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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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三日目 その四

 口をさっきまでとは全く違った意味合いで力一杯押さえ付ける。それと同時に顔を背けて壁に手をつく。酸っぱい何かが胃の底から音を立てて込み上げて来た。それを喉元で無理矢理抑え付けた。吐き出した方が楽になるのは目に見えているけど、それだけは絶対に避けたかった。

「だから止めとけって言ったのに」

 同情しているのか呆れているのか判らない。或いは馬鹿にしているのか。

「外まで送ってやろうか」

「結構よ」

 膝に力を込めると一気に立ち上がった。死体に驚く事を醜態だとは思わないけど、これ以上無様に悶える様を晒したくはなかった。あまり気を遣わせたくない、本音を言ってしまえばそれまでだ。あんたが考えてるほど弱くない、そう言えればもう少しは心も軽くなるだろうに。

「ただ無理はするなよ」

「気遣いは無用よ、そこまで餓鬼じゃないわ」

「いや、吐かれて現場汚されても困るからよ」

 膝から力が抜けそうになった。こいつ、人を何だと。

 当の本人は無防備に背中を晒したまま死体を弄くり回している。何を調べる必要があるのか。そもそも気持ち悪くないのだろうか。

「あんた、死体見たのは初めてじゃないのね」

「まあ、確かに初めてではないな」

「何でそんなに慣れてんのよ」

 全くビビっている様子がない。微塵もない。嬉々としていたら完全に変態だけど、奇妙なやる気に満ちていた。少なくとも背後からはそう見えた。

「別に慣れちゃいねえよ。ただビビらねえってだけさ」

「どうして怖くないのよ」

「さなあ」

 返事だけだった。目は相変わらず眼前の死体に向けられている。

「どうして判ったの?」

「判ったって、何が」

「何故ここに死体があったのか」

 死体を前にしてからウォッカは初めてこちらを見た。と言っても肩越しにチラリと一瞥しただけだったけど。

ウォッカは面倒臭そうに床を指差した。

「これだよ」

 鮮やかな赤から黒に変わりつつある血溜まりが死体の背中から広がっていた。これが更に広がって行くようならまだ出血している事になるんだろうけど、乾き切っているのか蠢くような気配はなかった。触って確かめる勇気はないけど。

「これって、血の匂いって事?」

「ご名答」

 鼻から吸い込む空気の量が心なしか少し増えた気がした。鉄にカビが生えたような匂いが鼻を突く。これだけ出血していればこの部屋の中は血の匂いで埋め尽くされていた事だろう。だからウォッカには確信があったはずだ、ここに死体があると。一方、イリナはここに足を踏み入れた時は口や鼻をを手で覆っていた。そうでなかったらも気付いたかも知れない。いや、難しいか。部屋に入らなければまず無理だ。

 でも、この男はどれだけ遠くから血の匂いを嗅ぎつけていたのか。そしてこの精度だ。

「犬並みの嗅覚ね」

「別にそこまで鼻が利くって訳じゃない」

 謙遜する訳でも、況してや照れた様子もなかった。どちらかと言えばわざわざ説明しなければならない事が単純に面倒臭そうに見えた。

「一昨日だって料理の匂いを辿って家に来た、って言ってたじゃない」

「あの時は腹が減って死にそうだったところに飯の香りが漂って来たからそれを辿っただけだって」

「硫黄の匂いも嗅ぎ分けてたわよ」

「硫黄は元々の匂いが強烈だろうが」

 イリナは思わず前髪をクシャクシャにした。論点がズレている。

「限られた空間にいたならともかく、これだけ離れててどうして匂いが届くのよ。馬鹿みたいに鼻が利かなきゃまず無理でしょ」

「腹が減ってたから飯の匂いに気付いた。匂いそのものが強烈だから硫黄の匂いが鼻に届いた。それだけだよ」

「じゃ、血の匂いは?」

「血の匂いに人一倍敏感ってだけさ」

 人一倍どころの話ではない。五倍、いや十倍でも利かないかも知れない。それほどまでにウォッカの鼻は正確だった。

「空地を出ようとした時から鼻先をヒクヒクさせてたわよね。じゃ、その時には既に血の匂いに気付いてた、って事?」

「案外よく見てるな」

 ウォッカは剣が突き刺さっている傷口を至近距離からマジマジと見詰めながら言った。軽く吐き気を覚えた。気持ち悪くないのだろうか。

「空地以外の場所から血の匂いが流れて来た。それを便りに辿って来たらここに行き着いたってだけの話だって」

 この男からしてみればそれだけなんだろうな。でも、それ自体も事実としては相当に異常だった。それがあったから死体の発見に到ったのは事実だけど。

 ウォッカの背中越しにもう一度死体を覗き見た。利き過ぎる鼻に感謝すべきなのか、それとも恨むべきなのか判らなくない。

 腰には空になった鞘を差している。鎧は剥ぎ取られたのか、薄手のシャツを一枚着ているだけだった。胸を中心にして血が広がり、それが床にまで達している。傷だけでなく、出血量を見てもこいつが完全に絶命している事は明らかだった。

「こいつ、やっぱり例の姿を眩ました兵士かしら」

「武器を没収された街で中身が空とは言え剣は差してた訳だからな」

 死体の腰から鞘を抜くと、胸に突き刺さっている剣と照らし合わせた。

「まず間違いないだろ」

「胸に刺さってる剣って、ひょっとして、」

「ああ、この鞘に収まっていたものだろうな」

「根拠は?」

「刃の幅や厚みが鞘と殆ど変わらない。長さが合えば確実だな」

 言うが早いか、ウォッカは柄に手をかけた。引き抜く瞬間、顔が僅かに強張った。勢いよく剣が壁から離れる。死体が横向きに倒れた。

「血は出ないわね」

「流石にもう乾いてるだろ」

 少なくとももう出血はしないところを見ても、死んでから数時間は経過していると見ていいだろう。

 ウォッカは引き抜いた剣を鞘に収めた。

「間違いないな」

 刀身は余る事なく綺麗に鞘の中に隠れている。鞘を壁に立て掛けたウォッカは改めて死体に視線を落とした。死体の腕を軽く掴むと背中を覗いた。

「ま、そうだよな」

「どうしたの?」

「後ろ手に縛られてる。見りゃ一目瞭然だけど」

 そう、腕を組んでいた訳ではない。殺されようとしている人間が抵抗を放棄するように後ろに手を組むなんてあまりに不自然だ。

「そんな事する必要もなかっただろうけどな」

「何でよ」

「上腕骨が二本とも折られてる」

 背筋がゾッとした。折ったのは当然縛った後、或いは気絶させるか何かして抵抗できない状態にしてからだろうけど、無抵抗の相手の骨を叩き折る輩の心理状態が全く想像出来ない。泣き叫ぶ様を目の当たりにしても顔色一つ変えずに骨を折る。冷酷云々の域を遥かに超えている。いや、やっている事が既に人間ではない。

