二日目 その十参
薄切りにした鶏肉を皿に盛り付ける。炒めた野菜を隣に添えて線を引くようにソースを垂らした。これで最後になればいいけど、と一瞬考えてからすぐにその可能性を捨てた。仮に今の分は済んだとしても、まだ師匠が来ていない。奴らを片付けた後は改めて師匠と酒を呑むだろうから、これで最後にはなり得ない。全くよく食べる。それ以上に呑む。一体どういう胃袋をしているのか。ミリアムの、いや人の想像を超えている。体の作りが普通の人間とは明らかに違っている。
そうでなければ、素手で十五人もの敵を相手に無傷で蹴散らす事など到底不可能だ。最初に聞いた時は冗談かと思った。とても素直に信じられるような類いの話ではない。今でも半分は嘘だと思っているくらいだ。でも、そんな事があったからこそ奴らがこうして大挙して押し掛けて来たのだ、信じない訳には行かない。
「ねえ、イリナ」
後ろで鍋を振るっている姉に声をかけた。返事はせず、首を少しだけこちらに傾げた。
「彼が昼間カティを助けたって話、本当なんだよね」
「奴らはその真偽を確かめに来てる、さっきそう言わなかったっけ?」
「でも、はいそうですかって簡単に信じられるような話じゃないでしょ」
イリナは肩を竦めると苦笑いした。どんな顔をすればいいかミリアムにも判らない。
「彼が襲われた時、カティも一緒だったんでしょ? それは間違いないのよね」
「ええ。ま、一緒だったと言うよりその渦中にあの子が飛び込んで行っただけと言うか」
「どういう事?」
「言葉の通りよ」
眉間にシワが寄った。これから喧嘩、ではなく一方的な殺戮が行われようとしていた場にどうしてカティが飛び込んで行ったのか。それも気にはなるけどもっと気掛かりな事が他にある。
「で、全員返り討ちにしたと」
「カティを庇いながら、両手が塞がった状態でね」
対する相手は全員武器を携帯していた。人一人を庇いながら、その状態でどうして無傷で生還出来るのか。全く以て訳が判らない。
「そんな話、信じろって言う方が難しいわよ」
「だからこそ奴らもそれが事実かどうかを確かめに来てる。ま、そうでなくてもカティって証人がいるんだから手 間暇かけてそんな事する必要もないんだけど」
馬鹿な話だなあと思う。自分達が吹っ掛けた喧嘩の責任を相手に押しつけていると言う行為そのものが既に常軌を逸していると言うか、単純に有り得ない。真っ正面から何の恥じらいもなく堂々と聞きに来られる神経がもう理解出来ない。ま、あいつらはあいつらで生きるのに必死なんだろうな。全うだろうが道から外れていようが、食べない事には生きられない。奴らの生きる術がこうして人にたかったり難癖をつけて困らせたりする事なんだろうな、と単純に思う。考えていたら頭が痛くなって来た。それに無理矢理付き合わされているウォッカを思うと気の毒なのか羨ましいのか判らなくなる。言いがかり同然に押し掛けられているのは迷惑千万だろうけど、タダ酒が呑める事はほぼ確定したようなものだ。最初からそのつもりだったんだな。今になってようやくその意図に気付いた。しっかりしていると言うかがめついと言うか、ウォッカはウォッカで見た目以上に逞しく生きている。旅暮らしなんてした事がないからミリアムにはさっぱり判らないけど、根なし草みたいに歩き回ってばかりだったら、食べられる時くらいはしっかり食べておかないと身が持たない。いや生きられない。ふと思った。どうして旅をしているのだろう。働きたくないとか自分探しとか、どちらかと言えばそういう後ろ向きの理由ではないと思う。肉体労働ならなんでもござれと言えるくらい立派な体格に強靭な体力を備えているし、きっと同年代の人間よりも多くの物事を見聞きしている。そう感じさせるだけの風格がウォッカにはあった。何でだろう、老けているからかな。だったらその裏には一体どんな経験が隠されているのだろう。そう、経験だ。
