり恥ずかしいけど。

 そのまま脇目も振らずに玄関まで全速力で突っ走る。どうしてここまで気持ちが急ぐのか自分でも判らない。時間にそこまで余裕がある訳じゃないけど、でもここまで慌てる必要はない。

 お気に入りのブーツに履き替えると少しきつめに紐を結ぶ。途中で解けたらまた結び直す事になる。踏んで転びでもしたら大変だ。そう、こういうところで焦ってはいけない。一つひとつを確実にこなしなさい。母の言葉が胸を過る。確かに間違っていない。両足の紐を結び終えた時、頭上から聞き覚えのある声がした。

「こんなところで何してるの?」

 アリスだった。元々大きい目を更に大きく、そしてまん丸にしている。授業終了直後にこうして玄関で靴紐を結ぶ事がここまで驚くに値する事なのだろうか。

「帰るの? この後ウォッカさんと組み手やるんでしょ?」

 午後にここで予定があるのに学校から出ようとしていれば怪訝に思われるのも無理はない。

「ちょっと、野暮用を思い出してね」

 下手に嘘は吐かない方がいい。突っ込まれたらその後が苦しくなる。嘘に嘘を塗り重ねる事になりかねない。かと言って事実を話す気もない。

「学校を途中で抜け出さなくちゃならないくらい大切な事なの?」

 ここで素直に頷けたら精神的にもかなり楽になるだろうなあとは思うけど、その一線を踏み越えるだけの勇気はない。

「部活が始まる前には戻るわよ」

 のんびりする気は更々ない。部活の前とは言わず、ある程度の余裕は欲しい。出来る事なら彼とゆっくり過ごす時間が持てれば、と思う。

 そう、その時間を得るためにも今は急がなくては。

「じゃ、行くから」

 返事を待つ事もなく玄関から飛び出した。間延びしたアリスの声が聞こえたけど振り向かなかった。

 一刻も、一秒でも早く、彼に会いたかった。今だったら、今だったら誰にも邪魔されずに二人だけになれる。そう思うと足の動きも自然と早まる。山道を一気に駆け下りて行く。皮膚そのものが隆起するように汗がぷっくり膨らむたび、腕や頬を流れ落ちる。でも、息苦しさは微塵も感じなかった。



 いつから意識するようになったのか。気が付いた時には彼の横顔ばかり見ている自分がいた。最初はどうしてそんな事をしているのか自分でも判らなくて酷く狼狽えた記憶がある。所謂色男ではない。野性味溢れると言う形容の方が遥かに相応しい。ミリアムは彼のそういうところを豪快に感じるけど、イリナに言わせると「ガサツで適当でいい加減なだけ」らしい。身も蓋もない言い方だけど的外れとも言い難い。確かにちょっとガサツと言うか、人に対しても自分に対しても開けっ広げな部分があるのは否めない。ちょっと素直過ぎるんだよね。確かに苦手な人もいるだろう。でも、ミリアムは彼のそんな処に惹かれた。誰に対しても接する距離は変わらない。誰に対しても公平と言う風に解釈する事も出来る。

 確かに、最初に話した時もそうだった。同性ならともかく、異性に話しかけるのは想像以上に勇気がいる。

「悪い」

 声をかけられた時、何が悪いのか判らなかった。振り向くと彼が気不味そうな顔をして手拭いを差し出していた。

「これ、さっき君の姉さんに借りたんだけど、今見たらもういなくてさ」

 困ったように唇を歪めている。それがやけに子供っぽく見えて笑いそうになってしまった。

「大丈夫。確かに汗は拭いたけどさっき井戸でしっかり洗って来たから」

 別に手に取るのを躊躇った訳ではなかった、と思う。その辺りの記憶はかなり曖昧だった。でも年頃の女の子なら他人の汗が染み込んだ手拭いなんて誰も触りたいとは思わないに違いない。それを最初からこうして断りを入れてくれた事がちょっと嬉しかった。彼にしてみれば当たり前なんだろうけど、そういう気遣いすらない輩も結構いる。その時は咄嗟に名前が出て来なかった。イリナとよく組み手をするけど、勝ったのを見た事は一度もなかった。いや、一本すら一度もまともに取った事もないのでは。イリナとの勝負を全て見た訳ではない。でも内容を見る限りでは彼に軍配が上がるとはとても思えない。と言っても彼が弱い訳ではない。イリナが強すぎるのだ。

