二日目 その十弐
「それじゃ、改めてルールを説明します」
カウンターに座った二人のグラスに並々と酒を注いだイリナは、実に楽しそうな声で言った。
「グラスのお酒を飲み干したら順次継ぎ足す。途中で足した場合は数に含まれませんので、空になった事を確認してから足さないと自分が損しますよ~。手酌が心配なようなら私がお酌して差し上げますから」
損をすると言うよりも苦しい思いをすると言った方が現実に近いだろうな、とミリアムは思う。底無しで飲み続けられるなら話は別だけど。
「先に潰れるか吐くかして呑めなくなったらそこまで呑んだ数で集計します。お代は負けた方に全額請求しますので、肝臓とお財布に余裕のない人は辞退しちゃってもいいですよ~」
当然誰一人席を立とうとはしない。本当はそうしたい奴も中にはいるかも知れないけど、この空気の中でそれを素直に晒せる勇気は誰も持ち合わせていないようだった。もっとも、提案した本人はやる気満々だった。余裕と言うより、既にタダ酒を呑める事が確定しているような雰囲気すらある。
「じゃ、まずは乾杯」
ウォッカはグラスを掲げるように持つと軽く揺すった。相手の男はそれには応じず、手に取ったグラスの中身を一気に空けた。仲間からおぉ、と小さな歓声が漏れた。
「いい呑みっぷりじゃん」
唇に宛がったグラスをゆっくり傾けていく。一滴残らず飲み干したグラスを静かにテーブルに置いた。
「五臓六腑に染み渡るなぁ」
発言が既に二十歳の若造ではない。とても二歳しか違わないとは思えない。
カウンターに敷いた紙に縦の線をそれぞれ一本ずつ引いた。四本目までは縦線、五本目はそれを貫くように横から引いていく。こうすれば集計もしやすい。
ウォッカのすぐ脇に立っていたイリナが二人のグラスにすぐさま次の分を注ぐ。どちらかが潰れるまでこれが繰り返されるのかと思うと寒気、いや吐き気がして来た。気絶するまで殴り合う方がまだマシに思えた。少なくとも時間はかからない。でもこうした方が間違いなく家にお金が入る。見掛けに依らず抜け目ないな。周囲の人間は固唾を呑んで様子を見守っている。誰一人として囃し立てたり煽ったりする事はしない。その方が盛り上がるんだけど。不気味で、何より無意味な緊張感に満ちていた。端で見ている立場からするとかなり阿呆らしい。
グラスを満たしている液体は鮮やかな琥珀色だ。ウォッカは目を閉じると、今度は鼻先に近付けて香りを楽しむ。嫌味のように縁ギリギリまで注がれたグラスをゆっくり傾けていく。空になるまで五秒もかからなかった。相手のグラスに酒を注ごうとしていたイリナの目が一瞬ギョッとするように見開かれた。ここでもう一杯分差がついた事になる。
「速いわよ」
「そうか? 悪い悪い」
全然悪そうに聞こえない。待ち切れなかっただけだろう。イリナはその間に相手のグラスを酒で満たす。
「何だったらそれ空にするまで待っててやろうか?」
本人は気を遣っただけなのかも知れない。でも、今のこの状況で言われたら嫌味にしか聞こえない。
「勝手にしろ」
一瞬目を剥いたように見えたけど、平静を装った(飽くまで装っているだけ)相手は気を取り直すようにして酒を口につけた。でもさっきのように一息には行かなかった。軽く噎せるとグラスをカウンターに置く。半分くらいしか減っていない。ウォッカはその様子を退屈そうに眺めている。
「代わってやろうか?」
今度は本当に目を剥いた。挑発にしてはあからさま過ぎる。それにアッサリ載せられたのか、グラスを握り直した相手は残りを喉の奥に無理矢理流し込んだ。唇の端から滴っているものを拳で拭う。呑めない訳ではないが、そこまで強くもないのだろう、表情に余裕がない。
「じゃ、三杯目行こうか」
イリナは機械のように黙って酒を継ぎ足している。無意味なくらいにニコニコ笑っているけどそれが逆に不気味な怖さを醸し出していた。
「乾杯」
今度はグラスをぶつけた。例によってあっという間に空にする。相手は持ち上げたグラスを睨んだまま微妙に顔を強張らせていた。
「イリナ、悪いんだけどつまめるもの何か適当に用意してくれないか?」
「何か適当にって何よ」
「簡単なものでいいよ。手間がかからないものなら」
口が寂しくてな。何かを訴えるように半開きにした口を指差す。確かに、呑むなら何か食べないと体に悪い。