「ねぇ、イリナはやっぱりウォッカが何かしらの武術を身に付けてると思う?」
「当たり前でしょ」
即答だった。一考の余地もない。
「人一人を庇いながら十五人も相手にして全員叩きのめしたのよ。怪我らしい怪我もないし」
「普通じゃ考えられないわね」
普通じゃなくても考えられない。強くなるだけでも相当大変なのに、それだけの人数を軽く蹴散らせると言うのはまず有り得ない。
「あんた、明日午後に彼と組み手する約束してるんでしょ?」
「耳が速いわね」
「血の気が多いのが今から張り切ってるわよ」
ミリアムも楽しみは楽しみだけど、今から待ちわびる程の事ではない。遠足を心待ちにする子供と何ら変わらない。精神年齢は十年前から止まっている。だから頭よりも体が先に動くのか。
「私も混ぜてもらったからよろしくね」
力を込めて鍋を磨きながらイリナは言った。驚かなかった。アリスのように血の気が多いと言うのとは少し意味合いが違う。誰かと闘う事が、誰かに自分の全力をぶつける事が純粋に好きなのだ。それはミリアムも変わらない。そういう意味で言えば、勝負と言うより腕試しに近いのかも知れない。それに、ウォッカの力がどれほどのものなのか、それを見極めたかった。
「イリナは何でやるつもり? 剣? それとも素手?」
「やっぱり剣かな。剣でも素手でも両方大いに行けそうな感じはするけど。ミリーは?」
「私も槍で。一番得意な得物でやる方が楽しいでしょ」
何より全力で挑める。そうでなければ意味がないのだ。相手を、そして自分を試すには。
「それにしても、カティを守りながらよく武器を扱えたわね」
「んな訳ないじゃない」
反射的に首を傾げたくなった。多少はやりづらくなるだろうけど、武器を持ったまま守りながら闘う事も不可能ではないはずだ。
「確かにやってやれない事はないでしょうけど、かなりやりづらいか」
「そういう意味じゃなくて、カティをお姫様抱っこしながら闘ってたんだから、武器があったとしても使えなかったわよ」
何を言っているのか判らなかった。両手が塞がっていた? 武器があったとしても使えなかった?
「何、ひょっとして素手で十五人も相手にしたの?」
「言わなかったっけ? 素手と言うか、靴は履いてたから裸足じゃないけど素足と言うか」
言葉の意味合いを吟味すると言うより言葉遊びに近い気がするけど、そんな事はどうでもよかった。足技だけで十五人を相手にして無傷で生還。武勇伝もここまで来ると現実離れし過ぎていてとても信じられない。いや、重要なのはそんな事じゃない。
「昨日剣を差してたじゃない。あれは何処に行っちゃったのよ」
「鍛冶屋だって」
街に滞在している間に傷んだ武器の手入れをしておくのは至極当然だろう。体を休める事だけが目的ではない。武器も労ってやらなければ。
「鍛冶屋って、誰のところ?」
他にもいくらか聞き方はあった。でも言葉を選ぶ暇がなかった。それだけ気持ちが急いていた事の顕れでもあった。見れば、イリナは唇の両端を上げて不気味に笑っている。この様子ならこうなる事は随分前から気付いていたハズだ。それを黙っている辺り、やっぱり意地の悪いものを感じる。悪意は全く感じないけど。ただからかっているだけだからだ。
「あなたもよく知ってる人のところよ」
料理を盛り付けた大皿を持つと後ろも見ずに駆け出した。顔には出なくても、考えている事は行動に表れる。アリスの事は笑えない。
「そんなに急いで何処に行くの~?」
