二日目 その七
足音が聞こえる。さっきから歩いているから自分自身の足音が聞こえるのは当然だが、それ以外の雑音が混ざり始めていた。そしてそれがこちらとの距離を徐々に詰めつつあった。
うんざりとしたように溜め息を吐いた。さっさと宿に帰って一杯呑ろうと思っていたのに。昼過ぎに街に来た頃から背後がザワついていたのは感じていたが、ヨハンの店を出てから、武器を手放してからその距離が一気に狭まった。必死に気配を隠そうとするような慎ましさもない。自己顕示欲が強いのか、それとも勝ちを確信しているのか、無駄に大胆だった。流石に見える範囲に姿はないが、それでも十人以上いるのは間違いなさそうだ。
さて、どうしたものか。
真っ直ぐ宿に戻る事は有り得ない。気持ちは向かっているが。それを妨害された事に純粋に腹が立った。ならばせめてその気持ちに応えてやろう。丸腰になるのを見計らっていたところを見ても、確実に仕留める気でいるのは間違いなさそうだった。形振り構わず始末する気でいたとしたら、いくらでも機会はあったはずだ。誰かに見られるのは都合が悪いのか、それともそこまで恥知らずではないだけか。まさか話があるとは思えない。あったとしてもそれに応じる気も、ましてや用もない。
帽子の庇を掴むと軽く下に引く。目元を隠した状態で顔を動かさずに辺りを窺った。出来る限り気取られたくはないがそれに気付くような雰囲気は欠片もなかった。
一人ずつ仕留めるかまとめて始末するか。選択肢はその二つだ。選択した内容に応じてこれから取るべき行動も変わるが、共通している事もあった。歩調を変えずに周囲を窺う。足が勝手に人気のない場所に向かおうとしていた。便利だ、などとは当然思わない。さっさと用事を済ませて一杯呑りたい。それだけだった。
背後から物騒な気配がゾロゾロついてくる。訳も判らない人物に付きまとわれる煩わしさが初めて判った気がした。
自分の行動を自分で説明出来ない時がたまにある。何故そうしたのか。誰かに聞かれて咄嗟に言葉が出て来なかった、そんな経験があるのは自分だけではない、とカティは思う。
放課後、下駄箱の前で靴を履き替えようとしていた時、誰かが肩を叩いた。
「お急ぎみたいね」
鞄を肩に担いだエレンが下駄箱から出した靴を玄関に落とした。
「べ、別に急いでなんかいないわよ」
「そう? 授業が終わるなり慌てて教室飛び出して行ったじゃない」
それともオシッコ我慢してたとか。言うなり盛大に大笑いした。女らしさの欠片もない。
「急いでないならそこまで大袈裟に走る理由もないと思うけど」
「そんなに大急ぎで走ってない。私には普通です」
「だったらどうして肩が上下してるのよ」
教室から昇降口まで全力で走ったら流石に多少は息も切れる。それを見逃さない観察眼が憎たらしかった。
「二人とも待ってよぉ」
サラが下駄箱の陰から顔を覗かせた。頭に載せた鞄を両手で支えている。どうして普通に背負わないのか。
「おいていかなくてもいいじゃない」
「おいていってなんかいないわよ。ただあんたがトロいだけでしょ」
言い方はキツいけど指摘している内容の半分は正しい。何をやるにしても何処に行くにしても、殿を務めるのは毎度毎度必ずサラだった。
「店番でも言い付けられたの?」
「そんな訳ないでしょ」
接客業が客をほったらかしにして店を空けるはずがない。それをいちいち説明するのも阿呆らしかった。
「さっきミリー姉に買い物頼まれちゃってね」
勿論嘘だった。でも咄嗟に出た言葉にしとは上々だろう。下手に突っ込まれでもしない限りバレはしない、と思う。エレンは小首を傾げて耳の裏を小指でコリコリ掻きながら言った。
「買い物? そんなのあんたがわざわざ学校帰りにする事ないんじゃない? お店におじさんもおばさんもいるんでしょ? イリナ先輩ももう卒業してるんだし」