「何、あんたまだこんな所で油売ってたの?」

 手拭いで首筋に滴る汗を拭きながらイリナは言った。

「六時で終わりなんだから、さっさと支度済ませて出なさいよ」

「今日は道場の掃除当番なんだよ。開始前の掃除も俺とセージがやってただろうが」

「あら、そうだっけ?」

 本当に覚えていないのか、それともわざと惚けているだけなのか、イリナは額を伝っていた汗を指で弾いた。

立ち上がった彼はミリアムの手に置いた手拭いを取った。

「悪かったね。本人も来た事だし」

 直接返すよ。脇を通り過ぎてイリナの元に小走りに駆け寄る。声をかける暇もなかった。

 背中を見せていた彼はちょっとだけ振り向くとこちらに手を振った。人の妹ナンパしてんじゃないわよ。誰がナンパなんかするかよ、礼を伝えただけだぜ。そんなやり取りが聞こえた。端から見ると腐れ縁の恋人同士のようにも思える。でも、イリナが彼の事を異性として全く意識していない事をミリアムは知っていた。

 それが十六になる年の夏の始めだったから一昨年になる。勿論その前から彼の事は知っていた。イリナの良き友人であり、切磋琢磨する腐れ縁の幼馴染みとして。でもミリアムと直接接する機会はあまりなかった。年齢もそうだけど、何より扱う武器が違う。それだけでも必然的に距離が生まれる。いつも隣で剣を振り回しているイリナをちょっと妬ましそうに睨むようになるのはもう少し経ってからだった。

 放課後は剣も槍も道場か校庭で稽古をする。合間を見てこっそり様子を窺う。日を追う毎に少しずつその時間が長くなって行った。

 顔は、別に悪くないと思う。剣だけじゃなく、鍛冶打ちとして働いているだけあって筋肉質でガッシリとした体格をしている。逞しいし、頼り甲斐もあるだろうな。寄り掛かったらどんな風にして支えてくれるだろうか。そんな事を考えて一人で頬を赤らめた事もある。誰にも見られていなくて良かった。

 それに、剣の腕も決して悪くはない。彼のすぐそばにイリナとセージと言う高過ぎる壁があっただけに過ぎない。それは誰に聞いても認めるところだ。手合わせした事はまだないけど、勝てると言う明確な自信はない。多分、本気で挑む事は出来ないだろうな、と思う。彼はどうなのだろう。本気で向かってくるのかな。だったら全力で応じるのが礼儀だろう。考えていたら体が熱くなって来た。走ってはいるけど、それだけではないだろう。

 追い付きたい、出来る事なら追い越したい。そんな背中がすぐ側にある。それはミリアムだけではなかった。

「くっそ~」

 悔しそうに顔を歪めた彼が道場の外にある椅子に腰を下ろしていた。肩が大きく上下している。

「お疲れ様です」

 手元に手拭いが二本あったのは本当に偶々だった。差し出した手拭いを見ると、彼は一瞬驚いたように目を丸くした。

「それじゃ、有り難く」

 緊張と言うより恐縮したように堅苦しい動作で手拭いを手に取る。

 ミリアムは隣の椅子に腰を下ろした。何となくだけど、すぐ側で話がしたかった。

「君の姉さんはどうしてあんなに強いかな」

 首筋を流れる汗を拭いながら彼は言った。悔しそうと言うより、何処かうんざりしたような横顔だった。

「生まれる時代を間違えた、ってよく言われますね」

 自分とアリスも含めて。稽古は勿論だけど、日々練習して少しずつ技を磨いていく。その実感が掴めた瞬間が堪らなく好きだった。それを得るために毎日稽古に励んでいる。二人はどうなのだろう。

「何と言うか、俺なんかとは持ってるものが違うな」

「持ってるもの?」

「何をやっても一向に差が縮まらない。それどころかどんどん引き離される。追い付く事はおろか背中も見えない」

 淡々としているからなのか、やっぱり悔しそうには見えなかった。でも諦めているのとは明らかに違った。

「私もそうだけど、イリナもこうして稽古するのが純粋に好きだから、その顕れかな」

「でも、俺を含めたその他大勢も同じ稽古つけてるんだぜ?」

 返す言葉に詰まった。他の子よりも腕は上と言う自覚はあるけど、特別な事は何もしていない。

「確かにそうですけど、それ以上に何かしているような事はないですし」

「同じ事しかしていなくても、そこまでしか力を発揮出来ない奴がいる一方でそれ以上に伸びる奴もいる。要はそういう事なんだろうな」

 何がその差を生むのか。ミリアムは本人の努力だと思っている。でもその努力だけでは埋まらないとしたら。

「イリナが見ているものが俺には見えてないのかな」

 何を見ていて何が見えていないのか。それが把握出来ていないなら差が生まれる事は避けられないだろう。

「誰かに言われなくてもそれが見えてて、考えたように動けるのがイリナやセージみたいな奴なのかもな」

 そこで一旦言葉を区切った。こちらを見ると唇の端を少しだけ上げて笑った。好感の持てる笑顔だった。

「それと、君もね」

 胸が音を立てて跳ねた。頬を通り越して耳の先まで熱くなった。それは今でもハッキリと覚えている。

「わ、私は別にそこまで……!」

「二年、三年にも君に勝てる奴はいないだろ。もう主将だもんな」

 格闘術はともかく、槍ならば何処を見ても肩を並べられるような人はいない。それに驕るような気は更々ないけど、それを誰かに指摘されるとちょっと戸惑ってしまう。でも下手に謙遜すれば嫌味に聞こえかねない。だからどんな顔をすればいいか判らなかった。

