二日目 その十
目の前にある茶色い壁には見覚えがあった。いや壁ではない、天井だ。横たえていた体を起こすと、カティはまだ若干フラついている頭を右手で押さえた。
体が重い。動かす事が酷く億劫だった。それくらい疲れているのだ。自覚は全然なかったけど。全速力で走った事に加えてこれまでは全く無縁だった体験をしたせいに違いなかった。思い出そうとするだけで肩が震えた。体を両手で抱き締める。
「早く忘れた方がいい」
涙ぐみそうになったカティの肩を擦りながらウォッカは言った。
「ウォッカさんはこういう時、どうするんですか?」
「腹が立ったり納得が行かなかったりした事だったら、取り敢えず自分なりに色々考えるかな。欠点とか問題点ならば改めるべきだし」
「真面目なんですね」
見かけによらず。当の本人は首を傾げていた。
「真面目かどうかは判らないけど、無視してもいい事とそうでない事の区別くらいは出来ないとまずいだろ」
人として。眉間に皺を寄せて虚空を睨む。やっぱり真面目な受け答えだった。
「今回みたいな場合はどうするんですか?」
「売られた喧嘩は買うだけだけど、君の存在に気付けなかった事は大きな反省点だな」
さっきまでの考えを捨て切れていない。真面目な上に責任感も強い。いや、真面目だからこその責任感と言う方が自然だろう。
「改めるべき部分は改める。余計な事は考えない。それだけだよ」
「余計な事?」
深い考えもなく聞き返したカティに、ウォッカは屈託なく笑った。
「怖かった事とか、なかなか結論が出ないような事をあれこれ考えたところで仕方ないだろ? 全く考える必要がないとは言わないけど、必要以上に考える事もしない。疲れるだけだよ」
妥当な指摘や注意には耳を傾けても無駄に悩ませるような事は極力考えない、と言う事だろうか。人の話に一切耳を傾けないほど子供ではないし、逆に考え過ぎてウジウジするほど情けなくもない。大人だな、と思った。四つしか離れていないのにそれ以上の年の差を感じる。伊達に老けていない。
本人がどう感じているかは……今の言葉の通りなのだろう。端から見た印象とは大分違う。適当でいい加減に見える反面、実際は責任感も強く、安易に妥協するような真似はまずしない。さっきもカティが説得したから納得してくれたけど、今の言葉の意味を吟味すればそれも表面的なものでしかない。でも、決して嘘を吐いている訳じゃない。無関係な人間を巻き込んでしまった事に責任を感じ続けていたら……。カティは両腕で自分の体を抱き締めた。また寒気がしたからだ。責任を引き受けようとする自分を晒すような事は絶対に出来なかったはずだ。だから納得して見せた。そうするしかなかっただけだ。
ただお礼を伝えたかっただけなのに。非礼を詫びたかっただけなのに。それがどうしてこんな事になってしまったのか。考えると溜め息が出る。さっきのウォッカの言葉を借りるなられば、考えなければそれで済む話なんだろうけど。
でも。肩から背中にかけて、それと左膝を中心にして不思議な温かさが波紋のように広がっている。ウォッカの掌を通して伝わる力はカティの体の芯に火を灯してくれている。
どうしてこんな事が出来るのだろう。この力は一体何なのだろう。カティには当然判らない。それを知りたいと思う気持ちはあるけど、下手にそこから先へ踏み込む気はなかった。好奇心を満たすために人の心の中にズケズケ踏み込むような事は絶対にあってはならない。でも、こういう絶対に口に出来ない秘密を共有している事がカティには嬉しかった。しかもただの秘密じゃない。まず、いやこんな事は絶対に有り得ない。ウォッカが力を見せた事を自ら誰かに語るような真似は絶対にしないだろう。カティも人に話す気はない。秘密だよ。ちょっと嬉しい。
