三日目 その参
息は上がっているけど膝に手を置くほどではない。軽く肩を上下させながら胸に手を当ててゆっくり深呼吸する。
「どうしたんだよ」
「別にどうもしないわ。ただ、」
両手で抱えていたカゴを左手に持ち替えた。空いた右手で額を伝う汗を弾く。
「ちょっと聞きたい事があるってだけよ」
聞きたい事が何なのか、それを問い質す事はせず、ウォッカは腕を組んだまま黙っていた。
「そのカゴは?」
言いながら鼻をヒクヒクさせている。どれだけ鼻が利くんだ。
「お弁当。あなたの胃袋を満たせる自信はないけど量は結構なものよ」
俄然目を大きくしてカゴを注目している。これだけ判りやすいと釣るのも簡単だ。
「昨日の空地に行くんでしょ?」
「ああ」
「何をしに?」
しかめるのではなく、顔を歪めたウォッカは顎を右手で掴んだまましばらく黙っていた。
「聞かない方がいいと思うぞ」
「どうして?」
「折角作ったそれが食えなくなるかも知れない」
空地に行って、何故お弁当が食べられなくなるのか。全く以て意味が判らない。
「空地に行く事が目的じゃない、そうよね?」
「そうだな」
「そこから先が知りたいのよ」
半ばこういう返答を予測していたのか、面倒臭そうに耳の裏を掻くと投げ遣りに言った。
「昨夜奴らが店に来たろ? 消えた一人を探しに。覚えてるよな」
「忘れる訳じゃない」
昨夜の出来事だ、半日しか経っていない。その記憶がないなら健忘症を疑った方がいい。
「俺がこれから探そうとしてるのもそれさ」
「どうしてあなたが探す必要があるのよ」
ウォッカは止めていた足を再び動かし始めた。少しずつ背中が遠ざかって行く。
「ちょっと!」
「そこまで時間に余裕がある訳じゃない。聞きたいならば歩きながらにしようぜ」
振り向く事もせずサッサカ歩いて行く。抗議の声を上げる暇もない。
「昼過ぎには学校に着いてないといけないんだから、そこまでのんびりしてられないだろ」
無駄は極力省きたい。要はそこだろう。
「でも、あいつらの仲間を探すなんてあなたも随分人がいいわね」
「勘違いするなよ。別に善意でやってる事じゃない。単に気掛かりってだけさ」
「気掛かり?」
ウォッカは耳の穴をほじっていた小指の先にフッと息を吹き掛けた。
「どうしてその一人だけが姿を消したのか」
よくよく冷静に考えてみると確かに不自然だった。それが自発的なものなのか、それとも第三者の意図が介在しているのか。
「で、それに輪をかけて不自然なのが痛め付けただけの他の連中が何故か全員死体になっていた、って事だな」
それに関してはウォッカも最初から身の潔白を訴え続けている。イリナに限らず、昨日あの場にいた全員もウォッカが下手人とは考えていないはずだ。カティを庇いながら闘った時は蹴飛ばして痛め付けただけだ。命を奪う事はしていない。ウォッカはその場から真っ直ぐ店に戻って来た後、奴らが来るまで一歩も店を出なかった。そして、奴らの致命傷になっていたのが刃物による刺し傷か切り傷だ。殺された正確な時刻は不明だけど、確実なのはウォッカが叩きのめした後と言う事だろう。奴らをボコボコにした後、ウォッカには明確な不在証明がある。
全く身動きが取れない状態の人間を惨殺した犯人がこの街の何処かに潜んでいる、と言う事になる。昨夜は呑み比べを見物していた事としこたま呑んだせいで頭がまともに働いていなかったけど、改めて冷静に考え直すとかなりとんでもない事だ。
「それと昨夜はすっかり話すの忘れてたけど、あいつらが俺を尾行してた時に気配の数を数えたんだがその時は十六だった、カティを除いてな」
足を速めるとイリナはウォッカの隣に立った。そのまま歩調を合わせる。
「で、いざ奴らと面を突き合わせてもう一回数えてみたら十五だった。最初は数え間違いかなと思って大して気にも留めなかったけど、その後に奴らが来てそれが間違いじゃない事がハッキリした」
「つまり、その段階で既に一人消えてた、って事?」
