二日目 その伍
部屋の隅に立て掛けていた鍬を手に取ると、窓から差し込んでいた光を手の甲で遮った。刃の部分にこびりついている茶色い塊を指で突く。一瞥しただけだと錆びに見えるが、土が固まっていただけだった。他にもにたようなものが沢山付いている。指を差しながら一つ一つ確認する。多少の錆びこそ見受けられるが、殆どが土埃による汚れだった。持ち主がこれを使っているのはよく判る。立派な相棒と言っていい。だったらもう少し労ってやらないといけないな。ヨハンは硬く絞った布切れで刃全体を丁寧に拭く。元々汚れていた布は茶色を通り越して黒くなりつつあった。一旦布切れを桶に落として水を染み込ませる。布に付着していた土が桶の底に沈殿していく。汚れを落とした布切れを思い切り絞った。少し前までは手が切れそうなくら冷たかったが、今では何の抵抗もない。全く、季節の移り変わりには毎度毎度驚かされる。何て事を考えているとこっちまで老け込んで来たような錯覚に陥る。
額から滴った汗が頬を伝って床に落ちる。ヨハンは二の腕に巻き付けた布で汗を拭った。つい数週間前までは震えながら仕事をしていたのに、今は指がかじかむどころか手に浮いた汗が邪魔になるくらいだ。暦の歩みは本当に速い。この分じゃまた冬が来る頃になっても必要な技術も身に付いていないかも知れない。それは何より避けたかった。そんな事になった日には、
「あのクソジジイに何言われるか判らねぇからな」
呼吸が乱れた瞬間、首筋や顔からドッと汗が噴き出した。意思で止める事が出来たらどれだけ楽だろうか。
「誰がクソジジイだって?」
音を立てて背中が固まる。ここですぐに振り向く勇気はない。最初は聞こえない振りをして、しばらく経ってから思わせ振りに驚いて見せれば多少は説得力もあるだろうか。ただ、気付く振りをするまでの僅かな時間だけ、この工房が沈黙で満たされる。さっきの科白が本当に耳に入っていたとしたら、それがもたらす気不味さはちょっと想像を絶するものがある。
まだ気付いていない振りをして作業を再開した。布切れを硬く絞って刃全体を丁寧に拭く。汚れだけでなく、油や曇りも綺麗にする事から始めなければ意味がない。勿論これで終わりではない。次は水気を、湿気を完全に飛ばさなくてはならない。まだ習い始めの頃に刃を火で焙ろうとして親方に思い切り頭を叩かれたのは今となってはいい思い出だ。一番刃をダメにすると聞かされた時は親方に対してごめんなさいとしか言えなかった。未熟だったとは言え、無知とはつくづく恐ろしいと今更ながらに思う。金属に関わる問題で一番身近で厄介なのが錆だ。刃物を扱う以上絶対に避けては通れない。磁石に砂鉄がくっつくようなもんだ。昔親方は無感情にそう言った。曰く、必ずついて回ると言う事らしいが、口下手な親方にしてはなかなか上手い喩えだった。確かに的は射ている。
すぐ脇に積まれている農具の山から適当に一本掴んだ。鎌だった。正体不明の茶色い汚れが刃全体にビッシリと張り付いている。恐らく一度も手入れなどした事がないのだろう。持ち主の性格が表れている。口をついて出そうになった溜め息を喉元で飲み込むと、絞った布で刃を拭いていく。予想に違わず全く落ちなかった。完全にこびりついている。さっきまで磨いていた鍬や鋤とはえらい違いだ。地層のようにこびりついた土がニカワで貼り付けたように腰を据えている。うざったかった。そのまま桶の底に沈めた。布切れで刃先に指が当たらないようにして思い切り擦る。途端に細かくなった土が水に分解されて溶けて行く。と言っても土の粒のいくつかは肉眼で充分に見えるくらいの大きさだが。それが無数に、同時に四方に拡散して行く。水から上げると刃を改めて眺める。流石に土は粗方落ちていた。錆だけが、まるで風呂桶にへばりつくカビのようにしつこく居座り続けている。教育的指導が必要かな、と思ったその時、背後で足音が止まった。
