二日目 その六
「本当に有り難うございました」
ベンチに腰を下ろしたウォッカに、レンは体の前に手を添えて丁寧に頭を下げた。
「取り敢えずその花瓶も無事だったんだし、頭上げて下さいよ。そんな大層な事をした訳じゃないんですから」
「いえ」
レンは穏やかに笑いながら首を横に振る。そこは譲れないのだろう。気持ちは判る。
「私にとってはとても大切なものなんです」
嘘ではない。他人には何の変哲もないただの花瓶でも、レンには家族の次に大切なものだ。割れなくて本当に良かった。
「本当に、有り難うございました」
花瓶を胸に抱き締めたまま、レンは深々と頭を垂れた。逆にウォッカの方が恐縮している。高々花瓶一つで、と思っているのかも知れない。それでも構わなかった。モノの価値は誰にも決められない。
「シャツもこんなに汚してしまって……」
「気にしないで下さい。元々汚れてるようなもんですから」
昨日の格好は本当に凄まじかったが、流石に今日はそこまで酷くはなかった。そう、昨日と比べればまだマシと言う程度で清潔と言うには程遠く、少なくともヨハンならこんな格好で表を歩く事などまずない。最初から汚れていたと言う推論も強ち間違いとは言い切れない。
「よろしかったら、洗濯してお返しします」
「気持ちだけ受け取らせて下さい。こんなの手で叩けば充分ですよ」
滑った直後に比べれば遥かにマシなのだろうが、まだ所々は茶色いままだった。そこを手の甲で軽く叩く。
「そういう訳には行きませんよ」
すぐさま踵を返すとドアを開けて慌ただしく家の中に入って行く。女将さんと何か話しているが、それに耳を傾けようとは思わなかった。聞かなくても判りそうなものだ。程なくしてドアが開いた。レンだけでなく、隣に女将さんもいる。
「あなた、ひょっとして昨日ここに来た旅の方で?」
「ええまあ、はい」
「こんな大変な時によりによってここに来るなんて何と申し上げればいいか……」
俯きながら目頭に手を当てている。本人は大いに同情しているつもりなんだろうが、フォローになっていない。寧ろ逆効果だ。仮に状況をしっかり理解していてこんな事を言われたら普通怒りそうなものだった。ヨハンだったらキレているに違いない。そんな事は既に判り切ってるんだよと怒鳴り声の一つでも上げていたかも知れない。ただ、当の本人には一切悪気はない。純粋に心配しているだけだった。こういう処も含めて、愛すべき人だと思う。
ウォッカにしてもそれに対して怒るでもなく我が身の不幸を嘆くでもなく、やっぱり恐縮するような神妙な顔で頷いたり頭を掻いたりしている。早いところ退場してもらった方がウォッカもやりやすくなるだろう。
「これまで拾って下さって」
厳密に言うと、いや言わなくても拾ってはいない。落としたのを受け止めたのだ。それをいちいち訂正するのも面倒だった。
「母さん、挨拶は程々にしといて」
隣に立っていたレンが握っていたタオルを差し出す。
「ささ、これで綺麗になさって下さい」
女二人でよってたかって汚れた箇所を拭いて回る。ウォッカも何か言おうとしているが言葉にならないのかしづらいのか、餌をねだる鯉のように不自然に口をパクパクさせていた。大の大人二人を軽くぶちのめしたような男が、女二人ににいいように弄ばれているようでそれが妙に可笑しかった。
「あとは、自分でやります」
肩の辺りを拭いていた女将さんの手を軽く握った。そのままタオルを受け取る。女将さんとレンは顔を見合わせて笑うと家の中に姿を消した。
「お二人さん、可愛いな」
「ああ」
否定しない。実際、贔屓目に見なくても可愛いと思う。多少ズレたところはあるが、おっとりしていて人も良い。たまに夫婦喧嘩をしても大抵翌日にはいつも通りニコニコしている。全く、いい嫁をもらったものだ。その娘も母親以上に穏やかだった。昔から争い事は好まない。だから勝負事も嫌いだった。そういう意味ではイリナ達とは対照的だ。意思や主張があってもそれを押し通すような真似はしない。それで誰かが自分を殺すくらいならそれを肩代わりする、レンはそういう人だった。泣きたいくらい辛くても黙って耐える事もさほど珍しくはなかった。だから、すぐ側にいても気付かない。そうやって知らずにレンを傷付けてしまった事もこれまで何度もあった。でも、それで喧嘩になった事は一度もなかった。怒られた試しもない。
レンも女将さんも、そして親方も、みんな優しかった。それに随分甘えていた気がする。口にした事はない。素直に晒せるだけの勇気はまだない。
「それにしても」
ヨハンは隣に腰を下ろしているウォッカの横顔を覗き込んだ。
「随分変わった名前だよな」
「そうか?」
気に留める様子もなく首を傾げる。
「判りやすいとは思うけど」
「全くだな」
一度聞いたらまず忘れない。何故酒の名前なのか。冗談としか思えない。
「気に入ってるとか?」
「俺には相応しいんじゃないかな。酒は死ぬ程好きだし」
昨日は食事する様子しか見なかったが、やっぱり呑むのか。いかにも好きそうだった。これだけ厳つい体格なのに舐めた程度で倒れてしまうくらい酒に弱かったらその方が驚きだ。印象にそぐわない。
「名付け親は?」
「親父だよ」
「酒好きかい?」
「無類のな」
そんな事だろうと思った。そしてこの男も間違いなくその血を継いでいる。
「親子、だな」
「そうらしい」
ウォッカは笑いながら肩を竦めた。他人事のようにも聞こえる。
「俺からも礼を言うよ。あの花瓶が割れてたら、しばらくレン姉が泣いて暮らす事になってたろうからな」
「そんなに大切なものなのか」
目を丸くしたウォッカは腰に差していた短剣を抜いた。
「俺にとってのこれみたいなもんか」
「ま、そういう事か」
鍛冶屋の娘でありながら、レンは誰かと違って包丁以外の刃物を握ろうとはしなかった。刃物は危険なものだと言う両親の教育も去る事ながら、何かを傷付けるものを意識的に避けているように見えた。一方、リーゼルやヨハンは刃を扱う者の責任の重さを知れと言われた。ヨハン自身興味があった事は勿論だが剣術を習っていたのはそのためだった。親方からしてみれば危険なものからは少しでも娘を遠ざけたかったのだろう。それも親心だ。
「って事は、あの花瓶は誰かからもらったものなのか」
「ああ、兄貴からな」
「そっか。恋人からもらったもんかと思ったけどな」
ウォッカは頭の後ろで組んだ両手に頭を預けた。驚くと言うよりも意外そうな横顔だった。仲のいい兄弟や姉妹がいたとしても何ら不思議はない。たださっき見せたレンの反応は肉親へのそれとは明らかに違う。それを察したが故の反応だろう。
「兄弟仲がいいんだな」
「義理だけどな」
ウォッカは目だけ動かしてヨハンを見た。目を合わせたヨハンは肩を竦めた。
「昨日店で会った時に一緒にいた年配のおっさんはヨハンの親方なんだよな」
「ああ」
「彼が、ヨハンの義理の父親に当たるのか」
「どうしてそう思う?」
ウォッカは組んでいた手を解くと掌に顎を載せた。
「親子の会話にしちゃ、息子の態度がいやに堅苦しかったからな」
確かにそれはご指摘の通りかも知れない。弟子である以上、師匠にタメ口など絶対に有り得ない。それを端から見た場合、やはり親子とは考えないのだろう。
「その流れで考えた場合、少なくとも親方とヨハンに血の繋がりはないって事になるな」
「そうだな」
だがこれだけでは正解に到達した事にはならない。親方と女将さんの子が誰なのかウォッカは知らない。
「花瓶の持ち主の姉ちゃんとさっきの女性は普通の親子だろ。雰囲気にヨハンと親方みたいな不自然がなかったし」
ヨハンは応えなかった。ウォッカもそれを強いて求める事はしなかった。ヨハンは先を促すように右手を差し出した。
「兄貴ってのはヨハンの実の兄貴、花瓶の姉ちゃんとヨハン達二人が義理の兄弟って関係か」
「やっぱり判るか」
「ここまで材料が揃えばな」
ウォッカは眠そうに欠伸をした。推測だけでここまで事実に近付けているならば話すのもいくらか楽になりそうだった。根掘り葉掘り聞いてくるような恥知らずには見えないが。
「さっきウォッカが受け止めてくれた花瓶、あれはレン姉が十六の誕生日に兄貴が送ったんだ。昔から花が好きだったからな」
ウォッカは応えなかった。話を止める事も促す事もしなかった。横目で様子を窺う。黙って前を見ながら頷いていた。ヨハンは前に視線を戻した。
「俺の親父も鍛冶屋だった。戦後に復員してからこの街で鍛冶屋を始めたらしい」
「誰かから聞いたような話し方だな」
「ああ。ある程度でかくなった頃に親方からな」
ウォッカが可笑しそうに笑った。頬の辺りがムズムズする。どうして笑いが込み上げて来るのか、ヨハンにも判らなかった。
「俺のジジイも鍛冶屋だったようだけど、統一戦争で街ごと焼き払われたみたいでよ」
別段珍しい話ではない。街ごと焼かれなくても戦禍に巻き込まれた、或いは勝手に前線基地にされて壊滅したような土地もあった。略奪の対象にされたり落人に襲われたりした街などそれこそ掃いて捨てる程ある。既に出征していたジジイは最前線で命を落とし、父は命からがら生き延びた。戦場であれ街中であれ、安全が保証されていた場所など何処にもなかった。母親もよくそんな時代を生き抜けたなたと今更ながらに感心する。もっとも、その二人も既にこの世にはいないが。