それに喜んでばかりもいられなかった。それに気付いたのは家に帰ってからだった。
「あの」
上目遣いで遠慮がちにウォッカを見上げると、何も言わずに腰を低くした。爪先をゆっくり地面に着ける。
「もう大丈夫かい?」
「はい、何とか」
大丈夫とはとても言えないけど、一人で歩けるくらいまでには回復している。多少フラつくのは多目に見て欲しかった。抱き上げられているところを家族に見られる訳にはいかない。一体どうなるか判ったものではない。
スイングドアを開けて家に入る。
「ただいま」
「お帰り」
テーブルを拭いていた父が顔を上げた。
「遅かったな」
何気無く口にしたであろう父の言葉に体が音を立てて固まる。
「うん。明日試験があるから放課後三人で勉強してたの」
「あら、エレンとサラだったらさっきまでここでお茶飲んでたわよ」
顔面から前のめりにずっこけそうになった。どうしてこうも間が悪いのか。いや、そうじゃなくて嘘に嘘を塗り重ねてる時点で既にダメダメなのだ。父の目尻が微妙に強張った、ように見えた。
「取り敢えず、少し座ろう」
テーブルの椅子を引くと父はその真向かいに腰を下ろした。出来る事ならご辞退願いたいけど、ここで断るには明らかに不自然だった。椅子に座ろうと足を前に出した瞬間、下半身から感覚が消え失せた。気付いた時には床にへたり込んでいた。足が全く利かない。
「おい、どうしたんだ」
父の顔が明らかに強張った。膝が有り得ないくらいに笑っている。本人はちっとも笑えないのに。自分の力で立つ事などとても出来ない。
「僭越ですが、」
店全体が暗くなった。出入口から入る光が遮られたのだ。昨日と同じだった。
「その理由は俺から説明します」
神妙を絵に描いたような表情をしたウォッカがドアの前に立っていた。事態を飲み込めない父と母は困ったように顔を見合わせている。
「お帰り」
モップを肩に担いだイリナは食堂全体をゆっくり眺め回した後、
「どしたの?」
と、やっぱり事態を発展には何ら寄与しない言葉を投げ掛けた。父は黙って首を横に振った。
「ウォッカも随分遅かったわね」
「暑苦しい礼儀知らず共にえらく歓迎されてな」
暑苦しいのかむさ苦しいのか迷うところだけど、それに巻き込まれた側からして見ればどうでもいい事に変わりはなかった。ウォッカは昨日もそうしたようにリュックをバルコニーに置くと店に入った。父と母が手を貸してくれたお陰で何とか椅子に座れた。ウォッカはそのすぐ隣に腰を下ろした。父と母は真向かいに座った。イリナは食堂の一番隅っこにあるテーブルについてじっとこちらを睨んでいた。
「回りくどい話は好きじゃないんで単刀直入にお伝えします」
これまで働いてきた悪事を白状する罪人のような口調だった。自白をするにしては少し潔すぎるようにも思えた。単に開き直っているだけかも知れないけど。
「さっき、早速奴らが仕掛けて来ました。そこに偶々と言うか、折悪しくその場に居合わせたこの子を巻き込んでしまいまして」
申し訳ございませんでした。立ち上がると腰を折って深々と頭を下げた。やっぱり真面目だった。誠実と言った方がいいかも知れない。
流石に父も面食らったようだった。若干顔を引き攣らせたまま目を白黒させている。
「あの、状況と言うか、話の内容が上手く飲み込めないんですが」
「もう少し具体的に、判りやすく説明して頂いてもいいかしら?」
滅多な事では動じない父の声が微妙に震えているところを見ても、平常心を喪失させるには充分だったみたいだ。反面、母は終始落ち着いている。注意や指摘はしてもまず怒鳴る事はない。大抵はこの世の悩みとは無縁のような顔をして笑っている。感情を乱す事自体が既に母にとっては無駄なんだろうな、と思う。
「取り敢えず、座って下さいな」