無意識に背筋が伸びた。腕にも自然と力が入る。背後に佇んでいる気配は身動ぎもせずヨハンを見下ろしている。怖い。ふと見ると窓から差し込んでいる光が床に影を落としていた。それに気付いた振りをして顔を上げる。
「あ、親方。お疲れ様です」
「何がお疲れ様だ馬鹿野郎」
いきなり拳で頭を叩かれた。
「痛いなあ。何するんですか」
思い切り棒読み口調だった。親方の表情が露骨に曇る。
「誰がクソジジイだって?」
やっぱり聞こえてたか。ならばその部分は素直に認めるしかない。それ以外は全力で否定するが。
「た、確かにクソジジイとは言いましたけど、別に親方の事じゃないですよ。ですからご安心下さい」
「じゃ、誰の事なんだ?」
咄嗟に言葉が出なかった。一瞬だが、明らかに間があった。親方の眉間に刻まれたシワが一層深くなった。ごまかして笑おうとした時、脳天にもう一発拳が入った。
「ガ、ガイデル師匠の事ですよ。基礎練習をサボるといつも説教責めだったから」
「どうして突然ガイデルが出て来るんだよ。卒業してからロクに顔も出してねぇだろうが」
「いや、だから今度イリナと後輩に面でも見せに行こうかなって」
嘘ではない。昨日昼飯を食いに行った時、イリナを誘ったのは親方も聞いているはずだ、と思う。隣にいた事は確かだが耳に入っているとは限らない。
「その山片付けたらいつでも行ってこい」
腰に両手を当てたまま親方は農具の山を顎で示した。やってやれない量ではないが、今日一日で終わらせるにはかなり無理がある。もう一日は欲しいところだ。
「明日まで時間を頂ければ充分ですよ」
親方は背中を向けると小指で耳の穴をほじった。
「このくらいの量なら、リーゼルは一日で終わらせてたぜ」
状態にもよるが。小指の先に思い切り息を吹き掛ける。
「お前にはしんどいか?」
肩越しに横目でヨハンを見る。挑発すると言うより、試すような口振りだった。嫌とは言わせないのではなく、頷かざるを得ない状況に上手く追い込んでいる。
「飛ばせば充分片付きます」
ただし、相当の体力と集中力を要する。仕事は早くても内容が雑では何の意味もない。速さと質の双方を両立させて初めて一つの仕事として成り立つ。要はそれを試されている事になる。
「じゃ、出来るんだな?」
「勿論です」
「じゃ、こっちも頼むわ」
工房のドアがノックされた。元々返事を待つ気もなかったのか、すぐさまドアが開いた。
「お父さん、これ何処に置けばいいかな?」
「ああ、部屋の隅にでも置いといてくれ」
ありがとな。親方が手を上げて礼を言うと彼女は子供のように満足そうな顔をして笑った。年齢に不相応な笑顔だった。それが彼女、レンの魅力でもあった。
レンは両腕で抱えていた農具を言われた通り部屋の隅に置いた。
「助かるよ」
「だって、今はみんなで頑張らないといけないじゃない」
力を入れるように両腕を曲げて力こぶを出して見せる。目に見えるくらいの力こぶなどレンにはないが。レンに限らず、そこまでイカつい体格をした女性などそうそう見かけるものではない。決してひ弱ではないが逞しくもない。そう思うとイリナの異常さが際立つ。剣を片手で振り回し、斧で薪を両断する。その薪割りを「肩と背中を鍛えるには丁度いい」と言う理由で嬉々としてやるような女だ。女として出るところは出ているし引っ込むべきところも引っ込んでいるが、体格も部分的には男のそれを凌駕しているところもある。実際、腕相撲で負けた事はないが勝った試しもなかった。親方には内緒にしているが。時代と性別を間違えて生まれて来たとしか思えない。それはイリナに限った話ではないのかも知れないが。