「それで、終戦後にここで鍛冶屋を始めたのか」
「田舎でひっそり暮らしたかった、いつだったかそんな事を話してたよ」
どうして両親が新しい生活の場所としてをこの街を選んだのか、今になってようやく判った気がする。静かに暮らしたかった、望むものがあるとすればそれだけだったのだろう。ただ、今はそれも失ってしまった。そして何物にも代え難いものを奴らは奪っていった。心が乱れて当然だ。だからこそ、笑えるようになったレンは本当に強くなったと思う。未だに立ち直れずにいる誰かとは大違いだ。
「で、本来なら商売敵にあたる親方に鍛冶打ちのイロハを教わっていた、と」
「何でまた?」
「店を出したはいいけど、鍛冶屋としてはまだまだだったって事さ。ジジイから教わろうにも戦地に引っ張られて留守にしてたんだからな。経験豊富な親方によく教わってたよ」
女将さんやレンとはその時からの付き合いだった。だからレンとは義理の兄弟と言うよりも幼馴染みに近い。一番古い記憶は二人が酒を酌み交わしながら刃の磨き方を教わっていた光景だった。まだ幼かったレンは親方の膝に載りながらヨハンに手を振っていた。
「俺が五つ、兄貴が九つになった頃に親父とお袋が死んだ」
前触れはなかった。その必要もなかった。事実を覆す事は出来ない。だが唐突だったのは否めなかった。少しだけ首を傾げて隣を窺う。ウォッカは気不味そうな顔をして頬を掻いていた。
「病気か?」
「ああ。流行り病にやられてな」
気付いたら頑丈だった父が寝込んでいた。発熱と咳が続いた。最初はただの風邪かと思っていた。それが一週間経っても一向に回復せず、むしろ日に日に症状が重くなって行った。気付いた時には手遅れだった。医者にかかれば治ったのかも知れない。ただそんな金など何処にもなかった。誰しも生きるだけで精一杯だった。カゴの中を覗いても家中のザルを引っくり返しても、余計な金も、そんな余裕も出て来なかった。
「親父が死ぬまで一月かからなかったかな」
随分前の事だからハッキリとした記憶はない。ただ倒れてから息を引き取るまでが本当に短く感じた。
「それからすぐにお袋も倒れた。感染してたか看病疲れか知らないけど、今思えば酷くやつれてたな」
看病の甲斐もなく父に先立たれ、精神的にも肉体的にも相当堪えていたはずだ。そんな母に何もしてあげられなかった。父が倒れてからは毎日泣き叫んでいただけだった。改めて考えるまでもなく、不出来な息子だったと思う。
「お袋もあっという間だった。ひょっとしたら親父より短かったかも知れない」
かつてこんな事を人に話した経験はなかった。少なくともヨハンにその記憶はない。誰かに積極的に話す内容ではないし、この街に住んでいれば多少時間はかかっても必ず耳に入る。完全な部外者だからこそ、ここまで開けっ広げに晒せるのかも知れない。
ヨハンが母の遺体にすがって泣き喚くすぐ隣で、兄は拳を握り締めたまま黙って立ち尽くしていた。兄としての意地か、それとも弟の前で涙は見せないというささやかな自尊心に依るものか、今となってはそれを確かめる術もない。
母の葬儀が終わった後、泣いているヨハンに駆け寄ったレンが声をかけた。
「ね、家においで」
軽く首を傾げるとニッコリ笑った。どう応えていいか判らず戸惑う兄弟の頭を撫でた女将さんは優しく言った。
「みんなで、一緒に暮らしましょう」
その日からここがリーゼルとヨハンの家になった。戸惑いはあった。だが時間の経過と共にそれらは徐々に影を潜め、心の底からホッと出来る安心感で満たされるようになった。ここにいられる事に、五人で過ごせる事に素直に感謝した。
だが、それでも親方を父さん、女将さんを母さんと呼んだ事は殆どない。特に親方はそう呼ぼうとすると決まって怒った。俺はお前らの親父じゃねえ、そういう言葉は墓前でかけてやれ。大抵こう言って背中を向けられた。最初こそ驚きもしたが、親方の人となりが見えてくるに連れ少しずつそういう思いは薄れて行った。生みの親は既に亡い。でも、ここまで育ててくれたのは紛れもなくあなたと女将さんですよ。こう言ったら、果たして親方はどんな顔をするだろうか。
「悪いな」
ウォッカは気不味そうに口元を歪めた。
「忘れたい事を無理矢理思い出させちまったみたいで」
「昔の話さ。気にするなよ」
親方や女将さん、そしてレンとの関係は今も続いているが両親の死はヨハンにとって既に過去の出来事だった。今更気にする道理もない。
「いい人達だな」
頬が赤らんだのがハッキリと判った。本当に嬉しい言葉だった。今のヨハンにとって、三人はそれくらい大切だと言う顕れでもある。普段口にする事もないし考えもしない。みんながいる事が当たり前だからそれに慣れてしまって感じる事すら忘れてしまっていた。
それを普段関わらない人間から聞かされた事が新鮮で、何より嬉しかった。それを言葉に出来るだけの素直さはないが。
そこまで考えて我に返る。そうではなく、現実に引き戻されだ。
「ヨハンの兄貴は、今砦にいるのか」
言葉が出なかった。肯定するのは死んでも嫌だか否定も出来ない。悔し紛れに笑ってみせた。ウォッカも苦笑いしていた。
「奴ら、この街を乗っ取ってから男連中を狙って拐って行きやがった。その中に、兄貴も含まれてる」
拳を思い切り握り込んでいた。右手が何かを訴えるようにガタガタ震えている。拳をそのままベンチに叩きつけた。
「奴らどうして男ばかり拐ったんだ? その、こんな事積極的に言いたかねえが、そういう連中なら男よりも女を拐う方が自然に思えるけどな」
「普通に考えりゃそうだろうな」
ウォッカは淡々と言った。その言い方がやけに他人事のように聞こえた。つい語気が荒くなる。
「どういう意味だよ」
「単純に考えればその方が自然だろうな、男なら。でもこっちの身動きを封じる事が目的なら男の方が都合がいい」
ヨハンは少し乱暴に髪を掻き毟った。
「だから、どうしてそうなる?」
「女だったら長期間に耐え得る体力がない。牢で下手に病気でももらったら後々面倒な事になる。それに、」
ウォッカはそこで言葉を詰まらせた。
「人質を取ってる訳だし無理して女を買う必要もない。脅せばそれで済む」
発言内容は下衆だが道理だ。そこまでされたと言う話は聞かないが、いつそんな目に遭ってもおかしくない。
「それに、男の方が戦力になる。まとめて蜂起されたら女より男の方が遥かに厄介だろ」
こちらの身動きを封じて更に戦力も奪う。女を拐って手込めにするよりは理に叶っている。
「戦力を削ぐのが目的か」
「そう考える方が自然に思えるな」
股間に生えた第三の足が持つ欲求に忠実なら、ウォッカが指摘するような発想はまず生まれない。仮に出たとしても日の目を見る事はない。少なくとも、奴らが真っ先に本能を優先する程馬鹿でない事は判った。
「実際、ガイデルさんの一番弟子も牢にぶち込まれでるみたいだしな」
「お前、師匠に会ったのかよ」
ウォッカはキョトンとした顔で頭を掻いた。
「あれ? ヨハンもガイデルさん知ってるの?」
「知ってるも何も、俺やイリナの剣の師匠だよ」
昨日ここに来たばかりのこの男が何故師匠を知っているのか。この男の行動の全てを把握する理由も必要もない。だから当然知る訳もないのだが気になる事に変わりはない。何で知ってるんだよ。
「今日学校に行ってきてさ」
「何だってまた学校なんかに」
学校の世話になるような年齢には見えない。むしろ縁など全くなさそうだ。
「忘れ物を届けにな」
「忘れ物?」
ウォッカは可笑しそうに笑うと人差し指で空間に四角を描いた。
「弁当箱だよ」
成程、ある程度話が見えて来た。三人のうちの誰かが忘れた弁当箱を届けに行った時に師匠に会ったのだろう。
「師匠とは何処で?」
「中に入る時に玄関前の用務員室で」
会うとするならばその可能性が一番高い。稽古をつけるのは放課後、授業が終わってからだ。
「どんな話をしたんだ?」
「ガイデルさんの弟子の話が主だったな」
「今言った通り俺も弟子の一人だけど、あのジジイの事だから触れもしなかったろ?」
ウォッカは応える代わりに苦笑いしながら頬を掻いた。全く、あのジジイのやりそうな事だ。
「具体的に何を話したんだ?」
「あの人が教えてる事だよ。剣術に武術、それと槍か。その気になれば何でも出来そうな気はするけど。あと教え 子についてかな。イリナにミリアム、それとアリス。その三人とセージとトージの二人について色々な」
愛弟子達の名がズラリと並んでいる。その中にヨハンの名がない事に悔しさは感じなかった。イリナに勝つ事はおろか、一本すら一度も取れなかった。セージに到っては相手にすらならなかった。どれだけ練習しても一向に追い付けない。懸命に走っても背中どころか姿も見えない。そのセージと唯一互角に渡り合えるのがイリナだった。二人が本気で打ち合っているのを何度か目にしたが、外野が入り込める余地など全く残されていなかった。次元か、それとも住む世界が違うのか。ここまで差があると嫉妬や羨望を通り越して称賛しか感じない。凄い。素直にそう思える。