「折られてるのはここだけじゃないな」

 尾底骨に氷を押し当てられたような気がした。震えそうになった左手を右手で押さえる。

「スネも折られてるし肋も何本かイカれてるな。顎と頬骨は綺麗に砕けてるし鼻なんか真っ平らだ」

「暴行された、って事?」

「と言うより拷問だな。無理して見なくていいけど、顔なんか原形止めてねえぞ」

 原形を止めていない顔を想像して今日何度目かの吐き気に襲われた。

「どうしてそこまで痛め付ける必要があるのよ」

「知るかよ。気が済むまで殴りたかったのか便秘でイライラしてたとかじゃねえの?」

 丸っきり他人事のような口振りだった。実際他人事以外の何物でもないんだけど。

「男が便秘でイラつくかしら」

「或いは、何か聞きたい事があったとかな」

 体が反射的に強張った。聞くとしたら一体どんな事を? 咄嗟には思い付かなかった。でもムシャクシャしていた憂さ晴らしや便秘が原因と考えるよりも遥かに説得力があった。

「ウォッカだったらどんな事を聞くの?」

「一昨日昼飯食いながら聞いたような事かな。イリナ達は当たり前みたいに知ってるけど俺は知らない、そういう事を知ろうとするだろうよ。でもこいつを殺した人間は少し違う。聞く相手はこの街の住民じゃなく奴らの手下な訳だし」

「つまり、どういう事?」

「奴らの内情により肉薄した話を聞ける。話と言うより情報と言った方がいいな。こいつらの組織の中がどうなってるかなんて、部外者には当然預かり知らぬ処だろ?」

 積極的に知りたいとは思わない。でも情報としての価値はかなり有用だ。事と次第に依っては事態の好転に寄与する可能性も充分にある。

「そんな事聞いて、そいつはどうするつもりなのかしら」

「あんまり早まるなよ。俺が今話してる事はただの推測だ。この死体から何を聞き出そうとしたのかなんて当の本人以外には知りようもないんだぜ」

 どうして平気で話の腰を折るような事を言うのか。文句を言いたくなるけど指摘している内容は至極真っ当だった。取り乱しているつもりはないけど、冷静と言うには程遠い。一方、ウォッカは死体を前にしても別段動じる気配もなくここで何が起こったのか、そこに行き着く糸口を探している。

 実に対照的な反応だった。

「でも、必要な情報が聞き出せたなら殺さなくてもいいじゃない」

「それは無理な相談だろ。顔を見られてる訳だしな」

「目隠しするとか」

「声を聞かれてるだろ。そいつに捕まった時点でこうなる事は決まってたんだよ」

 最初から殺すつもりでいた。だからでこそ、何一つ躊躇わずに執拗に痛め付ける事も出来た。中途半端な覚悟では目的は遂げる事など不可能だろう。そういう意味では実に徹底していた。それこそ寒気がするくらいに。

 でも、そうなると一つだけどうしても不可解な事がある。

「昨日十五人を殺した奴とこいつを拷問した奴って、やっぱり同一人物かしら」

「あいつらの仲間だったこいつが拉致された挙げ句こうして殺されてるんだ、犯人が別々と考えるより遥かに自然だろ」

 十五人が殺されて一人だけ姿を消した。最初はそう考えていた。でも実際はそうではない。行方を眩ましていただけで殺される事は既に決まっていた。さっきウォッカにも指摘された事だ。一連の流れの中で二つの事件が起きている、それは間違いなさそうだった。

「これで殺されたのは十七人か」

「え? 十六じゃないの?」

 昨日ウォッカを襲ったのが十五人、その前に拉致されたのが一人、合計十六人のはずだ。何処で一人増えたのだろう。

「何処から一人湧いて出たのよ」

「昨夜呑んでる時、大将格の兵士が話してたんだけど、覚えてないか?」

 眉を潜めた。話していたような気もするけど明確な記憶はない。

「どんな風に話してたの?」

「一昨日にも一人殺されたってな。詳細は不明だ。ひょっとしたらあいつらも殺されたって事以外は事実関係を把握出来てないのかも知れないな。これを見てるとそんな気がするよ」

 確かに頷ける話だ。イリナは壁に立て掛けられている剣を見た。止めを刺した凶器もこいつ自身のものだ。そういう僅かな痕跡すらも残そうとしない。

 でも、そう考えるとどうしても腑に落ちない事がある。

「ねえ、どうして剣で刺し殺したのかしら」

「どういう意味だ?」

「だって後ろ手に縛り上げてた訳でしょ? 抵抗なんて出来るはずがないじゃない。そのまま殴り殺す事だって出来たはずなのに、わざわざ心臓に剣を突き刺して殺す必要なんて何処にもないわよ」

「……そうだな」

 ウォッカは立ち上がると部屋を見渡しす。部屋の隅にあった床に取り付けられている戸を引いた。イリナも中を覗き込む。階段が真っ暗闇の中へ続いている。壁に駆け寄ると半開きだった窓を全開にした。

「助かる」

 ウォッカは戸板を全開にした。躊躇う様子もなく下へ降りて行く。誰かが身を潜めていると言うような可能性は考えないのだろうか。肝が据わっているのか馬鹿なのか判らない。もっとも、こいつならば襲われたとしても間違いなく返り討ちするだろうな。そうか、だからか。

「イリナはそこで待ってな」

「馬鹿言わないで。ここまで来たんだから一緒に行くわ」

「なら自己責任で頼むぜ」

 その自己責任の意味合いが気になった。誰かが襲って来たとしても助ける事はしないのか、それとも何があってもウォッカは責任を取らないと言う事なのかは。何が起こるか判らないのだ、覚悟はしておけと言う事だろう、最低限それだけは絶対に必要だ。