「レン姉、いいよ。それは俺達の仕事だ」
「そんな事ばかりも言ってられないでしょ。今はただでさえ人手が足りないんだから」
レンは少しだけ顔を俯けると寂しそうに笑った。波打った栗色の長い髪が微かに揺れる。
そう言われると返す言葉に詰まる。レンに限らず、この家にいる誰もが重々承知している事だ。何より、本来いるべき人がいない事の哀しさや辛さはレン自身が一番身に染みて判っている。だから、正直かける言葉が見つからない。一番辛いはずのレンが誰よりも気丈に振る舞っていた。
「どうしたの?」
レンは腰を屈めるとヨハンの顔を下から覗き込んだ。その時、ヨハン自身もどんな顔をしていたかは判らない。ただ、レンは少しだけ苦笑いすると右手を伸ばして頭を撫でた。
「どうせなら、怖い顔するよりも笑ってる方がいいでしょ」
確かに反論の余地はない。レンの笑顔にはいつも毒気を抜かれる。来年には二十歳になるのに、未だに子供扱いだ。昔から落ち込んだ時や塞ぎ込んだ時はこうしてよく頭を撫でられた。最初はヨハンがレンを見上げていたのに、気付けばそれも逆になっている。でも笑った時の顔は、それだけは変わらなかった。見るたびにホッとする。心の底から安心出来る。
真っ直ぐ背筋を伸ばすと背伸びをしても届かなくなってしまうから、必然的に腰を屈める格好になる。取り敢えず、腰痛持ちでない事に感謝したくなった。贔屓目でなくても充分可愛いと思う。そして、つくづく父親似でなくて良かったと胸を撫で下ろす。明らかに母親の血が濃かった。それを思うと何故二人が一つ屋根の下で暮らすようになったのかが非常に気になる。家族の秘密に触れてしまうような気がするのでまだ誰にも聞いた事はないが。親方の妻、つまり女将さんはおっとりとしていてとにかく穏やかな人だった。人より多少ズレている点は否めないが、親方が見初めたとしたら恐らくそこだろうなと勝手に想像している。叱られた事は何度もあるが、誰かと違って鉄拳制裁など一度もなかった。噛んで含めると言うか、一つ一つ丁寧に諭すように叱った。レンがそうするようによく頭を撫でてくれたし、ふっくらとした柔らかい腕で抱き締める事もしてくれた。そもそも、血の繋がりもない、縁もゆかりもない兄弟二人を引き取ろうと言い出したのは彼女だった。無理矢理その縁を探すとすれば家が近所と言う点だけだった。だから、レンとはその前から一緒に遊んだ仲だった。義理の姉と言うより幼馴染みと言った方が正確かも知れない。たったそれだけの繋がりでここまで誰かのために何かが出来る。それがどれだけ有り難い事なのかを彼女から、いや二人から学んだ。朝目が覚めたら食事の用意が出来ていて、まだ小さかった頃はその日着る服も枕元に置かれていた。言葉に出来ない愛情を沢山授けてくれた。だから、本来ならば彼女の事はお母さんと呼ぶべきなのだろうが、立場上どうしても女将さんと口にしてしまう。それは親方の指導に依る部分も大きいのだが。
さっきまで手をつけていた農具の山とつい今しがたレンが持って来た農具の束を交互に見比べる。
「問題ないだろ」
さも当然と言う雰囲気だ。いつの間にかここにある全てを片付ける事が前提になっている。首を横には振らせない、そう仕向けているのは明白だった。
「ごめんね、仕事増やしちゃって」
申し訳なさそうに顔を曇らせたレンに、ヨハンは笑いながら首を横に振った。四の五の言える立場ではないし、こうして日銭を稼がなくては飯も食えない。元々武器は殆ど作る事はなかったがそれも禁じられている今、生計を立てる一番手っ取り早い手段がこういった農具などの補修だった。やらない訳にはいかないのだ。
