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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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六日目 その弐拾七

 互いにしばらく言葉を交わさなかった。でも気不味いような雰囲気など欠片もなく、温かくて居心地のいい空気が二人を包んでいた。

 一昨日の夕方前にも、こうして二人で手を繋いでいた。手を繋いだのはその時が初めてだった。抱く事はされていたけど。より厳密に言えばそうやって守りながら闘ってくれた。そして無事家に帰してくれた。恥ずかしい話だけど、失禁したとしてもおかしくないくらいに怖かった。何人もの男に取り囲まれて剣を抜かれた時は生きた心地がしなかった。言われた通りにずっと目を閉じていた。再び目を開けた時には既に終わっていた。その時も笑ってくれていた。

 何気なく隣にいるウォッカの横顔を窺う。顔の輪郭に沿うような形で陰影が濃くなっているせいで一瞥しただけではどんな表情をしているかは判らなかった。視線に気付いたウォッカがカティを見る。やっぱり笑ってくれた。

「どうしたの?」

 嬉しいのに恥ずかしい。だからどんな顔をすればいいのか咄嗟に判らなかった。少しだけ顔を俯けたまま首を横に振る。でも誤解はされたくなかった。代わりにウォッカの手を強く握り締める。ウォッカも握り返してくれた。それだけで互いの気持ちが通じ合っている気がした。

「ウォッカさんは……」

 意図せず声が出ていた。今度はウォッカがカティの横顔に視線を送っている。

「どうして、忌人としての力を得ようと思ったんですか?」

 人である事を捨てたのか、それとも辞めたのか。解釈は人それぞれだろうけど、ウォッカが既に人とは異なる存在である事は確かだった。忌人として得たものも勿論多くある。でもそれ故に背負う責任の数も重さも人のそれとは比較にならないくらいに大きく、そして重くなる。

 それだけではない。不死身に近い生命力を得られはするけど、精神的に非常に不安定になる。ウォッカを見ている限りではそんな気配は欠片も窺えないけど、それも彼が積んだ修行の成果に違いなかった。一日二日で得られるものなど何処にもないし、そんな簡単に事は運ばない。膨大な修練を重ねて初めて成立するものだ。ここに到るまでに相当な時間を費やしているであろう事は容易に想像がつく。だとしたら、それだけ多くのものを犠牲にして来た事になりはしないか。

 力を得ただけではない。確実に何かを失っている。

 それが判らなかった、理解出来なかった。

 人並み外れた力や生命力を得られたとしても、いかなる時も怒りを抑え涙を堪える鋼のような精神力を養わなければ自滅する恐れすらあるのだ。彼が血を与えられてから、受け継いでからどれだけの時間が経過しているのかカティには判らない。でも、ウォッカは自身を高々数年のヒヨッコと評していた。それが事実ならまだまだ見習いのようなものなのだろう。忌人としてはまだまだ未熟でも彼が血を受け継いでいる時点で既に人に非ざる者なのだ。

 どんな想いで血を得ようとしたのだろう。触れてはいけないと言う事くらいは充分に承知している。でも訊かずにはいられなかった。

 ウォッカは手を握ったまま、昔教わった料理の作り方を思い返そうとするように半分顔を上げた。何処まで覚えていて何処からが思い出せないのか、ひょっとしたら本人にも判らないのかも知れない。外野の人間には尚更だ。

 釣られるようにして空を見上げた。西の空は鮮やかな橙色に染まっている。見事な夕焼けだった。カラスの鳴き声が尾を引きながら雲の隙間に消えて行く。別に鳥でなくても家路に就く頃だ。でも、今日は違う。こんなに胸を弾ませながら夜を迎える日が来るなんて考えた事もなかった。

「俺には必要なものなんだよ」

 お小遣いを握り締めて欲しい本を買いに行く子供のような顔だった。どうしても要る、だからお小遣い全てを擲ってでも手に入れる。疑問が挟まる隙間すら残されていない。

 二の句が継げなかった。どうして力を得ようとしたのか、それはまだ判らないけどウォッカにとって忌人の血は不可欠な存在だったのだ。しかもそれが遥か前から既にか決まっていたように聞こえるのは気のせいだろうか。