その中に彼女の名前がある事の方がヨハンには嬉しく、何より誇らしかった。互いに扱う武器は違うが、本気で打ち合ったとして勝てるかどうかを聞かれたら即座に頷く事は難しい。十中八九無理だとは思うが。それだけの実力を備えている。師匠が自慢に思うのも無理からぬ話だ。
「ヨハンもあの人に師事してたのか」
「ああ、剣術と武術をな」
「そっか、武術は必修だったよな」
ヨハンは黙って頷いた。そこで基本から叩き込まれるから真面目にやればはある程度は使えるようになる。実際に使う事は固く禁じられているが。そこから更に一歩、いやもっと踏み込みたい連中が放課後に師匠の元を訪ねる。ヨハンやイリナ逹三人がそうであるように。
「剣はいつから始めたんだ?」
「ガキの頃から。兄貴と一緒に」
「仲がいいんだな」
「別にそういう訳じゃない。親方の教育の一環だよ」
それもあるが興味があった事も確かだった。男子たる者、生まれれば最低でも一度は強くなりたいと思うものだ。その中で少しずつ現実を学んで行く。
「いや、指導と言った方がいいかもな」
「指導?」
「刃物を扱う人間ならばその使い方もしっかり把握しておけ、ってのが親方の持論なんだ」
今では多少錆び付きもしたが、親方もかつては戦場で剣を振るっていた。実際にそこで何人斬ったのかヨハンは知らない。聞いた事もない。だがそこで生き延びたからこそ今ここにいる。師匠の話ではそれ相応の腕前の持ち主らしいが(何故師匠がそれを知っているかは不明だが)ヨハン達の前でそれを披露した事はない。故に実際の実力の程は不明だが聞く気にはなれなかった。
「成程、確かに道理だな」
「で、七つか八つの頃から放課後は師匠のところで剣を振り回してた。高等部を卒業するまでやってたからかれこれ十年くらいか」
言葉にすれば僅かだが結構な時間を道場で過ごした事になる。一月前に卒業したばかりだが随分前の出来事のように感じる。そしてそれはヨハンだけではない、と思う。
「卒業したのはつい最近かい?」
「ああ。先月な」
「って事はイリナとタメか」
「あいつとはガキの頃からの付き合いだよ」
「幼馴染みか」
「いや、腐れ縁だな」
即答したヨハンにウォッカは弾けたように大笑いした。
「よりによって腐れ縁かよ。他に何か適当な言葉はないのか?」
「ないな。何をやるにしても常にあいつがいたし、でもって必ず俺の少し先にいた」
「腐れ縁と言うよりライバルだな」
そうかも知れない。剣術にしても武術にしても、追い付けない事は重々承知していたがイリナがいたからこそ前に進めた。より判りやすく言えば切磋琢磨した間柄だ。単に照れ臭いからそれを認めたくないだけだった。
それでも、イリナを異性として意識した事は一度たりともなかった。普通に話しているのをよく羨ましがられたが、ヨハンには普通過ぎて羨望に値する要素が見当たらない。
だが、その妹には知らぬ間に恋心を抱いていた。ただ姉妹と言うだけだ、顔も性格も全く違う。そして姉よりも確実に優しい。そんなところに惹かれたのかも知れない。思いを伝える勇気はないが。
「なかなか熱い学生時代を過ごしてたんだな」
「そうか? 別に普通だろ」
やっぱり肯定出来なかった。首筋の辺りが微妙にムズムズする。チラリと隣を窺うとウォッカが横目でこちらを見ていた。目が合うと唇の端を上げて笑う。見透かされている気がした。
「そういうウォッカはどうだったんだよ」
「俺か? 極普通だよ。適当に授業出てたまにサボって眠けりゃ寝て、試験前はそれなりに勉強して」
勉強? この男には最も縁遠い行為に思えた。
「部活には入ってなかったから放課後学校に残るような事はなかったけど」
「へぇ、意外だな。それだけ厳ついガタイしてんだから何かやってると思ったけど」
「家業の手伝いがあったからな」
これも意外な言葉だった。一体どんな家業なのだろう。
「何だよ、家業って」
「便利屋みたいなもんだよ。農作業の手伝いとか煙突掃除とか、レンガ組み上げたり逆に建物を解体したり、そんな仕事。頼まれれば何でもやってた」
「本当に便利屋だな」
「でも流石に子守りはしなかったな」
冗談にしてはあまりに下らなかった。でもどういう訳か口元が緩む。
「ところで、兄貴の名前は?」
「そう言えばまだ言ってなかったな。リーゼルだ」
「その兄貴とも切磋琢磨した仲なんだろ?」
苦し気な咳払いが口を突いて出る。面倒見が悪い事はなかったが、決して優しいお兄ちゃんなどではなかった。
「俺は失敗を繰り返してものを覚える人間だけど、兄貴は違ったからな」
「どう違ったんだ?」
「一言で言えば一を聞いて十を知るようなところがあった。何と言うか、手先も器用だし要領も良かったな。より平たく言えば何でも出来た」
不器用ではないが明らかに要領が悪いヨハンとは対照的に、何でもそつなく、いや平均を軽く超える水準で物事を片付けて行く兄を、いつもいいな~と思いながら横目で眺めていた。それを口にすると、リーゼルは決まってこう言った。
「楽をすればいいだけだよ」
何が楽なのか昔はサッパリだったが今はその意味がようやく少しだけ判って来た。過程は考慮の対象に含めず理想とする結果だけを求める。と言うと非常に禁欲的な印象を抱くかも知れないが実際は違う。
「何と言うか、何をするにしてもまず結果から先に想像して、そこに到達するにはどうすればいいか、って流れで考えてたな」
「例えば?」
「そうだな。仮に試験を受ける場合、誰だって高得点を狙うだろ? 満点を取れれば最善だろうけど、それで余計な手間が増えるようならまずそういうものは極力排除する。確実に出ると思える部分に狙いを定めてそこを集中的に覚える。かつ簡単で理解や記憶に時間がかからないものに手をつける。ざっくり言うとそんな感じかな」
「要領がいいんだな」
「ああ」
「それ以上に頭も良さそうだ」
ヨハンは声を上げて笑った。それも否定しない。何に対しても真っ向から勝負を挑むヨハンの後ろで腕を組みながら別の方法を考える。リーゼルには昔からそういう処があった。杓子定規に正攻法だけで物事を考える事はせず、目的を達するための最善策を模索する。だから考える事が常に人とは違っていた。
その兄貴が今は牢屋にいる。心配は心配だが、絶対に死なない。根拠もないのにその確信だけはあった。あいつはそんな簡単にくたばったりしない。
「今はどんな事を考えてるんだろうな」
「二つしかない」
興味をそそられたのか、ウォッカは首を曲げてヨハンの顔を覗き込んだ。返事の代わりに笑ってみせた。
「生き残る事、それと生きてここに帰る事」
隣から綺麗な口笛の音が聞こえた。
より厳密に言えばそれしか考えないと言う訳ではない。それを実現するために何が必要か、それに考えを巡らせているはずだ。
「殺されない限り、まず死ぬ事はないよ」
「同感だな」
目だけ動かして横を見るとウォッカもこちらを見ていた。歯を見せて笑った。昨日も思ったが、結構気が合いそうだった。
「無闇に人質に手を出すような真似はまずしない」
「どうしてそう思う?」
「こちらを足止めする理由を自分から排除する程馬鹿じゃないだろ」
よくよく改めて考えなくても、それが人質の人質たる所以だ。営利目的の誘拐でないなら相手の動きを封じる以外に理由はない。
「セージとトージもいるし。その三人がいればこっちが助け出さなくても自力で脱出して来そうな気がしちゃうんだけどな」
実現するとは思えないが、それでもそんな希望を抱かせてくれる。そこに心強いものを感じる。あの三人なら、きっと大丈夫。そう言ってレンを励ましていた時期もあった。
「ところで、そのセージとトージって双子か何かかい?」
「どうしてそう思う?」
「名前の語呂がいいからな。縦と横、右と左みたいに」
右と左、か。二人を的確に表現するならそれが一番近い。
「お察しの通り双子だよ、一卵性のな」
初対面の人間が二人を見分けるのはまず無理だ。それくらいよく似ている。
「子供を二人も取られたんじゃ、親もさぞ辛かろうな」
「全くだよ」
溜め息を堪えるのも億劫だった。ウォッカは隣で気不味そうに唇を歪めたまま頬を掻いている。
「今日学校に行って来たんだよな。じゃ、学校から少し下った辺りに教会があったのは見たか?」
「ああ。学校から街に出る時に見かけたよ」
「二人はそこに捨てられてたんだ」
十九年前、ヨハンやイリナが生まれた年だ。その年の春の暮れに、二人の入ったカゴが教会の前に捨てられていた。ヨハンはそう聞いている。
「親は?」
「街の住人ではないと思う。双子でなくても子供を身籠ってたらすぐに判るからな」
「どうして捨てたりするのかねぇ。自分の腹を痛めて産んだ子供なのに」
「知るかよ」
ヨハンは吐き捨てるように言った。親としての責任を完全に捨てている。
「教会の司祭さんが二人を引き取った。と言うより、父親になった」
勝手に産み落とされて捨てられた二人を司祭さんは男手一つでここまで育て上げた。親方にしても女将さんにしても、みんな優しい。