「お前らも何か適当に食えよ。ボーッと待ってても暇だろ」
全員がジロリとウォッカを睨んだ。眼光が鋭いと言うより単に目付きが悪いだけだった。これまでこんな風にして凄味を利かせる事しかして来なかったんだろうな。そんな目だった。
「先に胃袋にものを入れときゃ多少酔いづらくなるしな」
奥にいた一人が大将格と思しき男に何か耳打ちした。顔をしかめたまま何度か軽く頷く。
「メニューを貸してくれ」
残っていた九人のうち、四人がカウンター席に座った。五人はその後ろで待機している。
ミリアムは席を立つと軽く腰を折ってメニューを手渡した。一番上のボタンを留める事も忘れない。店に来ている以上、客は客だ。誰かのようにあんな慇懃無礼を絵に描いたような態度は取れない。羨ましくもあるけど。
「あ、そうだ。忘れてた」
椅子に沈みそうになっていた腰をもう一度浮かせた。
「ウォッカさん」
カウンター越しに声をかけるとウォッカは見るからに機嫌の良さそうな顔をこちらに向けた。
「今日、師匠とここで呑む約束してましたよね」
「ああ。そういや少し遅いなあ」
壁の掛け時計を見ながらグラスを傾ける。
「少し遅くなるけど必ず行くから先にやっててくれ、って」
「はい。もうやってます」
グラスを揺らして笑う。もう完全に楽しんでいた。
「何か用事でも出来たのかな」
「さあ、そこまでは……。寄るところがあるみたいな事は言ってましたけど」
「何処だろう」
ミリアムは黙って首を横に振った。急ぎの用と言う訳ではなさそうだったけど、こうして約束をずらすくらいだから簡単に捨て置く事も出来なかったのだろう。
「わざわざ有り難う。それまでこいつらと時間潰してるよ」
潰すのは時間ではなくこいつらそのものと言う気がしないでもないけど、退屈しのぎには打ってつけなのは間違いない。隣にいた男が苦しそうに顔を歪めながらグラスを開けた。椅子から立ち上がりかけたイリナが恭しい仕草でグラスを酒で満たす。
「いい呑みっぷりですね。何でしたら、もう少し大きなグラスになさいますか?」
男が思い切り睨み付けた。酔っているのか気持ちが悪いだけなのか、眼光に力がない。イリナはそれを受け流すように殊更優しく笑った。全く以ていい性格をしている。
「あ、そうだ。ツマミの支払いはどうする?」
「そんなの決まってるだろ」
振り向いたイリナに、ウォッカは立てた人差し指を軽く振りながら言った。
「酒と一緒にして負けた方に請求すりゃいい」
イリナは声を上げて笑った。連中の表情が露骨に引き攣った。
「悪いわね、野暮な事聞いて」
手を振りながら厨房に消えていく。一体何を作るのだろう。せめて酒が進むものであればいいけど。
「君も忙しいようなら仕事に戻りな。その方がご両親も助かるだろ」
「ミリーでいいですよ」
ウォッカのグラスに酒を注ぐと一本横線を引いた。紙と鉛筆を瓶の脇に置く。
「その方が、私も話しやすいから」
まだ二日も経っていないのに、イリナとは旧知の仲のようにすっかり馴染んでいる。それが少し羨ましかった。呼び方で距離が少しでも近くなるならそれに越した事はない。
「じゃ、遠慮なくそうさせてもらおうかな」
ウォッカは挨拶でもするようにグラスを軽く振った。
「今この場で呑めないのが残念だな」
「仕事が終わったら、私も少しだけ頂こうかな」
と言ってもイリナのようにガバガバ呑む事はしない。グラスに半分注いだものを少しずつ、今はその程度にしている。本音を言えばもう少し呑みたいけど、明日は学校もあるしそうも言っていられない。お陰で味も覚えて来たし、父やイリナと酒を酌み交わす日が来るのもそう遠い話ではないかなと思う。或いは強引に誘われるかも知れない。そうなったら拒まないだろうな。その理由もない。
でも。ウォッカは空になったグラスをカウンターに音を立てて置いた。縦に引かれた線の真ん中を串刺しにするようにして横に線を引く。まだ呑み始めてから十分も経っていない。それでこのグラスで五杯は速すぎる。速さも去る事ながら、輪をかけて凄いのが全く酔っている気配がない事だ。まるで水を呑むように酒を胃に流し込んでいる。呑めないより呑めた方が絶対に楽しい、とイリナからちょくちょく聞いてはいるけど、ここまで呑もうとは流石に思わない。楽しく呑む以前にあっという間に昇天しそうだ。