「誰かを守るため、ですか?」

「それもある」

 ならばそれ以外にも何か理由があるハズだ。この人は多少遠回りする事はあっても余計な事は言わない。

「傷を癒す事も、含まれますよね」

「そうだな」

 チラリと隣を窺うとウォッカは心なしか硬い表情で前を見ていた。頬が熱くなった。何て馬鹿な事を聞いているのだろう。癒せるから守れるのだ。同じ事を聞いてどうする。

 そこまで聞いて初めてハッとした。今まで自分や誰かが負った怪我の事ばかり考えていて、肝心の彼の事が記憶から完全に消えていた。

「あの……」

 いつの間にか顔を俯けていた。ウォッカの目を真っ直ぐ見られなかった。

「どうしたの?」

 横顔にウォッカの視線を感じる。でもジロジロ見るような真似はしない。やっぱり心得ている。

「胸の……お腹の傷は、治さないんですか?」

 鋭利な刃物で切り裂いたような細い傷と、それとは対照的にレンガの角で無理矢理抉ったような醜い傷が十字に交差していた。一度見たら絶対に忘れられない、それくらい印象的で、こんな事を言ってしまうのは彼に本当に失礼なんだけど、醜悪な傷だった。窪んだ傷に血が流れ込んでいた時は体の中で巨大な芋虫が這っているように見えて冗談抜きで吐くかと思った。

 ウォッカはあの時も真新しい傷しか治さなかった。古傷には目もくれなかった。普通の感覚なら、こんな特殊な力があれば、真っ先に治すハズだ。カティだったらいの一番に治す、いや消し去る。男と女で多少感覚が違う部分もあるだろうけど。

「傷が出来てから時間が経ち過ぎてる。新しい怪我や傷なら骨や細胞も状態に適合したものを修復出来るけど、症状が固定しているものは治せない」

 愕然とするように息を呑んだ。

 首を切り落とされても生を維持出来るような素晴らしい生命力を持っているのに、時間が経過した傷は治せないなんて。

「仮にそれが出来たとしても治す気はないよ」

 言葉が出なかった。

 嘘を吐いているとは思えない。矢が的のど真ん中を射抜くように潔かった。

「どうしてですか?」

 ウォッカの横顔を見た。何処か憂いを含んだ目を真っ直ぐに前を向けたまま迷いを吹っ切るように歩き続けている。

「どうして治そうと思わないんですか?」

 俄には信じ難かった。

 あれだけ大きく、そして醜い傷跡をそのまま残しておくなんて。それに、ウォッカにはそれを実現させるに足る能力を備えているのに試す事すらしない。本音を言えば聞きたくない言葉だった。でもそれを口にするかしないかは全てウォッカの意思に依るものだ、外野が介入すべき事ではない。

「ごめんな」

 繋いでいた手を解くと頭の上に載せる。哀しさを覆い隠すように笑っている目がカティを見ていた。

「でもこれは残しておきたいと言うか、消しちゃいけないんだよ」

 傷を残す事に何の意味があるのかまるで判らない。まさか格好つけるためとも思えなかった。当然聞く気にもなれない。

「何と言うか……そこまで拘る理由が何処にあるのか……」

 ウォッカが何をしようとカティには預かり知らぬ話だ。それに首を突っ込むなんてお節介を通り越して迷惑でしかない。下手にこれ以上踏み込んだら嫌われてしまうだろうか。

「そうだな、けじめみたいなもんだよ」

「けじめ?」

「この傷がなかったら、血を継ごうとは思わなかった」

 一瞬混乱した。

 血を受け継ぐ事と傷にどんな繋がりがあるのか、そして血を受け継いだにも関わらず何故傷を残すのか。治すために力を得た、その方がまだしっくり来る。

 何より、それがけじめになる理由がまるで見えない。

「だから、ここに来る事もなかった」

 背筋が凍りつきそうになるくらい驚いた。

 すっかり忘れていた。ウォッカは旅の途中なのだ。この街には道を間違えて偶々来ただけだった。傷の存在が血の継承を、旅立ちを決意させる切っ掛けになったのだとしたら、確かに軽々しく扱うような真似は出来ない。と言うより、その傷が人一人の一生を大きく左右する程の重大な影響を与えている事になる。人である事を捨てているのだ、並大抵の決意ではない。

 頭を抱えたくなった。何を言えばいいのか判らない。

 あの傷がなかったら、ウォッカは血を受け継ぐ事も旅に出る事もなかった。もし旅に出ていなかったらここに来る事も、血を受け継いでいなければみんなを救う事もなかった。彼がここに来てくれて、会えて良かったと心の底から思えるけど、ウォッカが人である事を捨てていなければそれが叶う事はなかった。傷を治せるならそれに越した事はない。でも傷の存在に感謝したくなる気持ちもある。そんな事は口が裂けても言えないけど。

