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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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二日目 その十四

 グラスを握ろうとしていた指先が微妙に戦慄いたかと思うと、そのまま綺麗に真後ろに引っくり返った。残った仲間(と言っても二人しかいないけど)が頬を叩いたり顔に水をかけたりしているけど無駄だった。完全に意識が飛んでいる。水は顔にかけるより飲ませた方がいいんじゃないかな、と思う。

「ったく情けねぇなあ」

 退きな。ウォッカは介抱していた兵士二人を腕で押し退けた。

「イリナ、水」

「はいはい」

 この数十分間で何度繰り返されたやり取りだろう。潰れる度にウォッカが水を飲ませて胃の中の酒を吐かせる。自分で潰した相手を一人ひとりこうして介抱しているのだから、見掛けに依らず律儀だった。放置しておいて寝ゲロを吐かれても困るし、こうしてくれた方が助かる事に変わりはない。ウォッカはだらしなく半開きになった男の口に漏斗を突っ込んで水を飲ませていた。その間にグラスの酒を呑む事も忘れない。

「まだやるのかい?」

 イリナはお盆を胸の前に抱えたままスイングドアから顔を出してバルコニーを覗く。潰れた男達がさながら屍のように転がっている。こいつら全てをウォッカが潰したかと思うと心底ゾッとする。そしてまだ普通に呑める事に背筋が寒くなった。こいつらを全員潰した後も当たり前のように食事を続けるのだろう。そう言えば、今日は昨日と比べると食べる量が少ない気がする。成り行きとは言え呑み比べをする事になったから、食べる事より呑む事に重きを置いたのかも知れない。

 さっきまで十人いた暑苦しい連中が今は二人だけになっていた。一応呑んだ数は数えてはいるけど、あまり意味はなさそうだった。呑み比べと言うよりも潰し合いと言った方がいい。カウンターの隅に立っていた男が意を決したように真っ直ぐに唇を結んで一歩前に出た。大した度胸だ。

「イリナ、グラス」

 返事をするのも面倒だった。洗ったばかりのグラスを男の前に置いた。間を開けずにウォッカが酒を注ぐ。

「じゃ、乾杯」

 これも今日で何度目の乾杯だろうか。独特の刺激臭を伴う琥珀色の液体を喉の奥に流し込む。息は酒臭いが当人は未だに酔った様子がない。体にしても内臓にしても、一体どういう構造をしているのだろうか。

「ここまで付き合わせて手ぶらで帰すのも悪いし、少しくらいならそっちの質問に応えてやろうか」

 隣でグラスに唇をつけようとしていた男は一瞬ギョッとするように目を見開いた。すぐ後ろに控えていた大将格と思しき男は飽くまで泰然とした態度で頷いた。動揺を必死に隠そうとし過ぎていて逆に不自然だった。負けは明白なのに、どうしてここまで見栄を張るのか。面子に拘るのか。

「どうすんだよ? さっさと応えねぇとこっちの気が変わっちまうぜ」

「昼間、ウチの兵士を殺したのはお前か?」

 大将格が半歩前に身を乗り出した。

「やっぱそれじゃ口が寂しいだろ」

 洗ったばかりのグラスをカウンター越しにウォッカに手渡した。

「気が利くじゃん」

 どういう顔をすべきか迷った。こいつの考えそうな事は大体判る。まだ二日しか経ってないのに。

「まぁ座れよ」

 どちらが年嵩か判らない。見た目はともかくとして実年齢は相手が確実に上だろうけど、風格は明らかにウォッカが勝っている。大将は不承不承と言った態度で椅子に座った。グラスを握る事はせず、カウンターに肘を突いた姿勢でウォッカを睨み付けた。当の本人は全く意に介さずグラスに次の酒を継ぎ足している。

「お前らは俺が殺したと思ってるんだろ?」

「殺したかどうかまでは知らん。ただ今の段階ではその可能性が一番高いのはお前だろう」

 ウォッカが奴らと相対した事は事実だ。可能性の根拠がそこにある事は疑い無い。

「犯行現場は?」

「街外れの空き地だ。廃屋が建ち並んでる一角だ」

「で、死体には何れも急所に刀傷があった、と」

 大将格の兵士はグラスの残りを一気に煽った。空になったグラスを乱暴にカウンターに置く。

「首を切り落とされたのもあった。殺すにしても手段は選べよ」

「選んでたらそんな殺し方なんかまずしねえよ」

 まず見た目が凄惨だし大量の血が出れば返り血を浴びる危険性も高まる。殺していなくても血塗れで街中を彷徨いていれば疑われるのは必至だ。イリナだったら絶対に避ける。選択の余地すらない。

「ご指摘の通りお前らのお仲間に接触した事は確かだ。それにこっちは事前に警告もしたし、それを承知の上で斬りかかって来たのはあいつらだからな、それで正当防衛が成立しなかったら抵抗すら出来ない事になる」

 兵士二人は喉元に刃物を突き付けられたように押し黙った。返す言葉がないと言うより、ぐうの音も出ないのだろう。

「俺がここでお前らの胸ぐら掴んで拳を振り上げたら腰に差してる奴に手をかける事くらいはするだろ。身の危険を感じたら抜かないなんて事はまずない。そういうもんなんじゃないのか?」

