三日目 その弐
刻んだ野菜を鍋の中に放り込む。熱された油が跳ねる音が響くと同時に野菜に熱が通る香りが鼻先を掠めた。少し火が強かったかなとも思ったけど、いちいち調節するのも面倒だった。それに、これはお客に出すものではない。野菜にある程度熱が通ると今度は豚肉をぶちまけた。いつもより明らかに量が多いけど考えない事にした。それに、この方があいつも喜ぶだろう。塩胡椒に砂糖、味醂を加えて味を調節する。濃い味付けは好きではない。味の好みまでは把握していないけど、それはこっちに従ってもらうしかない。何より二日間ここで食事しているのだ、この店の、いやうちの味はある程度舌に馴染んでいるはずだ。手料理を振る舞ってやるんだから文句は言わせない。
「おはよう」
眠そうな目をした父がエプロンの紐を腰で結びながら言った。
「おはよう」
イリナはすぐさま視線を前に戻した。火を扱っている間は気が抜けない。危険である事は勿論だけど、この時集中するかどうかで出来栄えにかなり大きな差が出る。
「よく眠れた?」
「熟睡だった」
だったらどうして起きて来たのか。まで寝ていてもいいのに。
「あの時間に寝てよく起きられるな」
「六時間も寝れば充分よ」
睡眠時間としてはそれで充分だけど、同時に酒が抜ける最低限の時間でもあった。キッチリ起きられたと言う事はもう中には残っていない。気持ち悪くもなければ頭痛もしない。もっとも、二日酔いになった試しなんて殆どないけど。
「みんなは?」
「とっくに起きて朝御飯も済ませてる。母さんは洗濯してるし、アリスもカティも支度が済んだら出るわ」
間仕切りの下には既に巾着袋に入ったお弁当箱が二つ、行儀よく並べられている。その内の一つはいつもと比べて明らかに袋の形が違っていた。普段は一段のお弁当箱が今日は二段になっている。
「ミリアムは?」
「随分前に大急ぎで出てった。何だか朝からそわそわしてたみたいだけど」
その理由を話す気はない。父も聞いたところで誰かに話すような真似は絶対にしない。ただ本人が気にし過ぎているだけだった。ま、そんなもんだろう。
「で、イリナは何をしてるんだ?」
「何って、」
出来上がった野菜炒めを用意していたお弁当箱に盛り付ける。お弁当に入れる量にしては明らかに多過ぎるけど余る事は絶対ない。断言してもいい。むしろ足りないくらいだ。他の人ならともかく、あいつの胃袋を満たすには心許ないものがある。
「お弁当作ってるんじゃない。見れば判るでしょ」
「まあ、それはそうだが」
嘘は吐いていない。肝心な所をはぐらかしたつもりもない。それを指摘されていないだけだ。父もそこを疑問に感じているはずだ。でも疑問であるが故に聞きづらいのだろう。だから、誰の弁当なんだよ。
「私、今日一日出てるから」
「お弁当持ってお出かけか」
「その足でそのまま学校行って来る」
学生に戻ったような科白だった。
ふと思う事がある。ここがそこまで人里離れた田舎でもなく周囲の街と交流があり(これまでもない訳ではなかったけど、この街に人が来る事自体が稀だった)、学業にももっと精を出してそれなりの成績を修めていたら進学を希望していたのか、大学を目指していたのか。それはちょっとした憧れでもあり、外の世界に対する純粋な好奇心だった。ここの日常がイリナの全てであり、それ以外にはない。この外にある世界を知りそこの空気を吸っていたら、自分は一体どんな人間になっていたのだろう。仮に街の外に行けたとしても父や母がそれを許してくれただろうか。二人が承諾してくれたとしても、下の三人は……。溜め息が漏れると同時に体から力が抜けた。長々時間を使って考えるような事ではない。そして、考えたところで今が変わる訳でもない。どうしたいのか、どうしていたのかも判らない。外の世界にいる誰かに触れたら少しは答えが見えるのかも知れない。期待と言えば大袈裟に聞こえる。でもそんな思いも確かにあった。イリナの知らない、そして知りたい何かを知っていたとしたら。
焼き上げた鮭と鶏肉を一枚ずつ器に入れる。その様子を隣で眺めていた父は案の定眉を潜めた。蛋白質を取るならどちらかで充分だった。それを何故二つも入れるのか、と言ったところだろう。それを無視して蓋を閉じる。