 一段一段ゆっくりと階段を下りていく。全く光が差し込まない。見事なまでに真っ暗だった。とてもこんなところにいたとは思えない、と安易に考えた時、視界の片隅に何かが映った。ランプとマッチが階段の脇に無造作に置かれていた。ウォッカは身を屈めると拾い上げてマッチを擦った。ランプを開けて中のロウソクに火を灯す。途端に胸を覆っていた不安のいくらかが姿を消した。見えない事はそれだけ大きな負担になるのだろう。

「結構広いんだな」

 ウォッカは持っていたランプを高く掲げて部屋全体を照らす。昔は物置として使われていたのかも知れない。今はそんな名残など欠片もなく、洗ったように何もなかった。家主がここを出る時あったもの一切合財持ち出したのだろう。そして何も残らなかった。

 ウォッカはランプで部屋全体を順繰りにゆっくり照らして行く。

「ここが犯行現場か」

「どうして言い切れるのよ」

 ウォッカはランプを床に近付けた。光の中に黒いシミのようなものが映った。一つや二つではない。水でも撒いたように壁際を中心にいくつもついている。よく見ると黒とは若干違う。黒に近い鮮やかな赤だった。

「血痕だよ」

「結婚?」

 聞き返した瞬間顔が真っ赤になった。疲れたような、或いは呆れたような視線を感じた。ウォッカがこちらを見ているのはすぐに判ったけど今は顔を上げる勇気がなかった。

 必然的に俯く姿勢になった。床には無数の血の斑点が散らばっている。これだけの量の血が出るまであの男は殴られ、蹴られ、ひたすら痛め付けられたのだ。反射的に口元を押さえた。

「どうしてここで痛め付けたのかしら?」

「あいつの居所は昨夜奴らも血眼になって探してたはずだからな、こういう身を隠せる所の方が何かと都合がいい」

「それならこの建物だけで充分じゃない」

 ウォッカは何も言わずに首を横に振った。

「上で呑気にそんな事してたらすぐ見つかっちまうだろ。少なくとも灯りはまずつけられない」

 本格的な捜索は日が落ちてから始まったと考えるべきだろう。真っ暗闇の中で光源があれば相当目立つのは明らかだ。わざわざ居場所を知らせるような真似をするとは思えない。やったら馬鹿だ、絶対。

「ここならばまだ落ち着いて話も出来るか」

 話と言うより殺す事を前提にした暴行だ。それを全く躊躇う事もなく平然とやってのけるだけの胆力がある。そんな事が実行出来るなら、仮に犯行の瞬間に踏み込まれたとしても簡単に撃退出来たのではないか。階下に場所を移したのは単に邪魔されたくなかっただけだとしたら。

 やはり、まともな人間の仕業とは思えない。

 ウォッカは天井からぶら下がっていた針金にランプの取っ手を引っ掻けた。

「こうしておけば日が暮れてても相手の姿は充分見える。話をするのに大きな支障はないな」

「拷問の間違いじゃないの?」

「殺られた方にはな」

 思わずハッとした。ウォッカは殺された側ではなく、殺した側の視点でここを見ている。大嫌いとは言え、上の死体にはいくらか同情の余地はある。誰しも、拉致された挙げ句無惨に殺されるような事など絶対に歓迎しない。多分、そんな事は一切考えていない。犯人の視点で考える事で事実に近付こうとしているのかも知れない。

 気持ちは判る。でも、そこに薄ら寒いものを感じた。

「見るものは見た」

 引っ掻けていたランプを針金から外した。右手に下げて階段を上がって行く。

「戻ろう」

 拒む理由はなかった。出来る事ならこんな所には一秒たりともいたくはない。

 階段の上の方まで上がると、ウォッカはランプの中で静かに揺らめいている火を吹き消した。

「案外気が利いてるよな」

「気が利いてるって誰の事よ」

 ウォッカは煙を棚引かせているランプを階段の脇に置いた。糸を引いているロウソクを睨んだまま静かに言った。

「地下に行っても中が見えるようにこうしてランプとマッチまでまで置いといてくれるんだから」

 馬鹿にしているのか感心しているのか判らない。或いはただの嫌味なのか。でも、確かに気が利いている。まるで、誰かが来る事を見越していたかのようだった。

 上に出ただけで随分と気持ちが軽くなった気がした。肩を上下させて大きく深呼吸する。

「とても長居する気にはなれないわね、息が詰まるわ」

「同感だ」

 実に涼しい表情だった。説得力がない。

「やる事も粗方済んだし、そろそろおいとまするか」

「おいとまって、あんたね」

 平和的にお邪魔しましたと言えるような雰囲気ではない。廃屋に転がっていた死体にそこまで気を遣う必要もない。自分から入って来ておいて言える科白ではないけど。

「収穫もあったしな」

 見上げると、ウォッカは埃とカビにまみれた壁に背中を預けた姿勢で欠伸を噛み殺していた。

「何よ、収穫って」

「まず、俺以外にも外部からこの街に入り込んだ奴がいる」

 判り切っていた事ではあるけど、改めて明言されるとそれが既成事実として成立しているような錯覚に陥る。当事者を見た訳でもないのに。

「ねえ、何もあなたを追っかけていた最中に拉致する事もなかったんじゃない? あいつらを撃退した後なら誰にも気付かれずに連れ去る事も出来たでしょうに」

「そりゃ単なる結果論だよ。イリナは奴らが俺にぶちのめされた事を知ってるだろ。それに基づいて話してるだけだな」

 そう言われると切り返す言葉に詰まる。違うと反発したいけどそれを後押し出来るだけの材料もない。

「こいつを拐った犯人は元々砦の連中に何か聞きたい事があったんだろうな。恐らく街に侵入した時点でここは確保しておいたんじゃないかな」

「どうして?」

「でないと、すぐ行動に移せないだろ?」

 行動の意味を考えた時、体の芯から凍えるような震えが来た。正体不明な何者かがかなり物騒な目的を持ってこの街に入り込んでいる。それは間違いなさそうだった。

「こいつに聞きたい事って、一体何だったのかしら」

 ウォッカは黙って首を横に振った。

「砦の連中が知っている事、それ以上は判らない。考えられる事はあるけど推測の域を出ない」

 ならば絶対口にする事はない。こいつは明確な根拠に乏しい事を口に出すような迂闊な真似はしない。

「偶々ここに流れ着いた俺とは違ってかなり明確な目的を持ってここに来てる。おまけに頭も切れそうだ」

 二日か三日の間に十七人も殺しているのに、手掛かりはおろか目撃情報の一つもない。犯行に使われた凶器すら全て兵士連中が使っていたものだ。しかも、その気になればその凶器すら使わずに殺す事も充分に出来たはずだ。では何故そうしなかったのか。