「じゃ、後で呑もう。みんなと一緒に」
一瞬どう応えるべきか迷った。こいつらを潰す事が前提と言うか、みんなと呑む事が既に決まっているような口振りだった。ウォッカにとっては自分から吹っ掛けた呑み勝負に勝つ事は既成事実も同然なのだろう。
「どうぞ」
空になったグラスに琥珀色の液体を注ぐ。さっきそうしたように鼻に近付けて香りを楽しむと、捧げ持つようにしてグラスを上げた。
「あなたに一杯」
隣の男のグラスにコツン、とぶつける。
「私に一杯」
酒が吸い込まれるように消えて行く。対して男のグラスの酒はまだ一滴も減っていない。
「何だ? もう腹一杯か?」
持っていたグラスを傾ける事もせず、静かにカウンターに置いた。体が傾いだ。と思ったらそのまま前のめりに倒れた。ぶつかりそうになったグラスを横から伸びた腕が素早く回収する。完全に意識が飛んでいる。
「案外情けねえなあ」
ウォッカはグラスの中身を移し変えている。
「潰れるのが早すぎなんだよ」
情けねえ。当たり前のようにグラスを傾けた。誰が口をつけたつけないと言ったところは全く気にならないらしい。性格が出ている。
「一人片付いたな。次は?」
全員が音もなく身を引いた。酒が好きとか嫌いとかの問題ではなく、これに付き合わされたら命に関わると言う純粋な危機感に依るものだろう。こんな風に呑んだら間違いなく死ぬ。好きであっても命をかけて呑む気はないに違いない。
「呑まねえなら勘定済ませてとっとと帰れ。ま、このまま帰ったところで手前らのボスが納得するとも思えねえがな」
兵士連中の表情がさっきとはまた別の意味で強張った。行動も主張もふざけているとしか思えないけど、こんな事でも大真面目にやっているのだ。ちょっと信じ難い。
奥で控えていた大柄な男が一歩前へ進み出た。周囲の仲間が身を引いて道を譲る。よくぞ名乗りを上げたと言ったところだろう。大抵の奴は彼に対する期待と自分でなくて良かったと言う当たり前過ぎる安堵だけだった。どいつもこいつも自分の事しか考えていない。
「じゃ、仕切り直すか」
既に用意していたグラスの縁ギリギリまで酒を注ぐ。顔の高さまで持ち上げたグラスを小さく揺らした。
「乾杯」
ウォッカを睨み付けただけで乾杯は返さなかった。いつも通り一気に飲み干したウォッカに対して、相手のグラスにはまだ半分近く酒が残っている。ウォッカの勢いに巻き込まれないようにしているのか、これがこいつの作戦なのかも知れない。確かにこの調子で呑み続けたら最初の男の二の舞は避けられない。飽くまで自分のペースを維持して数を稼ぐ腹積もりか。
でも。ミリアムは目の前でグラスを煽るウォッカを改めて眺める。つまむものもないのにどうしてこれだけの速さでこれだけの量を呑めるのか。考えたら頭が痛くなって来た。多少は考えた上での行動なんだろうけど、焼け石に水だな。呑む速さがそもそも違い過ぎる。
「頼むわ」
ウォッカは嬉しそうに笑いながらグラスをカウンターに置いた。グラスを満たす前にボトルが空になった。
時折吹く風が木々を揺らしている。日差しは日増しに暑さを増しているが、太陽が地平線の向こうに隠れると途端に存在感がなくなる。まだ夏には程遠い。出来る事ならこの儚さの中にもう少し身を置いておきたかった。単に暑いのが苦手なだけだが。衣替えをするにはまだ早い。ガイデルは羽織っている上着の襟を立てた。
約束をすっぽかした訳ではないが、待たせる事になったウォッカを思うと少し後ろめたいものを感じる。別に今でなくても構わないのだが、塞ぎ込んでいる友人を尻目に酒を酌み交わす事に気が引けるものを感じた事も事実だった。何より、ここしばらくまともに顔を見ていない。そちらの方が気になる。本人にしてみればそれだけ辛いのだろう。それは想像に難くない。身寄りのない人間にはまず得られないものを突然奪われたのだ。ガイデルはとうの昔に無くしている。それを今更持とうなどとは思わないが。全く、敵ながらやる事がしたたかだ。一思いに殺さず生かしておく辺りに吐き気がするくらいに腹が立つ。首筋に刺した管から血を吸い取るようにして少しずつ、だが確実にこちらの力を削いでいく。歪めた口元から舌打ちが漏れていた。こちらの身動きを封じ確実に弱らせ、最後に息の根を止める。まるで寄生虫、いや吸血鬼のようだった。直接的な害を被っていなくても、やがてそれは周囲に波及していく。それに浸食されたら、全身を蝕まれた時が来たら、それは完全なこちらの敗北を意味する。