「結構な量だな」
「そう?」
ご飯をギッシリと隙間なく詰め込みながら飽くまで平然と言った。
「酒を呑むようになったから、胃もデカくなったか」
多少膨らみはしたけど、この量がすんなり胃に入ると本気で思っているのだろうか。いちいち理由を説明するのも面倒だから黙っていた。
「しかし、何でまた急に出かける事にしたんだ?」
「今日は一日休みなんだから、」
蓋の上に薄い板を載せてから大きめの布巾で締め上げる。こうすれば蓋も簡単には開かないし転倒も防止出来る。あとはカゴに入れた後、重石になるものを上に置けば完璧だ。と言っても勿論バタバタ走るのはマズい。水平を維持してどれだけ早く走れるかが肝だ。
「好きに使うわ」
父は何も言わなかった。休みの日に何をしようが本人の自由だ。それを横からあれこれ口出しするほど父も野暮ではない。母だったら、「そう、いってらっしゃい」としか言わない。そこら辺は父より遥かに心得ている。余分に焼いておいた鮭を小さめの箱に入れて間仕切りの下に置いた。
お弁当箱を積めたカゴを持って厨房を出ようとした時、廊下を走る音が聞こえた。いい頃合いだった。
「お待たせ」
「こっちも支度は出来てるわよ」
間仕切りに置かれていた巾着袋と今しがた鮭を入れた箱を差し出した。アリスは手に持っていた布袋をその隣に置く。いかにも重そうな音がした。
「頼まれてすぐ用意出来るなんてあなたらしくないわね」
「それは勉強の類でしょ。これは別よ」
皮肉を意に介する様子もなく鮭を受け取る。
「でも悪いわね、一品作ってもらっちゃって」
「いいのよ。別についでだし、それはカティも変わらないみたいだから」
アリスは巾着袋を開けて増えた一品を上に載せる。隣に置かれているカティの巾着袋を盗み見た。
「どうしてカティのおかずも多いのかしら」
肩を竦めたまま首を捻りながらも、内心ではある程度予想はついていた。悪く言えば口止め料、良く言えば黙ってくれたお礼と言ったところだろう。もっともカティはそういう秘密を誰かに漏らすような真似は絶対にしないから、別にここまでする必要もないかなとは思うけど。或いは、黙っていてくれる事へ単純に感謝しているだけかも知れない。
「それにしてもさ、」
持ち上げた布袋を差し出しながらアリスは言った。
「どうしてこんな物騒なものが必要なのよ」
「必ずしもいるって訳じゃない。ただ何かあった時に身を守るものがなかったら困るでしょ」
「お弁当提げて出かけるって、一般的には凄く平和的な感じがするけど」
「そうね」
「どうしてそんな平和的な場に護身用の武器が必要になるのよ」
珍しくまともな指摘だった。普段積極的に頭を使わなくても得意分野になると途端に目を覚ますようだ。やっぱり脳筋系だな、間違いなく。
「今ここは充分物騒な状態だと思うけど。女が出歩くなら身を護るものの一つくらい持ってもいいんじゃない?」
「ま、それはそうだけど……」
況してや女の身だ、警戒しない方が不自然だろう。昨日のカティの猪突猛進振りを思い返すと頭が痛くなる。剣術や格闘技をたしなんでいるなら、踏み込んではいけない一線は朧気ながらにでも見えてくるものだ。
「いつまでも油売っていられる程暇じゃないでしょ?」
「はいはい、おっしゃる通りでございますよ」
説教はごめんとばかりに首を竦めるとアリスは巾着袋を持って厨房を出た。体よく追っ払うにはこれが一番手っ取り早い。
「昼過ぎにはそっちに行くようにするから。みんなにはよろしく伝えといてね」
「イリナ姉が来るって聞いただけで竦み上がるんじゃないの?」
悪戯っぽく笑っているが否定は出来ない。現役時代はそこまでシゴいた訳でもないのに、いつの間にかそんな印象が浸透していた。別に尊敬しろなんて言わないけど、男子部員が泣いて逃げ出す事もあったくらいだから敬遠もされるか。少なくとも歓迎される道理はない。
「私は素手でやるけど、イリナ姉はどうするの?」
「勿論剣よ」
木剣だけど、殺傷能力は充分にある。必然的に打ち込むところも限られる。間違っても首から上は狙えない。
「体温めて待ってるから」
「ええ、そうして」
