二日目 その十伍
「で、経過は?」
空だったグラスに酒を注ぐと、ダイスは席に座るよう促した。人畜無害な笑顔だった。だがこいつはこの顔で実に楽しそうに人を殺す。それをよく知っている人間にはとても歓迎出来るような代物ではない。とは言っても、直接手は下さなかった事も含め、ロイドもこれまで何人もの人間を手にかけて来た。ま、五十歩百歩か。もっとも、こいつのように穏やかに笑いながら首を切り落とすような真似は流石にしないが。
「何処まで把握してますか?」
「始末しそこねたところまでだ。返り討ちか」
「ほぼ全員が戦力としても人間としても使い物になりません」
椅子に腰を下ろすとグラスの酒で舌を湿した。
「向かわせたのは何人だ?」
「十六です。その内十五人が完全にくたばりました」
「一人は生きてるのか」
ダイスはうんざりとしたように溜め息を吐くと首を左右に振った。
「消えました。忽然と」
「消えた? 何処に?」
「目下捜索中ですが今のところ手がかりは出てません。文字通り、煙のように消えたとしか」
人が煙のように姿を消せれば完全犯罪目白押しだ。そんな事くらいはこいつも充分に理解している。だが今の状況を見る限りではそう言いたくなるのも道理だった。
「現場に転がってた死体は十五体。戦闘中に恐れをなして逃走した可能性も考えられなくはない」
ただ、その場合どうしても解消されない疑問が一つ浮上する。
「じゃ、そいつはこっちに報告もせず何処をほっつき歩いてんだ?」
体を横に向けて足を組んでいたダイスは横目でチラリとこちらを見た。肩を竦めるとやっぱり溜め息を吐いた。知っていたらとうの昔に報告している。今はその手がかりすらないのだ。
「捜索には何人くらい当たってる?」
「見張り以外は。何の痕跡も出てきてませんが」
街の住民の逃亡を防ぐためにも見張りはこれ以上減らせない。許せる範囲内で最大限の人数は割いている。それでも当たるどころか掠りもしない。人がいた痕跡を消す事は口で言うほど容易ではない。それにも関わらず、だ。
「ダイスは今の状況をどう見る?」
「差し向けた刺客の大多数を始末されて、残った一人が行方不明になり手がかりすら杳として掴めない」
「懇切丁寧な解説、痛み入るな」
組んでいた足を解くとこちらに向き直った。ほぼ空に近いグラスに酒を継ぎ足す。
「昨日ここに来た旅人が相応な、いや相当の実力を備えている事は間違いないですね。少なくとも十五人を相手にして無傷でねじ伏せるだけの技術と経験がある」
「どうして無傷だと判る?」
「さっき宿屋に向かわせた奴らから吐かせました」
「吐かせた?」
眉間にシワが酔った。何故吐かせる必要があるのか判らない。
「呑み比べをしていたようでね。よくまあ、あの状態で帰って来られたもんだ」
ハハハ、と軽い声で笑った。あからさまに軽蔑した笑い方だった。
「話を聞くにも聞けないような状態だったんで、取り敢えず全員腹に一発くれてやったら綺麗に吐きましたよ」
反射的に軽い吐き気を覚えた。グラスが口から離れる。
「で、話を聞いてみたら傷を負っているような様子は微塵もなかったと。隠していた可能性もなくはないですが、そうまでして隠す必要もないし隠さなければならないほどの怪我を負っている奴が呑み比べで十人も潰せるとは思えませんしね」
怪我をしたらまず酒は呑むべきではない。軽く引っ掛ける程度ならまだ話は判るが、呑み比べで人を潰せる量となるとグラスの一杯や二杯では済まない。実際の状態は不明だがほぼ無傷と考えた方が無難だ。希望的観測に縋るべきではない。
「他にも悪い情報が」
「そういう事は先に言え」
思わず渋面になった。情報を余す事なく報告してくれるのは有り難いが、内容によって伝える順序に工夫が欲しいところだ。あまり心臓によろしくない。
「襲撃する前、武器を鍛冶屋に預けてたようなんですよ」
言葉の意味が頭に浸透するまでしばらくかかった。理解すると同時に僅かに平衡感覚がなくなった。フラつく頭を右手で支える。
「じゃ、何か。奴は素手で十五人を相手にしたって事か」
「そうなりますね」
特別これと言って緊迫したような様子はない。すぐに動揺を表に出すのもそれはそれで困るが。
「何処にいるかも判らない輩より余程厄介じゃないですか?」