「ここに何をしに来たのかしら」

「誰かを殺しに来た、って事じゃないのか」

 全く、恐ろしい事を平気で言ってくれる。そうかも知れないと言う思いはあっても、それが誰かの口から語られるとより真実味を増す。

「単に殺しに来たと言うより、暗殺かな」

「暗殺?」

「ま、諜報活動って可能性もあるけど」

 でも情報を収集する以前に侵入する時点で既に敵を手にかけている。目的を達成する過程で障害を排除した結果として殺人を犯したと言う訳ではない。加えて戦闘員とは言え、無抵抗の相手を一方的に惨殺している。湧き出た冷や汗を手の甲で拭った。

 そして、どうしても不可解な事がある。

「ねえ。ウォッカさっき死体の血の匂いを辿ってここに来たって言ったわよね」

「ああ」

「仮に出血してなかったら、こいつを見つける事は出来た?」

「無理だったろうな」

 あっさり認めた。匂いでここを辿って探し当てただけでも充分凄いけど、裏を返せば血が出ていなかったら見つけられなかったのだ。それは今本人も認めた通りだろう。

「となると、二つ疑問が湧いてくるわね」

「聞こうか」

 ウォッカは壁に寄り掛かると先を促すように右手を差し出した。

「さっきも少し触れたけど、どうして刺し殺す必要があったのか。そこがまず不可解よ」

「そのまま殴り続けるか蹴り続けるかしてればその内くたばってただろうからな」

「それだけじゃないでしょ」

 ここまでなら既に指摘している。そこから先が問題なのだ。ウォッカはうんざりしたように肩から力を抜いた。

「血が出てなけりゃ俺に見つかる事もなかったろうにな」

「そこよ。こいつをどう殺すとかそういう問題じゃなくて、こんなに出血してたからこそあなたはこの死体を見つける事が出来た。それ以外にも選択肢はあったはずなのに、どうしてこんなに目立つやり方を選択する必要があったのか」

 一気に捲し立ててからようやく僅かに息苦しさを感じた。首の周りから顔にかけて熱を帯びている。柄にもなく少し興奮していた。

「それに、地下にいたのにどうしてわざわざ上まで運んだのか」

「そこもおかしいでしょ」

「少し落ち着けよ」

 たしなめられてようやく少しだけ気勢が削がれた。肩が軽く上下していた。

「自力で動けない人間を運ぶだけで大変なのに」

「よくご存知で」

 馬鹿にしないで欲しい。何度父と酔い潰れた酔っ払いを背負って客室まで運んだ事か。カティ以外はそれがどれだけ重いか骨身に染みて知っている。

 だからでこそ余計に不可解だった。それを可能にする腕力と体力は間違えなく備えているだろうけど、そこまで時間と手間をかける理由が見当たらない。

「誰がどんな目的でここに来てこいつを殺したのか知らないけど、相当な変人よね」

「どうして?」

 さっきまで自分が繰り返していた質問だった。何だか妙に気分が高揚して来た。よくぞ聞いてくれた、そう言いたくなった。

「自分の存在は懸命に隠そうとする一方で始末した死体はこうして惜し気もなく晒して来るし。一番おかしいのはこの死体の扱いよね」

 ウォッカは壁に凭れたまま腕を組んでいた。さっきと違って先を促す事はしない。かと言って遮る様子もない。身動ぎ一つせず黙って宙を睨んでいる。

「地下に置いたままにして入口を隠すなり何なりしていたら多少は時間も稼げていたかも知れない。ひょっとしたら見つからなかったかも」

「それをわざわざ上まで運んで出血するように刺し殺す」

 ウォッカは握り拳を壁に叩きつけた。部屋が僅かに揺れる。

「確かに作為的だな」

「それ以上に不自然よ」

 頷く事もなく、ウォッカは何処を見ているのかよく判らない目で宙を睨んでいた。そのまましばらく便意を我慢するような顔をして見えない誰かと睨めっこしていた。

 少しずつ顔が引き攣って来た。目元が微妙に震えている。

「ねえ」

「ん?」

 何だその薄っぺらい反応は。もっと驚けよ。

「何か言葉はないの?」

「だから作為的だなって言ったろ」

 カツカツと音を立てて歩み寄ると微妙に顔を傾けたままウォッカの顔を下から覗き込んだ。端から見たら因縁をつけているようにしか見えないだろうな。実際それに近いものがある。

「それだけ?」

「うん」

 コメカミの辺りが露骨に痙攣した。ウォッカの襟首に自然と両手が伸びる。

「事実を並べた上である可能性を提示してあげたのに?」

「何だよ、可能性って」

 掴んだ襟首をカツアゲするように前後に揺すった。当の本人は柳に風だった。到って平然としている。

「あなたが血の匂いに人一倍、いや人の三倍は敏感なのを知ってたみたいじゃない」

 ここで安易に首を捻ったら確実に馬鹿の仲間入りが出来ると思うけど、流石にそれはしなかった。ただ肯定もしない。

「実際どうなのかは判らない。偶々刺し殺したかっただけかも知れないし」

 煮え切らないと言うか、どうして踏み込もうとしないのか。もどかしそうに両手を戦慄かせていると、ウォッカは疲れたように溜め息を吐いた。

「何でも関連付けて考えるなよ。安っぽい推理小説だってそこまではしないぜ」

「そこまで単純には考えてないわよ。でも、」

「でも何だ? 事実を列挙するとそう考えたくなるとでも?」

 正にそう言おうとしていただけにぐうの音も出ない。襟首を掴んでいた両手から徐々に力が抜けていく。

「事実を並べるとそんな風に考えられるかも知れない。でもそれは飽くまで可能性の話であって真実ではないだろ」

「ただの推測よ。それ全てが実際に起こったなんて言ってないわ」

「でもその可能性が濃厚じゃないかって考えてるだろ」

 上手い言葉が出ない。沈黙は口ほどにものを言う。誰だ、沈黙は金なんて大嘘吐いたのは。

「事実は事実。そこから導き出されるのは飽くまで仮説であって真実ではない。そこに余計な思惑は絡ませるべきじゃない」

 言っている事がいちいちもっともだった。そして想像以上に冷静だ。目の前にぶら下がっている手っ取り早い可能性に安易に飛びつくような真似は絶対にしない。ふと、一昨日ウォッカが呟いていた言葉が脳裡を過った。冷静でなくちゃならない。