突っ込みと言うより指摘と形容した方が正しかった。もっとも過ぎて返答に詰まる。
「って言うのは冗談で、私がちょっと寄り道したいだけ」
「だったら、何で買い物頼まれたなんて嘘吐く必要があるの?」
普段鈍いくせにどうしてこういう時に限って的を射た指摘をするのか。睨み付けたらサラは鞄を胸の前に抱えて半歩後ずさった。
「買い物はホントよ。二人とも放課後は部活で体が空かないでしょ」
「ふ~ん」
エレンは腕を組んだまま露骨に懐疑的な目で黙ってカティを睨んでいた。確かに素直に信じてくれるとは思えなかった。
「ま、野暮な誰かとは違って何を買いに行くかなんて聞いたりはしないけど」
「誰よ、その野暮な誰かって」
抗議するサラをエレンは当然のように無視して不気味に笑う。
「彼氏でも出来たの?」
もしいようものならあっという間にバレているだろうな。サラはともかく、エレンに隠し通せる自信はない。
「いる訳ないでしょ」
危うく本当の理由を応えるところだった。それだけは絶対に避けたかった。
「ま、人目があったら何かと不都合なんでしょ?」
意地悪でも嫌味でもなく、ダーツが的の中心を射抜くように綺麗に核心を突く。側にいると本当に心強い。でも敵になったらこれほど厄介な相手もいない。友達で良かったと改めて思った。
「首尾は報告しなさいね」
「どうしてよ」
「決まってるでしょ」
決まっているのだろうか。ここまで当たり前のように言われると拒む理由を探すのが逆に難しくなる。
「あんたの意思を汲んで外してあげるんだから、事の顛末くらい聞く権利はあるでしょ」
どういう理屈だろうか。コジツケもいいところだ。要は一人になりたい理由を聞きたいだけだろう。今聞かないのは応えない事を知っているからだ。
「何しに行くか知らないけど、取り敢えず結果は教えてね」
「だから、買い物に行くって言ってるでしょ」
取り敢えずそういう事にしておこう。ひょっとしたら本当に何か買いたいものが見つかるかも知れない。財布にそこまで余裕がある訳じゃないんだけど。
「何買うの?」
「調味料」
「何の料理に使うの?」
「何だっていいでしょ」
こめかみの辺りが露骨に引きつった。サラは当然の如く気付かない。幼児と何ら変わらない。
「買うもの間違えないようにね」
「間違えないから」
そもそも買うものなんて最初からないから、とは言わなかった。言える訳がない。迂闊にそんな事を口にしようものなら一人になりたい理由を聞かれるに決まっている。
玄関に置いた靴に無理矢理足を突っ込む。後ろも見ずに駆け出した。別に走ったり急いだりする理由なんて何処にもないのに、体が勝手に動いていた。
それが三十分くらい前の出来事だった。降り注ぐ西日を防ごうと額に翳していた右手を退けて火照った顔をパタパタと扇いだ。どうしてこんな事をしているのか自分でも判らない。真っ直ぐ家に帰るよりも街に行った方がウォッカに会えるような、そんな気がした。家に帰れば確実に会えるのに、それに素直に従うには明らかに抵抗があった。
どうしてウォッカが学校に来たのか、その必要があったのかカティには全く判らなかった。リュックの中からお弁当箱が入った巾着袋を取り出す瞬間まで見物に来たのかな程度にしか感じていなかった。旅の支度もあるのに案外暇なんだな、と。差し出された巾着袋が手に置かれた時、初めて顔が赤くなった。どうして気付かなかったのだろう。そう思ったら顔がもっと熱くなった。なのに、あなたに言われたくないだなんて失礼な事を平気で言ってしまう自分が、まともにお礼も言えない恥知らずな自分が倒れそうになるくらい嫌になった。だから、せめてお礼だけはキチンと伝えたかった。人目を避けた理由は昨日と一緒だ。誰かに見られるのが単純にに恥ずかしかった。目を見て、頭を下げてお礼をしたい。それだけだった。