「そう考えるべきだろうな」
となると、かなり早い段階で姿を眩ましている事になる。そして消えた理由も判らない。自分の意思に依るものなのか、それとも……。
「ウォッカは誰が奴らを殺したか判る?」
「判る訳ねぇだろ」
一考の余地もなく否定された。それが判らないからこそ、その手掛かりを探しに行くのだ。
「ただ、昨日奴らをぶちのめして宿に戻ろうとした時に妙な視線を感じた。見張るような、いや監視と言った方がいいかな。何れにしてもあまり気分のいいものじゃなかった」
「それで、どうしたの?」
「すぐに消えたよ。煙みたいにな」
煙のように姿を消したらそれはもう人ではないけど、気配なら消す事は出来るかも知れない。ただ、やろうとして簡単に出来るものではないと思う。やってみろと言われたらちょっと、いやかなり困る。
「そいつ、何者なのかしら」
「気配を感じただけだ、実際そいつを目にした訳じゃない。況してやそれが人なのかどうかも判らない。錯覚だって可能性も捨て切れないんだぜ」
ウォッカはポケットに両手を突っ込んだままぶっきらぼうに言った。確証が持てない事は安易に信じたりしない。気配は気配に過ぎない。誰かの存在を明確に示すものではない。故にそれを信じるような真似は絶対にしないのだろう。
粗野な外見に似合わず結構慎重なのかも知れない。
「今の段階で手掛かりを探すとすれば何をすればいいと思う?」
「今の段階で?」
段階も何も、辛うじて状況が把握出来ている程度で殆ど何も判らない。そんな中で何が出来ると言うのだ。
「現実的な可能性だけで考えたら消えた兵士が残った全員を殺した、ってのが一番自然じゃないのかな」
改めて指摘されると咄嗟に頷くべきか一瞬迷った。でも、冷静に考えるまでもなくそれが考えられる可能性の中で最も高い、いや自然だ。同時に安易な可能性でもある。それ以外の可能性を見出だせていないからだ。仮に他の可能性を挙げられたとしても全て憶測の域を出ない。厳密に言えば消えた兵士が殺した犯人と言うのも憶測でしかない。ただ可能性が高いと言うだけだ。
だから姿を消した兵士を探している。仮に見つかったとすれば何か手掛かりが得られるかも知れない。
でも、そこまで簡単に事が運ぶとは思えない。十五人は既に殺され、一人だけが行方不明だ。違う、そうじゃない。不明なのは行方ではなく生死だ。それに初めて気付いた。
「ねえ、行方不明になった兵士って自分の意思で姿を消したのかな。それとも誰かに拐われたとか……」
隣を歩くウォッカの表情が僅かに険しくなった、ように見えた。目元が若干引き締まった気がしたけど、瞬きした後にはいつもの眠そうな目に戻っていた。
「仮に自分の意思で消えたとしたら、そいつは一体何処に行ったのかな」
そう聞かれると答えに詰まる。その説明が出来ない事にではなく、そこから導き出される可能性を口に出来ない事に苛立ちを覚えた。
「誰かに拉致されたんだとすれば、」
風に巻き上げられそうになった帽子を右手で抑えながら、ウォッカは実にあっけらかんとした口調で言った。
「もうこの世にはいないだろうな」
ゾッとする事を平気で言ってくれる。同時に必死に避けようとしていた事でもあった。
「一緒にいたはずの奴らは全員死んでて残った一人が行方知れずって状況が既に充分不自然なんだよ」
さっきと順序は逆だけど意味合いは変わっていない。仲間が殺されているならば、姿が見えない残りの一人が生きている道理などない、と言う事か。
「何より、拉致されたのが事実だとすれば生かすだけの理由もないしな」
「生きてるとは考えてないのね」
「当然だろ」
あっさり肯定したウォッカに背筋が寒くなるものを感じた。でも、そんなものを探したところで一体何になるのか。下手に踏み込んだら火傷では済まない。ひょっとしたら命に係わる事にもなりかねない。空いていた左手で右腕を掴んでいた。これを持って来ておいて正解だったかも知れない。