 正当防衛なんて大層な代物じゃない。命に関わらなくても危ないと感じれば自然とそれを避けるための行動を取る。生存本能、いやただの防衛本能だ。人である以上、それは否定出来ないはずだ。

「だから俺がやったのはそこまでだ。それ以上の事は知らねえよ。死なない程度に手加減もしたし」

「それではいそうですかと引っ込んでるくらいなら、最初からこんな所に来ちゃいねえよ」

 ガキの使いじゃねぇんだ。顔を歪めて毒づいた。普段だったらウザいだけだけど、醜態を晒しまくった後だけに今はそれが殊更滑稽に見えた。

「昨日も一人死体で見つかった。お前が来てから街全体が狂い始めてるんだよ」

 狂い始めてるも何も、お前らが既に狂ってるんだよ。真顔で言える辺り本気なのだろう。やっぱり絶対狂ってる。そもそも他人様の家に土足で上がり込むような真似をしておいてよくこんな事が言えるものだ。ここには最初からお前らの居場所なんかない。

「何か、我が身に起きた不幸の全てを他人に転嫁するお馬鹿さんみたいだなあ」

 嘲ると言うよりも憐れむような口調だった。ウォッカが兵隊と接触した事も、ほぼ無傷で撃退した事も確かだけど、武器を持っていなかったウォッカに奴らを刺し殺す、或いは斬り殺す事はは不可能だ。仮に叩きのめした後にやろうとしても、カティという証人がいる。その足で真っ直ぐここに帰って来て、それからは一歩もここを出ていない。本人だけでなく周囲からも情報を集めれば事実の輪郭も朧気ながらに浮かんで来るのにそれすらしない。溜め息が出そうになった。

 まだたっぷり中身の残っている酒瓶を手に取ると空のグラスに並々と注ぐ。自分だけでなく、兵士二人のグラスも嫌味のように縁のギリギリまで入れた。

「大変だな、お前らも」

 グラスの底の辺りをコツンとぶつけた。兵士二人の目付きが一層厳しくなった。誰のせいだと思ってるんだ、と言ったところだろうか。お前らのせいだろ、と突っ込みたくなった。今のウォッカの言葉も嫌味にしか聞こえない。

「ま、呑めよ」

 早速グラスに口をつけている。元々待つ気もなかったのだろう。呑みながらカウンターに置かれた料理を二人に勧めている。気が利くのか気遣いがないのか判らない。

 スイングドアが開く音がした。店の中に風が吹き込む。

「何だよ、こんな時間からこんなに潰れるなんて随分品のねぇ呑み方してやがるなあ」

 条件反射で出そうになった挨拶が喉元で急速に萎む。

「あら、師匠。お久し振りで」

「先月まで普通に学校で会ってただろうが」

 何処が久し振りだ。師匠は仏頂面を隠す事もなくふんぞり返るような感じでウォッカの隣に座った。

「待ってましたよ」

「待ってましたはいいけど、こりゃ一体全体何の騒ぎだ?」

 目の前に置かれたグラスに早速酒を注ぐ。

「説明してあげたら?」

 ウォッカは面倒臭そうに顔をしかめた。

「何処から話せばいいかな」

「最初からでしょ」

「ま、簡単に言えば自分達が勝手に喧嘩を吹っ掛けて来ておいて、負けた責任と言うか俺が全員片付けた奴らが全員くたばってたらしいんですが、その原因全てを俺に求めていると言うか」

 意味合いは間違っていない。でも事情を知らない人が聞いたら全く以て意味不明だ。何より割愛し過ぎだ。もう少し具体的に話せないのか。

「取り敢えず、先にこいつら片付けますから、その後に改めて説明しますよ」

 残った二人を潰す事が既成事実になっている。反論の余地はない。まだ酔いこそしていないけど、これまでの流れを見ても形勢逆転はまず望めない。

「おい、こいつら全員潰したからって調子に乗るなよ。まだ終わった訳じゃねえだろうが」

 まだ勝負を捨ててはいないらしい。見上げた根性だった。前向きと言うより悪足掻きにしか見えないけど。でも諦めてないんだよなあ。

 やっぱり馬鹿だ、こいつら。知ってたけど。

「ま、邪魔しねぇからゆっくりやってくれ」

 ウォッカは応える代わりに持ち上げたグラスを揺らした。師匠は苦笑いすると舌先を酒で湿した。



「で」

 師匠は唇に宛がっていたグラスを傾けた。

「昼間に街中歩いてたら奴らに襲われた、と」

「最初は何かと思いましたけどね」

 まさか食事の誘いなどとは思わないだろう。むさ苦しい男共が大挙して押し掛けて来て、真面目に食事に誘われたらどんな顔をすればいいか判らなくなる。女の立場から言わせれば即お断りは確定だけど。

「それで、全員返り討ちにした訳か」

 ウォッカはグラスを傾けながら顎を上下させた。口に入りかけていた酒が少しだけグラスに戻る。

「相手は何人いた?」

「十五人です」

「それを一人で片付けたのか」

 師匠の目が僅かに大きくなった。この人がこういう表情を見せるなんて滅多にない。

「多少剣の心得はあったようですけど、あまり役には立っていませんでしたね。それに、下手に群れると気持ちに油断が生じやすいし」

「そういうものなんですか?」

 イマイチ納得しかねるような顔で首を傾げるカティの頭に手を置いた。

「昔、冬場に学校から帰る時、暗くて怖いから一緒に帰ろうって駄々こねてた事は覚えてる?」

「覚えてるわよ」

 恥ずかしいのか、唇を搾めて少しだけ顔を背ける。こういう処は本当にまだまだ子供だ。

「一人じゃ怖いけど、人って誰かが側にいるだけで安心出来るものなのよ。闘う時もそれと同じ。仲間がいて安心出来るから、いや下手に安心しちゃうからそれが油断に繋がるのよ」