でも、改めて冷静に考えるまでもなく何処にいるかも判らない相手を探す事自体が馬鹿げていた。買うものは保存食が主だろうけど、いつ何処に何を買いに行くかなんて事は予想出来るはずがない。米屋の前を通り過ぎ、乾物屋の中を覗き込んでもそれらしき人影は見えなかった。そうだよね、見つかる訳がないか。
だから諦めて帰る途中に街外れの方へ足早に歩いて行くウォッカを見掛けた時は本当にビックリした。声をかける暇もなかった。一瞬人違いかとも思ったけど、あんなデカい人なんてそうそういるものではない。声はかけそびれたけど、気持ちは大声を出したかった。どうせだったら少し驚かしてみるのも面白いかも知れない。何処に行くのか知らないけど随分急いでいるようだった。
鞄を背負い直すと一気に駆け出した。結構速足だけど追い付けない速さじゃない。伊達に毎日走って学校に通っていない。少し時間はかかるだろうけど充分に距離は縮められる。引いていた汗がまた額から吹き出して来た。
こちらが気付いた事くらいはいい加減判っているはずだ。事実周囲を取り囲む気配の数も増えているし距離も縮まっている。一人気の早いのが集団の統率を無視するように突っ込んで来ているが大して気にならなかった。まとめて片付ければいいだけの話だ。それを含めて数えてみても十七あった。案外多い。だがその方が助かる。戦線から離脱する人数が増えれば後の作業も楽になる。元より売られた喧嘩だ、丁重にお断りする義理もない。握り締めた手に力がこもる。有り難く買わせて頂くとしよう。実際はさっさと片付けて一杯やりたいだけなのだが。
気配の大半は依然として周囲を取り囲みながらピッタリとこちらの後を尾けて来ている。人気のない場所を無意識に探していたがそれは概ね達成出来た。だが人気は絶えても建物はあった。その殆どが廃屋だったが。寂れた場所だった。大都市ならともかく、規模の小さい街ならこういう所があるのもさして珍しくはない。スラムとはまた違った独特の雰囲気に包まれていた。人目に触れる事も、誰かを巻き込んでしまう事もない。その方が好都合だった。
さて。
足の回転を歩きから走りに変えた。気配の動きも速くなった。一人ずつ相手にするのも面倒だった。広い場所でもあればまとめて始末出来る。
一人は相変わらず無神経に接近して来ていた。そんなにすぐ殴って欲しいのだろうか。いい感じに体も温まって来た。背後から殴りかかりたくなる誰かの気持ちもよく判る。熱くなれば、そういう衝動に駆られる事もある。ではご要望に応える事にしよう。握った拳を脇腹に添えた。
走り続けているのになかなか距離が縮まらない。あんなにデカい図体なのに足も速いなんて、ちょっとズルい気がする。それとも運動神経の問題かな。恐らく、と言うかほぼ確実にそうだろうな。やっぱり体格に見合うだけのものを持っている。
それにしても、どうしてこんな人気のない所に行くのだろう。用があるとも思えない。気にはなるけど、後は本人から直接聞けばいい。このまま正攻法で行ったのではまず追い付けない。でも地の理はこちらにある。
よし、先回りしよう。目の前の角を左に曲がった。細い路地を突っ切り、途切れたところを右に曲がる。すぐの角に体を滑り込ませた。石ころや崩れたレンガが散乱していて走りにくいけど、あのまま真っ直ぐ追いかけていく事に比べたらこちらの方が余程早い。最後の路地を通りの方へ向かって全力で駆けていく。視界の中が少しずつ光で埋め尽くされて行く。微かに足音が聞こえて来た。間違いない。
「ばあ!」
路地から出た瞬間、大きく左右に両手を広げてウォッカの前に滑り込んだ。
足を固定したウォッカが砂の上を僅かに滑って止まった。意表を突かれたような顔でこちらを見ている。
「君だったのか」
ビックリしたのとはちょっと違う。ここにいるなんて、こんな所で会う事になるなんて考えもしなかったのだろう。
「どうしたの? こんな所で」