「ところで、」
ウォッカは睨むような目で腕を見た。
「腕、いつからそんなにゴッツくなったんだ?」
「どうして一日で腕が太くなるのよ」
平静を装ってはいるけど内心では結構動揺していた。でも、服の上から見ても明らかにゴッツい。それを今の今まで突っ込まずに黙っていてくれたウォッカに感謝すべきか、気付かれていないと何の疑いもなく信じていた自分に呆れる方が妥当なのか。こういう時、頭の中の線が二本か三本ぶっ飛んでいないと無表情を維持出来ない。気が抜けたら両手でお腹を抱えて笑い転げそうだ。考えている先から唇の両端が微妙に震えている。いかん。
「目の錯覚よ」
「錯覚ねぇ」
動くは動くけど、肘と手首は基本的に固定されているせいでいつも通りと言う訳にはいかない。いや、かなりぎこちない。これを見て何も感じなかったら絶対馬鹿だ、そいつ。
それに気付いたウォッカはそこまで馬鹿ではないのかこれまでバレてないと思っていた自分の方が馬鹿なのか。あまり真剣に考えたくなかった。こいつより馬鹿でありませんように。それを願った、真剣に。
「何祈ってんだよ」
「祈ってないわよ」
だったら何故目を閉じて両手を合わせているのか。何故眉間にシワまで寄せて肩を強張らせているのか。こいつよりかはマシでありますように。やっぱり考える事は変わらない。
「ま、いいか」
後ろも見ずに歩いていく。今までよりも明らかに速い。
「ちょっと、待ってよ!」
「ヤダ」
カゴを左手に持ち替えながら突っ走る。馬鹿デカい図体の癖してどうしてこんなに速いんだ。早く着いてくれた方が事も早く運ぶ。ウォッカがどんな結論を見越しているのか気になる身としてはその方が好都合だった。早く聞かせなさい、あんたが用意した答えを。聞きたいのは山々だけど急かすのは明らかに野暮のする事だろう。
カゴを持ち直した。体の芯から熱さが漏れる。それを冷ましたくなかった。
吹いた風が砂を舞い上げる。昔は頻繁に遊んでいた場所が今はやけに荒涼として見えた。
砂で覆われている空地の所々が赤黒く変色している。その赤黒さの意味を想像力で補った時、胃の底から僅かに込み上がって来るものを感じた。それがだだっ広い空地に斑点のように点在している。
「ここで殺されたのは間違いないみたいね」
わざわざ場所を移す必要もない。完全に伸びるか意識はあっても抵抗は全く出来ない相手を殺すだけなら誰にでも出来る。人としての一線を超える覚悟があれば、の話だけど。昨日ここで止めを刺した輩はその一線を軽く超えている事になる。寒気を通り越して吐き気がした。
ウォッカは血溜まりの前でしゃがみ込んだ。まんじりともせずに赤黒く変色した血を睨み付けている。
「また随分派手にやったなあ」
殺すにしてもやりようはあったはずだ。首を切り落とされた死体もあった、昨夜店に来た兵士はそんな事も言っていた。実物が転がっていたら流石に卒倒していたかも知れない。
「どう? 何か判りそう」
ウォッカは相変わらず血溜まりを睨んだまま微動だにしなかった。見様によっては便意を堪えているようにも見える。
「もしこの段階で犯人が判ったら可能性は一つしかないな」
自信に満ちた雰囲気だった。
思わず両目を大きく見開いた。犯人には辿り着けなくても、何かしらの確証は得られたと思わせるには充分だった。
「まさか、判ったの?」
「これを見て事態が正確に把握出来たら俺が犯人って事になるだろ」
前のめりにズッコケそうになった。真顔で言う科白か。全く、からかうにも程がある。
「ちょっと!」
「怒るなよ。冗談くらい挟んだ方が力も抜けるだろ」
ウォッカは派手に笑いながら言った。確かにそれはそうかも知れないけど、今言うのは絶対に間違ってると思う。
「一瞬信じそうになっちゃったじゃない」
「何をだよ」