手を差し出して再び着席するようウォッカに勧める。元々ボサボサだった髪を掻き毟ると、大きなものを我慢するような顔をして椅子に腰を下ろした。
「順を追って、私達にも判るようにご説明頂けますか?」
「はい」
ウォッカは肩を上下させてゆっくりと深呼吸した。そんなウォッカを父は黙って見詰めている。
「午前中くらいから誰かが彷徨いてたのは気付いちゃいたんですが」
「そいつらが襲って来た訳ですね?」
渋い顔で頷いたウォッカに、父は苦虫を噛み潰したような表情で溜め息を吐いた。
「ヨハンの所に剣を預けた後くらいから背後の気配がざわつき始めて、まあ売られた喧嘩は買うだけだから相手するのに丁度いい場所を探してたんですけど」
父の眉間に思い切り深い縦皺が刻まれた。気付いていないのか、ウォッカは特に意に介する様子もなく話を先に進める。
「廃屋が立ち並んでる一帯がありますよね、そこに向かってる途中にこの子と出くわしまして」
「どうして?」
「ここから先は私が説明する」
父の言葉を制するように、普段よりもいくらか強めの声を出した。ハッとして我に返る。
「お礼が言いたかったの」
「お礼?」
首を傾げた父に、母は少し疲れたような顔で溜め息を吐いた。
「何のお礼だ?」
「昼間、彼がお弁当を届けてくれたでしょう?」
カティは小さく頷いた。迂闊な発言を後悔するように、父は少し決まりの悪そうな顔をしてカティから目を逸らした。
「折角遠い所まで時間を割いて届けに来てくれたのに、まともなお礼の一言も言えなかったの。だから、」
「それを伝えようとした、と」
イリナが言葉の後を継いだ。頷く事もせず顔を伏せた。イリナが長く息を吐く音が聞こえた。
「それにしても、よく見つかったわね」
「それは私も驚いてる」
「俺も同感」
ウォッカも小さく手を上げた。そこまで大きい街じゃないけど、それでもあらかじめ約束でもしておかない限りこんな風に会えるなんて事はまずない。大した偶然もあったものだ。あそこでウォッカに会っていなかったらきっと今頃はこんな事にもなっていなかった。それは間違いない。カティは所詮会える訳がなかったと諦めて家路に就き、ウォッカは全身を余す事なくノビノビと使ってあいつらを思う存分ボコボコにしていた事だろう。
そうなっていたかも知れない現実を想像した時、妙な寂しさを感じた。何が寂しいのか判らなかった。一歩間違えたら殺されていたかも知れないのに。全うな神経の持ち主なら真っ先にそう思うはずだ。
一体何を期待していたのだろう。
「あんたはその時ウォッカがあいつらに尾行されてるなんて事はちっとも気付かなかった」
「気付く訳ないじゃない」
あの時は見つけた事がただただ嬉しくて、前しか見ずに夢中で走っていた。周りの様子なんて何も目に入らなかった。それに、人の気配を読めるような第六感みたいな力なんて普通の人には絶対にない。隣に座っているウォッカをこっそり窺う。かなり正確に気配の数を把握していた。前を向いたままなのに、どうして後ろの様子まで判るのだろう。背中に目でもついているのかな。
「これから喧嘩がおっ始まるって時に、その渦中に自ら突っ込んで行ったと」
「結果的に見ればな」
事実はそうかも知れない。でもその場に居合わせた人間から一言言わせてもらえれば、そんな事どうして判るんだと言うのが正直な言い分だ。人の気配に気付いていたとしても、ウォッカに対してこれからどうこうするか何て事は勿論だし目的だって話を聞いて初めて判る事だ。それが最初から判っていたらそれこそ魔法だ。
どうして結果を元にしてしか話をしないのだろう。
「これから何が始まる何て事はこれっぽっちも知らなかったんだから、これ以上カティを責めるような真似は控えてくれよ」