「でも、あと一つだけ言わせて」

 祈るようにして右手の人差し指を立てた。ウォッカがどう考えるかはこの際どうでもいい。推測でも憶測でも、この場に踏み込んで、死体を目の当たりにして素直に感じた事を言葉に変えたかった。

 ウォッカは仕方さなそうに、でも感じよく笑った。

「この犯人、まるであなたに死体を見つけて欲しかったみたいね」

 ウォッカが血の匂いに敏感な事を知っていたなら、大量に出血させればここに行き着く事は充分予測出来たはずだ。顔は元の形が判らないほどボコボコに腫れ上がって変形し、全身の至るところで骨折している。地下で痛め付けていたのに、それをわざわざ上に運んで大量に出血させるために心臓を剣で貫いて止めを刺す。血が見たいのか猟奇的な趣味でもあるのか、そうでなければ何かしらの意図が介在していると考える方が余程自然だ。

「その可能性も大いに有り得るだろうな」

 冗談抜きでズッコケそうになった。さっきまでの話は一体何だったのか。

「ちょっと!」

「そう怒るなよ。今のイリナの推測にしても全部可能性の中に含まれてる事だろ。当然全く違う可能性も考えられる。その可能性が高いか低いか、それだけの話さ」

「私が提示した可能性はウォッカの中で高いの? それとも低いの」

「決して低くはないと思う。ひょっとしたらかなり高いのかも知れない。ただ高かろうが低かろうがそれだけしか考えないって訳には行かないだろ。他の可能性も考慮すべきじゃねえの?」

 それ以外の可能性に果たしてどんなものがあるのか、そんな事は考えもしなかった。自分の考えに凝り固まっていた。

「それしか考えないとそれ以外の可能性が目に入らなくなる。目隠ししてるようなもんだな」

 目隠し。確かに意味合いは間違っていない。問題なのは自分自身で気が付かないうちに目隠しをしていたと言う事だ。

「だから、その可能性を捨てろなんて言うつもりはない」

「ただ固執はするな」

 言葉を付け足すと、ウォッカは目を閉じたまま真っ直ぐ立てた人差し指を軽く前後に振った。

 人の三倍は軽く平らげる大食漢で、酒を呑ませれば底無しだ。でも、一見粗野な外見に似合わず冷静で何より思慮深い。イリナが考えているほど馬鹿ではなさそうだ。認識を改めるべきなのかも知れない。むしろイリナよりも頭の回転は間違いなく速い。認めたくはないけど。

「仮に、本当に仮にだけど、私の仮説が事実だとしたらそいつはどんな行動を取るかしら」

「思惑通り俺をここに呼び込んで死体を発見させて、その上でどうするかって事か?」

 話が見えているだけあって足りない部分を補足してくれる。やっぱり馬鹿ではない。

「人一人をこんな風に惨殺してるんだから、普通の神経の持ち主なら一刻でも早く、少しでも遠くに逃げようとするだろうな」

「どういう事?」

「全うな神経を持ち合わせてるなら一目散に逃げ出すよ。犯行現場から少しでも遠くに逃げるのが極普通と言うか、当然の反応だな。そもそもそんな人間なら人殺しなんか端から無理か」

 でも、この死体をここに残した誰かはこれ以上の事を平然とやってのける。一般的にはウォッカの発言は妥当だけど、今回の場合それは当て嵌まらない。

「取り敢えず、一旦ここから姿は消すかな」

「一旦? また後に戻って来るの?」

「或いは姿を消した振りをするだけか。何れにしてもこちらからは姿が見えないような工夫は凝らすと思う」

「どうしてそんな面倒な真似をする必要があるのよ。逃げたいならさっさと逃げればいいのに」

「何でだと思う?」

 そこで思わせ振りに笑って見せた。明らかに楽しんでいる顔だった。

「ここにおびき寄せる事が出来たら、実際既に来てる訳だけど、そうなったら俺がどういう奴なのか観察出来るだろ」

 あんたなんか観察してどうするのよ、とは言わなかった。そういう物好きもいるかも知れない。

「情報収集だよ」

「情報収集?」

「この死体を見つける奴が誰であれ、そこから得られるものは確実にある」

「例えば?」

「人相風体、趣味嗜好」

 眉間にシワが寄った。ウォッカは軽く首を傾げただけだった。

「人相とか風体はともかく、どうしてあんたの趣味や嗜好まで知る必要があるのよ」

「知ってるに越した事はないだろ。知識ってのはそういうもんだ」

 大は小を兼ねると言うのとは意味合いが若干異なるけど、知らない事に比べれば確かにマシはマシか。役に立つとは思えないけど。

「ここに来たのがあなたじゃなかったら?」

「殺した奴が何を目論んでるか正確には判らないけど、少なくともこいつの仲間が見つければ収穫にはなるんじゃないかな」

「どうしてよ」

「兵力とか各々の力量とか、あと全体的なまとまりなんかも観察出来るだろうからな」

 兵隊一人一人の実力と、それがまとまった場合の力量、それを実際に手合わせもせずに測る事なんて出来るのだろうか。そこまで考えてハッとした。

「ねえ。それってこの近くにそいつが潜んでるかも知れないって事じゃない」

「それも可能性の話だろ。飽くまで、俺がそいつの立場にいたら何をしてたか、って仮定の中での事だからな。しかもその話題を振って来たのはイリナだろ」

 その通りだった。自分で言っておいてすっかり忘れてた。

「ま、飽くまで仮定での話だからな、そこまで重きを置くような事じゃ……」

 言葉を切ったウォッカの顔が微妙に歪んだ。怪訝に思った時には足が動いていた。壁に向かって一直線に突っ走って行ったかと思うと開けていた窓を閉める。硬くて甲高い音が響いたのが殆ど同時だった。何が起こったのか咄嗟には理解出来なかった。閉めたばかりの窓を見て初めて理解した。貫通した矢の先端が顔を覗かせていた。