「悪いね、突然おかしな事言って。でも自信は持っていいと思うよ」

俺と違ってね。やっぱりそれほど悔しそうには聞こえなかった。追い付けない事は理解している。それでも足は止めない。その差が少しでも縮まるまで走り続ける。そんな意思を感じた。

「あなたも、充分強いと思いますよ」

「まだまだだよ。それに、そんな風に考えたらそこから先に進めなくなる」

 言われてハッとした。安易に満たされてしまったらそこで足が止まってしまう。常に動き続けろ、足を止めるな。いつも誰かに口を酸っぱくして言われている。その言わんとしたい事がようやく見えた、いや気付かせてくれる言葉だった。

「ま、兄貴の受け売りなんだけどな」

 彼はそこで相好を崩した。

「こんなんじゃ兄貴に笑われちまう。それだけは絶対に避けたいからな」

 そう言えば、彼には兄がいたはずだ。卒業生と言う事で何度か道場に顔を出したのを見かけた記憶がある。弟である彼と同じように剣をたしなんでいた。もっとも、腕前はたしなむような域を遥かに超えていたけど。イリナやセージ、そして彼は真っ向勝負の打ち合いを望む。ミリアムもそうだ。その方が取っ付きやすい。でも、彼の兄は違った。相手を捌き、そしていなす事に重きを置いていた。自分から仕掛けるような真似はまずしなかった。開始と同時に斬りかかった弟の木刀を軽く弾き飛ばしていた。それを難なくこなせるくらいの腕前はある。ミリアムも本気でやっても勝てるかどうか危うい。

「笑われるじゃなくて、既に笑われてんだけどな」

「お兄さんが、目標なんですね」

 応えなかった。こっそり横顔を窺って驚いた。さっきまでとは目が違う。冗談を挟むような余地は一切残されていない。

「目標と言うか、越えるべき壁と言うか」

ま、どっちも似たようなもんだな。握り締めた拳を顎の下に添える。そのまま殴りかかって来そうな気迫すら感じた。

「剣にしても鍛冶にしても、何をやるにもあいつが必ずいたからな」

 立ちはだかると言えば大袈裟に聞こえるけど、お兄さんの先に行けた事はこれまで一度もないに違いない。だから必死に追い付き、追い越そうとしている。聞かなくても判る。

「そういう背中が側にあるのって、悔しいは悔しいけど励みにもなるからな」

 やっぱり同じ事を考えている。それとも、置かれた立場が同じだと考える事も似通うのか。

「さてと、師匠にどやされる前にもう一本やってくるか」

 椅子から立ち上がると気合いを入れるように頬を両手で張った。真っ赤になった頬っぺたを隠す事もなく道場の方へ歩いて行く。

「これ、有り難う。洗ってから返すよ」

「いえ、お気遣いなく」

 どうして彼が苦笑いしたのか、その時は判らなかった。今思えば、そんな堅苦しい言葉を使う女(しかも年下だ)に戸惑うものを感じていたのかも知れない。冷静に考えなくても物凄く不似合いだ。

 手拭いが戻って来たのはその翌々日だった。洗って干して、綺麗に畳んであった。お日様の匂いがした。

 彼も身近にいる誰かの背中を追いかけている。背中も見えないのか、手が届きそうで届かないのか。一見すると届きそうに見えるけど、実際は遥か先にある。背中はおろか姿すら見えない。それでもいつかは追い越したい、そう思う。彼はどうなのだろう。きっと、そこまで大きくは変わらないんじゃないかな。顔も、悪いって事はないと思う。ミリアムには充分に男前だった。体格も筋肉質で逞しいし、イリナが言うほどガサツでもなければ無神経でもない。迂闊にイリナにそんな事を言えばアバタも笑窪とか言われそうだった。せめて恋は盲目と言って欲しいな。

 そう、彼が好きだ。その気持ちには素直でありたいと思う。真面目で一生懸命で、身近にいる誰かに追い付こうと頑張っている彼に、目を閉じたまま寄り掛かりたくなるくらいの親近感を覚えている。そのまま彼の温もりを感じながら眠れたらどれほど幸せだろうか。そんな事を考えていたらまた少し体温が上がった気がした。

 さっきから手も足も休みなく動かしている。でも、彼に会うにはまだ走り続けなければならない。それでも構わなかった。もうすぐ会えると思うとそれだけで気持ちが高揚して来る。こんな機会を与えてくれたウォッカに感謝しないとね。歩き慣れた山道を一気に駆け降りて行く。吹き出した汗が額を濡らす。木々が少しずつ疎らになり、屋根が視界の奥に見え始めた。足の動きが一層速くなった。


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