「別に責めてなんかいないわよ。事実関係を確認してるだけじゃない」
ねえ? とイリナは同意を求めるように少し首を傾げて見せた。その目が嫌らしい。
父が仕切り直すようにして一つ咳払いした。自然と背筋が伸びた。イリナも背中を真っ直ぐにしたけど、目は相変わらず不気味に笑っていた。下世話な好奇心を理性で無理矢理抑え付けているような顔だった。絶対に今のこの状況を楽しんでいる。
「一つ、よろしいですか?」
「はい、どうぞ」
何だか大人のやり取りにしては酷く間抜けに見えた。雰囲気としては話を聞くと言うよりもむしろ漫才を始める方が余程相応しかった。
「さっき、武器は全てヨハンのところに預けて来たとおっしゃっていたかと思いますが」
「はい、そうです」
父は継ぐべき言葉を見失うようにして半開きになっていた口元を右手で覆った。
「では、奴らが襲って来た時は、全くの素手だった訳ですよね」
「ええ、その通りです」
迷う事なく即答したウォッカを目の当たりにした父の表情が微妙に引き攣り始めた。気持ちはよく判る。カティも、今こうしてここに居られる事が信じられなくなって来た。
「完全に丸腰の状態で、奴らを撃退した、と言う事でしょうか」
「そうか、一応そういう事になるんですかね」
相手が武器を持っている事にも自分が素手である事にも特別これと言って関心がなさそうだった。それこそどうでもいいのだろう。どちらであれ、結果に影響はない事に変わりはない。
「お怪我は?」
「ありません。俺も、娘さんも」
厳密には今はもうないと言う事になるかなと思うけど、それを訂正する気はなかった。これだけは、絶対に秘密だ。
「あの、相手は武器を持っていたんですよね?」
「ええ。飾りみたいなもんでしたけど」
当たれば間違いなく命を奪うものでも、ウォッカの場合は殆ど当たらない。仮に当たったとしてもすぐに癒えてしまう。相手からしてみれば悪夢のような話でしかない。
使う言葉を探しあぐねるようにして黙り込んだ父を尻目に、母は穏やかに笑いながら言った。
「とっても、お強いんですね」
「ただの護身術ですよ」
腕を組んだ父が背凭れを軋ませた。
「こんなに凄い護身術は戦時中の軍隊でも教えないですね。いや、誰も教えられる人なんていませんよ」
「買い被りですよ」
謙遜とは少し違って聞こえた。ウォッカにとっては素手で帯刀している相手をぶちのめす事など端から朝飯前なのだろう。だからそこを評価されても響かない。ならば、ウォッカが想定している相手は誰なのか。考えていたら怖くなって来た。
「本当にすみませんでした。ご迷惑をお掛けしました」
立ち上がったウォッカは腰を折って深々と頭を下げた。父と母も慌てて席を立つ。
「そんな風に頭を下げないで下さい。あなたがうちの娘に何かした訳ではないんですから」
「充分してますよ。危険な目に遭わせた。一歩間違えたら死んでます」
そう。ウォッカがいなかったら、ウォッカでなければ確実に死んでいた。命を懸けて闘ってくれた、と言うより命を懸けるほど大層な相手ではなかったけど、ウォッカが助けてくれた事は紛れもない事実だった。それは絶対に覆せない。
「でも、あなたはこうして自分だけじゃなく娘の命も救って下さった。だから顔を上げて下さい」
言われた通り、ウォッカは顔を上げた。苦渋に満ちた表情だった。
「結果はどうあれ、この子を巻き込んだ事実に変わりはありません」
「ならば、あなたがうちの娘を助けてくれた事にも変わりはありませんよね? 危険な目に遭わせてしまった事に責任を感じているようですけど、あなたはこうして傷一つなく娘を私達に返して下さった。それだけで充分ですよ。だからそんなに渋い顔はしないで下さいな」
再び頭を垂れたウォッカの肩に母は手を置いた。ウォッカはそれでも顔を上げない。
