六日目 ~夜~ その弐
掛け声と同時に真っ正面から思い切りぶつかり合う、そんな二人を勝手に想像していたのか気付けば硬く目を閉じていた。それもホンの一瞬だった。瞬きするくらいの時間が過ぎた頃になって初めて違和感を覚えた。
ざわめきの間隙を縫うようにして微かに誰かの息遣いが聞こえる。それが二人のものだと思い至るまで更に何秒かかかった。
驚いて目を開けた。
数間先では構えたままの二人が睨み合いながら少しずつ距離を詰めていた。いつものアリスだったら多少間合いが離れていても一気に突っ込んでいく。そして攻撃しながら徐々に自分の距離を作っていくのに、今日は殆ど動いていない。後ろに退いた右足に重心を載せたまま上目遣いにトージを睨み付けている。
対するトージもアリスとは綺麗に点対称の構えを維持しながら攻撃の機を窺っている。下手に打ち合うよりこの方が余程迫力があって恐ろしかった。何が起こるのか全く判らない。
「静かだね」
静かに、そして恐る恐る呟いた。このまま黙っていたら沈黙に呑まれそうで怖かった。
「それだけ本気って証拠よ」
二人を見据えながらミリアムが言った。目を逸らす事は勿論瞬きすらしない。二人の一挙一動を目に焼き付けるように観察している。
これだけ緊迫した空気に包まれた組み手を見るのはひょっとしたら初めてかも知れない。ウォッカとやった時は、言い方はおかしいかも知れないけどもっと和やかな雰囲気だった。勿論アリスは真剣に打ち込んでいたし気合も気迫も伝わって来ていたけど、少し大きめの上着を羽織るような余裕があった。多分、ウォッカが終始笑っていたせいだろう。喚く子供をあやすような安心感があった。
でも、今目の前にあるものは全く違う。冗談抜きの真剣勝負だ。その雰囲気に居合わせた全員が気圧されている。完全に静まり返っていた。微かに風のざわめく音と、それ以外には火で薪が弾かれる音しか聞こえない。
トージの体が僅かに前に傾いた。と思った時には音もなく間合いが狭まっていった。吸い込まれるような速さだった。息を呑む暇もない。
アリスの顔に向けて放たれた拳が下から跳ね上げられた。当たる直前にアリスが拳で下から弾いたのだ。片腕だけで万歳するようにトージの左手が宙に浮いた。そこから更に半歩踏み込むと同時に体を反転させた。半分背中を見せたと思った時にはアリスの裏拳が轟音を立ててトージの鼻先スレスレを通り過ぎる。体を捌いた勢いを綺麗に載せた前蹴りは折り畳んだ両腕に受け止められた。
トージが顔をしかめた。直撃こそ免れたけどかなり効いている事は間違いなさそうだった。
アリスの体から力が抜けた、ように見えた。浮いたのか沈んだのか、平衡感覚そのものが失われた瞬間、二人の間合いが完全になくなった。トージが首を竦めた、いや違う。顔に向かって放たれた踵を首だけでなく体全体を屈めてかわした。そして瞬きする前にはトージの体が宙に浮いていた。
目で追うのがやっとだった。それくらい速い。とんでもなく速い。
踏み込むと同時に体全体を捻って存分に遠心力を載せた踵を思い切り振り回したのだ。直撃していたら一体どうなっていたのか判らない。あれだけ速く踏み込まれたのにトージもよくかわせたものだ。単純な視力以上に動体視力も優れていないとまず出来ない。
でも流石に次は避け切れなかった。
鎌のように地を這う蹴りが見事にトージの踵を刈った。注意が完全に頭に向いた直後に真下の足を払い飛ばしている。そして頭を狙った右足の勢いを全く殺していない。一つ一つの攻撃が単独で終わるのではなく、鎖が絡み合うようにして綺麗に連続している。
だから当然これで終わりではなかった。
背中から音を立ててトージが地面に叩きつけられた。
その時にはアリスが更に間合いを詰めていた。握り締めた拳を右脇に添えている。針を突き刺すように鋭く突き出された拳がトージの顎先ギリギリで止まった。
「それまで」
ウォッカがアリスのいる側、右手を上げた。
観念したようにトージが倒れると観衆が一気に喚声を上げた。
アリスは微妙に目を泳がせながら自分の両手を見詰めていた。何が起こったのか、それを当の本人が理解出来ていないのかも知れない。右手を倒れていたトージに差し出した。強く握り返した手を思い切り引っ張った。立場が逆だったらそれなりに絵になったと思う。でもこれはこれで悪くなかった。
二人はウォッカの前に立つと互いに視線を合わせた。背筋を伸ばして、顎を引いてじっと相手の顔を見ている。