「いたぞ、あそこだ!」

 外で誰かが叫んだ。他人事のようにしか聞こえないけどイリナもかなり深い部分で関わっているのは間違いなさそうだった。

「出るぞ」

 言うが早いか回れ右して部屋から出ていく。速い。待つとか一緒に行くとか、そういう発想が全く窺えない行動だった。おい。

「ねえ、一体何だって言うのよ!」

「話は外に出てからだな」

 扉を開けて外に出たのと剣を構えた兵隊共に取り囲まれたのがほぼ同時だった。腰に差していた物騒なものを一斉に抜く。抜き身の真剣を見るのは随分久し振りだった。それが自分に突きつけられたものでなければ、抜いたのがこいつらでなければもう少し穏やかな気持ちでこういう瞬間を迎えられた、と思う、多分。そう思うと剣すらまともに握れない現状を作ったこいつらが殊更憎らしく感じた。そういう理由で腹を立てると言う感覚がそもそもおかしいんだけど。でもそういう危うさを把握出来る程度の客観性はある。……考えていたら余計腹が立って来た。持っていたカゴをドアの脇に置いた。

「ビビってる、って訳でもなさそうだな」

 ウォッカは正面を眺めたまま言った。こいつもビビっている様子は窺えなかった。どちらかと言うと、いや明らかに面倒臭そうだった。

「わざわざ死体の在処を知らせてくれるとは、見上げた馬鹿だな」

 取り囲んだ五人のうちの一人が声高に言った。

「お前ら、昨夜中の死体は見つけられなかったんだろ?」

「ああそうだ」

 だからどうしたと言わんばかりの口調だった。先を越されて悔しいと言う訳でもなさそうだし、どうして発見出来たのかと疑問に感じている様子もない。

「じゃ、俺は自分が始末した死体をわざわざ人目につきそうな所に運んで、連れの人間には俺が殺しましたと自白しつつその死体をわざわざ確認させる、と」

 腕を組んだまま顎に手を当てると感心したように頷いた。

「確かに、見上げた馬鹿だな」

 実際にその通りだとしたら呆れ返るくらい馬鹿だ。そういう可能性にすら気付かないこいつらはそれ以上の馬鹿だ。心なしか、さっきの兵士の顔に赤みが差しているように見える。

「で、今日は何の用だ? また懲りずに喧嘩でも売りに来たか?」

 返事はなかった。柄を握り直したかと思うと問答無用で斬りかかって来た。怒りを無理矢理ごまかそうとしているようにしか見えなかった。って言ってやったら絶対に怒るだろうな、馬鹿だから。左に飛んでかわした。ウォッカは右に飛んだ。

「お前ら無駄に好戦的だな」

 半歩踏み込んだと思った次の瞬間には甲高い音を響かせて兵士が吹っ飛んでいた。握り込んだ左の拳を軽く上下に振っている。伸ばした拳を既に引き終えていた。全く見えなかった。一体どれだけ速いんだ。

 息を吐く間もなかった。隣にいた兵士が斬りかかって来た。さっきウォッカがそうしたように一歩踏み込んだ。振り上げた腕に刃が当たった瞬間、兵士の両目が愕然とするように見開かれた。硬く乾いた音がまだ僅かに尾を引いていた。それが完全に消える前に、まだ大袈裟に驚いている兵士のがら空きの横面に拳を叩き込む。

「やっぱり、鉄甲仕込んでたんだな」

 ウォッカが呆れたように言った。

「道理でゴッツい訳だ」

 一日でこんなに腕が太くなったらそれこそ病気を疑った方がいい。もっとも、ウォッカは最初から病気ではなくこの可能性を疑っていた訳だけど。

「ま、何かと物騒だから」

 皮肉に聞こえたのか、ウォッカはごまかすように苦笑いしている。

「あんたも大変ね、連日」

「昨日に比べれば遥かに楽だよ」

 何処がよ、と突っ込もうとして思い切り目を剥いた。ウォッカの脳天に剣が降り下ろされていたからだ。直撃したと思った瞬間、ガラスが割れるような音が響き渡った。

 剣を握っていた兵士がだらしなく尻餅を突いた。足元に真ん中の辺りから折れた剣が転がっている。

「手が使えるからな」

 握っていた剣の残骸を兵士の前に放る。ヒィ、と情けない悲鳴が聞こえた。

「そっちは任せたぞ」

 不恰好に尻餅を突いていた兵士の顔面を景気よく蹴り飛ばした。及び腰になっている残りの兵士との距離を一気に詰める。

 確かに呑気に構える理由はない。厄介事はさっさと片付けるに限る。いかにも破れかぶれと言ったように降り下ろされた剣を鉄甲で受け止める。全く以て工夫がない。他にやり方ねえのかよ、と思ったら隣の兵士が下段に構えていた剣を下から振り上げようとしているのが見えた。跳んでかわすには充分な間があった。縄でも跳ぶように刃が足の真下を通り過ぎる。跳んだ勢いをそのまま右足に載せる。頬骨の辺りに踵がめり込んだ。男を蹴り飛ばすなんて一体いつ以来だろう、しかも大の大人を。着地と同時に左に跳んだ。直角に曲げた肘をこめかみに叩きつける。何かが砕けるような鈍い音が背後から聞こえた。有り得ない向きに腕の曲がった兵士が口の端からだらしなく涎を垂らしていた。倒れそうになった兵士の襟首を掴んだウォッカはガラ空きの鳩尾に容赦なく拳を叩き込んだ。力はある程度加減はしているだろうけど、やっている事には一欠片の情けもない。まあ、ウォッカにしてみれば手加減する必要も理由も道理もないんだけど。実際イリナも全く手は抜いていない。しかもこっちは素手だ。下手に手を抜いたりすればそれこそ死に直結する。

 最後の一人が地面に倒れると茶色い砂煙が泡のように浮き上がった。顔が無残に変形している奴がいる一方で、見た目はほぼ無傷と言える者もいる。でも実際は骨折していたり内臓に相当な痛手を負っていたりしても全くおかしくない訳で、そう思うと改めて背筋が凍る思いがする。

「片付いたわね」

 男が五人完全に伸びているこの状態を果たして片付いたと言えるのか、内心で僅かに違和感を覚えた。どちらかと言えば散らかした言う方が適切な気がする。

 戦意と意識を完全に消失させた五人を大して面白くもなさそうに眺めていたウォッカは、面倒臭そうに頭を掻き毟るとつい今しがた出て来たばかりの家のドアを唐突に開けた。と同時に悲鳴に近い叫び声が聞こえた。こっちがビビる。見ると、ドアの前に兵士が鞘に差したままの剣を抱き締めて立っていた。