「どうしたの?」

 ウォッカが腕を引いたまま半身を翻した。カティが立ち止まったのだ。

「ごめんなさい」

 繋いでいた手を解くと体の前で重ねた。真っ直ぐに背筋を伸ばして頭を垂れる。

 腫れ物に触れてしまったような、言い様のない気不味さが胸を満たしている。やはり言うべきでは、聞くべきではなかった。苦い後悔の味が舌を焼く。

 視線の先にウォッカの足が映った。何かを、いや何処かを軽く爪で引っ掻く音が聞こえる。

「取り敢えず、顔を上げようよ」

 俯けていた顔を観念するように持ち上げる。

 ウォッカが歯で舌を押し潰した痛みを堪えるように苦笑いしていた。

「どうして君が頭を下げなきゃいけないのかな?」

 答えに詰まった。気持ちをどうやって言葉にすればいいのかまるで判らない。ただ安易に口にしてはいけない事を言ってしまった、その自覚はあった。何気なく聞いた事だけど、それが彼を取り巻く全てを大きく動かしている事は疑いようもない。

「君が責任を感じる必要なんか何処にもないよ」

 言葉も声も、体が溶けて崩れてしまうくらいに優しかった。嘘や偽りや建前が入り込めるような隙間はないし、僅かにあったとしてもやっぱり優しさで埋め尽くされている。

 言葉に出来ないくらいに嬉しいのに、ウォッカの目を見られなかった。

 肩に何かが触れた。と思った時には抱き寄せられていた。人肌の温もりに全身をすっぽり覆われる。目を閉じたらそのまま眠ってしまいそうだった。それくらい温かかった。

「確かにこの傷はもう治せないし治す気もないけど、それは俺の勝手な事情だから」

自分の事なのに勝手も何もない。何をどうこうするのを自分で決める事すら出来なくなったら人は一体どうなってしまうのだろう。と、言ったところでウォッカが態度を覆すとはとても思えなかった。責任感の塊のような人だった。そうでなければ忌人としての血は到底受け継げない。それくらいに重いし、何より危険過ぎる。得られるものも大きいけど、同時に非常に重い責任がついて回る。それを理解する事が忌人としての第一歩なのかも知れない。

「笑う門には福来る、って言うだろ?」

「はい」

 胸に顔を埋めたままだったせいで声になっていない。でも吐いた息が体温で湿るから気付かない事はまずない。少なくとも声を出した事は間違いなく判る。

「だから、笑ってくれると非常に嬉しい」

 態度も言葉も、素直と言うより実に自然だった。取り繕うような気不味さもごまかすようなぎこちなさもない。自分を飾る事を一切しない。それも彼の魅力の一つだった。

 だから笑った。これ以上彼を困らせたくなかった。

 ウォッカの頬が綻んだ。笑ってくれるだけで安心する。やっと胸が軽くなった。

 互いに手を取った。こうして繋がっているだけで一つになれたような気がする。だから彼も抱いてくれたのだ。温もりを取り戻したくて、一つになりたくて。

 今は何があってもこの手を放したくなかった。彼と繋がっていられる、それだけで満たされていた。


 長く延びていた影がいつの間にか闇に溶け込んでいた。見上げると西の空が僅かに橙色に染まっているだけで他は群青色に埋め尽くされている。

 一昨日も、こうして彼と手を繋いで歩いた。そして、気付いた時には家にいた。確かに多少は疲れていたけど、まさか出先で眠りこける何て事は考えもしなかった。背負うか抱くかして家に連れて行ってくれたのだろう、今になって冷静に考えると恥ずかしさで顔から火が出そうだった。彼は一体どういう思いで連れ帰ってくれたのだろうか。そんな事が今更ながらに気になった。

「どうしたの?」

 視線に気付いたウォッカと真っ正面から目が合った。キョトンとした顔で首を傾げている。表情だけ見ると子供そのものだった。こんなに感覚の鋭い子供はまずいないだろうけど。大人でも難しい。

「い、いえ、何でもありません」

 何でもない、と言う言葉ほど説得力に欠けるものも他にない。何かあったからこそじっと見ていたのだ。恥ずかしさで頬が熱くなる。

 買い物から戻って来て、その直後にまさかあんな事が起こるなんて考えもしなかった。父も母も、アリスもミリアムも、そしてイリナも、家族みんなを目の前で痛め付けられた。その光景の一部始終をまざまざと見せつけられた。それだけで気が狂いそうだった。

 だから、馬車の荷台から物凄い速さで突っ走って来るウォッカが見えた時は涙が出るくらいに嬉しかった。胸に縋って泣けたらどれだけ安心するだろう。一瞬考えたけどそれはすぐに打ち消した。そんな事をしていたら間に合わないからだ。もしあの時彼を引き止めていなかったら、確実に家族が一人欠けていた。ウォッカがいてくれたから、傷を癒してくれたからまたみんなと一緒になれた。