確かに、認識を改めるべきかも知れない。何処の誰かも判らない奴の陰に怯えるよりも、今目の前にいる敵を警戒する方が現実的な事は間違いない。
「勝算は?」
「何とも言い難いですね。強い事は間違いないでしょうが、そいつが闘ってるところを見た訳でもないし、情報が少なすぎる」
明言しない辺りにこの男のしたたかさを感じる。だがこの段階でこちらが知り得た情報は本当に極僅かだ。ロイドは勿論、誰一人として臨戦態勢の件の男を見た者はいない。全てが未知数だ。
「ただ、勝負ってのは向き合った瞬間に初めて始まるもんじゃない。今この時からもう始まってる、そう考えるべきですよ」
「どういう意味だ?」
腕を組んだまま睨み付けるように見てもビビった気配はない。むしろそれを歓迎するかのように笑っている。
「たとえどれだけ力があろうとそれを発揮出来なければただの木偶の坊同然です。そういう状態に仕立て上げればいい」
「出来るのか?」
「クサい飯は食いたくない。お互いそういう立場にあるはずですよね?」
やらなければ必然的にそうなる。クサい飯どころか、首に縄をかけられて吊るされるか一思いに切り落とされるか、可能性の高い方は明らかにこちらだった。やるしかないのだ。それ以外に選択肢は残されていない。
「手は打ってあります」
「仕事が速いな」
果報は寝ているだけではまず得られない。望む結果に対する行動がなければ絶対に実現しない。
「退屈ってのが苦手なんですよ」
満更冗談と言う訳でもなさそうだった。退屈な平和よりも命を天秤にかけるスリルを味わう方が性に合う、そういう変わり種も稀にいる。一歩間違えれば死は免れない、そういう状況に身を置く事に生き甲斐を見出だす、そんな輩だ。やるなら一人の時にしてもらいたいが状況がそれを許さない。一蓮托生なのだ、俺もこいつも。
「あと一つ、不可解な事が」
顔をしかめる代わりにグラスの酒を一気に空けた。禍福はあざなう縄の如しと言うが、絶対にいい情報ではない。この流れなら勘も何も関係ない。坂道を転げ落ちるようなものだ。
「今度は何だ」
「死んだ十五人ですが、傷が二種類ありましてね」
「二種類?」
「一つは打撲傷。殴られるか蹴られるかして傷を負ってました。大多数の奴は骨折ですね。でも致命傷ではなかった。急所は外れてましたから」
それでも戦闘不能にするくらいの重傷は負わせている。そうでなければ素手で武器を携帯した兵士を撃退出来るだけの道理がない。
「いくつか死体を検分してみたんですが、どれも死体に剣による刺し傷か切り傷があった。致命傷はそれでした」
「何が言いたい?」
眉根を寄せたロイドに、ダイスは臆す事もなく極自然に言った。
「打撲傷及び骨折をさせた相手と止めを差した相手、これは別人と考える方が自然ですね」
反射的に出そうになった反発の言葉は喉の奥で無理矢理潰されて消えた。明らかに不可解だった。
「同一犯の仕業ならば、何故最初から殺しにかからなかったのか」
「殺す武器を持っていなかったからだろ」
「武器がなくても殺せるだけの技量は確実にあった、それを出し惜しみする理由は?」
痛めつけた奴と殺した奴が別ならば二種類の異なる傷がある事も素直に頷ける。
「宿屋に向かわせたのはそれをハッキリさせるためだったんですがね」
「で、首尾は?」
ダイスは当然のように首を横に振る。返す言葉に詰まった。
「痛めつけた奴と殺した奴は別、その裏が取れただけですよ」
証言だけですが。でも信憑性も説得力もある。本人からしてみれば単に身の潔白を訴えただけに過ぎないのだろう。そこに疑念を挟む余地は残されていない。殺せるだけのものを確実に持っているなら、ロイドもそんな回りくどい真似はしない。殺す事が決まっているなら尚更だ。
「じゃ、一体誰が殺したんだ?」
半分空になっていたグラスにダイスは酒を継ぎ足した。喉を潤しただけで言葉を継ぐ事はしない。
打撲や骨折の他に致命傷となった剣に依る切り傷や刺し傷、複数の傷が混在する理由の一旦は見えたがそれが不可解さを助長している事も確かだった。
「何故斬り殺したのか、そこが疑問だな」
「同感です」
即座に頷いたダイスに内心ホッとするものを感じた。その方が話も早い。
「殺したのは当然奴が痛めつけた後だろうが」
「動けないところを、」
握った剣を思い切り突き刺すように拳をテーブルに軽く叩きつける。