「何してんのよ」

 体全体が音を立てて引き攣った。骨の髄からビビり切っている。ここで大声出して驚かしたら確実に小便チビるだろうな。汚いからやらないけど。

「い、いや、あの、その……」

 女の子に何度か告白された経験はあるけど、それでもここまでしどろもどろにしか言葉を紡げないような子は一人もいなかった。遥かに真っ直ぐで潔かった。一体何なんだろうか、こいつは。

「何してんの、って聞いてんでしょ。応えなさいよ」

 柄に手を置く。こうすれば剣を抜かれる事はない。その上で兵士の胸倉を掴んで軽く前後に揺する。端からは気の弱い男子生徒を脅すスケ番にしか見えないだろうな。知り合いには見られたくない光景だった。

「出ようにも出られなかったんだよ」

 な? 同意を求めるように首を傾げた。慌てて頷く兵士の横っ面に一発見舞いたくなった。さっきまで襲ってた奴に尻尾振ってんじゃねえよ。

「窓に矢を放った奴だな」

 ガタが来始めたゼンマイ人形のようにぎこちなく頷く。

「どうしてここにいたって判った?」

「見知らぬ男が一人この辺りで姿を眩ました。あんな大男がこんなちっぽけな街に二人もいるか」

 ウォッカが露骨に顔をしかめた。壁に半身を預けたまま小指で耳の穴をほじる。

「じゃ、お前は俺を探してたんだな?」

「そ、そうだ」

「その最中に俺と思しき人影がこの辺りで姿を消したからここに当たりをつけた、と」

 黙って頷いた。少しずつ落ち着きを取り戻して来てはいるけど動揺は隠しようもない。

「どうしてここにいると思ったの?」

「ここら一帯は廃屋が建ち並んでるのに、ここだけ窓が開いてた」

 それは確かに不自然かも知れない。この辺りには誰も人が住んでいない事は当然こいつらも把握している。その一角で一軒だけ窓が開いていたらそれだけで充分目立つ。況してや中から話し声が聞こえれば尚更だ。

「取り敢えず、邪魔だからこいつら片付けとけ」

 異論はなかった。邪魔と言うか純粋に目障りだった。さっさと消えてくれ、お前も含めて。

「それと、お前らのボスに言っとけよ。とっとと出てけ、ってな」

 持っていた剣を腰に差す事もせず、背中全体を惜し気もなく晒したまま全速力で逃げて行く。足元に石ころが落ちていた。深い考えもなく拾い上げると無防備な背中に向かって投げつける。加減を間違えたのか打点が高かっただけなのか、僅かに下降した石ころは兵士の後頭部に直撃した。いかにも痛そうな音が聞こえた。溜まらず頭を押さえてうずくまる。でも、すぐさま立ち上がると後ろも見ずに突っ走っていく。泣いて逃げ出す子供のようだった。実際それと殆ど変わりはない。

「あんまり苛めるなよ」

 壁に背中を預けたまま、ウォッカは眠そうに欠伸をしながら言った。

「別に苛めてなんかいないわよ。当てるつもりはなかったけど、それが運良く当たっちゃっただけじゃない」

「運良くな」

 まさか頭に当たるとは思わなかった。だから当たった時は思わず大笑いしそうになった。

「それにしても、」

 ウォッカは完全に伸び切っている五人を順繰りに眺めている。

「やるねぇ」

「あんたが言うと嫌味にしか聞こえないわ」

「そうか?」

 軽く首を傾げた。惚けているようにも見える一方で本当に実感がないようにも思える。ただ、状況に応じて柔軟に演技をするような老獪さはこいつにはない、と思う。良くも悪くも素直だった。

 素手で剣を叩き折るなんて。初めて見た、いや聞いた事すらない。固定された状態でならばまだ判らないではない。でも今回は脳天に向けて思い切り降り下ろされた剣を受け止めて一瞬でへし折っている。電光石火の早業だ。それを難なくやってのけた上で平然としているのだから余計に判らない。ウォッカにとって動いている剣を受け止めてへし折るのはそこまで特別な事ではないのだろうか。

「白羽取りならまだしも、そのまま叩き折るなんて聞いた事もないわ」

「真似しない方がいいぞ、危ないから」

 一体何処の誰が真似出来ると言うのか。こんな事を迂闊にやろうものなら確実に死ぬ。

「じゃ、何でさっきあんたはやったのよ」

「思わずな。反射的に体が動いた」

 反射で動くな。そして成功させるな。失敗したら絶対に死ぬのに。

「練習したの?」

「するかよ。相手の技量と間合い、それとその瞬間の雰囲気かな」

「何よ、雰囲気って」

「さあ、何だろうな」

 背を向けると頭の後ろで手を組んで歩いて行く。

「ねぇ、何処に行くのよ」

「学校」

 あ。すっかり忘れてた。出掛ける理由はそもそもそれだったはずだ。これはそれまでの時間潰しでしかない。

「時間は?」

 ウォッカは懐をまさぐると中から懐中時計を取り出した。時計の蓋をパチンと開ける。武骨な指にしては繊細な動きだった。

「十一時半。今から向かうには丁度いいだろ」

 今から向かえば昼食が始まる頃には学校に着く頃合いだ。時間を潰すと言う当初の目論見は無事達成された事になる。

「それとも、先に飯を済ませるか?」

 折角動き出そうとしていた足が止まってしまった。どうして出鼻を挫くような事を言うのか。自然と顔も剥れる。

「行くのか食べるのかハッキリしてよ」

「そう怒るなよ。食ってすぐ組み手が出来るなら別に構わねえけど」

 それも一理ある。食べてすぐは動けない。しかも、こんな化け物みたいな男相手に組み手をするなんて絶対に無理だ。

 そう言えば。

 ここに来た初日には兵士二人を豪快に蹴り飛ばした上で軽々投げ飛ばし、二日目は十六人を相手に両手が塞がった状態で片付け、今も襲って来たあいつらを軽く一蹴して見せた。自分でも信じられないのが、こんな男を相手にこれから本気で組み手をやろうとしている事だ。しかもそれを止める気は更々ない。むしろ、さっきから興奮にも似た不気味な震えが体の末端から芯にまで拡散し始めて来ている。つまり、もう既に臨戦体勢に入っている事になる。抜き身の刃をぶら下げて表を歩くようなものだ。もしウォッカがその気ならいつでも応じる事が出来る、そういう状態だ。

