六日目 ~夜~ その壱
疎らに散っていた人達が一箇所に固まっていく。その様子を少し離れた位置から何気なく眺めていた。
「どうしたんだろう?」
「さあ」
黒山の人集りの向こう側に誰かが向き合うように立っていた。握り締めた拳を両脇に添えたアリスが物騒な目付きでトージを睨んでいる。一方、トージもそれに負けないくらいにおっかない顔でアリスを見ていた。今にも喧嘩が始まりそうな物々しい雰囲気だった。
「おいおい」
二人の丁度真ん中に立っているお師匠さんは困ったように頭を掻いている。
「お前ら本気でやるつもりかよ」
「はい」
「勿論です」
返事に迷いがない。よく見ると顔つきも物騒と言うより真剣そのものと言った方がいい。喧嘩ではなく、組手が始まろうとしているのだ。
「この瞬間を、ずっと待ってましたから」
「知ってるよ」
お師匠さんはすっかり呆れ返ったように肩を竦めて見せた。止めても聞かない事くらいは百も承知だ。そういう処はある意味家族よりも理解している。愛弟子である事は勿論だけど、同時に相当な問題児である事も確かだった。こんな時に、こんな所で組手を始めようと言うのだから。
「お前も素直に応じるなよ」
「拒む理由もないし、」
トージは掌を拳でバシバシ叩きながら言った。
「何ヵ月もあんな狭苦しい所に閉じ込められてたから鬱憤も相当溜まってるんですよ。それを発散させるには丁度いいかな」
「発散か」
あんな所に何ヵ月も閉じ込められていたのだ。カティはたった二日でも耐えられなかった。いつ出られるのか、それすら判らない。最初はそれに絶望して目の前が真っ暗になった。それに打ち克てるだけの強さがあっても、いやむしろその反動で心が少しずつ蝕まれていくのかも知れない。
何れにしても、今は牢屋からも絶望からも解放されている。最高の気分に浸りながら鬱憤を発散出来るならそれに越した事はない。相手にしても不服はないハズだ。
「それに、俺らが燻ってる間にアイツがどうなってたか知りたいですしね」
「多少腐る事はあっても稽古をサボるような真似はしなかった。それがどの程度結果に活かされてるかまでは判らねえが」
確かに多少塞ぎ込んでいた時期もあった。でも激情に駆られるような事は一度もなかった。或いは家族の前でそれを晒すような真似をしなかっただけなのか。たとえどれだけ辛くても一丁前に強がれるだけの根性がある。素直に羨ましいと思う。
でも、もう気持ちを抑える必要はない。思う存分ぶつければいい。気持ちを拳に載せて思い切り振り被る。物騒でこれ以上ないくらい攻撃的だけどアリスにはそれが一番似合っていた。
「昔から本当にウマが合うな」
セージは感心すると言うより明らかに呆れながら言った。
「加減はしてやれよ」
「馬鹿言うな。アリス相手に下手にそんな事したらただの怪我じゃ済まねえよ」
おっかなビックリして肩を竦める兄をトージは睨み付けた。
「素手の勝負ならお前より遥かに手強いんだからな」
「知ってるよ」
並の男では歯が立たないと言うより相手にもならない。大人数人に襲いかかられても尋常に勝負に臨めるような状態なら普通に勝てる、多分。
アリスはそれだけ抜きん出たものを持っている。そのアリスと唯一互角以上に渡り合えるのはトージだけだった。初等部に上がってからは机に向かうより道場にいた時間の方が長かった気がする。それくらい熱中していた。昔は、いやつい最近までは判らなかったけど今は違う。自分を鍛えるためだけではない、周りに守りたい誰かがいるなら武を養う事はそれだけで非常に意義深い。
「何なのよ、この騒ぎは」
イリナが人垣の間から顔を覗かせた。
「喧嘩でも始まりそうな雰囲気じゃない」
「喧嘩じゃないでしょ」
「どうだか。似たようなもんでしょ」
訂正するミリアムの言葉に顔をしかめると、イリナは真剣な表情で向かい合っている二人を交互に見る。
「ねえ、セージ」
「本人達は組手のつもりらしいけど」
確かに一瞥しただけだと喧嘩にしか見えない。でも周囲はざわついているけど二人は飽くまで静かだった。そこから漂う緊張感が肌を突き刺すようだ。ゴロツキの喧嘩とは空気が違う、それを承知の上での発言だ。
「狭くて暗くてジメジメした所に長々閉じ込められたんじゃ相当溜まったでしょ」
「精々体動かして発散する程度だったな。だから腕立てと腹筋背筋、それと屈み跳躍は毎日欠かさなかった」
毎日欠かさず続ける意思の強さに驚くべきかそれしか鬱憤を晴らす手段がない事を気の毒に思うべきかを何秒か真剣に悩んだ後、ごまかすように苦笑いした。出て来られたのだから別にもういいではないか。