聞き返されて咄嗟に言葉に詰まった。本当に犯人が判ったのか、或いはこの男が犯人なのか、その両者を無意識で天秤にかけていた。ウォッカには蹴り倒す事は出来ても殺す事は出来ない。奴らをぶちのめした直後はカティを抱えていたし、帰って後は一歩も店を出ていない。完璧な不在証明だった。さっきも考えた事だ。判り切っているのに、まだ心の何処かに疑う気持ちが残っている。
実際、このウォッカと言う男がどんな人間なのかサッパリ判らない。判っているのは人の五倍くらい飲み食いする上に人並み外れた度胸と喧嘩の腕の持ち主であると言う事くらいか。ただ、この男に奴らを殺せるだけのものがある事も確かなのだ。疑念を払拭出来ない要因の一つはそこにある。犯人なんかじゃない。そう信じたいけど、果たしてそのまま信じてしまっていいのだろうか。
「ねえ、本当に、あなたじゃないのよね?」
「俺が殺したかどうか、って事か?」
やっぱり返事が出来なかった。言葉にするのは明らかに抵抗があった。まだ揺れ動いている部分がある。
「どう考えるかはイリナの自由だから俺がどうこう口を挟むつもりは一切ないけど」
「どうして否定しないの?」
「今言ったばかりだぜ。どう考えるかはイリナの自由だ。証拠の有無は別にして何をどう考えるかは本人にしか決められないだろ」
それは飽くまで一般論だ。聞きたいのはそんな事じゃない。でも、それを言葉にする一歩がなかなか踏み出せなかった。
「俺が犯人だったら、後から刺し殺すなんて回りくどい真似はまずしないだろうな。最初に止めを刺してるよ」
行動としてはそれが自然だろう。でも知りたいのはそんな事ではない。
ウォッカは肩を竦めると仕方なさそうに笑った。
「殺してないし、その必要もない。ましてや殺す理由もなんて何処を探しても見つかりゃしねえよ」
そうだ。そもそもウォッカにはやつらを殺す理由がない。世の中には理由のない殺人もあるとは聞くけど、そういう常軌を逸した行動を取るほど精神状態が不安定だったらそもそもこいつと一緒にいない。と言うかいたくない、絶対に。ただ殺せるだけの力量は間違いなく備えている、それだけだ。いや、それ故に疑う気持ちが泡のように湧いて出て来る。そんな輩が何人も、こんな小さな街に居合わせるなんて事があるのだろうか。実際起こったとしたら結構稀有な確率だと思う。
イリナは苛々を無理矢理抑えるように音を立てて頭を掻きむしった。
「単刀直入に言うわ」
「どうぞ」
恭しく手を差し出す仕草にまたイラっとした。どうしてこんなに呑気なのか。
「あなたが犯人だとは思いたくないの」
ウォッカはどういう訳が目を閉じていた。返事もなければ頷きもしない。でも聞いてくれているのは間違いなかった。人の話を聞き流すような表情には見えない。
「今言ったように、ウォッカにはあいつらを殺す動機なんてそもそもないし、昨日は店に戻ってから一歩も外に出てない。奴らが殺された時間はハッキリ判らないけど、あなたが叩きのめした後なのは間違いないでしょ」
「アリバイは完璧だな」
その通りだ。普通に考えなくてもウォッカを疑う道理など何処にもない。
「時間的には不可能かも知れない。でも技術的には可能だと」
ど真ん中を射抜かれたのに顎が強張って頷く事が出来なかった。生理的にも感覚的にも認めたくなかった。こいつが犯人だとは思いたくない。だから、
「あなたが殺してないならちゃんと殺してないって、そう言って。さっきみたいに誰かに結論を委ねないで。あなた自身の言葉で否定して欲しいの」
「結論じゃなくて推論だな」
冷静に突っ込まれると返す言葉に詰まる。無駄に一人で熱くなっている事に気付いて少し頬が熱くなった。
「殺してないし、その必要もない。さっきも言ったぜ」
「そういう大事な事はふざけて言わないで」
「そうか? 真面目が取り柄なんだけどな」
嘘をつけ。これの何処が真面目なんだ。或いは真面目にふざけているのか。
「今だって真面目に考えてるぜ」
「何を?」
ウォッカは地面に広がっている血溜まりを顎で示した。眉間にシワが寄った。血に、血溜まりに何かおかしな事でもあるのか。考える余地があるとも思えない。