ウォッカがアリスの勝利を宣言するように手を上げた。
「礼」
真っ直ぐ伸ばした背筋を崩さず綺麗な角度で腰を折る。相手に敬意を払った、気持ちのこもった礼だった。
割れんばかりの拍手や喚声が二人を包んでいる。アリスはまだ呆然と両手に視線を落としていた。そんなアリスをトージは穏やかに、いや晴れやかに笑いながら見詰めている。とても負けた直後とは思えないくらいに爽やかな笑顔だった。
「いや~負けた負けた、完敗だよ」
降参とでも言うようにポンポン頭を叩く。
「動きが全然見えなかった。何をどうすればあんなに速く動けるんだよ」
アリスは相変わらずボーッと突っ立ったままだった。どっちが勝ってどっちが負けたのか判らない。トージは仕方なさそうに笑うとアリスの手首を握った。勝者を祝福するように高々と天に掲げる。
「勝ったんだから、もっと堂々としろ」
アリスは我に帰ったようにハッとしてトージを見た。トージは笑顔でそれに応じる。
「それが勝った奴の役割だ、前にそう言ったろ?」
片目を瞑って見せた。本人は格好つけているつもりなのかも知れない。だとしたらその目論見は見事に成功していた。嫌味も僻みも全くないし、何より雰囲気も凄く自然だった。
アリスの両目がたちまち潤んでいく。膨らんだ涙の粒が一気に溢れ出した。悲鳴を上げるとそのままトージに抱きついた。それまで比較的落ち着いていたトージの表情が動揺を匂わせるように引き攣った。そりゃそうだ。男が年頃の女の子に抱きつかれて動揺しない訳がない。さっきの彼がそうだったように。
思わずウォッカの姿を探していた。
丁寧に人垣を掻き分けて群衆の奥に消えていく背中が見えた。引き際を心得た後ろ姿だった。少なくとも出しゃばるような真似は絶対にしない。
「お~い、待てよ~!」
ヨハンが喚きながらウォッカの背中を追う。何か用でもあるのだろうか。両脇にいる友人二人を見る。二人がいてくれるのは凄く嬉しいけど、今夜だけは彼と二人きりで過ごしたかった。ヨハンにしても、もし用があるなら極力今日は避けてくれると有り難い。手短に済むならそれに越した事はない。
程なくしてヨハンが彼の腕を引っ張って戻って来た。
「大声出して呼び止めるなよ恥ずかしい」
もっともだと思う。年端のいかない子供でもこんな風にはしないと思う、多分。
「聞きたい事がある」
「何だよ、改まって」
想いを寄せている異性に告白でもするような雰囲気だった。隣ではミリアムが微妙に頬を強張らせている。気持ちはまあ、判らないではない。
「なあ、アリス」
トージは実にスッキリとした表情で声をかけた。
目に溜まっていた涙を指先で弾くとアリスは真剣勝負を終えてから初めて笑った。
「さっきも少し話したけど、いつからあんなに速く動けるようになったんだ?」
当の本人はキョトンとして首を傾げている。何の事やらサッパリ判らない、そんな顔をしていた。
「お前には見えたんだろ?」
「そりゃなあ」
見えていなければ裁定は下せない。でも聞かずにはいられないのだろう、気持ちは判る。それくらい速かった。でも目で追えない訳でもなかった。
「あんたには見えなかったのね」
念を押しているのか止めを刺しているのか判らない。ヨハンの横顔が音を立てて引き攣った。
「ミリーは?」
「確かに相当速かったけどあれくらいなら充分対処出来るかな」
イリナはいかにも疲れたように溜め息を吐いた。
「おい、そんな露骨に脱力すんなよ! 捌く事は出来たとしても速い事に変わりはねえだろうが!」
「何ムキになってんだよ」
今度はセージが呆れたように組んだ腕を揺する。
「お前には見えたのかよ」
「辛うじてな」
ヨハンが歯を軋ませた。セージは微かに横顔をヒクつかせている。
「私は全然見えませんでした」
「私も」
潔く認めたエレンにサラが手を上げて倣う。
「あれがまともに見える方が異常です」
「同感」
エレンが珍しくサラの肩を持った。滅多にない事だった。
「ま、確かにな」
お師匠さんは冷や汗をかきながら愛弟子を見詰めている。弟子の成長に目を細めると言うより純粋に驚いているようにしか見えなかった。
「師匠は見えたんですよね?」
「見えるには見えたが……」
難題と睨めっこする学生のように腕を組んだまままんじりともしない。
「あいつ、いつの間にあんなに速く動けるようになったんだ?」
「そんなに速かったですか?」
「無駄な動作が一切なかった。仮にあったとしても俺の目には見えなかった。少なくともウォッカとやった時より明らかに速い」