「それを何回やってたの?」
「腕立てと屈み跳躍は百回、腹筋は真っ直ぐ百回、左右に捻りを加えて百回ずつ、背筋は二百回。朝昼晩でそれを合計三回」
口にものを含んでいたら吐き出していたかも知れない。
回数もさる事ながらそれを一日三回も繰り返す体力と根性に言葉をなくした。それだけ激しく溜まる事の裏返しでもあるだろうけど。体格は衰えるどころか遥かに逞しくなっている。食べ物が粗末でもしっかり鍛えれば体はキチンと応えてくれる、と言う事だろうか。
「実戦の感覚は多少鈍くなってはいるだろうけど力はそれなりに増してる。それを試したいって部分もあるだろうな」
「当てる訳にはいかないけどね」
ミリアムが隣から静かに釘を刺す。当たったらただの怪我では済まない。それに簡単に当たるような相手ではない。攻撃一辺倒ではなく防御にも抜かりはない。アリスはやや攻撃に重きを置いている。でも守りを疎かにするほど馬鹿ではない。
「で、いつ始まるんだ?」
ミリアムのすぐ隣に立っていたヨハンがぶっきら棒に言った。少し苛々しているように見えなくもない。時折チラチラとミリアムの様子を窺っている。
気持ちは判らなくもない。
「あの子にはとても大切な瞬間なんです」
だからもう少しだけ辛抱してやって下さい、とでも言うようにミリアムは器用に片目を瞑る。
露骨に鼻の下を伸ばすほどスケベではないみたいだけど、毒気を抜くには充分だった。或いは既に骨まですっかり抜かれているのかも知れない。
「少しは落ち着きなさいよ」
イリナがからかうような目で牽制する。
気不味そうに唇を歪めたまま、ヨハンは向き合う二人を睨む。
あ。
脳裡で閃くものがあった。そうだった、すっかり忘れてた。彼には、ヨハンには伝えなければならない事がある。
「ヨハンさん」
一歩前に進み出ると両手を体の前で交差するようにして重ねた。驚いたのか、ヨハンは見開いた目を白黒させた。意表を突くには充分だったと思う。こんな風に改まって声をかけられる理由が見当たらないのかも知れない。
「昨日は、本当にありがとうございました」
綺麗な角度で腰を折った。丁度いい案配で旋毛の辺りが見えている事だろう。
「ヨハンさんが店に来るのがあと一分遅かったら間に合わなかった、先程ウォッカさんから改めて窺いました」
顔を上げるとさっきまでとは打って変わったような神妙な表情のヨハンがいた。ここで格好つけるほどノリはよくないし元々そういう性格でもない。多少ふざけているように見える事もあるけど、根は真っ直ぐで純情だった。だからミリアムも好きになったに違いない。
「ありがとうございました」
笑うと元々少し赤かった頬が真っ赤になった。照れ臭いのを懸命に堪えているのがアリアリと判る。本当に純情だ。
必死に笑いを堪えるイリナの隣でミリアムは嬉しそうに笑っている。
「お、俺はただ君が危なかったって事をウォッカに知らせただけだよ」
「そうして下さったから彼も間に合えたんです。ヨハンさんが一生懸命走って下さらなかったら今頃ここにはいられませんでした」
ヨハンは相変わらず頬を赤く染めたまま目を逸らしている。思わず頭を撫でたくなった。
「いいじゃない、本人がこうして頭下げてんだから素直に受け取れば」
「って、実際そんな大層な事はしてないし……」
「それはあんたがうだうだ言う事じゃないの。実際助けてもらった本人がお礼を伝えてるんだから」
照れ臭いのもあるだろうけど、胸を張るのは気が引ける気持ちはある程度理解出来る。傷を一瞬で癒すような突飛な真似は普通誰にも出来ない。ウォッカには、忌人にはそれが義務として与えられている。それに比べれば、そんな風に感じてしまうのも無理はない。でも恥じる必要なんて何処にもない。ヨハンがいたから、懸命に走ってくれたからカティは助かったのだ。その事実は絶対に覆らない。だから胸を張って欲しかった、命の恩人なのだから。
「ヨハンさん」
途端にヨハンの背筋が垂直に伸びた。直立不動の姿勢で声の主を見る。
ミリアムは真っ直ぐにヨハンを見ると生まれたばかりの我が子を抱く母親のような顔で笑った。
「本当に、ありがとうございました」
ヨハンの顔が劇的に真っ赤になった。頬は張り手を食らった訳でもないのに火が点いたように火照っている。
「いや、俺は、別に何も……」
ヨハンの両手を握り締めるとミリアムは頭を振った。
「あなたのお蔭でまたこの子に会えたんです、お礼以外に言葉が見当たりません」
ヨハンを見詰めるミリアムの目が既に潤んでいる。握り締めていた手を頬に押し当てた。
「ありがとうございました」
ヨハンの指の隙間に雫が落ちた。