「スネの骨が折れて飛び出すとか肋が何本か粉々になるとか、それ以外には鼻骨が完全に陥没してたり顎の骨が粉末になってたり、そんなのばかりでしたからね。まともに動く事なんてまず無理です」
身動き出来ない状態の相手ならば殺す事など造作もない。その気になればそこいらにいる餓鬼にでも出来る。度胸があれば、の話だが。
「単に殺す事が目的なら刃物を使う必要なんて何処にもない。身動きはおろかロクに抵抗も出来ない状態だったんだからな」
むしろ武器を使わずに殺した方が好都合だったはずだ。目の前にいるこいつならまず間違いなくそうしている。
「そのまま撲殺するとか絞め殺せば余計な痕跡を残さずに殺す事も出来た。それどころか痛めつけただけの奴に罪を着せる事だって出来たはずだ。何故そうしなかったのか」
「まずそれが一つ」
ダイスは握り拳を解いて人差し指を真っ直ぐ立てた。
「もう一つは無駄な痕跡を敢えて残す必要が何処にあったのか。人を殺した事なんて普通は真っ先に隠そうとするものなのに」
故意であれ事故であれ、人を殺してしまったら大っぴらに表に晒すよりもまず隠そうとするはずだ。まるで周囲に殺した事を殊更印象づけようとしているようにしか思えない。
「酷く不自然ですね。いや、作為的と言った方がいいか」
放った刺客の大半はあからさまに不自然な痕跡を残して死体になり、一緒にいたはずの一人は煙のように忽然と姿を消した。偶然ではないはずだ。少なくとも、この二件に関しては旅の男は一切関与していない。得体の知れない誰かが某かの目的を持ってやった事なのだろうが、だとしたらその目的とは一体何なのか。材料、いや情報が少なすぎて考えがまとまらない。正体も目的も全く不明な輩がこの街に紛れ込んでいるのは間違いなさそうだった。
「殺したのは誰なのか」
「それだけじゃない。誰が拐ったのか」
何かが起こる度に不可解な疑問ばかりが増えて行く。そしてそれは一向に解消されない。飲み過ぎた酒が胃や腸に居座り続けるように体を少しずつ蝕んで行く。
「その二つが同一犯と考えるのは流石に短絡的過ぎるか」
「案外そうとも言い切れないんじゃないですかね」
否定されなかった事に安堵すべきか単純過ぎる発想を笑うべきか真剣に迷った。
「少なくとも、その二件に関してはこの街の人間はまず関わってない」
「断言出来るだけの根拠は何処にある」
切り返される事を見越していたのか、ダイスは殊更穏やかに、いや不敵に笑った。
「十五人が戦闘不能になった場所、まあ犯行現場に偶々、本当に偶々出くわした奴がいたとしましょう。武器も至るところに転がっていたでしょうから殺す事も物理的にも不可能じゃない。でも、その瞬間すら誰かに目撃される恐れだって充分にある。そんな危険を進んで冒す輩がこの街にいますかね」
たとえ誰にも見られていなくても、その確信があったとしても容易に行動に移せるものではない。人を殺すと言う行為(ロイドやダイスには作業に過ぎないが)はそれほど日常からかけ離れた所にある。それが一人二人ではない、十五人だ。物理的にそれが可能であっても心理的にはまず不可能だろう。人質が取られていたらまず動く事も出来ない。そうでなくても、自分の不用意な行動で誰かが傷つけられるような事があったら。人質と言う心理的な足枷がある限り軽はずみな真似は絶対に取れない。
そういう制約を一切受けない人間がいるとすれば、それは一人しかいない。もっとも話題に上っているだけで見た事もないが。それもいるかも知れないと言った程度で存在を裏付ける証拠の一つもない。全て状況から推測して導き出された可能性の一つでしかない上に、その可能性の枠から出る事すら出来ていない。だが、それもようやく真実味を帯びて来たと考えるべきかも知れない。
「昨日見張りを殺した侵入者、それが今日の一件の実行犯だとしたら」
「飽くまで可能性があると言う程度にしかならないでしょうが、それでも安易に否定は出来ないですね」
「だとしたら、さっきの認識は改めた方が良さそうだな」
第三者が今の会話を聞いたとしたら、説明出来ない理由を正体不明の何かに押し付けているようにしか見えないだろう。だが、人一人を誰にも目撃されずに殺しこの街に忍び込んだ輩がいる事は間違いないのだ。下手人がそいつだとすれば殺された事の説明はつく。