「情けない事ばっかり抜かしてないで顔上げなさいよ。あんたを責めてる人なんて誰もいないんだから」
「イリナ」
横から睨んだ父をイリナは睨み返した。
「言わんとしたい事は同じなんだからいいじゃない」
「そういう問題じゃない」
「私はウォッカにより伝わる言い方を選択しただけよ」
イリナは譲らない。
「言った言わないじゃなくて、何をどういう風に伝えるかが大事だ、って普段から言ってるじゃない。今だってそうでしょ?」
立ち上がった父はそのまま押し黙った。日常的に口を酸っぱくして言っているだけにぐうの音も出ない。
父をアッサリ言い負かした事を誇るでもなく、イリナは飽くまで淡々と言った。
「だからいい加減顔を上げなさい。あんまりあんたの個性に相応しくない事ばかりしてると見る目も変わっちゃうわよ」
「どういう意味だよ」
ウォッカが顔を上げた。物騒な顔つきだった。
「じゃ何か? 俺の個性は迷惑かけた相手に詫びの一言もロクに入れない恥知らずとでも言いたいのか?」
「少なくとも、いつまでも下向いてウジウジしてるより今の方が余程あんたらしいわ」
よくここまで失礼な事を臆面もなくズケズケ言えるものだ。羨ましいを通り越して寒気がする。
でも、全くその通りだった。口を挟む余地もない。イリナと絡んでいるウォッカの方が余程らしかった。自然と頬が綻ぶ。
石膏で固められていたようなウォッカの顔から途端に力が抜けた。バツの悪そうな表情で頬を掻いているけど、不貞腐れているのとは明らかに違う。何処か愛嬌のある表情だった。
「そういう顔の方がお似合いですよ」
「ありがとうございます」
体の前で手を組んだ母は満足そうに笑った。
「真剣な表情もなかなか男前だけど、あなたは今みたい笑っている方が素敵よ」
ウォッカの頬をからかうように人差し指で突っついた。完全に子供扱いしているけど、イリナと一つしか年が離れていないのだ。母からしてみれば子供同然なのだろう。
「本当に、有り難うございました。昨日ばかりか今日まで危ないところを助けて頂きまして」
母は改めて頭を垂れた。綺麗に背筋が伸びているし、腰の角度も申し分ない。お手本にしたくなるようなお辞儀だった。
「昨日はともかく、今日は俺のせいですよ」
「そういう事はもう言わないで下さい。あなたはもう充分、ご自分の責任を全うされてますよ」
母が口にした責任と言う言葉を聞いた瞬間、思わずハッとした。母はウォッカの行為の何処に責任を見たのだろう。
「あなたも、今度はちゃんとお礼を言いなさい」
促されてビックリした。助けてもらった後も泣いてばかりで殆どまともに謝っていなかった。
テーブルに手を付くと足に力を込める。まだ多少フラついているけど、さっきみたいにへたり込むような事はなかった。
胸を張りすぎない程度に背筋を伸ばしてウォッカと向き合った。照れ臭さとバツの悪さを足して二で割ったような、それでいて何処か憎めない表情でこちらを見ている。思春期真っ盛りの男子が笑いを取ろうとして微妙に失敗した時の顔つきに少し似ていた。初めて年相応に見えた。
「ありがとうございました」
さっき母がそうしたように、背筋をピンと伸ばしたまま体の前で両手を揃えて腰を折る。
「どう致しまして、と言うのはやっぱり抵抗があるな。その後の事を考えると」
「全く、あんたも無駄に固いわね」
イリナは苛々を抑えようともせずに頭を掻き毟った。
「本人がこうして頭下げてお礼言ってるんだからそれでいいでしょうが」
「そっちはな。これは俺の問題なんだよ」
やっぱり、自分に安易に妥協しない。判っていた事ではあったけど、改めてそれを目の当たりにすると思わず苦笑いしてしまう。
イリナは値踏みするようにしげしげとウォッカを眺め回した。
「何だよ」