「どうして刃物を凶器にしたのか」
まだ何を言わんとしたいのか判らない。ウォッカは構わず話を続ける。
「手加減はしたけど、どいつもこいつも骨が折れるか砕けるかしてまともに闘えるような状態じゃなかった。意識がなかったのが大半だったから抵抗もまず出来なかっただろうな」
「たとえそんな状態の連中が相手でも確実に止めを刺したかったから刃物を選択したんじゃない?」
ウォッカは微妙に顔を歪めたまま首を横に振った。明らかにふざけた態度だった。
「明らかな致命傷と確実に痛手は被るが命に別状はない傷の二種類があった、ここまではいいな?」
黙って頷いた。さっさと結論を聞くなら下手に口を挟むよりこうする方が無難だ。
「じゃ、見方を変えてみよう。仮に奴らの死因が明らかな撲殺とか首の骨が折られてたとかした場合、イリナは誰が犯人だって考えてた?」
声が出そうになった。無意識に口を押さえる。それを察したのか、ウォッカは淀みない口調で先を続けた。
「また仮にが続くけど、カティみたいな目撃者もいなかったとして、昨夜みたいに奴らの仲間が血相変えて店に踏み込んで来る。鬼の形相で尋問して来た奴らに対して『殺してない』って俺が胸を張って応えたら、」
ウォッカはそこで唐突に言葉を区切った。伸ばした人差し指をイリナの前でピタリと止める。
「イリナは俺か、奴らか、どちらを信じる?」
即答出来なかった。もし仮にそうだったとしたら、今頃もっと苦悩していただろう。感覚的には勿論ウォッカを信じたい。それは今も変わらない。でも、どんなに否定してもそれを証明するものが何一つなければ信じようにも信じられない。
「そうする事も出来たんだよ。刺し殺すなんてふざけた真似さえしなければな。俺だったら間違いなくそうしてただろうな」
「あなたに罪を着せる事も出来た、そうよね?」
罪を着せると言うより、正体不明のそいつから言わせれば便乗したと言う事になるのだろうか。もう少し工夫すれば煙に巻く事も出来たはずだ。では、何故そうしなかったのか。
「可能性としてはどんな事が考えられるかしら」
「飽くまで現実的な観点だけで考えた場合、刃物で殺すのが手段として一番手っ取り早かった、そういう事かな」
急所を斬るなり突くなりすればそれで終わりだ。しかも相手はまともに抵抗する事すら出来なかった。最も簡単で、かつ安易な手段だった事は間違いない。
「でも、そういう軽はずみな理由で実行したとはとても思えないな」
イリナは軽く首を傾げながら顎を掴んだ。単純で全く工夫が凝らされていない事はよく判る。でもそれだけではないはずだ。
「人を殺すって事は人としての一線を明らかに越えた行為だからな。それが今回は一人や二人じゃない。これだけの人数を殺せるだけのものを持ってる」
「慣れてるのね、殺す事に」
十五人もの人間を躊躇う事もなく平然と殺す。少し考えただけで体の芯が何かに吸い込まれるようにして冷えた。
「慣れてるって事は精神的にも余裕があるって事だからな。慌てふためくなんて事はまずないと考えていい」
「つまり、どういう事?」
「殺す事自体にどれだけ慣れていても自分の犯行は隠そうとするのが普通だろ。俺から言わせりゃそれをわざわざ私がやりましたって宣伝してるようなもんだぜ。殺す時にしてもかなりの傷を負ってる事くらい見れば判ったはずだ。元々あった傷や怪我に紛れ込ませれば犯行そのものを俺に被せる事も出来た。それくらいの冷静さがないとおかしいんだよ」
この微妙に噛み合わない感覚は何なのだろう。何故既にあった傷を利用しようとしなかったのか。何故自分の存在を見せつけるような真似をしたのか。
「目立ちたいのか隠したいのか判らないわね」
「恥ずかしがり屋の露出狂みたいなもんか」
つまずいた訳でもないのにズッコケそうになった。どういう例えだろうか。
「何で露出したがる癖に恥ずかしがり屋なのよ」