こちらを弱らせる事が奴らの狙いの一つではあっても完全に息の根を止める事が最終的な目的ではないはずだ。搾取を続ける以上それは有り得ない。こちらが先に潰れてしまったら元も子もないからだ。だが現状を打開する手立てを打たない限り事態の好転は望めない。案外、奴らは奴らで今後の道筋を立てられていないのかも知れない。それをお粗末と笑い飛ばすのは簡単だが、この膠着状態を動かすのは想像以上に難しい。奴らにしても、下手にこちらを刺激してこれまで鬱積した怒りを爆発させられても困るだろう。となると現状維持が理想だろうか。こちらも人質を取られている以上、迂闊に手は出せない。それを変える何かを誰もが望んでいる。
だから、今の状態で自分に出来る事と言えばこうして誰かに会いに行って話をする、その程度が関の山だ。少しでも気を紛らわす事が出来たら、話し相手になれればそれに越した事はない。それが取るに足らないような事であっても、何もしないよりかは遥かにマシだ。あれこれ考えて迷うだけ迷って結局何もしなかったら何一つ変わらない。変わらない事には何の意味もない。巻き込まれた人間の一人としてただ傍観するのではなく、当事者の一人として関わりたかった。義務があるなどと大層な事を抜かすつもりは毛頭ない。だが、見過ごすような真似は絶対に出来なかった。自分もこの街の一部なのだ。
山の夜道には人影一つない。歩き慣れた道とは言え、ランプの灯りがなければ結構難儀する。教会の陰が見えて来た頃、いつもと様子が違う事に気付いた。門の手前にある木の側に何かが立っていた。時折嘶いたり足を踏み鳴らしたりしながら主人の帰りを待ち侘びていた。馬はガイデルの存在に気付くと何かを期待するように何度か鳴き声を上げた。だが主人でない事を悟ると後は見向きもしなかった。馬の前を通り過ぎて門を潜る。教会ではなく、離れの方へ歩いて行く。明かりは灯っていた。ただカーテンが引かれているため中の様子は窺えない。
ドアをノックした。返事はない。物音も聞こえない。ドアの前に立ったまま耳を澄ませる。相変わらず何も聞こえないが、誰かいる事は確かだった。気配は感じる。ただそれは一向にドアの方へ近付いて来ようとはしなかった。もう一度ドアをノックした。気配が僅かに動いた気がした。だがやはりそこから微動だにしない。誰かがいるのは間違いない。ならばどうして出ようとしないのか。門の前では馬が落ち着きなく括りつけられた木の周りをウロウロしている。先客がいる事も確かなようだが、そいつはそもそもこんな時間に何の用があってこんな所に来たのか。あからさまに居留守を使って訪問して来た客を迎えようともしない理由は何なのか。出迎えないのは今会う事が、今会われると都合が悪いからだ。そうでなければ居留守を使う理由の説明がつかない。だとしたら、それは一体誰に当て嵌まるのか。会いたくないのか、それとも会われたくないのか。ここであれこれ考えていても何も始まらない事に変わりはなさそうだった。少なくとも、ここで返事を待ち続けても答えは出て来ない。ドアを叩くために握り締めた拳を繋ぎのポケットに突っ込む。来客がまともな感性の持ち主なら家主に出迎えるよう促すだろう。ドアが開けられないと言う結果に対してどんな原因と過程があるのか。家主は来客を無視して居留守を決め込むような不届き者ではない。となるとある程度可能性は限られて来る。ガイデルは門の外にいる馬を見た。今度はドアを睨み付ける。何とも言えない嫌な感覚が胸の中に充満していく。ポケットに右手を突っ込んだままドアに背を向けた。まるで約束をすっぽかされた子供のような反応だが、胸クソが悪いのではなく胸騒ぎがする。それも収まる兆しがまるでないような、そんな代物だ。誰が何のために、どんな目的でここに来ているのか、それが見えない。可能性はいくつか思い浮かぶがどれも推測の域を出ない。
悪い事が起こらなければいいが。転がっていた石を爪先で蹴飛ばした。門を出た時、ふと顔を上げるとさっきの馬がこちらを見ていた。目が合った瞬間、歯茎まで見せてざまー見ろと言うように下品に笑った。馬に馬鹿にされた気がした。