「気にしないでくれよ。レン姉や女将さんがこうして仕事を取って来てくれるかみんな飯が食える訳だし」
今度はレンが首を横に振った。綿のように柔らかい髪がフワリと揺れる。
「私と母さんは二人の手伝いをしてるだけだよ。実際に動くのはお父さんとヨハンだから」
親方がレンの頭に手を置いた。レンは少しだけ目を伏せて俯いた。弟子には厳しいが娘には甘い。だが、厳しさの中にも確実に伝わる何かがある。それが親方の、この人のやり方だった。そういう人に養われている事は、やっぱり結構な幸いなのかも知れない。
「しっかり働けよ」
「はい」
横目で睨み付けた親方に笑いながら応えた。親方はフンと鼻を鳴らして笑った。
「じゃ、私は母さんと買い出しに行って来るから」
「なら馬出すか。その方が楽だろ」
「そうしてくれると助かる」
ドアの前でレンは振り向いて手を振った。ヨハンは軽く手を上げた。
三人でやっていた時は窮屈に感じていたが、一人で過ごすにはこの工房は少し広い。そしてそれに少しずつだが次第に慣れつつある。首筋の辺りが熱くなった。ここで三人で過ごせない事など絶対に歓迎したくなかった。しかし、そんな現実に対して徐々に違和感を覚えなくなって来ている。それが堪らなく嫌だった。
壁に立て掛けていた農具一式を脇に置いた。すぐ手に取れる位置にあった方が効率も上がる。集中を途切れさせたくはない。頬を軽く両手で張った。油が付いたが気にならなかった。そんなものは後で拭き取ればいい。手に取った鍬の刃先を見た。カラカラに乾燥した土がビッシリこびりついていた。
一人で仕事をすると消化しなければならない量は増えるが、周りを気にせず出来るため作業は捗る。仮に親方がいたとしても始終何かを話している訳ではないのでそこまで大きくは変わらないのかも知れないが。だが横槍はしっかり入れてくれる。それがない分助かると言うものだ。
意識して殊更ゆっくりと呼吸する。それが無意識に変わる頃には自然に集中が出来ている。刃を磨いて汚れと錆を落とし、しっかり乾かしてから油を塗る。まずは磨くのが先だ。完全に乾き切った後に順次油を塗って行けばいい。意識的に呼吸しながらひたすら作業に没頭する。次第に時間の感覚が薄れて行った。疲労も感じなくなる。こういう時、基本的に残りの本数は見ないようにしている。そこで下手に意識すると途端に集中力が失せてしまうからだ。
伸ばした左手が空を掴む。気付けばさっきまで山になっていた農具が綺麗に消えていた。代わりに西日が差し込んでいる奥の壁に磨いたばかりの種々雑多な農具が整然と並んでいる。取り敢えず、磨きは終わった。次は油か。張っていた肩と腕から力が抜けた。その拍子に、それまで額に張り付いていた汗が頬を伝って床に落ちた。火がなくてもここまで熱くなれる。吐く息が熱い。イリナに散々「暑苦しい男」と言われたが、これではそれも否定出来ない。適量の油を染み込ませた布を刃に宛がう。油が滴るような事はあってはならない。刃に油が馴染む程度が望ましい。油で軽く湿った布を刃に走らせる。刃の上に極薄い油の層が出来た。それが西日を受けて煌びやかに光っている。多すぎた油が垂れるような事もない。そうなったら拭き取らなければならない。二度手間は誰でも避けたい。況してや注意していれば未然に防ぐ事も充分可能だ。親方に言わせれば「余計な仕事を増やすな」と言うところだろう。確かに同じ事を二度も繰り返せば別に親方でなくてもうんざりする。こういうところで手を抜かずどれだけ集中力を維持出来るかが肝だ。体から力を抜いた。もう一度意識して呼吸する。布を刃の上に滑らせる。なくなるまで、ひたすらそれを繰り返す。