「あんたって、意外に真面目なのね」
「その意外にってのが余計だな」
「もっと適当だと思ってたから」
どうしてこうも素直なのだろう。少なくとも宿屋の娘とその客と言う垣根は確実に越えている。
「扱う内容に依るだろ。適当なところは適当だし、拘る部分は拘る。そんなもんだろ」
「で、今は拘る部分なのね」
ウォッカは使う言葉を慎重に選んでいるのか、渋い顔をして人差し指で額をトントン叩いている。
「拘ると言うか、易々と引いちゃいけないんだよ。事の発端は俺にあるんだからな。その始末は自分でつけるのが筋ってもんだろ」
「それがあなたのケジメなのね」
「ま、そんなトコだな」
照れ隠しかバツが悪いだけなのか、腕を組んだウォッカは眉間にシワを寄せて言った。
堪え切れなくなったように、塞いだ唇の先から笑いが漏れた。それが次第に周囲に感染して行く。気付けば食堂は笑いに埋め着くされていた。父も母も、目に涙を溜めていた。イリナに到ってはお腹を抱えて笑い転げている。遠慮の欠片もない。ウォッカだけがムッツリとした表情で押し黙っていた。そんなウォッカと目が合った。どんなに不安でもどれだけ怖くても、心の底からホッと出来る。そんな笑顔だった。
その少し後に猛烈な睡魔に襲われた。どうしてこんなに眠くなるのか自分でも判らなかった。とにかく眠い。起きていられなかった。イリナに肩を支えてもらってようやく自室のベッドまで辿り着いた。目を閉じた後の記憶はない。いや、厳密には今だった。窓の向こうはほぼ真っ暗に近かった。でも僅かに日差しの名残がある。完全に日が暮れた訳ではないのだろう。そうでなくて良かったと胸を撫で下ろす。
まだ少しフラつく頭を右手で掴む。頭痛はないけど体全体がズッシリと重い。砂袋を飲み込んだような気分だった。
溜め息が漏れた。全くの無意識だった。この事は、みんなには内緒にしていて下さいね。どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。別に深い考えがあった訳ではない。危険な目に遭った事を、助けられた事を必要以上に知られたくなかった。心配させたくないし、何より恥ずかしかった。そう、自分のためでしかなかった。顔が熱くなった。冷静に考えるまでもなく、他人様の娘を危険に晒すような目に遭わせたら、それを黙っているなんて普通有り得ない。ウォッカにはカティの保護者、つまり両親に事の顛末を説明する義務がある。この話をウォッカにした時、どうしてあんな苦い顔をしていたのか判らなかった。さっき両親の前で事の次第を説明するウォッカを見て、初めてその意味を悟った。思い出そうとするだけで首筋から耳にかけて火が点いたように熱くなる。結局、頭の中にあるのは自分の事だけだった。それ以外には何もない。ウォッカがあの時見せた苦笑いも、「努力する」と言う言葉の意味も、その全てがズッシリと肩にのし掛かっている。溜め息が出た。自分の事しか考えていない誰かとは偉い違いだ。
はあ。
溜め息が止まらない。穴があったら入りたかった。どうしてもっと周りを見ようとしないのだろう。何故答えを示されないとそれに気付かないのだろう。極々単純な理由だ。そんな発想がそもそもカティにはない。目の前にある物事しか目に入らない。視界の外にあるもの、これから視界の中に入って来るものがウォッカにはちゃんと見えている。素直に羨ましかった。見ている景色が全く違う。どうやったらそこに行けるのか、カティには検討もつかなかった。風に乗って空を舞う鳥を見上げるような思いだった。そこまで行きたい。でも絶対に届かない。考えてたらもどかしさと悔しさで胸を掻き毟りたくなった。