 頭の上でグルグル回っている蝿を追い回すような顔で宙を睨んでいる。闘うような経験がないからピンと来ないのかも知れない。

「ねえカティ、真っ暗の中を四人で帰ってた途中で、突然私達が消えちゃったらどうする?」

 アリスが隣から身を乗り出した。さっきの続きのようだけど、下手な例え話をするよりも身近なものに置き換えた方が判りやすい。

「そりゃビックリするよ。突然いなくなっちゃったら」

「暗い中で一緒に帰る誰かが側にいてくれるから安心出来る。側にいる人を心の拠り所にしてるのよ。でも、闘って行く中でそれが一人ずつ確実に減っていったら、残された仲間はどう思うかしら?」

 話を聞いていたカティの表情が初めて曇った。ようやく実感が湧いたようだった。そしてそれを苦もなくやってのけた張本人を改めて見詰める。感謝しているのか恐れているのか、一瞥しただけではそのどちらなのか判らなかった。

「十五対一、しかも素手で相手にした訳か」

「あったとしても使えなかったですよ。この子抱えてたから」

 途端に顔を赤くしてそっぽを向いた。そんなに照れる事もなかろうに。カティの年齢を考えればそれも仕方ないのかも知れない。でも、逆に今度はカティの気持ちが想像出来なかった。誰かに庇われながら闘う事自体がイリナの発想の中に存在しない。どうしていたかは考えるまでもない。無意識に右の拳で掌を叩いていた。もしその場にいたら、そう思うと体の底から不気味な震えが来る。怖くないと言えば嘘になる。でももう半分は違う。明日はそれを試せる、思い切りぶつけられる。右腕の震えが止まらない。やっぱり、アリスの事ばかり笑えない。

「しかしまあ、一人でよく十五人も相手に出来るな」

「単なる慣れですよ。それに同時に全員を相手にする訳じゃないですし」

 師匠はグラスに残っていた酒を喉の奥に流し込んだ。

「だろうな」

「どういう事、ですか?」

 目を白黒させながら、アリスが師匠とウォッカの間に体を滑り込ませた。顔を覗き込んだアリスに、師匠は仕方なさそうに溜め息を吐いた。

「表面的には一対多数だが、仕留める瞬間は飽くまで一対一、って事なんだが……判るか?」

 腕を組んだまましばらく宙を睨んでいたけど無駄だった。師匠を見て哀しそうな顔で首を横に振る。

「手足は誰でも二本ずつしかないよな? 相手に出来る人数も必然的に限られて来る。多数をまとめて相手にするんじゃなく、いかに一人ずつ確実に仕留めるかって事が重要なんだよ」

 虚ろだったアリスの目に少しずつ光が宿り始めて来た。やっと理解したな。ちょっと遅すぎる。

「でも、口で言うほど簡単じゃないですよね。まとめてかかってきたら一対一も何もあったもんじゃないだろうし」

「今まで話した事は単なる理屈だよ。大切なのはそんなもんじゃない。それをどうやって形にするか、って事さ」

「理屈?」

「別に格闘に限った話じゃない。考え方として理解する上で理屈は確かに必要だ。でもそれはただの理屈、概念に過ぎないんだ。明確な形は持たない。理屈を理解した上でそれをどう具体化するか、更にそこを理解出来るかだな」

「そんな小難しいもんじゃないですよ」

 空になっていた師匠のグラスに酒を継ぎ足しながらウォッカは首を横に振った。

「相手が動く前に動く、相手より速く動く、相手が先に動いたらその動きを読む。食らったら立てない所に一発入れてすぐに距離を取る、それを繰り返すだけですから」

「問題はそれを実践出来るかどうかだ」

 師匠はグラスの酒で舌を湿した。要はそこだろう。それを実践出来る行動力、いやこの場合は技術と言った方が的確だろう、それがウォッカにはある。一体、これまで何処でどんな経験をどれだけ積んで来たと言うのか。道場稽古だけで養えるものではない。その範疇を遥かにに超えている。稽古ではなく実戦での経験が求められる。そんな相手と拳を交えようと言うのに然程恐怖は感じなかった。不気味な興奮だけが泡のように湧いてくる。既に結構壊れているのかも知れない。少なくとも、この心情を理解出来る人は周囲に殆どいない。それに孤独や寂しさを感じた事もない。理解されても困るからだ。それくらいの客観性はある。

「あいつらが殺したと思うのも無理はないな」

 誰もが言おうとして口に出来なかった言葉だった。場の空気が芯まで一気に冷えた。

 それだけの技量と経験はまず間違いなく積んでいる。だからでこそ、奴らを生かす事も出来た。加減の程度も判らないようでは殺す事は出来ても助ける事は出来ない。

「来る者は拒まず。やろうって言うならやるさ」

「じゃあ、去る者は?」

「場合によっては追うな」

「どんな時?」

 アリスが胸の前で手を合わせながら興奮気味に言った。好奇心を隠そうともしない。

「ムシャクシャしてたり苛ついてたり、何となく殴りたい時とかは」

 拳で掌を叩いた。要は虫の居所が悪い時、という事だろう。何となく判る気がする。

「それでも痛め付ける程度に止める。別に殺す必要もないからな」

 まな板に置かれた野菜を片っ端から切り刻むように、酷く淡々とした口調だった。でも、裏を返せば理由さえあれば殺す事も別段躊躇わない。そんな冷酷さを含んでいるようにも聞こえた。