「すっかり元気をなくしてる。だから皆心配してるよ」
最近床に臥せる事が増えて来た。少し前は奉仕活動の一環で農作業の手伝いや学校で子供を看る事もあったが、二人が人質に取られてからは人前に姿を見せる事が一気に減った。
「大丈夫かよ」
「学校の人達がちょこちょこ顔は見せてるみたいだから気付いたら衰弱死してるなんて事はないだろうけど、相当堪えてる事に変わりはないな」
こうする事が奴らの目的の一つでもある。最近になってようやくそこに思い至った。だから前を向かなくては。それにいつまでも下を向くのはやっぱり性に合わない。
「突然変な事を聞くようだけど」
ウォッカが顔を上げた。
「死人を崇める宗教なんて、ホントにあるのかな」
最初に聞いた時は何故死んだ人間を信仰の対象にするかがそもそも判らなかったが、その意味を知ってからは更に印象が悪くなったのを今でも鮮明に覚えている。
「死人崇拝か」
ウォッカは物騒な顔付きで正面を睨むと、ベンチに更に深く腰を据えた。ゴツい手で顔をズルリと撫でる。
「人の死を悼むのは、まあ当然だろうけど死人そのものを信仰の対象にするのが判らねえ」
「少なくとも、そういう連中には生きてる人間よりも死人の方が価値があるって事なんじゃないか?」
だとすると、彼らは死者の何処に価値を見出だしたのか。考えるだけで気味が悪くなる。そもそもこんな話題を振ったのは他ならぬヨハンなのだが。
「悪いな、突然こんな話持ち出して」
「別にいいって。気にすんなよ」
さっき明らかにウォッカの顔が歪んだように見えた。気のせいだったか。そうでなくても聞いていてあまり気分のいい話ではない。
「それより、何処でそんな事聞いたんだ? 死人崇拝なんて余程の物好きじゃなきゃまず知らないぜ」
「じゃ、ウォッカも余程の物好きって事になるな」
「ただの雑学だよ」
謙遜している訳ではなさそうだった。純粋に無駄な知識を持っている自分に呆れているようにも聞こえる。
だとしたら、どうしてウォッカはそんな余計な知識を得る必要があったのか。その矛盾を指摘するのは流石に失礼だろうな。より判りやすく言えば明らかに友達を無くす行為だ。
「ガキの頃、司祭さんから教わった。生者よりも死者を崇める宗教もこの世に存在するってな」
「宗教に携わる人間から聞いた話なら、まあヨハンが知ってるのも頷けるか」
「普通は知らないとでも言いたげだな」
「そりゃそうさ。仮に知っていたとしても極一部、知る必要もない事だからな」
事も無げに言ってのける辺りにさっき感じた不自然さ、いや違和感がどうしても拭えない。考えるより先に口を突いて出ていた。
「だったら、どうしてウォッカはそんな必要もない無駄な知識を仕入れてるんだ?」
「さっきも言ったろ?」
自棄っぱちに笑うと、ウォッカは口に飛び込んだ虫を吐き出すように言った。
「ただの雑学だよ」
雑学と切って捨てる割にはこの分野に関して平均を軽く凌ぐくらいの知識はありそうだった。少なくともヨハンよりかは遥かに詳しく知っているのはまず間違いない。
武骨な外見に似合わず案外マニアックな奴なのかも知れない。
「で、その死人崇拝ってのは本当に実在するのか」
「ああ。一般的に広く定着してるとは言い難いがそこまで珍しいものでもない。とは言っても市民権を得られる事はまずないだろうけどな」
得たら困る。国境を越えて広く支持されるような宗教になったら、この世は間違いなく終わりだ。
「地域によってかなりバラツキがあるけど、この辺りは殆どないと言っていい。実際、ヨハンだって司祭さんから聞くまで知らなかった訳だろ?」
ウォッカはヨハンの横顔をチラリと窺った。腕を組むとヨハンは汗が乾き始めた背中をベンチに思い切り押し付けて息を吐いた。
「宗教家の司祭さんが知らない何て事はまず考えられないだろうしな」
その道のプロが知らない訳がない。専門家には常識以前の知識なのだろう。ただ、それは決して一般的なものではない。さっきウォッカが口にした知る必要もないとはそういう意味だろう。
「北に行けば多少違うよ。もっとも、それを表に出すような浮かれた奴はホントに極僅かだから探すのは難しいけど」
「でも見る奴が見ればすぐに判るんだろ?」
馬鹿みたいにアッサリ頷いた。予想はしていたがここまで反応が素直過ぎると些か調子が狂う。
「まだそれだけ異端なんだよ。全うな感覚があるならまず関わろうとはしない、と言うか関わらない方がいい」
ヨハンも関わりたくない。イカれてると思われるのが関の山だ。そして誰からも相手にされなくなる。
「そういう頭のネジが飛んだ連中は死人の何を崇めてるのかね」
死と言う概念は信仰の対象にはならない。そうだとしたら死人を崇める必要がなくなる。それくらいはすぐに判った。裏を返せばそれくらいしか判らなかった。
「誰しも、死にたくはないだろ? 俺にしても、ヨハンにしても」
何かしらの意図はあるのだろう。だが当たり前過ぎて応える気にもなれない。
「それが死人を崇める事にどう繋がるんだ?」
「そういう連中には生きてる人間よりも死人の方が価値があるって事なんだな。じゃ、何故奴らは死人に対してそこまで価値を見出だすに到ったか」
ウォッカは前を見据えたまま右手の人差し指を立てた。
「死人は生き返る、要はそういう事よ」
「どういう事だよ」
「言葉の通りさ。死んだ人間が生き返る。これが奴らの教義の基本であり根幹なんだ」
言っている言葉は耳には入っても頭には入らなかった。人差し指で眉間をトントン叩いて内容を整理する。だが何をどう言葉にすればいいのか判らない。死んだ人間が生き返る。普通に考えなくても有り得ない。
頬の辺りに視線を感じた。反射的に首を曲げていた。苦笑いしたウォッカが頭をガリガリ掻いていた。
「死んだ人間が生き返るなら、生きる事に執着する必要もない。だから生きてる人間よりも死人にこそ価値がある、と」
「簡単に言うとそういう事だな」
鏡があったらどんな顔をしているのか見てみたかった。苦虫を噛み潰すと言うが、パンに紛れ込んでいた犬の糞を食べてしまったような気分だ。
「狂信者だな」
「言ったろ? だから異端なんだよ」
信仰の自由はあるだろうが、内容が内容だけに真っ先に弾圧されていてもおかしくない。いや、この世界から完全に排除されて然るべきだ。それがどうしてこの世にまだ存在するのか。
「何でなくならいんだよ。おかしいだろ」
「これまで何度も弾圧されてるし、迫害も受けてる。信仰に自由はあっても死人を崇めるって事自体が既に受け入れ難いからな。でも、数が減る事はあってもまずなくならない」
「だから、何でだよ」
「全うな感覚を持っていれば誰も近付くような真似はしないだろうけど、そういうものにすがりたくなる瞬間に直面する事もある」
そういう事なんじゃないかな。声が少し寂しげだった。
ヨハンは頭を抱えたまま首を左右に振った。どうなったらそんな危険な信仰に心を奪われるのか。少し考えてからハッとした。昔、ヨハンもそんな風に考えた事がある。それを思い出した。足元が音を立てて崩れて行くような気分だった。ついさっきまで完全に拒絶していたのに、今はその教義に理解に近いものを感じ始めている。それに愕然とした。
そうか、だからなくならないのか。身近な人間の、大切な人間の死を素直に受け入れられるほど、人は強くはない。
「大切な人とはずっと一緒にいたい、だから誰にも死んで欲しくない。でもそれは絶対に有り得ない事だからな」
人に限らず、生物は生まれた瞬間に死が決定付けられる。それを回避する事は出来ない。
「誰かの死を、現実を受け入れられなくなった時、側にそういうものがあったら希望を見出だしたくもなるのも判らない話じゃない」
やっぱり否定出来なかった。リーゼルが戻らなかったら、レンの笑顔がなくなったら、親方や女将さんと死に別れる事になったら、絶対今のままではいられない。
「なくならない理由も判るだろ?」
頷くのがやっとだった。死が不可避である以上、それに取り憑かれる恐れは誰にでもあるのだ。
「死人が生き返る、それが教義だって言ってたよな」
「ああ」
「だとすると、死人が信仰の対象になるっところに違和感があるな。死人はただ死んだだけで生き返った訳じゃない。そうだろ?」
高く澄んだ音が聞こえた。ウォッカが唇を窄めて笑っている。
「いい勘してるじゃん」
溜め息が出そうになった。ここまで知っていて何処が雑学程度なのか。
「そう、ご指摘の通り死人を崇めるだけじゃ教義を達成したとは言えない。死人を甦らせる事、その甦った死人、帰死人こそが真の教義の対象なんだ」
「帰死人?」
「死から帰った人間、つまり一度死んで甦った人間の事さ」