起こしていた体を再びベッドに横たえた。いいなあ、私もそんな風になりたい。でも今のままじゃ絶対無理な気がする。見えている景色だけじゃなく、恐らく住んでいる世界がまるで違う。イリナもミリアムも年齢の割には落ち着いているとよく言われるけど、ウォッカのそれとはかなり異なる。上手く言葉に出来ないけど、きっとこれまで歩んで来た道が違う。刃物を持った人間を目の前にしても全く動じない度胸やそれを軽く蹴散らせる技術は一朝一夕で養えるようなものじゃない。それがあるからと言う訳じゃないけど、でも逆になかったら彼は今頃一体どんな風になっていたのだろう。
そんな事を考えても仕方ないな。突っ張っていた肩から力が抜けた。彼は彼であって、カティとは全く違う人間だ。同じである訳がないし、その必要もない。それでも羨ましいなとは思うけど。なれるかな、私にも。せめて憧れだけは持っておきたい。思いだけでも手元にあれば、いつか届く日が来るかも知れない。寝転がっていた体を起こした。いつまでも油を売っている訳にはいかない。窓の外を見る。まだ微かに日差しの色があった。完全に日が落ちていなくて良かった。毛布をはね除けてベッドから飛び降りる。ドアを開けると階下から人が談笑する声が聞こえた。いつもと何も変わらない。それだけで本当に安心出来るのが不思議だった。色んな事のあった一日だったから余計そんな風に感じるのかも知れない。誰かが傍にいると思うだけでこんなに心が軽くなるなんて、やっぱり今日は相当疲れてるのかな。気を抜いたら倒れそうだった。だとしたら相当重症だ。一階に着くと声が少し大きくなった。まだそれほどお客は来ていないのだろう。週の頭では客の入りもこんなものかな、そんな風に考えながら厨房に顔を覗かせる。玉葱を刻んでいたイリナが顔を上げた。
「おはよ」
夜の挨拶には明らかに相応しくなかった。でも頬が綻んだ。
「もう大丈夫?」
「うん」
頷くとイリナは包丁を置いて手招きした。首を傾げたくなった。まだ顔色でも悪いのかな。そんな事を考えながらイリナの隣に立つ。
「本当?」
頬に手が触れた。微かに玉葱の香りがする。背中に手を回して抱き寄せてくれた。見上げるとイリナの顔が目の前にあった。
「良かった」
覆い被さるように抱き締めたまま頭を撫でる。温かかった。
厳しい事も多いけど、こういう風に何かあった時はみんな本当に優しくしてくれる。疑問に感じる事もある。どうしてみんなこんなに優しいんだろう。心が軽くなる。体だけでなく気持ちも温かくなる。さっきウォッカに抱き上げてもらった時とはまた違った安心感で満たされる。有り難かった。
「後で、もう一度ウォッカさんにお礼しておく」
「ええ、そうしなさい」
体から腕が離れた。撫でるようにして頭を叩かれた。
「みんなは?」
「父さんはミリーとお酒取りに行ってる。母さんとアリスは食堂で注文取ってるわ」
「そっか。じゃ、私は中手伝うね」
イリナは黙って背中を叩いた。下手に声をかけるよりも余程気合いが入る。動けるならば即働く。それがここでの暗黙の了解だった。
「ウォッカさんは?」
「さっき温泉から出てきて、今は食堂で呑んでるわよ」
もうじき外もすっかり暗くなる。この時間なら流石に呑んでるか。もう人目を気にする理由もない、食堂に行ったらもう一度頭を下げよう。
慌ただしい足音が聞こえた。こんな風に店の中を歩くのは、いや走るのは一人しかいない。
「カティ!」
厨房に入るなり、アリスはカティに抱きついた。ではなく飛び掛かって来た。
「大丈夫? あいつらに襲われたって聞いたわよ」
「いや、襲われたのはウォッカさんで私はそこに居合わせただけで」
それとも巻き込まれたと言うべきか。どちらか迷ったけど意味合いは変わらない。あれこれ考えるだけ無駄だった。何より、そんな事を気にするような相手ではない。
「怪我はないのよね?」