「ウォッカさんこそ、どうされたんですか? こんな人気のない所に行くなんて」
「たまに孤独を感じたくなる時があってね」
よくこういう歯の浮くような科白を真顔で言えるなと感心する。まさか本気で言っているとも思えないが。
「廃屋が目立つけど、やっぱり人は住んでないんだよな」
「ええ。この一帯は統一戦争が終わる間際くらいから人がどんどん離れて行ってこんな風に寂れてしまったんです」
外を駆けずり回って遊んでいた頃、ここもよく集まる遊び場の一つだった。どうして誰も住んでないお家がいっぱいあるの? 疑問をそのまま言葉にした子供の無邪気さを歓迎するように微笑んだ母は、カティの頭を撫でながらそう話してくれた。病巣が体を侵食していくように人のいない家屋が少しずつ増えていく様子を目にするのはやっぱりつらいものがあった。少しずつ、でも確実に寂れて行くのをただ眺めるだけで何も出来ない。人が立ち去った家屋は風化してもここにいた記憶は消えない。いつか戻って来てくれるだろうか。いや、考えるまでもなくそんな事は有り得ない。今の状況なら尚更だ。
「人がいないなら安心だな」
何が安心なのだろう。何を言っているのかサッパリ判らない。
「ところで、この辺りって広場みたいな場所はある?」
「そこで孤独を噛み締めるんですか?」
「それが出来れば御の字かな」
夕日を受けて独り黄昏れている様を想像して一瞬本当に吹き出しそうになった。絶対に似合わない。
「急ぎで悪いんだけど、そこまで案内してくれると非常に助かる」
「そんなに独りになりたいんですか」
お腹の周りを抱えて必死に笑いを堪える。どれだけ孤独に飢えてるんだ。昨日までずっと一人で旅をしていたのに。
苦笑いしていたウォッカが一瞬真顔になった。と思ったら顔が微妙にブレた。次の瞬間、ウォッカの姿が体ごと消えた。同時に背後で枝を乱暴に叩き折るような音が聞こえた。振り向くと地面に真っ二つに折れた木の矢が転がっている。
「気の早い奴だな」
顔を上げるとウォッカがいた。え? と思ってさっきまでウォッカが立っていた場所を振り返る。当然ながらそこにウォッカの姿はない。何が起こったのか判らない。
「怪我はない?」
「は、はい」
事態が全く把握出来ない。一体何が起こっているのか。少なくとも孤独を噛み締めるような呑気な真似は絶対に出来ない。それはハッキリしている。
「面倒臭え、ここで始末しちまえばいいだろ」
少し離れた所からそんな声が聞こえた。始末? 見るとボウガンのようなものを構えてこちらを向いている兵士がいた。腰が抜けそうになった。でも尻餅を突く事はなかった。それどころか逆に体が宙に浮いた。
「急ぎで悪いけど、さっき聞いた場所教えてくれる?」
さっきまでと全く雰囲気が変わっていない。命を狙われているのは間違いないのに、どうして動じないのだろう。
「ここを真っ直ぐ」
「真っ直ぐね」
了解。一目散に駆け出した。速い。さっきとは比較にならない。しかも。カティは足元を見た。宙に浮いた両足が振動に合わせて上下左右に揺れている。脇腹から背中にかけてウォッカの太い腕が巻き付いている。小脇に抱えられていると気付くまでしばらく時間がかかった。その状態で走っているのだ。こんなに速く。
「このまま真っ直ぐ?」
「次の角を左に入って下さい」
「そこね」
勢いを殺さずに膝を曲げて吸収したかと思うとその反動を上手く利用して跳ねるようにして角を曲がる。動きに無駄がない。背後からは無数の足音の他、「あっちだ!」とか「追え!」とか言った、どちらかと言えば物騒に聞こえる声がする。何が起こっているのか正確には判らないけど、絶対穏やかな理由じゃない。と言うより、かなり物騒な用件に強引に付き合わされそうになっている。早い話が命を狙われているのは間違いなさそうだけど、動じている様子は微塵もない。机の上に山積みになった書類を片付ける役所の職員のようだった。機械的と言うより事務的な感じさえする。背後からは依然として複数の足音がバタバタと慌ただしそうに追いかけて来ている。でも特別これと言って慌てる気配も見せずに突っ走り続けている。怖くはないのだろうか。何れにしても並みの肝っ玉ではない。