「で、今回はどうなんだい?」

「勿論、殺してません。さっきあいつらにも散々言いましたが」

 空になった瓶をカウンターの脇に置いた。ミリアムが新しい瓶を向こう側から渡した。

「それが何処まで伝わったかは甚だ疑問ですけど」

 手酌でグラスに酒を注ぎながらバルコニーを親指で指した。さっきまで呑み比べをやっていた十人は全員綺麗に潰れている。ここまで完全に酔い潰れていたらいくらウォッカが身の潔白を訴えたところで右から左だろう。

「ウォッカ、あいつらどうするの?」

「もうしばらく夜風に当たらせとけよ。そのうち目ぇ覚ますだろ」

 そこまで面倒見きれるか。確かに人殺しの濡れ衣を着せようとした連中をそこまで気遣う義理はない。その割にはさっきまで潰れた連中を随分丁寧に介抱していた。面倒見がいいのか責任感が強いのか。何れにしても、こういう処に性格が顕れている。

「奴らが死んでた事は間違いねぇのかな」

「それは判りません。奴らがそう話していただけですから。それを裏付けるものは何も示されていません」

 事実その通りだった。奴らが勝手にそう話しているだけと言う可能性も全くないとは言い切れない。ただその場合、重大な矛盾が生じる事になる。

「本当は生きてるのに奴らが勝手にそう言い触らしてるだけかも知れない。ただそうなると、どうしてそんな嘘を吐く必要があるのか、その説明がつかないんですよ」

 流石にその可能性には既に気付いていたか。それに少し安心した。

「と言う流れで考えると奴らが嘘を吐いてるとは考えづらい。その必要もない。となると奴らの証言はある程度信用出来る。少なくとも嘘を吐いてる可能性は殆どないから、耳を傾けるくらいの価値はあるかなと」

 さっき酒で満たしたはずのグラスはもう半分が既に空になっていた。これだけ呑んでもまだ酔っていない。体以上に内臓も相当に頑丈に出来てるのは最早疑いない。呑んでも酔わなければ話をするにも大きな支障はないはずだ。

「で、昼過ぎに襲って来た連中はどの程度痛め付けたんだ?」

「数日は足腰立たなくなるくらいにはお灸は据えておきましたよ。どいつもこいつも骨の二、三本は折れるか砕けるかはしてるはずですけど」

「あのねえ、骨が折れててそれの何処が数日程度なのよ。下手すりゃ数週間は身動き出来なくなるわよ」

「こっちは始める前に何度も警告したぜ。やるやらないはお前らの自由だけど責任は持てってな。そこに証人もいるし」

 僅かに視線を逸らすと軽く首を傾げてグラスを揺らす。首を捻って後ろを見た。照れ臭いような、でもちょっと誇らしそうに頬を緩ませたカティが力強く頷いていた。

「イリナもその場にいたらタダじゃ済まさなかっただろ?」

 一瞬応えに詰まった。実際そこにいて、自分の優位が確立されているくらいの余裕があれば骨の一本や二本は確実に叩き折っていた。カティが傷つけられるような事があれば絶対にその程度では済まさなかっただろう。昨日も、ウォッカが間に入っていなかったら鼻っ柱に拳を叩き付けるくらいでは収まりはつかなかった。

 さっき、ウォッカが口にした責任と言う言葉が脳裡を掠めた。不測の事態に無関係な人間を巻き込んだウォッカには絶対に妹を無事に帰さなくてはならない責任があった。相手が十五人もいたら普通は絶体絶命だけど、この男には余裕で捌き切れるだけの技術と経験がある。その気になれば一撃で息の根を止める事も、捕まえた虫の足を一本ずつ引き抜くように残虐な手段で殺す事も出来たはずだ。でも、そうはしなかった。そこにホッとするものを感じた。骨の数本程度で済ませてくれた。感謝しこそすれ、怒るような事ではないな。

「恐ろしい男だな、君は」

 手に持っていた酒瓶のうちの一本をウォッカの前に置いた父は、師匠の方を向くとペコリと頭を下げた。

「折角お越し頂いたのに大したおもてなしも出来ませんで、申し訳ない」

「気ぃ遣うなよ。お互い知らない仲じゃねぇんだからもう少し気楽にやろうぜ」

「って言っても無駄ですよ。カチコチの石頭だから」

 そう、筋金入りの。何事も義理と礼節を重んじ、妥協と言う概念は理解していてもそれが陽の目を見る事はない。その血を色濃く受け継いでいる妹が体の前に手を添えて神妙な顔でお辞儀している。普通にしてればいいのに。

「折角だから、男だけで食卓囲むってのはどうだ?」

父の目が少し大きくなった。普段女ばかりとしか食事をしていない父には提案としては結構魅力的かなと思う。男だけで、と言うのとは本当は少し意味合いが違うんだけど。ここにいる誰かがあと一人加わらないと成立しない。父はカウンターから微妙に腰を浮かせると置こうとしていた皿を持ち上げた。