イリナのわざとらしい声が背後から聞こえる。当然の如く無視した。厨房を出て食堂に回る。ウォッカは相変わらず嬉しそうに笑いながらグラスを傾けていた。苦痛に満ちた顔でグラスと睨めっこしている隣の兵士とは対照的だった。
「お待たせしました」
「待ってました」
カウンターに置くや否や、すぐさま箸が伸びた。炒めた野菜をこれでもかとばかりに皿に載せると、残ったスペースに鶏肉を添えた。大皿から直接食べればいいと思うけど、隣にいる奴を考慮しての事なんだろうな。変なところで律儀だった。
「あの、ウォッカさん」
「ん?」
頬張った野菜炒めを酒で胃に流し込みながらウォッカは顔を上げた。
「どしたの?」
「あの、今日剣を鍛冶屋に預けられましたよね」
返事をする代わりに頷いた。顎が元気いっぱいに上下に動いている。こんな状態で口を開けられても困る。
「ヨ……親方さんのところ」
「親方親方……そうそう、親方さんのところ」
弟子はヨハンだけど。薄切りにした鶏肉を二枚まとめて箸で挟むと空になった口に放り込む。思わず拳を握り締めそうになった。内心ではそうしていた。間違いなく彼の店に武器を預けている。イリナの言葉を疑った訳ではないけど、やっぱり確証が欲しかった。
「もしよろしかったら、私が取りに行ってもいいですか?」
「え? 別にいいって。悪いよ」
言葉に詰まった。一歩退いて冷静に考えれば預けた剣を誰かに取りに行ってもらう理由は何処にもない。ウォッカの性格を考慮すればそんな事を人に頼むような真似は絶対にしないだろう。全然悪くないよ、むしろ私が行きたいんだよ、頼むからその権利を譲ってよ早く。と、首根っこを両手で掴んで激しく前後しても余計に混乱させるだけだ。
でも、何としてでも取りに行きたい。こちらの真意は隠した上で。虫のいい話かなとも思うけど、ここだけは絶対に譲れない。考えている間に時間だけが虚しく過ぎて行く。視線を感じて顔を上げると、ウォッカが空になったグラスに酒を注ぎながらこちらを見ていた。流石に少し酔っているのか、垂れ気味になった目を眠そう瞬きさせている。疑問を投げ掛けるように小首を傾げた。
ヤバい。完全に怪しまれてる。そうだよなあ、こんなにムキになって頼むような事でもないし、ウォッカにしても頼まれる謂われもない事を懇願されたら首を捻りたくなるのも道理だ。
ミリアムはウォッカの前に立つと姿勢を正した。あれこれ余計な事を考えるより、こちらの要求を端的に伝えた方が早い。変に考えすぎるから怪しまれるのだ。単刀直入、単純明快、それが一番判りやすい。背筋を真っ直ぐ伸ばし、気持ち少しだけお尻を後ろに突き出すようにしてお辞儀する。
「明日、是非とも私に剣を取りに行かせては頂けませんでしょうか?」
「いいよ」
あっさり頷かれた。膝が砕けそうになった。カウンターに手を突いて辛うじて転倒こそは免れたけど、眉根の辺りが引き攣るのは自制出来なかった。何処が悪いのよ、二つ返事でいいよはないでしょいいよは。
でも嬉しい事に変わりはない。これで大手を振って彼の所へ、もとい剣を取りに行ける。一気に胸が軽くなる。声を上げて飛び跳ねたくなった。
「本当にいいんですか?」
「そんな風に改まって頭まで下げられたら、首は横には振れないって」
首を竦めて手をヒラヒラさせる。
「じゃ、明日頼むわ。ヨハンには明日中にとは言ったけど何時に行くとは言ってないからなあ。行った時に仕上がってりゃいいんだけど」