ウォッカと組み手をしたのはホンのつい三日前の事だ。
お師匠さんの感覚に誤りがなければその時を遥かに凌ぐ速さで動いていた事になる。
たった数日でそれだけの変化が起こるなんて、普通絶対に考えられない。
そして、何故それがカティには見えたのか。
「ま、小難しい事は兎も角」
笑っているウォッカの視線の先に二人がいた。
アリスは涙ですっかり目を潤ませたまま憑かれたようにトージを見詰めている。いつの間にかトージの首にはアリスの腕が襟巻きのように巻き付けられていた。力はこもっていないけど、とても一筋縄で解けるようには見えなかった。
「本人はそんな事端から気にしちゃいないようだし、いいんじゃないですか?」
アリスの目から涙の粒が溢れ落ちる。鼻の頭が今にもトージの頬にくっつきそうだった。トージの頬が真っ赤に染まっている。動揺は隠し切れない。
「やっと、やっと追いつけた」
「いや追い抜いただろ」
間違いなく。冷静に訂正するトージにアリスは首を横に振る。
「今日は、今のトージは病み上がりみたいなものだから。だから偶々こうなっただけ」
結果に慢心していない。速さの向上以上に明らかな進歩だった。普段だったら飛び跳ねて、喚声を上げて喜びを露にしている。
「ねえ、これからもこうして組み手してもいい?」
真っ当な感覚の持ち主なら全力でお断りするところだろう、裸足で逃げ出すのが関の山だ。まともにやり合ったら命がいくつあっても足りない。寸止めしたからと言うより腕に覚えのある相手だったから、トージだったから無傷で済んだけど普通の人だったら最初の裏拳で間違いなく昇天している。
我が姉ながらつくづく恐ろしいと思う。
「俺じゃ役不足だ、と言いたいところだけど、」
トージは小首を傾げると悪巧みを考える子供のような顔で笑った。
「負けっぱなしじゃ悔しいからな」
軽く握り込んだ拳を顎の手前に添える。結構物騒な表情に見えなくもないけどこの方がトージらしかった。
「私、トージと一緒に強くなりたい」
真っ直ぐ前を、トージの目を見る。恐らく気持ちはそれ以上に真っ直ぐなハズだ。
「アリスなら大歓迎だよ」
アリスが笑った。花が綻ぶような笑顔だった。
「大好き!」
トージの首に両腕を巻き付けたかと思うと唇に唇を重ねた。
見ているこちらの方が度肝を抜かれた。
顔が一気に熱を持ったのと周囲から喚声が上がったのがほぼ同時だった。
穏やかな表情で目を閉じているアリスとは対照的にトージはすっかり驚いた顔を惜し気もなく晒したまま目を見開いている。長い。
アリスはやっと唇を離すと何かに憑かれたような顔でうっとりとトージを見詰める。完全に自分の、いや二人の世界に入っていた。素直に羨ましいと思う。
背後から仕方ないような、でも少し悔しそうな溜め息が聞こえた。
「まさか、あの子に先を越されるなんてね」
そんな事を言っている割りには随分嬉しそうに笑っている。全く、素直じゃないんだから。
「イリナだって、セージに会えたんだし……」
イリナがギョッとしたように目を大きくした。本人も当然それを期待しての事だろうけど、何がどうなるかなんて誰にも判らない。
と思ったらセージが隣で思い切り顔を赤らめていた。取って付けたような咳払いがいかにもわざとらしい、いや白々しいと言った方がいいかも知れない。
ミリアムがクスリと笑った。
「安泰ね」
「あんたもね」
ちょっぴりバツが悪いのか、イリナは少しだけ唇を窄めてそっぽを向いた。でも嬉しい事に変わりはない。
すぐ後ろではヨハンが目を白黒させながら棒のように突っ立っていた。居心地がいいのか悪いのか判らないのかも知れない。嬉しいけど恥ずかしい、そんな困った板挟みに遭っている。
「いいなあ」
サラがボソリと呟いた瞬間、脊髄反射のような速さでみんなの背筋が伸びた。心臓に悪い。
「そうやって思った事をすぐ口に出すんじゃないの」
餓鬼じゃないんだから。エレンは少し怖い顔をして横目で牽制する。サラが負けじと睨み返した。
「エレンもそう思ってる癖にぃ」
無表情を無理矢理装った顔を不自然に逸らした。図星だけに言い返せない。
「ま、そういうのは巡り合わせだから」
「その巡り合わせを引き寄せる努力も必要でしょ?」
サラにしては珍しく言う事がいちいちもっともだった。明日は大雨だな、きっと。別に構わなかった。今が晴れてくれるならそれでいい。
「本当に嬉しそうだね」