「いいか?」

「いいも何も、もう半分以上行こうとしてるじゃない」

 微妙に視線を逸らして首筋を小指で掻いている。バツの悪さよりも先を急ごうとする気持ちの方が強いのか、何かを我慢するように妙にソワソワしている。そんなに一緒に呑みたいのか。

「ウォッカ」

 自分の息子か孫を呼ぶような気安さで師匠が手招きした。ウォッカは驚いたように目を丸くしている。

「三人で仕切り直しと行こう」

「いいんですか?」

「お前も若いのに水臭ぇ事言うなあ。旅の恥はかき捨てって言うだろ」

 言っている事が支離滅裂だった。水臭さに若さは関係ないし、一緒に呑む事も恥のかき捨てにはならない。こうなると殆ど命令だった。

「行ってあげて下さいな」

 戸惑っていたウォッカの肩を母は後ろから軽く叩いた。

「あなたみたいな元気な男の子と一緒にお酒が呑みたいのよ」

 ウォッカは真顔で自分の顔を指差した。

「見ての通り、うちって女しかいないでしょ。昔から男の子欲しがってたから、あなたみたいな元気が有り余ってる男が来たのが嬉しいみたいよ」

「呑兵衛の大飯食らいだと思うけどなあ」

 思い切り歯を食い縛って腹筋に力を込める。笑いを堪えるのにかなり難儀した。間違っていない、と言うよりこれ以上の正答はない。

「早く来いよ」

 有無を言わさぬ強引さだった。流石に師匠も酔って来たか。そう、ウォッカの陰で目立たなかったけど何だかんだで結構な量を呑んでいるのだ。酔って当然だった。

 ウォッカは椅子から立ち上がるとグラスと酒瓶を片手で持った。父が右に椅子をずらして空間を開ける。椅子に座るなり、師匠が空のグラスに並々と酒を注いだ。もうすっかり出来上がっていた。

「すっかり遅くなっちゃったわね」

 母に続いてカティが料理の盛られた皿を運んで来た。空いていたテーブルに置くと取り皿や箸を手早く並べて行く。鼻から息を吸い込んだ途端に体中から力が抜けた。すっかり忘れていた空腹が思い出したように自己主張し始めている。集中力が切れたか。確かにそろそろ頃合いだろう。みんな三々五々席に着き始めている。伏せていたグラスを手に取ると三人のテーブルに歩いて行く。

「隣、座るわよ」

 返事を聞く前に、ウォッカと師匠の間に体を滑り込ませる。父が玩具を取り上げられた子供のような顔をした。男だけでしか出来ない話でもするつもりだったのかな。と思ったけどそういう訳でもなさそうだった。単純に、いや純粋に男だけで酒を酌み交わしたかっただけだろう。でも、酒を呑みたいのは何も男に限った訳ではない。

「昨日も呑んだんだし、今日もやりましょうよ」

 手酌で酒を注ぐとウォッカのグラスに軽くぶつけた。

「お疲れ様」

「あんたもね」

 一日中大荷物を背負って街中を歩き回った後に武装した連中相手に大立ち回りを演じれば普通の人は相当疲れるはずだ。少なくとも買い出しに行った後に料理を作ったり接客したりするより余程疲れる一日を送っていると思う。でもこんなにノホホンとした顔をして酒を呑んでいるところを見ていると実際本人とっては何て事はないんだろうな。聞くまでもないけど。ただこれがウォッカの日常とそう遠くないところにあるとしたら、普段こいつは一体どんな生活を送っているのだろう。天候で例えるなら晴れではないが、だとすれば曇りや雨がそれに近いのか。雨に降られた程度で慌てていたら絶対に馬鹿だと思われる。ウォッカの顔をしげしげと眺める。やっぱり、こいつにとって昼間の出来事は曇りか、良くて精々雨に過ぎないんだろうな。全然珍しい出来事ではない。突然雹に降られた訳でも、嵐に巻き込まれて立ち往生なんて事もない。日常のかなり近いところにある、そんな有り触れた出来事の一つでしかない。こんな奴がつい一昨年まで鞄を背負って学校に通っていたなんてとても想像出来なかった。どんな学校生活を送っていたのだろうか。

「乾杯」

 掲げたグラスをグッと煽る。綺麗に空になっていた。今日何度目の一気呑みだろう。気付けば自然にお酌をしていた。気心知れた古女房みたいだな、と思ったら妙な笑いが込み上げて来た。