突っ込むところが違うなと思った。例え話にしても女相手に使う言葉ではない。
「出すところは出したがる癖に顔は絶対に見せようとしないだろ」
笑うに笑えなかった。殺した事は隠そうともしない反面、本人に繋がる手掛かりは一つもない。物凄く下品な例えだけど意味合いはかなり近い。
「さてと」
ウォッカは立ち上がると廃屋の方に向かってスタスタ歩いて行く。
「ちょっと、何処行くのよ」
「取り敢えず、これ以上ここにいても得られるものもなさそうだしな」
立ち止まったウォッカは顎を上げた。僅かに肩が上下したように見えた。何をしているのだろうか。
「じゃ行くか」
「行くって、何処へ?」
被っていた帽子を人差し指の先に引っ掻けてクルクル回す。
「残った一人が何処にいるか、それを探しに行くって言ったろ?」
あ。すっかり忘れてた。ここには犯行現場の状況を確認しに来ただけだ。
ウォッカは相変わらず振り向きもせずに歩いて行く。足取りに迷いがない。待ってくれと声をかけるのも面倒だった。どうせ絶対に待ってくれない。それに、ついていく以外に選択肢は残されていない。お弁当もとても一人で食べきれる量ではない。モタモタしているうちに背中が米粒大に変わり始めていた。ま、慌てても仕方ない。姿が見えればいい。流石に完全に置いていくような真似はしないだろう。でも、女性をエスコートするような真似は絶対に出来ない。それは間違いなさそうだった。
歩き始めてからしばらく経ってもウォッカは全く振り返る事はしなかった。一定の距離を保つと言うより離れすぎると適当なところで足を止めた。そして決まって顎を上げた。涙を堪えているようにも見えるけどそうじゃない。黄昏れるにはまだ時間が早すぎる。そもそもこいつには絶対に似合わない。一体何をしているのか。
少し距離が開くとまた立ち止まって顔を上げた。横向きになった顔が後ろから見えた。よく見ると鼻先がヒクヒク動いている。歩く速さを上げた。ウォッカの隣に立つと肩に手を置く。
「やっと追い付いた」
「待っててやったろ」
嘘ではない。ただそこまで親切でない事も確かだ。
「それよりも、さっきからあなた何してるの?」
「何してるって、探してるんじゃねえか」
それくらい判ってるだろ、とでも言うように少しうんざりとした目でイリナを睨んだ。
「そうじゃなくて、」
言おうとした矢先に鼻の穴がわずかに膨らんだ。手を置いていた肩が未練の欠片も感じさせないような素っ気なさでスッと離れる。思わずズッコケそうになった。
間近で見てようやく判った。匂いを嗅いでいるのだ。でも鼻につくような気になる匂いは何も感じない。だとすると一体何の匂いなのか。
「こっちかな」
先を歩くウォッカは目の前の十字路を右に曲がった。場所を知っている訳ではない。でも全く手探り状態で歩いているのとも違う。記憶を頼りに歩いているような感覚に近い。場所は曖昧にしか覚えてないど行き方なら判る、そんな感じだ。その手掛かりになっているのが間違いなく匂いだった。
何の匂いなのか、何故それを拠り所にするのか。今それを聞いたところで応えてはくれないだろうな。そもそも手掛かりなんてものは最初からないのだ。ウォッカがそれを僅かでも得ているならそれに従う以外にない。余計な横槍は慎むのが無難だろう。そう、何れ判る事だ。
「この辺りか」
背筋を伸ばすとハッキリと音を立てて鼻から息を吸い込んだ。人気のない家の窓から顔を突っ込んで中を覗き込む。正面に回って入口のドアから中に体を滑り込ませる。入るべきか否か迷っているうちにドアが開いた。ウォッカは両手で全身を叩いている。もうもうと埃が上がった。
「ここはハズレだ。次」
「ねえ、どうしてハズレだって判るの?」
「カビと埃の匂いしかしない」
やっぱり匂いを頼りにしていた。一体どれだけ鼻が利くのか。そう言えば、一昨日初めてこの街に来た時も料理の匂いを嗅ぎ付けて店に辿り着いていた。鼻が利くどころの話ではない。しかも嗅ぎ別けられるのだから畏れ入る。犬顔負けの嗅覚だ。