少しずつだが、確実にペースが落ちて来ている。いつの間にか、呼吸する音がやたら耳につくようになっていた。誰に聞かれる事もない、ヨハンは顔を歪めると思い切り舌打ちした。集中力が切れたから疲労を覚えたのか或いはその逆か、考えるのも馬鹿らしかった。横目で壁に立て掛けていた農具を初めて見た。半分とまでは言わないが、底が見えるまではまだしばらくかかりそうだった。ならば惰性である程度片付けてから一旦休憩を挟んで仕切り直すとしよう。その方が効率も上がる。右手に力が入らない訳ではない。だがここで集中力を盛り返せるだけの気合いはなさそうだった。力を込めようとしてそれが全て徒労に終わるくらいなら、そんな事は最初からしない方がいい。それこそ無駄な努力だ。
手に残っていた一本を殊更丁寧に仕上げる。壁に立て掛けると同時に脇に転がっていた椅子に思い切り腰を下ろした。血の気が引くようにして全身から力が抜けていく。やっぱり、思っていた以上に堪えたか。それを今まで感じなかったのは偏に集中力と言う名の気合いの成せる業だろう。ただ、あの男だったら、リーゼルだったらもっと手際よく片付けていた。今見た訳でもないのにそう言い切れるのは、かつてこれ以上の量を別段顔色を変える事もせず普通に消化する様子を何度も目の当たりにしているからだ。勿論多少は集中力を要するだろうが、ペースが掴めれば鼻歌混じりに仕事を進める。あれはそういう男だった。手先が器用で要領もいい。リーゼルを端的に表現するならこの二言に尽きる。おまけに口も上手い。だから、本命の前では硬くなって何も言えなくなる弟とは違って女のウケも良かった。それでも他の女になびく事はなかった。本人にその真意を聞いた事も、聞こうと思った事もない。聞くのも野暮と言うものだ。家でずっと帰りを待ち侘びている女がいるのに、それに見向きもせずに他の女に手を出すような真似をしていたらヨハンが許さなかった。恐らく拳で殴る程度では済まなかっただろう。もっとも、そうなる事もなかったが。肝心の本人がこの家から姿を消しただけだ。別の意味で馬鹿野郎と言いたくなる。あんないい女を残して一体何してやがる。
工房のドアを開けると、丁度目の前に女将さんがいた。
「お帰りだったんですか。お疲れ様でした」
「お疲れなのはあなたでしょ、ヨハン。どう? 仕事は片付いた?」
朗らかに笑いながら肩を叩かれた。こういう人がいてくれるから、親方に多少しごかれた後でも前を向ける。ガキの頃の話だが、泣き出したくなった事も一度や二度ではない。そういう時は決まってこの人が慰めてくれた。だから頑張れたと言う側面もある。
「あとちょいで終わりです。ただ流石に少し疲れたんで一息つこうかなと思って」
「その方がいいわ。ある程度休んだ方が効率も上がるから」
よく判っている。やる気が失せた状態で自分を奮い立たせるのは却って疲れるだけなのだ。
「これ、食べなさい」
袋に突っ込んでいた手を差し出す。林檎だった。好みもしっかり把握してくれている。有り難い。
「丁度軽く小腹が空いてたから助かります」
「あなたの仕事が片付く頃には夕飯も出来てるわよ」
女将さんは手を振りながら台所に入っていった。今の状態ではとても晩飯まで持ちそうにない。成長期は過ぎていても、まだまだ腹は減る年頃だ。ま、あいつ程ではないだろうが。