「乾杯」

 別に張り合うつもりはなかった。でも一息でグラスの半分以上が胃に姿を消した。

「とても、つい先月に高等部を卒業したとは思えねぇような呑みっぷりだな」

 なあ? 隣にいた父に同意を求める。父は涼しい顔でグラスを傾けていた。

「私の血が濃いみたいで、結構行けるクチなんですよ」

「そうそう、これくらい普通ですって」

 喉に沁みたのか、それとも軽く噎せただけなのか、師匠が顔を歪めた。

「何処が普通だよ。酒の味を知らねぇ奴が真似したらあっという間にひっくり返るぜ」

「じゃあこいつはどうなっちゃうんですか」

 グラスを持つ手を軽く引きながらウォッカの横顔を露骨に指差した。振り向く事はおろかグラスを置こうともしない。いい根性をしている。

「ここまで呑めたら人間の域を超えてるな」

 内臓だけではない。体も相当に頑強だ。デッキブラシの縁で思い切りスネを叩いても痛がるだけで骨折する事はない、と思う。機会があったら試してみよう。

「そう言や、どちらまで行かれてたんですか? 急に用が出来たって聞きましたけど」

「そうそう、約束すっぽかすなんてビックリしちゃいましたよ」

「別にすっぽかしちゃいねえだろ。こうして来たんだから」

 師匠は野菜炒めに箸を伸ばしながら少しだけ顔をしかめた。

「でも約束を後にずらすくらいだから、それなりに大事な用だったんですよね?」

「イリナ」

 ちょっとだけ険しい顔をして、父は横目でこちらを睨んだ。

「あまりそういう事を根掘り葉掘り聞くもんじゃない」

「別に気は遣わなくていい。そんな大層な事をしてた訳でもないしな」

 残った酒をヒョイと軽く飲み干すと同時に父が傾けた瓶を差し出した。

「ちょっと、ジェイクのところにな」

「司祭様のところへ」

 父の表情が僅かに曇った。

「お加減はいかがでしたか?」

「いや、会えなかった」

 師匠はもっと表情を曇らせて首を横に振った。

「司祭様って……あ、セージとトージの親父さんか」

「何であんたが知ってるのよ」

「昼間にガイデルさんとヨハンから聞いた。最近、調子悪くて伏せる事が多いんだろ」

 ウォッカの口から彼の名前が聞こえた事に内心かなり驚いていた。顔が少し熱い。

「どうして会えなかったんですか?」

 動揺を悟らせないように無理矢理話を進める。ウォッカは相変わらず手を休ませる事もなくグラスを傾けている。

「ドアを叩いたんだが返事がなかった」

「返事がなかった? こんな時間に出掛けてたって事ですかね」

「違う。ありゃ居留守だな」

 確信めいた言い方だった。居留守を確信する理由を何気無く想像した瞬間、奇妙な可笑しさが込み上げて来た。

「師匠、避けられてるんですね」

「茶化すな、そういう意味じゃねえ」

 宙を睨んだままグラスの縁を持って静かに揺らす。時折破目を外す事はあっても、ふざけるような事はまずしない。何だかんだ言って結構堅物なのだ。

「いた事は気配で判った。俺もノックしたから気付かない訳がない。でもドアは開かなかった」

「何か物音は聞こえたんですか?」

「いや、静かなもんだったぜ」

 ならばノックが聞こえなかったと言う事はないはずだ。聞こえていたはずなのにどうしてそれに応じようとしなかったのか。

「出なかった理由の半分なら大方想像はついてる」

「何ですか?」

「先客がいた」

 でも、先客がいた事がその後の来客に応じない理由にはならないはずだ。むしろ人が来たなら接客するよう促す方が自然だろう。

 となると、

「その誰だが判らない人物がいたから司祭様は居留守を使っていた、いや接客に応じなかったと言った方がいいのかな」

「それをどう捉えるべきかは今の状態じゃ何とも言えねぇが、ジェイクが顔を出さなかった理由はそいつにあると思うな」

 父はグラスをテーブルに置くと首を捻った。

「それにしても、どうしてガイデルさんは司祭様が接客中だと思ったんですか?」

「表に馬がいた。柵にくくられてな」

 それを即来客と考えるには少し安直なような気もした。でも逆にそれが来客でなければ一体何なのか、その説明がつかない。まさか馬だけそこにくくって何処かに行ったのだろうか。その方が余程不自然だった。

「日が暮れてから教会に来たんだとしたら、相当急ぎの用があったんだろうな」

「じゃ、その急ぎの用って何なんですかね」

 疑問と言うには余りに素朴で何の飾り気もない。でもウォッカの指摘に対して全うな回答を出せる人はいなかった。

「日が落ちる前から来ていた可能性もある訳ですよね」

「日がとっぷり暮れるまで教会で何を話し込んでたのかな。余程深刻な懺悔だったら、他に誰も人を通さないのも頷けない話ではないか」

 父は腕を組んだまま宙を睨んだ。急ぎの用がある場合よりもこちらの方が遥かに説得力があった。少なくとも、人を通さない、いや通したくない厳然たる理由がある。

「日が落ちる前から聞かせてたとしたら相当な長話ですね」

 素朴な突っ込みだった。返す言葉に詰まる。どれだけ深刻な悩みなんだ。

「或いは晩飯の支度してる最中に旦那のお気に入りの食器を割っちゃったおばちゃんが錯乱状態で懺悔に来たとか」

 終始悲鳴を上げながら馬を駈って教会に直行するおばちゃんを想像して思い切り吹き出しそうになった。一体どれだけ必死なんだ。

「司祭様が調子悪くて床に伏せてる事が多いのは大抵の人は知ってるんだろ? そんな状態なのに長々自分の話に付き合わせてたとしたらかなり無神経じゃねえのか?」

 むしろこっちの方が司祭様を気遣って話を聞いてあげないといけないくらいだ。実際師匠はそれをやりに行こうとしていたはずだ。風邪で横になっていた人を無理矢理叩き起こして一方的に悩みを打ち明ける、いや早口に捲し立てる空気の読めない人を思い浮かべて全力で脱力した。