嬉しくて有り難くて、それがグラスの縁から溢れるように、涙に姿を変えて頬を濡らしていた。ヨハンはそれだけの事をしてくれた。
やっぱり、絶対胸を張っていい。いや張るべきだ。
当の本人は火にかけられた薬缶のように真っ赤にした顔を隠す事も出来ずに呆然とミリアムを見詰めている。ミリアムはそんな彼と視線をぶつけたままこれ以上ないくらい嬉しそうに笑っている。
完全に二人の世界に入っていた。絶対に周りは見えていないし声も聞こえない。
イリナが少しだけ表情を硬くしたまま隣にいるセージを見た。セージは赤く染めた頬を人差し指で掻くと微妙に視線を逸らす。でも、微かだけど間違いなく頷いた。
ヨハンとミリアムだけではない。セージとイリナも、しっかり気持ちが通い合っている。見ているだけで嬉しかった。物事に絶対はない、とよく聞かされた。でも人間関係に関して言えばいいに越した事はない。誰かが怒っているよりみんな笑っている方がいい。
体中がポカポカしていて温かい。でもそれは周囲で火を焚いているせいだけではなさそうだった。
「ところでよ」
背後から冷水をぶっかけられたように全員の背筋が音を立てて伸びた。ビックリし過ぎて息が止まった。心臓に悪いにも程がある。
「ビ、ビックリさせないで下さいよ」
「手前らが勝手に驚いただけだろうが」
お師匠さんは知ったこっちゃないと言わんばかりにイリナを睨み付けた。でも辺りを包んでいた雰囲気には絶対に気付いていたハズだ。この人がそんなに鈍い訳がない。
「あいつは何処に行ったんだよ」
「あいつって誰ですか?」
「ウォッカに決まってんだろ」
決まっているのだろうか。確かにさっきから姿が見えない。誰かからお礼を伝えられているのか、或いは頭を下げているのか。彼に恩義を感じない人はこの街にいない。彼も胸を反り返らせるような真似は絶対にしない。お礼とは言え頭を下げられるくらいなら自分が頭を下げる、そういう人だ。
だから何処かで頭を下げているのかなと思いながら何となく周囲を見回すと人垣の間からウォッカの頭が鎚で打たれる杭のように突き出していた。他の人より頭一つ分は背丈が大きい。絶対にかくれんぼは出来ない。まずやらないだろうけど。
「あ、いた」
言うが早いかお師匠さんはウォッカに手招きした。
彼は目を丸くしながら自分の顔を指差すと人垣を丁寧に掻き分けながら近付いて来る。
「一つ頼まれて欲しい」
「俺で良ければ何なりと」
「主審を任せたい」
「主審ですか」
ウォッカは向かい合ったまま静かに集中力を高めている二人を順繰りに見た。
「一番弟子と二番弟子の真剣勝負だからな、瞼の裏にしっかり焼き付けておきたい」
針のように細く鋭い目で二人を睨みながらお師匠さんは言った。表情は穏やかだけど目は笑っていない。
「成程、そういう事でしたら喜んで」
ウォッカは白い歯を見せて笑うと睨み合う二人の丁度真ん中に立った。
「ご両雄、準備はどうだい?」
「いつでも始められるわ」
アリスは閉じていた目を開けながら肩を上下させてゆっくり深呼吸する。眼光に気合が漲っていた。
「俺も準備万端ですよ」
手首を素早く振ると解いた糸を巻き取るようにして拳を作る。でも力む事もなくいい案配に力が抜けている。トージも臨戦態勢に入っていた。いつでもやれる。
蝋燭に灯された火を一本一本吹き消すようにして騒がしかった外野から音が失われていく。やがて全ての音が消えると耳の痛くなるような沈黙が辺りを満たした。
みんな、二人から放たれる気迫にいつの間にか呑まれていた。まだ始まった訳でものに誰もが固唾を飲んで二人の様子を窺っている。
「まず、」
沈黙が破れない程度に抑えた声でウォッカは言った。
「正面に、礼」
一瞬、二人はポカンとしたまま顔を見合わせた。
「と言いたいところだがここは道場じゃねえから何処が正面か判らない。だから割愛してもいいような気もするけどそれじゃ締まらないからな」
緊張が解れた事に腹を立てる様子もなく苦笑いすると、トージは手を差し出して先を促した。アリスは正面を見据えたままゆっくり深呼吸している。
「お師匠に、礼」
ウォッカが腕で示した先にお師匠さんが立っていた。二人が深々と頭を垂れるとお師匠さんは腕を組みながら厳かに頷く。
「お互いに、礼」
かいた汗が蒸発するように、二人は全身から迸る気合を隠そうともせず頭を下げる。
「構えて」
直立不動に近かった二人が初めて姿勢を変えた。膝を少しだけ曲げて踵を浮かせる。 攻撃を捌けるように、そして攻撃しやすいように軽く拳を握った腕を宙に漂わせた。
ウォッカが静かに息を吸い込んだ。
「始め!」