「既にのされた奴に止めを刺すだけなら誰にでも出来る。ただ、それが昨日の侵入者と同一だとしたら話は別ですか」
ダイスは珍しく顔をしかめてガリガリと頭を掻いた。
「不満そうだな」
「旅の男と侵入者を天秤にかけた場合、どっちに傾くかなと思いましてね」
その傾く方に重きを置きたいのだろう。だがこの男ならそれがどちらかではなく両方である事くらいすぐに判るはずだ。
「得られる情報がいくらかあれば多少違うんでしょうが」
「ま、難しいだろうな」
かたや偶々来ただけの男、後者に至ってはその存在すら曖昧だ。情報はおろかそれを得る手掛かりさえない。
「侵入者も相応の技量がある事は確かでしょうけど、それがどの程度のものかははっきりしませんからね」
「警戒するに越した事はない。備えあれば憂いなしだ」
「おっしゃる通りで」
投げ遣りに、それでも笑いながら肩を竦める。
「これ、呑みます?」
椅子から立ち上がったダイスは酒瓶を指差した。首を横に振るとグラスと一緒に瓶を持って部屋を出ていく。
「取り敢えず、手っ取り早く出来そうな事から始めますよ」
「具体的に何をする?」
「消えた男を探します。恐らく、既に始末されてるでしょうが」
そいつが殺される理由が見つからない。だが、生きているとは到底思えない。話せる状態で見つかればいいがその望みは限り無く薄い。
「いい報告、期待してるぜ」
「それ、現状で一番難しい要求ですよ」
それでも安易に否定するような真似はしない。結果がある程度見えていても最善は尽くす。そして必要とあらば自ら動く事も厭わない。そんなところが一目置かれる所以なのだろう。それ以上に恐れられているが。足音が部屋から遠ざかって行く。それが完全に消えると耳が痛くなるような沈黙が辺りを満たした。
グラスに中途半端に残っていた酒を一気に飲み干した。軽く噎せた後、唇の端から僅かに垂れた唾液を手の甲で拭う。ここに来る前からある程度酒は入っていたが、それでも酔う兆しは全くなかった。むしろ目が冴えるばかりだ。このまま横になっても眠れないだろう。酒を持って行かれた事を少しだけ後悔した。新しいものを用意する手間を惜しむほど疲れてはいないが、億劫である事に代わりはなかった。
二兎を同時に追うのはかなり骨が折れそうだ。仕留めやすい方すら仕留め切れず、逆にこちらが傷を負う羽目になった。日を追う毎に重なり続ける厄介事に嫌気が差し始めている事も確かだった。せめてそのどちらかを確実に排除する。そう、やるべき事はもう決まっているのだ。グラスを握って席を立った。取り敢えず、まだ酒は必要だ。
意識が飛びそうになった瞬間、鼻っ柱に硬い何かが音を立ててめり込んだ。既に潰れている鼻の奥から沸騰したような血が溢れ出て来る。
「まだ話の途中だ。勝手に寝るなよ」
胸倉ではなく首を掴んで締め上げる。頷く事はおろか、呼吸すら出来ない。ゴミでも捨てるように壁に投げつける。こいつにしてみればゴミ同然なのだろう。
最初はどうしてここにいるのか判らなかった。目が覚めた時には身動きが取れない状態で床に転がされていた。仲間と一緒に旅の男を追っていた。それがどうしてこんな所にいるのか。この時になって初めて拉致された事に思い至った。何故こんな事になったのか。そもそも拉致されなければならない理由が見当たらない。
「質問に答えればいい」
顔を上げると見知らぬ男がいた。床に腰を下ろして壁に背中を預けている。立ち姿ではないから実際の体格は判らないが、それでもかなり大柄なのは明らかだった。腕も脚も太く引き締まっている。男にしては全体的にやや髪が長めだが、洒落っ気を出そうとして伸ばしている訳ではない。単に無精で伸びているだけだ。
「ふざけんな! 早くこの縄を解け!」
要求自体は非常に単純だった。だがそれに応じるか否かは別だ。
男が立ち上がった。やはり相当デカい。一歩ずつ歩み寄って来る。垂れた前髪の隙間から乾いた目が見下ろしていた。それだけで相当威圧感がある。目の前でしゃがみ込んだ。黒目が小さい。でも断じて人として魅力を覚えるような代物ではない。背筋から冷や汗が垂れた。