軽く手を振ると、アリスは後ろも見ずに駆け出した。見ていたらこっちも体がウズウズして来た。朝に走る時間を作ってみようかな。
「あれ? アリスは?」
「たった今出たわよ」
巾着袋を手に取ったカティはちょっとだけ頬を膨らませた。
「待っててくれてもいいのに」
「どうせすぐ引き離されちゃうんだから変わらないじゃない」
今度は眉間にシワを寄せた。図星だけに言い返せない悔しさとそれをいちいち指摘する意地の悪さに抗議する顔だった。
「今日は忘れないようにね」
カティは黙って巾着袋を鞄の中に水平に置いた。
「昼には学校来るんでしょ? 忘れたらその時届けてよ」
嫌味に対して皮肉で応じるくらいの根性がある事に少し安心した。打たれてすぐへこたれるようではこちらも困る。何より本人のためにもならない。
「ところで、」
カティは足を止めてこちらを見た。
「昨日の空地に行く、そう言ってたのよね」
「うん」
嫌味を言われた後なのに何の抵抗もなく頷いてくれる素直さが好きだった。ミリアムやアリスではこうは行かない。
「何をしに行くのかしら?」
「さあ。そこまでは聞いてないから」
何の理由があって時間を割いてまでそんな所に向かうのか。それが気に掛かった。
「気になるの?」
「退屈しないのよ、あいつといると」
気になる、とは言えなかった。イリナもカティの爪の垢を煎じて飲むべきかも知れない。でも、気になるとは言ってもそれは飽くまであいつの行動だ。それ以外はない、断じて。
「ま、いいか」
「本人に聞けば済むしね」
見事な切り返しだった。返答に詰まる。横目で窺うとしてやったりと言う顔で笑った。本当にしてやられた。少し悔しい。
カゴとアリスが持って来た布袋を持って厨房を出た。布袋から取り出したものを腕に着ける。ズッシリと重い。その上から長袖のジャケットを羽織る。
「暑くない?」
「少しね」
薄手のものを選んではいるけど、重なるせいでどうしても熱を帯びる。特に腕の周りはそれが顕著だった。
「それ、ないとまずいの?」
「備えあれば憂いなし、って言うでしょ」
何が起こるか判らない。ならば何が起きても対処出来るようにしておけばいい。でもこれで何もなかったら単なる取り越し苦労だけど、昨日の一件を考えると下手に気は抜くような真似は出来ない。
「じゃ、勉強頑張りなさい」
昔散々言われた科白だった。それを今こうして誰かに言っている。ちょっとした優越感に浸れる瞬間だった。
「いいなあ、卒業してる人は」
羨むと言うより妬ましそうな目で睨まれた。でも痛くも痒くもない。
「勉強があなたの義務なんだから、精を出すのは当然でしょ」
こういう時は決まって正論しか言わない。最近になって気付いた事だ。敢えて誤りを口にする理由もないからだ。
こうして少しずつ子供の頃の記憶をなくして行くのかな。それが大人になる事と同類項ならやっぱり寂しい。
カティは渋々と言った表情で鞄を背負うと店を出て行く。さて、こちらも長々油を売っている暇はない。カゴもズッシリと重い。今の状態だと余計にそう感じる。これで落ち合えなかったら完全な無駄骨になってしまう。それだけは絶対に避けたかった。昨日の今日だから道を忘れるような事はまずないだろう。地の利を活かすのは選択として賢明ではない。あるとすれば一つだけだった。
胸の前に持って来たカゴを両手で抱える。そのまま砂煙を巻き上げて走り始めた。急いでも仕方がない事は重々承知している。でも一刻も早く知りたかった。あいつと一緒にいると退屈しない。代わりにかなり危険ではあるかも知れないけど。その危険を楽しむつもりは更々ない。ただ、退屈はしない。それは間違いなかった。
脇目も振らずに走り続けてどれくらい経ったのか。学校を卒業したせいで朝に走る習慣がなくなってからしばらく経ったけど、そう簡単に衰えるものでもないようだ。多少息が上がった程度で体は全く問題なく動く。息苦しさも感じない。ペースを上げても充分に耐えられる。全く、我ながら大した持久力だ。顔を上げた時、やたら広い背中が見えた。声をかけようとしたけど、息が乱れていて咄嗟に声が出なかった。もっとも、その必要もなかった。
件の男が振り向いた。驚いたように目を丸めて頭を掻いていた。