そう、そういう問題もある。出向いたのに作業が終わっていなかったら完全な無駄足だ。こればかりは、ヨハンの腕と要領が良い事を祈るしかない。時間を指定されていないなら逆にいつ来ても対応出来るようにしておく事が理想だろう。少なくともミリアムならそうする。鍛冶打ちの仕事がどんなものなのかミリアムには見当もつかないけど、粗方の作業は今日中に済ませて明日は点検程度で済めば何よりだ。いや、それを切に願わずにはいられない。
「俺だったらすぐに片付けるな」
「どうしてですか?」
「その方が他の仕事にも落ち着いて手をつけられる。明確に締め切りが設定されてる仕事を後回しにするような真似はしないだろ」
実に明快な回答だった。考えている事も概ね変わらない。彼は、ヨハンはどう考えているのだろうか。
「今頃は作業も殆ど済ませて酒でも呑んでるんじゃないかな」
「どうしてそう思うんですか?」
「要領も良くて頭も切れるのがすぐ側にいるみたいだしな。そういう誰かが身近にいれば学ぶものも多いさ」
聞いた時は誰の事なのか見当もつかなかった。少し考えてハッとした。追い付きたいのに背中も見えない。いつだったか、そんな事を言っていた。恐らく、お兄さんの事だろう。その気持ちは実によく判る。追い付きたいと思っているからこそ、追い付けない自分に苛立って時には感情に棘が生える事もある。でも、それすら自分が勝手に生み出した幻想に過ぎない。ひょっとしたら追い付けないかも知れない。でも、そこで諦めて足を止めてしまったら本当に先に進めなくなる。時折休む事はある。でも足を止める気は更々なかった。それはきっとヨハンも変わらないはずだ。そう考えたら何だか嬉しくなって来た。そういう人と一緒に頑張れたらどれだけ素晴らしいだろう。手を繋げたらどれだけ嬉しいだろう。
「どうしたの?」
ウォッカは箸で挟んだ野菜を口に運ぶ事もせず、不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「え?」
「顔真っ赤だよ」
爆竹が破裂するように心臓が音を立てて跳ねた。途端に顔中が熱くなる。まるで火が点いたようだった。お盆が手元にあったら顔を隠していたかも知れない。でもそんな事したら余計に目立つな。胸に右手を置いてゆっくり息を吐く。胸を張って背筋を伸ばした。
「いえ、何でもありません。少し疲れてるのかな」
「なら今日は早めに休んだ方がいい。明日も学校だろ?」
「お心遣い、痛み入ります。少し休めばすぐ元に戻ります」
自然と頬が綻んだ。指摘された事は確かに恥ずかしいけど、ウォッカがいたからこそ会う機会に恵まれた。ならばもっと感謝を伝えるのが筋かなと思う。でも、今はまだ黙っていたかった。この気持ちは胸の奥にしまっておきたいし、だから人目に晒せるような勇気もない。
「硬いねぇ、君は」
困ったような、それでいて何処かそれを歓迎するような顔で笑っている。どういう訳か笑いが込み上げた。空いていた右手で口元を押さえる。
「それじゃ、明日頼むわ」
「はい」
力強く頷いた。一礼して踵を返す。そのまま踊るような足取りで厨房に戻った。スキンに置かれていた皿を手に取った。
「これ、運んじゃっていいでしょ?」
焼いた魚の香ばしい香りが鼻をくすぐる。ますます気分が良くなって来た。
「ええ。ウォッカのところにお願い」
返事はしなかった。軽い足取りで食堂に戻る。視界の片隅でアリスとカティが首を捻ったまま顔を見合わせていた。きっと怪訝に思われているに違いない。背中に刺さる視線も気にならなかった。早く明日にならないかな。年甲斐もなく本気でそんな事を考えている自分に気付いてまた顔が熱くなった。やっぱり、アリスの事ばかり笑えない。火照った顔を右手で扇ぐ。時よ、早く過ぎ去れ。胸の中で祈った。手に何も持っていなかったら胸の前で合わせていた。手が塞がっていて良かった。素直にそう思った。