「どっちにしたって、そういう輩はあまり積極的に歓迎したくねえなあ」

 まだそうと決まった訳でもないのに、師匠はうんざりとしたように溜め息を吐いた。

「ま、明日また行ってみるか。本人から直接話を聞くのが一番だからな」

 それが最大にして唯一の解決法だった。探せば他にもやれる事がありそうな気はするけど、それしか残っていないようにも思えて来る。手っ取り早く済むならそれに越した事はない。

「師匠、明日少し道場借りてもいいですか?」

「アリスから聞いてるよ。明日ウォッカと組手やるんだろ?」

 力強く頷くと、隣で父が目を剥いた。そんな大袈裟に驚かなくてもいいのに。

「勝算は?」

「勝つか負けるかじゃなく、純粋に勝負を楽しむ方が実りある時間を過ごせる、いつもそう言ってませんでしたっけ?」

「相手に依るだろ」

 複数の敵を相手に無傷で勝ちを収める、そういう人間と拳を交える事が純粋に楽しみだった。一対一ではどんな闘いを見せてくれるのか。無論恐怖もある。でも期待がそれを大きく凌ぐ事も確かだった。根っから闘う事が、自分の全力を何かにぶつける事が好きなのだ。生まれる時代を間違えた、そう指摘されるのも頷ける話だった。

「出来れば止めてもらいたいが」

「絶対イヤよ。それに私だけじゃないし」

 ねえ。隣のテーブルで食事している妹二人に視線を投げ掛ける。ミリアムは一瞥するようにチラリとこちらを見て小さく頷いた。アリスは気合いを入れるように右腕をグッと曲げて肘を突き出した。

 父はグラスを煽ると全身を使って溜め息を吐いた。

「三人揃って血の気が多いのは何も今に始まった訳じゃねえだろ」

「あなたの指導でそれをもっと薄める事は出来なかったんですか?」

「こういうものは持って生まれたものだ。後からどうこう出来る代物じゃない」

 技術や体力を養うための指導はしても、闘争心を無理矢理押さえつけるような事を教わった記憶はない(それでもある程度は抑制する必要はあるけど)。

 何れにしても師匠の言葉は正論だと思う。この沸き上がるような熱さは誰かが無理矢理植え付けるようなものじゃない。

「父親なら最初に止める事も出来ただろうよ」

「それが出来なかったから、これだけ血の気の多い娘に頭を悩ませてるんですよ」

 やっぱり何だかんだ言って父もしっかり理解している。いや、諦めているだけか。物心ついた頃には、漠然とだけど胸の中には「強くなりたい」という思いがあった。剣術や格闘術はそれを具体化する手段だった。それまで曖昧模糊としていたものを明確な形に変えられる手段が目の前に提示された。あの時の興奮は今でも忘れられない。

それが今になっても冷める事もなく燃え盛っているのだからその熱さたるや相当なものだ。

「最初はいつも生傷ばかり作ってここに帰って来てました」

 空だった父のグラスがいつの間にか酒で満たされていた。野菜炒めを口に運ぶとグラスの酒を煽る。

「それが、気付いたら全く怪我を見なくなりました。喜んだのも束の間でした、怪我を負う側から負わせる側に変わっただけだったんですから」

「そんなに大袈裟な怪我なんて負わせてないわよ」

 少なくとも、イリナとミリアムは。程度に差こそあるけど、打撲が精々だった。骨折させるような事は一度もなかった。詰まるところ、それが意識して出来るかどうかと言ったところだろう。

「でも、それから更に時間が経つと怪我すらさせなくなった。でも組手で負けるような事もなかったようで」

「確実に進歩してるじゃないですか」

 嬉しい事を言ってくれる。父もそれは感じてはいるようだけど、一度も口にしてくれた事はなかった。剣術も格闘も、やる事自体に反対はしなかった。でも歓迎はしていない。改めて考えるまでもなかった。

「もっと褒めたらきっと喜びますよ」

 隣のテーブルにチラリと目を遣る。ミリアムは無理矢理前を向くようにして少し不自然な格好でフォークを動かしている。その向かいではアリスが満面の笑みを浮かべて何度も頷いている。やっぱり、こいつが一番素直だ。たまに羨ましいを通り越して憎たらしくなる。

「昨日あなたがここに来た時、何となくこうなるんじゃないのかなって気はしてたんですが、やっぱりこうなりましたね」

 どう応えたらいいか判らなかったのかウォッカは苦笑いして頭を掻いた。父も焼きすぎてすっかり焦げた魚を見るような目をして笑っている。

「あなたはしっかり加減が出来そうだ」

「買い被りですよ」

「もしそれが出来なかったら今頃は死体の山が出来ていたところですね。あいつらが犯人と決めてかかるのも無理はないでしょう」

 ウォッカは応えなかった。目を閉じたまま肩を竦めただけだった。

「ま、お手柔らかに頼むわ」

「あんたが言うと嫌味にしか聞こえないわ」

「そうか?」

 欠伸をしながら頭を掻き毟る。相当な実力を備えている事は確かだけどまるで底が見えない。柳が風を受けるように手応えが掴めない。

 それと、どうしても確かめたい事がある。この正体不明の大酒呑みは実際どの程度使えるのか、それをハッキリさせておきたかった。十五人を足技だけで相手にして無傷で勝利するなんて一般人には絶対に不可能な芸当だ。それだけでも実力の程は充分窺えるけど、この目でそれを見た訳じゃない。それをどうしても見極めたかった。