それにしても、重くはないのだろうか。足を踏み出すたびに背中に背負ったリュックが激しく上下に揺すられている。日中に買ったもの(主に食料品だろう)でいっぱいに違いない。普通の胃袋の持ち主なら数ヶ月分に相当するくらいの量だった。それだけの荷物を背負っていながら、右手に人一人を抱えてこれだけの速さで脇目も振らずに突っ走っている。タフで通っているアリスもこの速さで走れば息も上がるに違いない。しかもこの荷物を背負ってだ。ウォッカの頭の中も脳ミソではなく筋繊維がいっぱい詰まっている類いの人間なんだろうなと思う。
そう言えば、よくよく見てみたら成り行きとは言え知り合って間もない人に抱え上げられているなんて、何でこんな事になったんだろう。ただお礼を伝えに来ただけなのに。学校で男子と話す事はあっても手を握った事なんて一度もない。そんな風に思えるような相手もいない。そんな一線を知らぬ間にアッサリと超えている事に気付いて頭がフラフラした。混乱と恥ずかしさで顔が赤くなる。でも下ろして下さいとも言えない。ウォッカが走る規則的な音と振動が鼓膜を揺るがしている。何だか強制的に催眠術にかけられているような気がした。そうか、さっきウォッカに会った時から、いや会う前から抜き差しならない状況に入り込んでいた。さっき路地で通せんぼした時のウォッカの反応を思い返してみてもそうだ。カティに会ったからではなく、意図していた相手と違ったからあんな言葉が口から出たに違いない。考えたら怖くなって来た。今日は普段よりも暑いくらいなのに肌が粟立っている。なのに、どうして彼は微塵も恐怖を感じないのかが判らない。単に怖がっていないだけかも知れないけど、実際怖かったら普通ここまで涼しい顔は出来ない。それを羨ましいと思う事も何かが明らかに間違っているような気がする。とにかく、こんな状況から一刻も早く解放されたかった。目に見えて震え始めた両腕を両手で頻りに擦る。
「寒い?」
頭の上の方からかなり呑気な声が聞こえた。顔を上げた拍子に目が合った。どんな顔をすればいいのか判らない。ウォッカはバツが悪そうに苦笑いするとガリガリ音を立てて頭を掻いた。気遣ってくれるのは凄く嬉しいけど、今は走る事に集中して欲しい。でも言葉にならない。代わりにブンブン音を立てて首を横に振った。それくらい必死だった。
「すぐ済むから」
本当だろうか。相手が何人いるか判らないけど、三人四人どころの話ではない。かなりの人数の足音が背後から追いかけて来ている。とても振り向く勇気はない。
「もうそろそろかな」
視界が拓けた。傾きかけてはいるけど、春の日差しはまだ結構強い。一瞬だけど、視界の隅々まで真っ白になった。光に埋め尽くされたかと思うと、体全体を揺るがしていた振動が止んだ。目が眩んで頭がフラフラした。目は見えなくても耳は聞こえる。無数の足音が石でも撒くような音を立てて周囲を取り囲んでいく。思わず身震いした。恐る恐る目を開けると、武器を構えた兵士連中がズラリと並んでいる。
「九、十、十一、十二……」
相手の数を把握すると言うより、地面に撒かれた餌を啄む鳩を数えるような雰囲気だった。緊迫感がない。
「十五、十六」
十六を数える時、何故かウォッカはカティを指差した。カティも反射的に自分に指先を向けた。一瞬混乱した。どうして私まで敵の一人に含まれるのか。ギョッとして目を見開いたカティを見て驚いたのか、ウォッカも慌てて手を横に振る。
「いや、君と奴らを一緒くたにしてるなんて事はないよ。だから安心して」