「で、どうすんだ? 食うのか、向かうのか」

 突っ立っているウォッカの脇を足早に通り過ぎる。首を伸ばしてこちらを覗き込んでいるのが気配で判った。でも足は止めなかった。あれこれ考えるより動いた方が早いからだ。



「何だよ」

 切り株に腰を下ろしたウォッカは空を見上げながら呆れたように言った。

「食うなら食うで素直にそう言えばいいのに」

 応える代わりに箸を口に運んだ。提案に応じたのは頷ける部分が大きかったからだ。食べてすぐには動けない。こいつは違うだろうけど。

「しかし、なかなかいい場所だな」

 夢中で食べるかと思いきや、お弁当箱を持ったまま少しだけ眠そうな、見様によってはホッとするような穏やかな表情で周囲を見回している。

「気に入った?」

「ああ」

 嘘ではなさそうだった。右手に箸、左手にお弁当箱を持ってはいるけどその両者が交わる気配はない。組んだ膝の上に肘を突くと瞑想でもするように目を閉じた。いや違う、瞑想なんて大層な代物じゃない。ただの昼寝だ。

「落ち着くよ、こういう場所は」

 囲まれた木々の隙間からは風が吹き抜け、頭上から降り注いでいた木漏れ日が揺れる。食事も悪くないけど、読書も絵になるかも知れない。いや、こいつには絶対似合わないな。ただここが気に入った事は間違いなさそうだった。

「昼寝にピッタリね」

「ああ、違いねえな」

 あっさり認めた。お弁当箱を持ち直すとようやく箸を伸ばした。卵焼きを半分だけかじるとご飯を掻き込んだ。それだけで半分以上のご飯が消えてなくなった。

「美味い」

 思わず頬が緩む。恐らく何度耳にしても聞き飽きるようは事は絶対にないだろう。

「屋根の下で食うのもいいけど、空を見ながらってのもオツだな」

 やっぱり空を見上げた。でも箸は止まらない。二切れ目の卵焼きに箸が伸びる頃にはご飯の大半が消えていた。

学校に向かう山道から少し外れたところにある僅かな空間だった。でも、こうして腰を下ろして休める椅子や机に代わるものも用意されている。と言っても近くに生えていた木を切り倒して拵えたものだ。そこまで大袈裟な事はしていない。むしろそこまでして欲しくはなかった。元の形が判らなくなるのは絶対に嫌だった。ここが何処なのか判らなくなるからだ。

 風が吹いた。なびく髪を頬に押さえつけて空を見上げる。手を伸ばせば届きそうな高さにある雲がゆっくり風に流されて行く。清々しかった。

「大したもんだよ、ホント」

「大したもんって、何が?」

 そこまで大層な料理を作ったつもりはない。当然ながら店で出すものより数段劣る。出来立てには敵わない。

「さっきイリナが倒したのは二人か」

「ええ」

 いきなり振られた割には普通に応えられた。何となくだけどそんな気がした。

「女だてらによくやるって?」

「そんな事言うかよ。純粋に凄いって言ってるだけだぜ」

「あなたの目から見てもそう見えるの?」

 ウォッカは肩を竦めると解した鮭の切り身を口に運んだ。唇の端から顔を覗かせていた骨を舌で絡め取ったかと思うと前歯で噛み砕いていく。こいつ、骨まで食うのか。

「誰の目から見ても充分強いよ。そこら辺に出回ってる野武士や野盗なんかはまず問題にならないだろうな」

 でも、程度が判らない。野武士や野盗に勝てたとしても、奴らに勝てなければ意味がないのだ。さっきは勝ったけど。

「真剣抜かれてたら普通は腰が抜けて動けなくなるもんだけどな」

「そうなの?」

 イマイチ実感が湧かない。動かなければ死ぬのを待つだけだ。イリナはそんな事はごめんだ、絶対に。そうならないようにするために自分から動く。さっきもそうだ。ビビって動かなかったらきっと今頃はここにいなかったとしても不思議はない。いや、確実にそうなっていた。そういう危うい状況に普通に直面してしまうこの街の現状に改めてうんざりした。溜め息も出ない。

「私、どれくらい強いのかしら」

「さっきやった程度の連中なら全く問題にならない。実際苦戦した訳でもないしな」

 改めて冷静に考えると、真剣を突き付けられたにも係わらず差して動揺しなかった事の方が驚きだった。実力云々よりも露骨に殺意を向けてくる相手に対して動じる事もなく一蹴してしまった自分に素で引いた。道場稽古で相手をぶちのめした事は山程あるけど、当然の事ながら真剣なんて使わない。

「軍人や兵士でも余程訓練された奴でない限り相手にならないんじゃないかな」

 素直に喜ぶべきなのか迷うところだ。やっぱり生まれてくる時代と性別が間違っていたのか、と真面目に悩んでしまう。

 で、それよりも更に信じられないのが、足技だけで帯刀した兵士を軽く一蹴し真剣を素手で叩き折るような奴が目の前にいる事とそいつとこれから拳を交えるのを心待ちにしている自分だった。やっぱり普通の感覚からはかけ離れている。

「男も含めて、この歳でそこまで使えれば相当だよ」

 じゃ、お前は一体何なんだ。と突っ込んだところでまともな返事は期待出来ない。肩透かしを食らうのが関の山だ。それに敢えて聞くまでもない。何れ判る事だ。そう、何れ。

「一昨日ここに来る少し前にも野盗みたいな連中に教われたけど」

「当然全員返り討ちにしたんでしょ」

「ああ」

 もう驚かなかった。身を守っているから護身術と言うのもあながち嘘とは言い切れない。でも何らかの格闘術は間違いなく身につけている。それをこの目で、この拳で確かめたかった。

「昨日も今日も一昨日も、手加減はしたんでしょ?」

「当たり前だろ」

 顔を上げる事もなく夢中でご飯を掻き込んでいる。この方がらしかった。

「喧嘩を吹っ掛けて来た礼はする。でもそこまでだな」

 この男の場合、正当防衛は成立しない。たとえ襲われていても手を出せばそれで過剰防衛だ。

 その手加減を果たしてこの後するのか、それとも本気で来るのか。それももうじき判る。お弁当箱を握る手が震えた。噛んでいる鶏肉からは何の味もしなかった。


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