昨日、ヨハン達は夕方前に帰宅したからその後の事は知らない。ただあの二人をぶちのめした後も相当食っていた。一体何人分食べたのか判らない。ヨハン達が帰る前には箸を置いて温泉に行ったが、上がってからも食事は取ったのだろうか。ヨハンだったらまず食わない。いや食えない。あれだけ食って、あれ以上何を食うと言うのか。乾き切った砂が水を吸収するようなものかとも思うが、あれ以上を食っていたとすればそれを凌ぐどころの話ではない。でも普通に食っていそうな気がする。あれだけ食ったが満腹そうには見えなかった。
またあの男と飯を食う機会はあるだろうか。その前に会えるかどうかすらも判らない。いや、会えるか。夕方以降にイリナの家に行けば必ずいる。もし会うなら一緒に飯でも食えばいい。それにしても、何をしにここに来たのか判らないがしばらく足止めを食う事は避けられない。何とも気の毒な話だが、奴らに自分の存在を知られた後も別段動じる様子もなく普通に食事に興じていたところを見ると、まだこの街が於かれている状況を正確に理解するには到っていないのだろう。そりゃそうだろうな。奴らからしてみれば知られたからには生かしておけんと言う事だが、そうなった以上あいつらを撃退しない限りあの男もこの街から出られない。つまりここに来た時点で既に一蓮托生なのだ。運命共同体と言ってもいい。
ヨハンはドアを開けると同時に顔の前に右手をかざす。指の隙間から差し込んだ西日に一瞬目が眩んだ。疲労は変わらないが眠気は少しだけ薄れた。ゆっくり息を吐くとドアの脇に置かれたベンチに座った。林檎を皮ごとかじる。唇の端から滴った果汁を指で拭う。水を飲もうかとも思っていたが、その必要もなさそうだった。
「お疲れ様」
驚いて周囲を見回す。続いてクスクス笑う声を聞いて顔を上げた。丁度首を右上に四十五度曲げたところにレンがいた。開け放った窓枠に左手をかけたままヨハンに軽く手を振る。
「休憩中?」
「ああ。ある程度切りのいいところまでは片付いたし、一息入れたら一気に仕上げるよ」
格好つける訳ではないが、ヨハンはグッと親指を立てた。この分なら多少急げば夜までには充分終わる。人間やれば出来るものだ。
「流石ね」
「何てこたぁないよ」
おどけて肩を竦めたヨハンに、レンはさっきのように屈託なく笑った。良かった。素直にそう思った。しばらく前までは、リーゼルがいなくなってからは終始塞ぎ込んでいた。目は虚ろで覇気もなく、食事も殆ど手を付けようとしなかった。声を上げずに泣いていた事もあった。軒先から雨粒が滴るように、焦点の定まらない目から涙だけが静かに流れていたのを見た時は何も言わずに思い切り抱き締めていた。必ず戻って来る、そう信じて待ってよう。絞り出すような声でそれだけ言った。腕の中にいたのにうん、と言う返事はやけに遠くから聞こえた気がした。それが今はこうして笑ってくれる。それだけでこんなにも心が軽くなる。レンを抱き締めたのは後にも先にもその時だけだった。翌日に礼だけ言われた気がするが、もう覚えていない。あまり長い間心に留めておきたくなかった。ヨハンにとっては忘れた方がいい、いや忘れなければならない出来事だった。でも、それも本当に過去のものになりつつある。それ自体は喜ぶべき事なのかも知れない。だが、それが成就するかはまた別の話だった。ひょっとしたら競争率はこちらの方が高いのかも知れない。それを思うと複雑ではあるが。少なくとも、レンはヨハンに対して親愛の情は持っていてもそれ以上の感情はない。そんな事は判り切っている。ヨハンの入り込める余地など最初から残されていない。夢から醒めたような気持ちで空を見上げた。でも、それでいいんだ。静かに、自分にそう言い聞かせた。
「戻ってたんだな。全然気付かなかったよ」
「それだけ集中してる証拠よ」