 そして、それを把握した上でどうしても一つ頼みたい事があった。こう考えているのは絶対にイリナだけではない、と思う。そう願いたかった。少なくとも、師匠ならそう考えてくれているはずだ。奴らを片付けなければ街の住民にもウォッカにも明日は来ない。一蓮托生以上に、ウォッカは既に立派な戦力の一つだった。それを伝えたところで怒るような事はまずないだろう。新たに加わった戦力がどれ程のものなのか、伝聞ではなく自分の目で確かめる必要があった。いや、確かめたかった。

「イリナ」

 誰かの掌が頭の上に載った。柔らかくて温かい。首を捻って斜め上を見る。

「何か物騒な事考えてない?」

「別に物騒って事はないわ。ちょっと確かめたい事があるだけだから」

 頬に垂れていた髪を母は小指に絡めて耳に引っ掛けた。

「だといいけど」

 困ったように肩を竦めて笑った。見透かされているような気がした。学校も卒業した。酒も当たり前に呑めるようになった。母とも堂々と肩を並べて仕事も出来るようになった。それだけの自負もある。それでも、母にとってはまだまだ子供に過ぎないんだろうな。この先どれだけ年を重ねても、イリナが母の子供である事に変わりはない。いつか追い越したい、そんな背中だった。

「無理はしないでね」

「判ってる」

「それと、彼は飽くまでここのお客様だから、それも忘れて欲しくないな」

 失礼のないように、と言う事だろう。しっかり釘を刺して来る。もてなす側と客の垣根と言うか、間に引かれている一線は越えるな、と言う事だろう。元よりそんなつもりはない。だから、こういう忠告はイリナではなくアリスにこそ相応しい気がした。いや違う、イリナもアリスも大差はない。そう、母からしてみれば。ウォッカに挑む事に変わりはないからだ。全く、溜め息も出ない。

「私達は後片付け済ませたらもう寝るから。あなた達も程々にね」

「ええ」

 空になった食器を持った三人が席を立つ。

「早く学校終わらないかな」

「どうして?」

 両手に器や皿を持ったミリアムが羨ましそうに言った。

「休みの前の晩はこうしてゆっくり出来るから」

「一年なんてあっという間よ。下手に意識するから長く感じるのよ」

「それは感覚の問題でしょ。時間そのものの長さは変わらないわ」

 実に全うな指摘だった。クソ真面目なミリアムの性分に合っている。

「まだやる事もあるし」

「何よ、やる事って」

 あ、と言う声が聞こえて来そうなくらい顔が歪んだ。口が滑ったんだろうな。

「で、何するの?」

「何だっていいでしょ」

 それ以上取り合う事もせず足早に厨房に姿を消す。大方予想はつく。それを知りながら聞くのは明らかに野暮のする事だ。今回は見逃してやろう。

「ほい」

 瓶の注ぎ口が差し出された。反射的にグラスを返していた。

「じゃ、乾杯」

 澄んだ音がした。確かに、まだ酔うと言うには程遠い。

「何処までザルなのよ」

「ザルか?」

 白々しくはなかった。多分、本当にザルだとは思っていない。ならどれだけ呑んだら酔うんだ。目の端が眠そうに垂れてはいるけど、酔っているようには見えない。

「ま、明日はよろしく頼むわ」

 もう一度乾杯した。向かいに座っている師匠は完全に出来上がっていた。その隣にいる父もかなり呂律が怪しくなっている。

「そうね」

 手酌でグラスに酒を注ごうとしていたウォッカの手から瓶を取る。

「あんた、明日の午前中はどうするの?」

 組手の約束は午後からだ。午前中はまるまる時間も体も空いている。

「適当に時間潰すわ。今日買い忘れたものもあるかも知れないし」

 メモでも書いて一つひとつ消しながらやっていれば漏れもないだろうけど、この男からはそういう印象は窺えない。ハンカチなんてものは持とうと言う発想がそもそもないし、手が濡れればズボンで拭く。そういう男だ。

「それでもまだ余るようなら散歩でもするかな」

 この様子なら二日酔いで潰れるような事は絶対にない。子供じゃあるまいし、そこは本人に任せるとしよう。唇に宛がっていたグラスをゆっくり傾ける。

 一瞬記憶が飛んだ。数秒間だけど、かなり深く寝入っていたようだった。

「何だ? もう酔ったか?」

「まさか」

 もう酔いが回ったとは思われたくなかった。かと言ってここで無理して呑もうとすれば余計深みに嵌まる。背筋を伸ばすとゆっくりグラスを傾けた。アルコールの刺激が舌を焼く。頭の芯が痺れて来た。もうしばらくこの感覚に身を任せていたら遠からず意識も記憶も綺麗に消え失せるだろうな。

 師匠もどうするのか。大方泊まって行くだろうなとは思うけどそれを質す気はない。気ままな独身貴族は今に始まった訳ではない。この街にに来た時から独り身を貫いているけどそれ以上の事は知らない。今この場で聞いたとしても煙に巻かれるだけだろうな。そういう処はひとえに年の功の成せる業だろうか。このまま酔いが進んで目が覚めたら力のぶつけ合いはすぐ目の前だ。そうなる事を期待して、イリナは酒で満たされたグラスをゆっくりと傾けた。


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