言葉にするのは簡単だが、実際に起こったら身の毛がよだつどころか卒倒するに違いない。身近にいる誰かと死に別れたら涙を流すに決まっている。生き返る事すら心底望むに違いない。それを絶対にないと否定する事も出来ない。それに気付いて寒気すら覚えた直後なのに、現実的にそれが叶った瞬間を想像しただけで全身に鳥肌が立った。その矛盾をヨハンにも説明出来ない。そして、それは恐らく自分だけではないとも思った。誰しも家族と、身近にいる大切な誰かと否応なく別れなければならなくなったら、絶対に理性など保てない。胸が張り裂けそうになるくらい、全身をズタズタに引き裂きたくなるくらい苦しい現実に直面したら、そこから逃れようと懸命にもがく事は愚かでも無様でも何でもない。ある意味、人の人たる所以であるようにも思える。あってはならない事に違いはない。だがそれを望む事も否定は出来ない。そんな矛盾を抱えて生き続けなければならない。それをまざまざと見せつけられた気がした。
「性悪説に根差した概念だな」
宗教と言う言葉で強引に区別したくなかった。信仰がなければ教義には辿り着かないが、根底にあるものは人が持つ有り触れた欲求に過ぎない。人の弱さを具現化した教義とも取れる。だから、数が減る事はあっても無くならない。懸命に性善説を訴える宗教家よりも余程まともに思えた。そこまで考えた時、やっぱり寒気がした。ヨハンが考えているほど、人は理性的でもなければ強くもない。ただ強がろうとしているだけなのかも知れない。そのどちらが人として理想なのか、一瞬それすら判らなくなってしまった。まずいなと思った。すっかりこの話に毒されてしまっている。
「善も悪もない。単に誰にも死なれたくないっだけだよ」
要約すればそれだけだった。口を挟む余地もない。
「死なれたくないけど死んじまったらもう二度と取り戻せない。でもどうしても元に戻したい。死んだらそれで終わり、もう二度と甦る事はない。理屈じゃ理解してるのに感情は一向にそれを受け入れない。それ自体は別に責められないと思うけどな。
でも絶対にあってはいけない。それが存在する事は人としての尊厳を否定する事にも繋がると思う。そういう意味では、ヨハンの言う性悪説に根差した教義ってのも頷けない話じゃない」
頷いてはいるが納得するには到っていない。言外にそれを匂わせながら、ウォッカは腕を組んだまま前を見据えて言った。
「でも、そもそもそういう考えに取り憑かれちゃいけないんだよな。どんな現実であろうが目を背けたらそこで終わりだろ」
膝の上に肘を載せたウォッカは教科書に書かれた詩を朗読するように言った。
確かに正論ではある。だが大切なのはそれが正論か否かではない。
「だから、目の前にある事を受け入れる事から始めようかな、って思う。中身を問うのは取り敢えず後回しにしてさ」
頭の後ろで両手を組んだままウォッカは苦笑いした。悪戯小僧のような横顔に少し救われるものを感じた。
確かに理想としてはそうあるべきだろう。同時に、それが出来ていれば誰もこんな不気味な信仰に取り憑かれる事もない。それを理解した上での言葉だった。夢を語りたくなる時は誰にでもある。だが夢だけ見ていても人は生きられない。かと言って、現実だけを直視し続けるのが苦しくなる事もある。目を背けた先に体の中が、冷え切った指先が少しでも温まるものがあれば、そんな事を考えながら見る夢があってもいいはずだ。
ただ、今聞いた教義の先にあるものは目映い希望とは程遠く、一度吸い込まれたら二度と出られない絶望に埋め尽くされている。減る事はあっても絶対になくならない。それはこの教義の持つ魔性に取り憑かれる人が少なからずいる証拠でもある。それを責める事も嘲る資格もない。だから、せめて強くあろうと思った。そう思わずにはいられなかった。
そこまで考えた時、それまで懸命に目を背けていた考えが視界の片隅をチラつき始めた。ハッキリさせたい気持ちもあるが、それを明確な言葉にする勇気が持てなかった。子供染みた話だが、それを聞くのが単純に、いや純粋に怖かった。気付けば膝の上に置いた左手がガタガタ震えている。自分の意思とは無関係に戦慄いている腕を右手で強引に押さえ付けた。動いた訳でもないのに動悸がした。血管が脈打つ音が耳の奥でうるさいくらいに鳴り響いている。
「なあ」
ウォッカは応える代わりに目だけ動かしてヨハンを見た。眠そうな目を人差し指で軽く擦っている。
「実際に、これまで本当に死人が生き返った事はあるのか?」
絞り出すような声だった。よく言えたなと思う。酒の席なら悪ふざけの延長線上で聞く事も出来た。だが今は完全な素面だ。そういうごまかしが利くものは何処にもない。
「生き返った、と言う風には聞いてる」
冗談でも誇張でもなく、冷水をぶっかけられたように背筋がゾッとした。積極的に聞きたくはなかった。だが後戻りも出来なかった。そこだけはハッキリさせておきたかっただけなのに、胸の中の大半を占めているのは望むものを得られたと言う満足感などではなく、どす黒い後悔だった。
「見た事はあるのか?」
「人伝に聞いただけだよ。実際目にした訳じゃない」
それに何処かホッとするものを感じた。でも何故そう思うのか判らない。
「どんな風に聞いてる?」
「知らない方がいいと思うぞ」
脅している訳でも、ましてやからかっている訳でもない。単純かつ実に判りやすい警告だった。知らない方が身のためなのだろう。怖いもの見たさと言う子供染みた好奇心を満たすための行為だとしたら、ウォッカが指摘する通り真っ先に身を引く方が無難だった。
それでも聞きたいと思う。後悔するのは目に見えているのに、それでも体の奥底から沸いて出る不気味な好奇心を抑える事が出来ない。
「聞かせてくれよ」
ここまで来たら引き返せない。流石に寝小便を垂れる事はないだろうが、寝付くまでしばらく震える事くらいはするかも知れない。
「自分の子供を亡くした両親は死んだ娘の甦生を望んだ」
ウォッカはベンチに座り直した。感情を何処かに置き忘れたような横顔だった。
「生き返った娘を目にした両親は泣いて喜んだって話だ。死んだ娘が息を吹き返したら普通は泣く程度じゃ済まないくらいの喜びようだろうけどな」
ウォッカの口元が少し弛んだ。この男も、誰かと死に別れた経験があるのだろうか。
「生き返った娘は、その後どうなったんだ?」
使う言葉を探しあぐねるように口元を歪めた。吐いた息が随分と暑苦しかった。
「泣きもするし笑いもする。夜になれば寝るし飯も食う」
「死ぬ前と何ら変わらないじゃねえか」
「表向きはな」
ウォッカの目が細くなった。ギクリと音を立てて背筋が固まる。
「決定的に変わった事は栄養の摂取と代謝だ。生きていた頃みたいに食物による栄養の摂取が出来なくなった。食欲自体は残ってたし食えば腹は膨らむけど肉体の維持には到らなかった」
「具体的に、どう変わったんだ?」
「食物から肉体そのものを形成する栄養を吸収出来なくなった。血や肉を直に摂取しないと肉体の維持には到らなかったらしい。体は一度滅んでるから成長もしない。崩壊していく体を維持するための食事がそれだ。放っておけばどんどん腐ってその内土に帰る」
果たしてそれは生き返ったと言えるのだろうか。崩れる事が避けられない積木を懸命に支えているようなものだ。手を離せば途端に音を立てて姿を消す。考えただけで寒気がした。
「血や肉を直接吸収しないと腐敗の進行は止められなかった。だから肉は常備してたようだが、まあ無駄な話さ」
考えるまでもない。死人を生き返らせるなどと言った事自体がそもそも有り得ないのだ。藁のような頼りない希望であっても縋りたくなる気持ちは判るが、行き着く先は地獄でしかない。
「で、結局どうなったんだ?」
「肉は腐って削げ落ちて骨が剥き出しになって、全身から腐敗臭を漂わせながらも生きてはいたみたいだな」
「それ、生きてるって言えるのかよ」
ウォッカは応えなかった。睨み付けるような物騒な目をして黙って正面を見据えている。
「それをどう思うかは各々がが決める事だろ。その子の両親が生きてると思うなら生きてるんじゃないのか?」
「そうじゃない。お前自身がどう思うかを聞いてるんだよ」
荒げると言うほど大袈裟ではないが、普段は滅多に出さないような声だった。それに驚いて我に返る。
ウォッカは相変わらず前を向いたままあっけらかんとした様子で言った。
「これを生きてると思うか。最初から死んでるんだよ」
ついさっきの発言とかなり矛盾しているように聞こえてしまう。だがよくよく考えればそうではない。息を吹き返した我が子を親が目の当たりにしたら、生き返ったと飛び上がって喜ぶ。それを端で見ている連中は一体どう思うか、それだけの事だ。
「朽ち果てる寸前、娘は両親に懇願したらしい。『死なせて』ってな」
人は自分の意思で生まれる事はない。親の勝手な都合で、一方的な欲求に付き合わされて放り出されるようにして生まれて来る。その子の親も我が子を心底愛していた。だからこそ是が非でも生き返らせたかったのだろう。もっと生きたかったかも知れない。だが、生き返りたいとその子は望んだのだろうか。そんな姿になってまで生きる事に渇望していたのだろうか。その子を愛したまま安らかに眠らせる、愛するが故に、愛の深さ故にそういう選択肢は出てこなかったのだろう。彼女が望みもしないのに勝手に生き返らせたのだとしたらこれ以上の迷惑はない。