なかなか嬉しい事を言ってくれる。これで親方に仕上がりを褒められれば完璧だった。まずないとは思うが。
「親方は?」
「寝てるわ。少し疲れたみたい」
レンは隣の部屋を指差しながら言った。確かに、眠くなる頃だ。実際、さっきまでヨハンも眠気と格闘していた。昼飯を食っていい案配に疲労が溜まれば睡魔に襲われても不思議はない。
「さっきからそこで何を?」
「これ、買って来たんだ」
手に持っていたものを窓の外に出す。花だった。頬が綻んだ。やっぱり、以前よりも間違いなく元気に、気持ちが前向きになって来ている。昔から花は好きだったが、こうしてレンが花を活けているところなどもう随分長い事見ていなかった気がする。ここで笑ったら、レンは首を傾げるだろうか。
何れにしても、いい傾向である事に変わりはない。鼻唄混じりに花瓶に花を活ける。花が咲いたような笑顔だった。
ベンチに腰を下ろした時、あっと言う甲高い声が聞こえた。反射的に声がした方に顔を向ける。花瓶が宙に浮いていた。否、落ちていた。取り落としたのだ。時間にすればコンマ何秒もない。そんな僅かな時間でも、ついさっきまで綻んでいたレンの顔が見る影もないくらいに引きつっているのがハッキリと判った。あの花瓶が割れるような事があったら、もう二度とレンの笑顔が見られなくなる。大袈裟でも何でもなく、それは絶対に避けられない。それこそリーゼルがここに戻るまでは。ベンチから立ち上がった。駆け出す体勢を取ったがまず間に合わない。距離的にも時間的に不可能だ。動くのを一瞬躊躇った。
瞬間、目の前を何かが高速で横切った。速過ぎて見えなかった。動物かとも思ったが、だとしたら相当デカい。そもそもそんな馬鹿デカい動物が昼日中に街中を我が物顔で駆け回っていたらそれこそ大騒ぎだ。
首だけ曲げてそれを追う。全身が茶色く見えた。汚れているのではなく元々そういう色をしているのだろう。それが前に跳んだ。落ちて来た花瓶を受け止めた、ように見えた。後ろからでは手元が確認出来ない。着地すると同時に盛大に砂煙を上げながら滑って行く。後ろ姿、ではなく靴の裏が見えた。やっぱり人だ、動物である訳がない。背中に何か背負っている。茶色いリュックだった。茶色く見えたのはこのせいか。人影がのそりと立ち上がった。深々と帽子を被っているので表情は殆ど窺えない。背負っていた馬鹿デカいリュックを下ろす。地面を突き抜けるような重苦しい音が響いた。また砂煙が上がる。そのリュックに目が吸い寄せられた。焦げ茶色で、一見くたびれているようにも見えるが薄汚いだけでもの自体は結構しっかりしている。つい最近何処かで見た記憶があった。本当に極最近の出来事だ。でも、思い出せそうで思い出せない。もどかしさに髪を掻き毟ると、件の人影は右手で布団でも干すように派手に音を立てて身体中を叩き始めた。もうもうと砂煙が上がる。風下にいたら間違いなく噎せていたと断言してもいいくらいだ。土埃を叩き落とすと言うよりも元々それだけ汚れていたと考えた方が自然に思えた。際限なく体全体から溢れた煙が風に流されて溶けていく。煙の勢いにようやく陰りが見え始めた頃、男は被っていた帽子を脱いだ。挨拶するように軽く手を上げる。
「よ」
初対面の挨拶にしては砕け過ぎている。でも馴れ馴れしさは微塵もない。ずけずけ家に上がり込まれるような無神経さではなく、張り詰めた雰囲気や空気を和ませる何かがあった。
あ。無精髭が綺麗に剃り落とされていたせいで見た目の印象が昨日とは大分違っていた。ただ年齢が判らない。年相応にも老けているようにも見える。
「丁度よかった」
旅の男は無傷の花瓶を軽く持ち上げると、腰に差していた剣を外した。