顔面の真ん中に拳が突き刺さった。鼻骨が砕け、前歯が折れた。首根っこを掴まれて無理矢理立たされた。がら空きの腹に拳が叩き込まれた。痛み云々ではなく、強制的に呼吸が止められた。肺に酸素が戻った直後、凄まじい苦痛が胴から全身にかけて拡散していく。間髪入れずに拳や膝で顔と言わず腹と言わず身体中を打ちのめされた。容赦など欠片もない。
「さっきも言ったよな」
胸倉を掴んだまま無理矢理引っ張り上げられた。
「質問に答えろ」
左の拳が深々と腹にめり込んだ。膝から崩れ落ちるとそのまま前のめりに倒れた。顔から床に叩き付けられる。後ろ手に縛られているせいで受け身も取れない。
さっきからそれが際限なく繰り返されている。何発殴られたのか、どれだけ時間が経ったのかも判らない。
「地下牢の入口は砦に入って左」
何も言わずに頷く。同じ質問を既に受けているがそれを指摘したところで殴られるのが関の山だ。
「見張りは?」
「二人」
知らないから聞いているのではない。確認だ。でも、どうしてそんな事を知る必要があるのか。まさかこいつ自らが砦に忍び込むとも思えない。
「牢屋は常に誰かが見張りについている、間違いないな」
頷く事くらいしか出来ない。やる気力もない。他の場所とは違い、牢屋前は必ず誰かを立たせていた。誰かに忍び込まれたとしても、人質さえ確保していれば手出しは出来なくなる。裏を返せばそこを越えられたらこちらが危うくなる。
「砦の外は城門前に二人と四方の見張り台に一人ずつ」
最初は少し少ないようにも感じたが、今はむしろ多いと思う。外よりも中を固めた方が戦略としては優れていると思うのだが、敢えて口にしようとも思わなかった。
「お前らの人数は?」
「五十だ」
だが昨日二人潰されている。残った連中が無事始末してくれていればいいのだが。そちらを気にかける必要もないか。それだけいて負ける道理がない。今は人の心配よりも自分の心配だ。
「俺が知ってる事はもう殆ど話した。あんたの事も誰にも話さない。だから、」
「だから何だ? 助けて欲しいとでも言うのか?」
それ以外何があるのか。
「確かに、お前を殺す理由もないか」
顔が思わず綻んだ。まだ希望は捨てるべきではない。一瞬でもそんな事を考えたのが誤りだった。敵の手に墜ちた時点で今後の行く末はほぼ決まっている。そこから必死に目を背けようとしている事にすら気付いていなかった。
「ただ、お前を生かすだけの理由もない」
男は薄く笑った。酷薄な笑みだった。一瞬で背筋が凍り付く。
「生かしておくくらいなら殺す。その方が八方丸く収まる」
どういう理屈だろうか。意味が判らない。胸倉を掴まれた。冷静に考える暇もない。顔のど真ん中に拳が叩き付けられた。それが杭を打ち込むように事務的に淡々と繰り返される。機械的な雰囲気すら漂っている。痛がろうが苦しもうが全く意に介さない。痛そう、可哀想なんて事は当然考えない。満足にゾッとする事も出来なかった。痛みの強度が臨界点を越える頃になってようやく拳の動きが止まった。骨は粗方砕け、裂けた皮膚の隙間や潰れた鼻、歯の折れた口から血が溢れ出ている。その感覚が夢なのか現実なのかも判らない。死ぬ事の意味も助かる必要すらも感じない。混濁した意識の中でそんな事を考えていた。
「あんな男に仕えた時点で、お前がこうなる事は決まってたんだ」
諦めな。頭の上の方から微かにそんな声が聞こえた。それが一体誰の事なのかも判らない。
そもそも、明かりを灯した空間でどうしてこれだけ派手な事が出来るのか。こちらもそこまで馬鹿ではない、夜の闇の中に光源があれば馬鹿でも気付く。絶対に見つからない自信があるのか、或いはこの場に踏み込まれても対処出来るだけのものを持っているのか。何れにしてもこの男には大した問題にはならない。蚊に刺される程度のものなのだろう。
脇腹に鈍く、そして重い衝撃を感じた。胃液が音を立てて溢れ出る。間髪入れずに鳩尾に爪先が突き刺さった。熱を伴った血液が口から滲み、尾を引いて床に落ちる。
「もう、止めてくれ……」
恐怖と涙で視界が歪む。
「頼む、助け……」
胸を蹴られて背中から壁に叩き付けられた。息が完全に止まる。そのまま床に倒れ込んだ。気道に空気が戻った瞬間、激しく噎せ返る。血の混じった唾液が頬にまとわりつく。それを拭う事も出来ない。
男がゆっくりとこちらに近付いて来た。溢れた涙が頬を濡らした。首を激しく横に振る。男は薄っすらと笑った。
声にならない絶叫が狭い室内に響き渡った。