「俺はそんな姿になってまで生きたいとは思わないな」
判り切った事なのに、それを口にしている自分に妙な気恥ずかしさを感じた。普段ならばまずそんな事は言わない。一体どんな心境の変化なのか。
「誰だってそうさ。死んだらそれまで。死んでからの事なんか本人がゆっくり考えりゃいい。外野がどうこう騒ぐ事じゃねえよ」
「ウォッカは死んだ後に生き返りたいとは思わないんだよな」
「当然だろ」
唾でも吐き捨てるような言い方だった。ヨハンにしても今のは発言は明らかに野暮だった。後悔に舌が微妙に苦くなる。
「発想そのものが生に対する冒涜だよ」
ヨハンも死にたいとは思わない。今この瞬間、死の危機に頻したら絶対に死にたくないと思うだろう。絶命する瞬間まで生に執着し続ける。人ならば誰しも懸命に生きようとする。
だが、実際に死んでしまった場合、また生きたいと思うかと聞かれたら即答出来ない。今を生きようとする事と消えた命を取り戻す事は全く違う。最初から全てが絵空事なのだ。
「誰から聞いた話だ?」
「故郷にいる近所のジイさん」
説得力があるのかないのかイマイチ判らない回答だった。
「どうして近所にいるようなジイさんがそんな事知ってるんだよ」
「そういう訳の判らない無駄な知識ばっかり豊富なジイさんとは婆さんとか、身近に一人はいたけどな。自称私は街の知恵袋みたいな」
いた気がする。いや間違いなくいた。小さい頃はお菓子をご馳走してもらうと大抵色んな話を聞かされたものだ。昔もジイさんだったが、耳が少し遠くなったものの今も元気なジイさんだ。あの調子ならあと軽く二十年は生きそうだった。
「真夏の夜に涼しく眠れるようにしてやるとか抜かしてこんな話聞かせやがった」
頼んでもいねぇのに。口を不恰好に歪めて毒づいているが横顔はそこまで嫌そうでもなかった。だが、子供に聞かせる話ではないなと思った。悪趣味極まりない。
「最初は何処まで聞いたんだ?」
大方予想はつく。涼しくなるという言葉から察するに比較的幼い頃の話だろう。いい年して聞くのはちょっと恥ずかしい、と思う。或いは単にこの類いのの話が好きなだけか。
「まだガキの頃だよ。丁度十年前の夏の始めかな。一度死んだ人が生き返った。最初はみんな大喜び、でも日に日に体は腐り、最後は化け物のようになって死んでしまいましたとさ。ってところまでだったな、確か」
「死人崇拝の教義については?」
「随分細かく聞くんだな」
ウォッカはうんざりしたように目元を歪めると首筋を乱暴に掻き毟った。悪いなあとは思うが掻き立てられた好奇心を鎮める事が出来ない。拝むように手を差し出して苦笑いするのが精一杯だった。
「気になるんだよ。進んで聞きたくはねえがここまで来たら引き下がれねえだろ?」
「引き下がれよ。精神衛生上よろしくねえだろ」
「そんな精神衛生上よろしくない話をどうしてそこまで詳しく知ってるんだよ。ふざけた雑学もあったもんだな」
「いいか。雑学ってのはある程度深い処まで把握して余計な部分を削ぎ落とす。肝心な部分だけを抽出して初めて意味を持つんだよ」
蒸留して酒を作るようなもんだな。酒に例えるところにこの男の嗜好が看て取れる。要は肝心な部分をいかに押さえるか、と言った処だろうか。
だとすると、この話の要点は何処にあるのだろう。
「死人崇拝は死人が生き返るって概念そのものが他の宗教で言う教義に当たる訳だが、飽くまで死者の甦生が目的であって宗教としての教えを唱えた人物や特定の神が信仰の対象にはならない」
「そうだよな。死んで欲しくない、生き返って欲しい誰かがいて初めてそういう考えに取り憑かれるから、普通の宗教とは根本的に違うか」
「そう。宗教的な教えが教義の土台にはなっていない。死人の甦生が目的だから別に誰を崇める必要もない」
「って事は、宗教とは全く異質なものだな」
ウォッカは何度か軽く頷いて見せた。
「そう、だから厳密に言えば宗教とは言えない。ただ死者の甦生っていう有り得ない願望を具現化しようとしてるだけだ。それだから尚更質が悪い」
「どういう事だ?」
「敷居が低いんだよ。生き返らせたい誰かがいればそれだけで成立する。小難しい教義を覚える必要も、週末教会に行く理由もない」
手軽と言えば聞こえはいいが、始めようと思えばすぐにでも始められるくらいの気安さがある。その一歩を踏み出すのは相当難しいが。いや、一概にそうとは言い切れない。亡くなった人間の甦生を心底望めば、その思いが強ければそれほど大きな障害にはならない。人の命の重さの裏返しでもあるのだろう。本当に生き返らせる事が現実になるなら全てをなげうってでもそれに懸ける人もいてもおかしくない。
死にたくない、生きていたい。誰もが一度は必ず考える事だ。人として、いや生物としての摂理には明らかに反するがそれが故にそこから沸き上がる欲望の強さもひとしおだ。減りはしても決してなくならない。その意味を、そして怖さを改めて思い知らされた気がした。
「誰か一人、そういう幻想に取り憑かれたとしても然程大きな影響はない。それはこれに限らずどんな事もな。だが時としてこういう狂気が連鎖的に広がって行く場合がある」
「連鎖的に?」
「ドミノ倒しみたいに、次から次へと」
上に向けて真っ直ぐ伸ばしていた手首を直角に倒してみせた。立て続けに、次から次へと。
「或いは爆発的にと言ってもいいかも知れない」
死人崇拝に取り憑かれる以前にそれだけ大勢の人間が命を落としている事になる。そこまで考えてハッとした。
「戦争か」
横顔しか見えなかったが明らかに苦渋に満ちた表情だった。
「死ぬ事自体が既に受け入れ難いのに、訳も判らず理不尽な理由で突然奪われたら、そんな現実が目の前に突き付けられたら目を反らしたくなるのも頷けない話じゃない」
「でも、逃げ込む先は慎重に選ぶべきだろ」
ウォッカは首筋をコリコリ掻きながら溜め息を吐いた。ヨハンも溜め息を吐きたくなった。身近にいる誰かを突然殺されて、泣きも喚きもせず普段通り冷静でいられる人などいるはずがない。誰しも、そこまで強くはないのだ。
「人が死ぬ背後には必ずついて回る、そんな風に言われてた事もある。事実その通りだからな」
生まれた以上死ぬ事は避けられない。人から切っても切り離せない根源的な欲望に大きく絡んでいるだけに質が悪い。
同時に、これ以上は絶対に関わらない方がいい。下手に深入りしたら本当に抜け出せなくなる。仮に、これから先に身近にいる誰かが死んだとしたら、そこに有り得ない救いを求めてしまうかも知れない。それを否定する事が出来ない。
今聞いた話が何処まで本当なのかは判らない。内容はとても信じられないが嘘をついているとは思えない。少なくとも、真偽を確かめる術をヨハンは持っていない。これ以上ない嘘っぱちと一刀両断する人がいる一方で、丸々全てを綺麗に信じ込んでしまう人もいるかも知れない。底無し沼を見つけたら、賢明な人はまず近付かない。それが一番無難だ。「そこに入ったらどうなるのか」と言う馬鹿な好奇心に取り憑かれた一部の輩は足を突っ込む。ヨハンはその寸前で足を止めている。ならば、ウォッカは何処にいるのだろう。沼の中に何があるのかも、そこがどれだけ危険なものかも当然知っている。その上で沼に足を取られないように見張っている。考えるまでもなく、雑学の域を遥かに超えている。どうしてこんな知る必要もなう危険な知識を得る必要があったのか。聞いたところで応えてくれるとは思えなかった。終始ウンザリした表情で話していたが、今は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「ウォッカ自身もいくらか研究はしたんだろ?」
「軽く触れる程度にはな」
ヨハンは苦笑すると肩を竦めた。説得力の欠片もない。
「あれだけ知ってて何処が触れる程度なんだよ。ひょっとしたら司祭さんより詳しいかも知れないぜ」
「それはないな。宗教やそれに準じる立場にいる人はもっと詳しく知ってるよ。それを口にしないってだけさ」
「どうして?」
「言う必要も、知る必要もないからな」
確かに道理だ。下手に知っていたらそれこそ聖職者と言う立場を疑われそうだ。
「だから今聞いた事は全部忘れた方がいい。間違っても深入りだけはするなよ」
「するかよ」
ウォッカはここぞとばかりに苦笑いすると決まりが悪そうに頬を掻いた。
「ヨハンにしても、何だってそんな変な話題を持ち出したりするんだよ。そっちが振って来さえしなけりゃこんな話聞かずに済んだのに」
「さっきも言ったけど、随分前に司祭さんから聞いたんだ。それが妙に気になって耳から離れなかったんだが」
「それを偶々俺に聞いただけだと」
そしたら偶々物凄く詳しく知っていたと言う事だ。ここまで詳しいと偶然なのか必然なのか判らなくなる。
「司祭さんにしても、こんな話は殆ど口にしなかったろ?」
「最初に聞いた一回だけだよ。で、ウォッカと同じ事を言ってたな」
「何て?」
答えを促すようにウォッカは首を傾げた。ヨハンは歪めた鼻からフンと息を吹いた。
「忘れろ、ってな」