「それはさっき私が説明したでしょう?」
「いいじゃない。本人の口から直接聞きたいの」
横から窘めたイリナに取り合おうともせず、飽くまでアリスはカティを力いっぱい抱き締めたまま言った。
「大丈夫?」
「だから大丈夫だってば」
アリスの表情から力が抜けた。巻き付いていた腕が体から離れていた。と思ったら今度はさっき以上の力で抱き締められた。いや、さば折りに近い。
「良かった~!」
全然良くない。締め付けられて息が苦しい。
「怪我がなくて何よりよ」
今の方が遥かに怪我をしそうだった。放してくれないと本当に息が出来ない。
「アリス、苦しい」
「あ、ごめんごめん」
床に足がつくとようやく空気が喉を通った。絶対同世代の男子より力がある。女の子なのに。
「彼に助けてもらったんでしょ?」
頷くとそれまで柔らかかったアリスの表情が目に見えて引き締まった。
「相手は何人くらいいたの?」
「十人以上は間違いなくいたかな。あ、違う。十五人だったかな、確か」
ウォッカはあの時カティを含めて十六人数えていた。改めて冷静に考えるとゾッとする。それだけの人数を両手が塞がった状態で相手にしていたのだ。
「それだけの人数を相手にしていた訳でしょ、素手で」
引き締まると言うよりも鬼気迫るような表情に変わっていた。興奮しているのだ。付き合いが長いから判るけど、そうでない人には怒っているようにしか見えないだろうな。
「凄すぎでしょ。そんな事絶対に考えられないって」
「アリス、出来る?」
「無理に決まってるじゃない。多勢に無勢よ」
普通に考えなくてもそんな事は出来っこない。ウォッカは苦もなくそれをやってのけてしまった。只事ではないし、それ以上に只者ではない。
「護身術の域を遥かに越えてる。何処でどんな経験を積めばそんな風になれるのかしら」
「私が知る訳ないでしょ」
話を振られたイリナは素っ気なく言った。相手にしてられないのだろう。会話の中身が暑苦しい上に今はそんなに暇ではない。
「明日、彼に組手の相手してもらうんだ。今からワクワクするなあ」
丸っきり子供の顔だった。それにしても、それだけの実力を持った相手と闘う事にワクワクするなんて発想そのものがカティには信じられない。
「ねえ、怖くないの?」
「え? 何が?」
全く噛み合っていない。豪快に肩透かしを食らったような気分だった。
「そんなに強い人と一戦交えるんでしょ。私だったら怖くて足が竦んじゃうよ」
その前に辞退させてもらうだろうな。アリスの武術の腕前は相当なものだけど、でもそれを以てしてもウォッカに勝つのは難しいと思う。
「やる前から諦めてたら絶対に勝てないわよ」
「珍しくいい事言うじゃない」
出来上がった料理を皿に盛り付けたイリナは空になったフライパンを流しに置いた。
「あなた、ウォッカと組手するんだ」
「うん、明日ね」
「私も混ぜてもらっていい?」
イリナは握り込んだ拳で空を突いた。右手に載せた皿は小揺るぎもしない。
「久々に骨があるのとやれそうだわ」
そのまま厨房を出ていく。背中から殺気が漂っていた。もう早速やる気になっている。
今から明日が待ち切れないのか、アリスは片足ずつで床を蹴りながらステップを踏んでいる。どいつもこいつも好戦的過ぎる。どうしてこんなに闘う事が好きなのか。
「熱くなれるからに決まってるじゃない」
決まっているのだろうか。それに熱くなりたい理由もよく判らない。考えてたら本当に頭が痛くなって来た。余計な事は考えず仕事に集中した方が良さそうだった。手が空いたらウォッカにお酌でもしに行こうかな。無理矢理にでも時間を作ろう。そうでないとゆっくり話せない気がした。そしてウォッカとゆっくり話そうとしている自分に気付いてひっくり返りそうになるくらい驚いた。