抗議するように上目遣いに睨め付けたら多少緩かった表情が更に少し解れた。でも笑おうとして笑えなかった。やっぱり怖い。
「ただ人数がね」
「人数?」
それが何だと言うのか。それを質す事は叶わなかった。下卑た声が無遠慮に質問を遮る。
「よく逃げる野郎だな。ま、それもここまでか」
顎の先から滴っている汗を袖で拭いながら真ん中にいる兵士は言った。汚い。
「別に逃げちゃいねえよ。戦略的撤退って奴だな」
どういう戦略なのか是非じっくり教えて欲しかった。折悪しく巻き込まれた身としては、無事にこの場を逃げおおせる手段があるならば全力でそれにすがりたい。
「減らず口もここまで来ると大したもんだな」
「ま、解釈は人それぞれだからな」
後はそっちに任せるよ。ウォッカは小脇に抱えていたカティを唐突に持ち上げると胸の前で横向きに抱え、垂れそうになった両足に右手を添えた。所謂お姫様抱っこの姿勢だ。おい。
「で、突然大勢で押し掛けて何の用だよ。暑苦しいのはごめんだぜ」
そう言う本人が一番暑苦しい。そして汚ならしい。来ているシャツもズボンも土埃で茶色くなっているし、それを洗った形跡もない。精々手で叩いた程度だろう。どうしてこんなに汚いのか。
「ムサい男に誘われて喜ぶ趣味もないし、そういう事は他所でやってくれよ」
「お前になくてもこっちにはあるんだよ」
鞘を肩に担いだ兵士が偉そうに言った。その態度だけで殴りたくなる。
「俺達の仲間になるか、今ここで殺されるか。そのどちらかだ、それ以外はない」
「その何れもご辞退願いたいな」
兵士の顔に明らかに失望の色が浮かんだ。今度は蛙を飲み込む寸前の蛇のような顔をして笑う。自分の勝利を確信した笑みだった。無理もない、多勢に無勢だ。それでもこの兵士の態度には腸が煮え繰り返るものがあった。お盆の縁で鼻っ柱をひっぱたいたらどれだけスッキリするだろう。
「俺がお前らの仲間になる理由がそもそも見当たらないし、まだ宿代も支払ってないのにトンズラされたらお店の人も困るだろ」
ここで死んだらトンズラも何もない。自分の生涯にトンズラしてしまったら、払うものも払えなくなってしまうではないか。その場にいる者としては聞いているだけで心臓が凍りそうだった。
「そんな訳で交渉も無事決裂した事だしとっとと帰ってくれ」
全員が一斉に剣を鞘から抜いた。抜き身の刃が日差しを受けてギラリと光った。音を立てて背筋が凍り付いた。どうやら殺す事は確定らしい。
ウォッカはうんざりしたように溜め息を吐いた。緊迫感の代わりにウンザリ感たっぷりだった。
「大分お疲れみたいだけど、それでもやるってのかい?」
言われて初めて気付いた。どいつもこいつもほぼ例外なく肩で息をしている。カティが追い付くより前から奴らはずっとウォッカを追っていた。しかも後半はかなりの速度で走り続けていた。短時間であってもあれだけの速さで走れば相当疲れるはずだ。奴らとは対照的に、ウォッカは実に涼しい顔をしている。息一つ乱れていない。しかも。カティは抱えられている自分の改めて眺め回した。この状態でだ。
腕力だけでなく、相当な体力と脚力があるのは明らかだ。でも、だからと言ってこの場を切り抜けられると決まった訳ではない。逃げ切る事は出来るのかも知れないけど。ならば、何故足を止めたのだろう。
「やるって言うなら止めないけど、責任は取れよ」
声が初めて剣呑な雰囲気を帯びた。それにしても、責任って何だろう。
「ま、どうせ手前の尻もロクに拭けねえような連中に責任取れなんて所詮無理な話か」
思い切り肝が冷えた。どうして相手を挑発するような真似をするのか。
「君も、こういうだらしない人間はしっかり反面教師にしてやってくれよ」
皆までは言わせなかった。剣を構えたむさ苦しい男共が一斉に斬りかかって来た。思わず反射的に目を閉じる。
瞬間、体から平衡感覚が消え失せた。