ウォッカは声を上げて笑った。ヨハンも小刻みに肩を震わせた。知る必要のない、いや知ってはいけないものである事は間違いないようだ。
目下の課題は今聞いた事をどうやって忘れるかだ。
「それより、ウォッカもわざわざ俺と世間話しに来た訳じゃないんだろ?」
「あ、忘れてた」
腰に差していた剣を鞘ごと外す。大中小三本の剣を両手でヨハンに差し出した。
「こいつを研いて欲しい」
「中、見ていいか?」
「勿論」
笑い方が子供そのものだった。信じられないくらい老けているから尚更混乱する。お前、本当はいくつなんだ。
まず長剣を手に取った。ズッシリと重い。同じくらいの尺の剣でもここまでは重くないだろう。ウォッカにはその方が扱いやすいのかも知れない。多少の重量などものともしないくらいの腕力は間違いなくある。
剣を鞘から抜いた。長い刀身を舐めるようにゆっくり眺める。ん? 眉根が寄ったのがハッキリと判った。
「ウォッカ、これ新品だろ?」
「ああ、ほぼな」
「ほぼ? 何処がだよ。錆もクモリも何もねえじゃねえか」
当然刃毀れもない。仮に使っていたとしても数えようと思えば片手で足りる。そして血の通っているものは切っていない。左手で柄尻を掴むと正眼に構える。片手で持つには堪える重さだ。
「いい剣だな」
「そうか?」
「そうかってお前、他人事かよ」
何とも無関心な返答だった。それよりもこれの切れ味を試したくなった。これだけ重いと切れ味が鋭くなければ刀身が傷む。なまじ腕力があれば切れ味がなくても力に頼る。そういう使い方はして欲しくなかった。
鞘をベンチに立て掛けるとその場に立ち上がった。両手で構え直す。刀身が長い。片刃の剣だった。刃から反射した光が目に突き刺さる。これなら相手に与える威圧感も相当なものだろう。あの兵士連中の二、三人くらいならまとめて相手に出来そうな気がした。
「こんなにいい剣、どうして使わないんだよ。勿体ねえ」
「やりづらいんだよ、長いのは」
「だったら何で持ってるんだよ」
「旅に出る時、親父に無理矢理持たされた。『取り敢えず持ってけ』ってな」
確かに役には立つだろう。多少腕に覚えがあれば相手にとっては相当な脅威になる。
それを何故使おうとしないのか。ウォッカの父親にしても、使わないのを知っていて何故持たせたのか。息子の得物くらい把握しているだろうに。
「一応、それも研いといてくれよ。流石に多少は汚れてるだろうから」
「まあいいけど、」
ヨハンは釈然としないものを感じながらも剣を鞘に戻した。これだけ見事な剣を使いもせず執着も示さない。飾りにしては大きすぎる。何より邪魔だ。そこまで考えてハッとした。だから預けたんだな。
今度は真ん中の剣を抜いた。これも片刃だった。やはりズッシリと重い。さっきとは全く逆の意味で目を丸くした。刃毀れはないが部分的にクモリがある。脂が染み込んだような痕だ。最後の短剣を抜いた。これも同じだ。錆や刃毀れはないが所々にシミやクモリがある。かなり、いや相当に使い込んでいるのは明らかだ。使った形跡が全くと言っていいほどない長剣とは対照的だった。
「どうしてこんなに違うんだよ」
「別に何も不思議な事はないよ。長いのは扱いづらい、さっきも言ったろ?」
「短剣の方が使いやすいのか」
「俺にはな」
長い事剣術を学んでいたヨハンには短剣よりも長剣の方が遥かに扱いやすい。使い勝手も去る事ながら、実際に戦闘になった場合は武器が小さい分、かなり不利になる。間合いを詰めなければ自分の距離で闘う事が出来ない。最悪の場合、間合いの外から一方的になぶり殺しにされてもおかしくない。
つまり、長い距離で闘うよりも詰めた間合いでやり合う方が得意なのだろう。それ相応の技術と経験がなければまず実践出来ない。
「その二本は念入りに頼むわ」
「ああ」
農具や包丁以外の刃物を研くのは久し振りだ。自然と声にも気合いが入る。
「さっきまでと目の色が違うな」
驚いて首を曲げるとウォッカはおかしそうにクスクス笑っている。
「鍛冶屋なのに剣がそんなに珍しいのか?」
「今刃物は一切打てないからな」
ウォッカの顔から笑みが消えた。後悔を隠すように口元を歪める。
「持ってた武器は全部没収された。今は農具くらいしか作れない」
「ないと飯が食えないし、兵士相手に農具が武器じゃ死にに行くようなもんだろうしな」
実際にそれで何人か死んでいる。人質を取られている事を抜きにしても行為としては些か無謀過ぎた。だがその代償だとは思いたくなかった。
「無神経な発言だった」
ウォッカは拝むように顔の前で手を立てた。
「悪かった」
「別に怒っちゃいねえって。気にすんなよ」
気不味そうに顔を背けて頬を掻いていたが、最後には諦めたように苦笑いした。それが何だか妙に笑いを誘う。
「それにしても」
抜いた短剣を軽く振る。しっかり握っていないと手からすっぽ抜けそうだ。
「どれもかしこも重いなあ。並みの腕力じゃ扱えねえだろ」
重いとは言っても鉄で出来ている事に変わりはないし、当然密度も同じだ。違うのは刃の厚みだった。よく見なければ判らないがかなり分厚い。柄もそれに見合うようにかなり大きめに作られている。いや、柄が大きいから刃の厚さが目立たないと言った方が正しい。短剣でこそあるが、並みのそれよりもかなり力強い外観をしている。使う人間を選びそうだ。
「力だけで扱うものじゃない、と言いたいところだけど最低限それを持てるくらいの腕力は必要だな」
「でも、持てるだけじゃ闘えねえだろ」
「ま、そうだな」
アッサリ認めてどうする。さっきのもっともらしい科白は一体何だったのか。
「自分じゃどう扱えばいいか判らなかったらそいつに聞けばいい」
一瞬何を言っているのか判らなかった。握っている短剣を指差している。これに聞く? ますます以て意味が判らない。
「どんな風に使えば綺麗に動けるか、それが判ればそこまで大袈裟な力は必要ない」
ウォッカはヨハンに右手を差し出した。
「ちょっと貸してくれ」
手渡そうとしたヨハンにウォッカは笑いながら首を振った。
「投げて寄越してくれて構わないぜ」
言われてすぐ出来る事ではない。握り直した短剣の刃先がウォッカに向かないように下手投げの要領で放った。上に向いたままの柄を空中で綺麗に受け止めると、逆手に持っていた短剣を順手に持ち直した。実に軽々やっているが、慣れていなければまず出来ない。片手で持つには重すぎるのだ。
「取り敢えず、これを持てるだけの腕力があればいい。それさえ出来れば後は何とかなる」
ヨハンは諦めたように首を左右に振った。
「それが出来ないから無理なんだよ」
「別に片手に拘らなくていい。持ちやすいように持てばいいんだよ」
「じゃ、両手で持っても構わない、と」
「本人がそれで良ければな。ただ本来は片手で扱うものだから、それを曲げたくないのであるなら片手で持つ努力や工夫は必要だな」
思わず溜め息が出そうになった。結局のところそこに行き着くしかないならこれまでのやり取りが全て無駄になる。
「俺も最初から持てた訳じゃない。その重さを少しずつ体に馴染ませて行っただけだよ」
「それは本来片手で持つものなんだろ?」
「本来はな。ただそれに拘る必要はないからな。自分にとっても最善の形が見つかればそれに越した事はないさ」
ただそこに行き着くまでに相当な時間を要する事は想像に難くない。ヨハンならすぐに諦める。別の武器や手段を選択した方が賢明だろう。多少、いや相当重くてもさっきの長剣に傾く。最初はかなり苦労するだろうが、慣れさえすればゴロツキの三、四人くらいなら軽く蹴散らせる。と思う。何事も多少自信を持ち始める頃が一番危ない。いつだったか、師匠にそんな事を言われた記憶がある。実際は強くなっていなくてもそういう錯覚に陥らせる魔性がこの剣にはある。
だが飽くまでウォッカの興味の対象は短剣だった。どう扱うかは個人の判断と言うのがウォッカの持論のようだが、その理論に基づいて短剣を選択しているのだろう。使い勝手の問題はあるだろうが、何かしらの拘りや理由があるような気がした。
「短剣じゃ間合いが狭くなるだろ? 危なくないか?」
「慣れれば大して問題にならない。逆に間合いの広い武器を持った相手の懐に入れればかなりやりやすいけどな」
ウォッカは横目でヨハンを伺う。含みがあると言うより、ある種の確信を持った表情だった。そしてそれを否定出来ない。
武器が小さいと自分の間合いに入れなければ地獄だが、一旦入ってしまえばかなり違う。いや、技量によっては一気に戦局を引っ繰り返す事だって出来る。と言っても一朝一夕で実践出来るものではないが。自分から指摘するところを見ても、それを可能にする技術と経験を備えていると考えるのが自然だろう。だとすれば護身術どころの話ではない。
「ウォッカ、さっき家業は何でも屋とか言ってたよな」
「ああ」
「本当にそれだけなのか?」
だとしたら、ウォッカは誰から短剣の手解きを受けたのか。まさか我流や独学で身に付けた訳ではあるまい。
「言ってる意味がよく解らねえが」
「誰がウォッカにそれを教えたのかと思ってな」