ウォッカはもう一度鼻から息を吸い込んだ。
「この辺りなんだよなぁ」
もどかしそうに顔をしかめた。鼻の穴を微妙に膨らませながら軒先に顔を近付ける。中に人がいたら絶対に変質者扱いされるだろうな。
見るからに怪しい行動を取り始めてから十数分経過した頃、ウォッカの顔付きが微かに変わった。
「そこで待ってな」
それだけ言い捨ててさっさと中に入って行く。
「ちょっと待ってよ。何か判ったの?」
「さっきに比べりゃまだマシってくらいなもんだよ。でも完全にハズレとも言い切れない」
ドアに手をかけるとゆっくり引いた。すぐに入るかと思ったら、軒先に廻って窓を外から開けた。窓に積もっていた埃が舞う。開け放たれた窓とドアから交互に中を覗き込む。当たりが来たかも知れないと言うのに、どうしてすぐ中に入らないのか。
「何してるの?」
「いや、ちょっとな」
気のない感じでそれだけ言うと殊更慎重な足取りで中に入って行く。泥棒じゃあるまいし、どうしてこんなに抜き足差し足で歩く必要があるのだろう。
ウォッカが中に姿を消してからどれだけ経ったか判らない。精々一分がいいところだろう。待たされている事に早速焦れて来た。待ってろとは言われたけど入るなとは言われていない。このままここで大人しく待つのは性に合わない。
「ウォッカ、入るわよ」
返事はない。そこまで大きい声ではなかったから聞こえなかったのかも知れない。中からは物音一つ聞こえない。いや、気配すら感じない。ウォッカが入って行くところを見ていなかったらまず人がいるとは思わなかったに違いない。
これ以上断るのも馬鹿らしかった。返事が聞こえないなら文句を言われる筋合いもない。
入口から顔を覗かせた。途端に鼻がムズムズした。物凄い埃だった。慌てて鼻を詰まんで堪える。思い切りクシャミをしても問題はなかっただろうけど、どういう訳かそういう気にはなれなかった。
日差しに晒された床をよく見ると埃が層になって積もっている。そこに足跡で踏み荒らしたような痕跡があった。主はウォッカだろう。入ったのは彼しかいない。一瞬安易にそう考えてから改めて床を見た時、眉間にシワが寄った。ドアを開けた目の前の部屋はうんざりするくらい埃が積もっている。でも、ドアから廊下までは明らかに埃を押し退けたような、いや、違う。何かを引きずったような跡が残っている。ウォッカは手ぶらだった。引きずるような荷物は持っていない。そんな事は考えるまでもなかった。
埃のせいで目まで痒くなって来た。鼻と口の周りを右手で覆いながらゆっくり足を踏み入れて行く。廊下の奥の方に光源が見えた。ウォッカが中から窓を開けたに違いない。
「そこにいるの?」
返事はなかった。声がくぐもっているせいで聞き取れなかったのかも知れない。
「入るわよ」
「止めときな、飯が食えなくなるぜ」
意味が判らなかった。どうして中に入るとご飯が食べられなくなるのか。食事とどう関係があると言うのだろう。
それに、中に何があるのか単純に知りたかった。一人だけ蚊帳の外に置かれるのはごめんだ。
廊下からウォッカの背中が見えた。しゃがみ込んだまま目の前にある何かの様子を窺っている。それが何なのかは廊下からでは判らない。歩を進めるに連れ徐々に視界が拓けて行った。
床に両足が投げ出されていた。誰かが座っているのだ、こんな埃だらけの床に。黒っぽいものがかなり広範囲に渡って床を覆っていた。いや、よく見ると黒と言うより真紅に近い。黒ずんだ赤だった。もう半歩進んだ瞬間腰が砕けそうになった。
両手を後ろに組んだ姿勢で胸に剣を深々と突き立てられた男が床に座り込んでいた。半開きになった目からは全く生気が感じられない。同じように中途半端に開かれた口には唾液の名残すらない。剣は刀身の中程くらいまでが左胸の真上に突き刺さっている。自らの意思で動き出す事は絶対に有り得ない。
紛れもない、人間の死体だった。