ドキマギしているトージと違って、アリスは天にも昇りそうなくらい穏やかな、そして満たされた表情で胸に顔を埋めている。
「トージが帰って来るの、ずっと待ってたもんね」
どれだけ寂しくて辛かったのだろう。ひょっとしたら枕を濡らした夜もあったのかも知れない。でもそれを誰かの目に安易に晒すような真似は絶対にしなかった。いつも歯を食い縛って、拳を握り締めて堪えていた。そうして折れそうになる自分の気持ちを奮い立たせていた。トージがいなくても、それがどれだけ強くても決して涙は見せなかった。それが最後に残されたアリスの意地だったのかも知れない。
でも、もう我慢する必要も意地を張る理由もない。胸の奥にしまっていた気持ちが湧き水のように一気に溢れ出していた。頬を伝う涙をトージの指が優しく掬い取る。二人は堅く手を繋いだまま互いに離れようとしない。傍にいてくれる、そしていられる事の喜びを噛み締めるように強く指を絡ませる。
胸の奥から込み上げて来るものを感じた。唇の隙間から漏れた息は明らかに湿っていた。
良かったね。心の底からそう思う。それを伝えたら、アリスは一体どんな顔をするだろうか。
「じゃ、二人の組み手も一段落したし、そろそろ宴の開始と行くか」
一歩前へ出るとヨハンはウォッカの肩に手を置いた。ウォッカは若干怪訝そうに眉を潜めた。
「何で俺の肩に手を置く?」
ヨハンは待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「主役がいなきゃ始まるものも始まらねえ。さっきイリナも言ってたろ?」
イリナが睨むような目でウォッカを見る。
彼がいなかったら家族や仲間、そして友達と再会出来なかった人達も大勢いる。小さな街だけど、どんな所にも人の営みは必ずある。ウォッカはそれを本来あるべき形に戻してくれた。間違いなく英雄だ。
ウォッカがいなければ始まらない。だからみんな待ってくれていたのだ。
「行くぞ」
「おうよ」
ヨハンが突き出した握り拳をウォッカが軽く叩き返しす。そんな二人の後ろ姿に絆のようなものを感じた。単純な友達とは明らかに違う。
そう言えば。
この街に来た彼に一番最初に話しかけたのはヨハンだった。元々ヨハンは誰に対しても物怖じしない。それがちょっと羨ましかった。あの時カティがウォッカに話しかけていたら、彼は一体どんな顔を見せてくれただろう。
その翌日、ウォッカはヨハンに剣の砥を依頼した。まさか素手で、その上両手が塞がった状態で十人以上の相手を蹴散らすなんて一体誰が考えるだろうか。それを聞いた時、ヨハンは何を思ったのだろう。
カティを助けてくれたのもヨハンだった。ヨハンがいなかったらウォッカもカティの元に辿り着けなかった。一番の功労者は確かにウォッカだ。でも彼一人で全てをこなせた訳ではない。ヨハンが、みんながいてくれたからここにいられる。有り難くて膝が折れそうだった。気合を入れて力を込めないと立っていられない。
「それにしても、」
セージは感心したように腕を組んでいる。
「よく短時間でここまで作れたな」
広場の丁度ど真ん中に設えたばかりの台が置かれている。高さは精々朝礼台に毛が生えた程度だから大した事はない。でもヤスリで磨かれた表面は火の光を鮮やかに跳ね返していて眩しいくらいだし、木もそれぞれ隙間なくガッチリと組み合っていてびくともしない。大人十人程度なら全く問題なさそうだった。梯子をかければ昇り降りは充分出来るだろうに、分厚い板で作られた階段が綺麗に嵌め込まれている。全く手を抜いていない。それどころか無駄に手が込んでいそうな気配すらある。昇るのが勿体ないくらいだった。
「それくらい気合が入ってるのよ」
イリナの手が頭に載った。目が合った拍子に笑った。穏やかなのは勿論だけど、何処か誇らしげにも見えた。その気持ちは物凄くよく判る。まるで自分の事のように胸を張りたくなった。
彼を迎えるために、みんな一生懸命作ったのだ。これ以上待たせたら苛々し過ぎてそれこそ苔が生えそうだった。いつの間にかすぐ隣にアリスとトージが立っていた。二人とも堅く手を繋いで、いや指を絡ませてウォッカの後ろ姿を見送っている。ミリアムは今にも声を上げそうな雰囲気でもどかしそうにヨハンの背中を見ていた。でも嬉しくて仕方なさそうだった。出来る事ならすぐ隣に、手を繋ぎたいに違いない。カティがそうであるように。
暑苦しい背中が二つ、真新しい台に向かってゆっくり歩いて行った。