ウォッカの握っている短剣を絡み付くような目で睨んで見せた。信用出来ない訳ではないが、少なくともただの旅人にしては装備が大袈裟だ。昨日は突然過ぎたり終始飲み食いしていたりで気にならなかったが、装備にしても佇まいにしても普通とは明らかに違う何かを感じる。それがようやく少しだけ見えて来た。
「これかい? 親父だけど」
「どの程度?」
「質問の言葉に具体性がないな。それだけじゃどう応えればいいか判らないぜ」
思わずうっ、と押し黙る。気勢を殺がれてしまったが、まだ前に出るだけの材料は残っている。そもそも怯む理由も躊躇う必要もないのにどうして二の足を踏んでしまったのか。
「家業は何でも屋なんだろ? その親父から剣の扱いも教わったってのが……」
「腑に落ちないのか?」
「いやそういう訳じゃないんだが、父親からそこまで教わるもんなのかな~なんて思ってよ」
「俺の親父も出征はしてた。そこで学んだ事を教わっただけさ」
一瞬しまったと臍を噛んだ。ヨハン達の世代の父親は殆ど戦争を経験している。命からがら生き延びて、こうして種を遺す事が出来たのだ。その父親から学んだのだとしたら別段これと言った不思議はない。
ただ何処か釈然としない思いが胸の中で燻っている事も確かなのだ。剣術を教えるのは判る。ここまで重厚な武器を得物に選択した理由は何処にあるのか。大人の体格で相当慣れていなければまともに扱う事すら出来ない。果たしてそれを体が成長する前の子供に教える必要があるのか。
「何歳頃から教わってるんだ?」
「最初に教えられたのは八つだったな。これから扱うものは一体どんなものなのか、握り方や構え方、色々と細かくな」
「十二年も前の事だろ?それでも覚えてるものなんだな、そういう事は」
「そりゃそうさ」
今は日常的な事であっても、最初は全く判らない。だから初めて教わる瞬間のあの緊張感とドキドキは忘れられない。それはウォッカも変わらないようだ。素直に共感出来た。
「具体的にはどんな事を教わったんだ?」
「自分の身を守る術だよ」
「護身術か」
「そんなトコだな」
護身術で何故ここまで大袈裟な武器を与える必要があったのか。教わる側に選択の余地はない。とすると指導する側の問題か。
「あと、これも頼もうかな」
ガサゴソと懐から取り出したのは小振りな短剣だった。文字通りの懐刀だ。同時に意図せず笑いが込み上げた。本当に小振りな、いや小柄な剣だった。掌にスッポリ収まるくらいの大きさしかない。あれだけデカくて重い剣を見た後だけに余計小さく感じる。それをどうしてウォッカが持っているのか。その落差に吹き出しそうになる。
「今度のは随分と小さいな」
手渡された短剣を鞘から抜く。西日を受けた片刃の刃がキラリと光った。柄の長さはヨハンの手には少し余るが扱うには大きな問題はない。ウォッカならば丁度いいくらいだろう。そして、これはそれほど重くはない。大きさに見合った重量だった。
「これならば誰にでも使えそうだな」
「どんなものでも、使う事なら誰にでも出来る。要は使いこなせるかどうかだな」
使いこなすまでもなく、この大きさでこの重さなら苦もなく扱える。気掛かりなのはむしろその逆だ。
「こんなに小さい剣じゃ武器にならないだろ」
「そうでもない」
ウォッカは静かに右手を差し出した。ヨハンは何も言わずに短剣を手渡した。
「首を切り裂いても、心臓を一突きにしてもいい。人一人を始末するならこれで充分事足りる」
的確に急所を捉えられればこの大きさでも確かに可能だろう。だが口で言うほど容易ではない。狙い澄ましただけで急所を突ければ誰でも一流の暗殺者になれる。裏を返せばそれを可能に出来る技量があるとも取れる。だとしたら、それは考えるまでもなく護身術の域を遥かに超えている。
同時に寒気がした。これまで人を手にかけた事があるのだろうか。そう取られかねない、いやそう指摘されても否定出来ない発言だった。それを問い質す勇気はなかった。
「物騒な発言だな」
「こんなちっぽけな短剣にもそれくらいの殺傷能力はあるってだけさ」
指摘されてハッとした。武器としての攻撃力に違いはあっても、それが刃物である事に変わりはないのだ。長剣だろうが短剣だろうが打ち所が悪ければ即死確定だ。武器としてではなく、それを扱う者の能力に大きく左右される事になる。使い方が判らなければ武器に聞けばいい。さっきのウォッカの言葉が耳の奥で甦った。
「合計四本か」
大小それぞれの剣をベンチに立て掛けた。懐刀だけが手に握られている。
「研ぐのは構わないけどいいのかよ、こっちに預けてる間完全に丸腰じゃねえか」
「別に構いやしないさ。いざとなったら何とでもなるよ」
そういうものだろうか。ここで奴らに襲われでもしたら完全に万事休すだと思うが。
「急かして悪いが、明日くらいまでには仕上がるかな」
「その気になれば今日中でも構わないぜ」
研ぐだけなら大した手間はかからない。工房に農具がいくらか残っているが、それを勘案しても充分にこなせる量だ。
「じゃ、よろしく頼むわ」
地面に置いていたリュックを持ち上げると底を右手で盛大に叩いた。砂埃でうっすらと茶色く染まった顔をズルリと撫でる。
「行くのか」
「ああ。そろそろ酒も呑みたくなって来たしな」
まだ日が完全に落ちるにはかなり間があるが、もう呑む気でいる辺り相当な酒好きなのは間違いない。まさか旅の道中でもこんなに呑んでいるのだろうか。
「旅の間は四六時中呑んでそうだな」
「酒があればな。そうでない時は水があればいい」
「そんなもんかね」
「そんなもんだよ。呑める時は呑む、食える時は食う。それだけの話さ」
次にまともに食えるのは、しこたま呑めるのはいつなのか判らない。だからそれが許される時は思い切り詰め込むのだろう。それが旅人として生き延びるための心得なのかも知れない。
「急かして悪いが、明日中には頼む」
「何時頃までに仕上げればいいんだ?」
「明日昼過ぎに学校に行くから、そうだな、その前に寄るか」
「学校に?」
声が少し裏返った。二日も続けて学校に行く理由が見当たらない。まさか次こそ本気で授業を受ける気にでもなったのか。
「どうした? 師匠に武術の手解きでも受けて来るとか」
「似たようなもんか。さっき手合わせを頼まれてな」
「誰から?」
「アリスとミリアム」
一瞬胸が大きく音を立てて跳ねた。どうして名前を聞いただけで反応してしまうのか。
「アリスはともかくミリアムもか。珍しいな」
「結構乗り気だったぜ」
ウォッカは唇の端を上げて無邪気に笑っている。
好戦的なアリスはともかく、ヨハンが知る限りミリアムは姉妹の中で一番冷静だ。と言うより落ち着いている。感情より理性が勝っているのは勿論だろうが、理性が感情を抑える必要がないのだ。まずそこまで感情に火が点かない。そういう意味ではアリスとは対照的だった。少なくともヨハンは目にした記憶はない。イリナも年齢の割には落ち着いている方だが、勝負事は滅法好きだ。アリスほどではないにしろ、熱くなれる相手がいれば拳で掌をバシバシ叩きながら勝負を挑む。その光景が目に浮かぶようだ。
ミリアムならば、ヨハンの知る彼女ならばまずそんな事はしない。そこまで熱くなる自分を良しとしない。だが、熱くなる云々よりも武人(師匠の門下生は専ら三人をそう呼んでいる)としての血が騒いだだけと言う気もする。強い相手と闘いたい、純粋にそれだけなのかも知れない。それはそれでかける言葉に詰まるものがあるが。
落ち着いているように見えても、やっぱり彼女も勝負事は好きなんだろうな。ヨハンが手合わせを頼んだら果たして受けてくれるだろうか。勝てる見込みがあるとも思えないが。
彼女はどんな気持ちでウォッカと向き合うのだろう。ちょっと興味が湧いて来た。
「じゃ、頼むわ」
「ああ」
ウォッカは背中を向けたまま手を振った。体格にはやや不似合いに思えるくらいゆっくりとした歩みで雑踏に消えて行く。リュックで背中がすっぽり覆われているせいで後ろ姿はとても強そうには見えなかった。ただ、底が見えない不気味さが漂っている。使い込まれた短剣を得物にして旅を続けているところを見ても長剣よりもそちらの方が手慣れているのだろう。長剣に使った形跡がないところを見てもそれは明らかだ。過去に何度か尺の短い木刀で稽古をした事があったが、間合いを詰めるだけで一苦労だった。長剣で体が慣れていたから尚更だったのかも知れないが、それ相応の修練を積んでいなければ闘う事はおろか満足に自分の身を守る事すら出来ない。
実際目にした訳ではないが、それを可能にするだけの技量は間違いなく備えている。それを窺わせる雰囲気は大いにあった。かなりの手練れなのかも知れない。知る必要もないのに知りたいと思ってしまう。それは単に久し振りに現れた来訪者に対する興味なのかも知れない。だが殆ど何も判らない。そこがウォッカの不気味さに拍車をかけていた。
しかしまあ、判らない事をあれこれ考えていても仕方ない。まだやるべき事も残っている。目の前にある義務を片付けてしまう方が間違いなく得策だろう。ヨハンはベンチから立ち上がると尻を両手で叩いた。開けたドアの向こうから鶏肉を茹でた香りが漂って来た。