「寒い?」

「え?」

「震えてるから」

 手を握っていた爪がウォッカの掌を微かに引っ掻いていた。見ると腕も明らかに揺れている。

 肩の上に何かが載った。ウォッカの掌だった。少しずつ、でも確実に熱を帯びていく。

「地下牢から、空が見えたんです」

 牢屋の壁際の天井に嵌まっていた鉄格子の向こう側に僅かに空が見えた。月もあったような気もするけど印象は薄い。あの時は本当に絶望しかなかった。セージやトージ、そしてリーゼルがいてくれたお陰でかなり救われたけど、死の危機に瀕したみんなを救える可能性を秘めていたのはウォッカだけだった。手を伸ばせば届いたかも知れない。でもそれは絶対に許されなかった。散々殴られ、蹴られたけど死に到る程の怪我は負わなかった。だから助けるべきはカティではなく家族だった。

 でも、その過程でとんでもない目に遭った事もまた事実だった。実際殺されかけている。ウォッカがいなければ確実に死んでいた。だから今朝目を覚ました時、目の前の光景が現実とは思えなかった。みんなの声を聞いて肌に触れて、人の温もりを感じて初めて生きている事を知った。

 今も間違いなく生きているのに黒い空が見え始めた途端、激痛を伴う一連の記憶が脳裡で蘇ったような気がした。でも気を抜くと春に草木が芽吹くようにして体の至るところが震え始める。

 目を閉じて深呼吸した。

「大丈夫かい?」

「はい」

 目を開けた途端、心配そうなウォッカの顔が映った。肩に置いていた手を額に翳す。体が芯から少しずつ、だけど確実に温まっていく。

「辛かったろ?」

 悔しそうに唇を歪めるとウォッカは少しだけ顔を俯けた。

 知っているのだ、奴らに拉致されている間に一体どんな目に遭ったのか。どうしてだろう。その瞬間を見ている訳がないしそんな話もしていない。でも切っ掛けくらいはあったハズだ、いや間違いなくあった。傷だらけになったカティを癒してくれたのは他ならぬウォッカ本人だ。と言う事はカティの肌を直に見て、そして触れたのだろうか。傷を見れば、そして触れれば何が起こったのか、何をされたのかある程度推測出来る。別に真実を突き止める必要はない。輪郭が判れば中身も朧気ながらに見えて来る。

「出来る事なら、あの時に君を助けたかった」

 それが叶わなかった事くらい、カティも理解している。もしそんな事をしていたら、

「あそこで君が止めてくれなかったら、あのまま追っていたら、イリナは助からなかった」

 今にも心臓が停まりそうだった、虫の息だった。それは誰が見ても明らかだった。両方の肩を思い切り貫かれていた。尋常でないくらいの血を失っていた。むしろよく間に合ってくれたと思う。彼がいなかったら、イリナと再会する事は叶わなかった。

「ごめん」

 太くて逞しい腕に抱き締められた。彼にしてみれば精一杯の懺悔に違いなかった。でも謝って欲しくなかった、彼のこんな顔は見たくなかった。

 ウォッカの背中に手を回す。感触を、温もりを確かめるように抱き締めた。黙って首を振る。誰一人として死ななかった。殺されかけたけど、こうして生きて帰る事が出来た。みんなとまた会えた。それだけで充分だった。

 なくした痛みを知っているから、こうして無事に取り戻せた現実に感謝している。そのために懸命に走り、命を削って助けてくれたのだ。一体誰が彼を責められるだろうか。

「あなたがいてくれたから、またみんなに会えたんです」

 ウォッカはむず痒そうに頬を歪めた。でもすぐに首を左右に振る。

「ウォッカさんの生かす術がみんなを生かしてくれています。だから、お願いですからもっと胸を張って下さい」

 宙を見上げると肩を上下させてゆっくり息を吐いた。耳の中に水が入った時よくそうするように、こめかみの辺りを拳骨で何度か叩く。

「何て言えばいいかなあ」

 困ったように頭を掻いている。聞きもしていないのにそれが何かなんて判る訳がない。どんな顔をすればいいのかすぐに思い浮かばない。

「俺達が持ってるものなんて、別にそこまで大したものじゃないんだよ」

 路面に突き出した石につまずくようにして言葉が喉で詰まった。唇が戦慄くように震えるだけで言葉にならない。

 傷を一瞬で癒してしまうような力なのに、それを大したものではないと一蹴出来る感覚が既に理解を超えていた。

「命を救えるような力でも、ですか?」

「力と言うより責任だよ」

 力を与えられた事で責任が生じるならそれに義務も伴うハズだ。その責任と義務に於いて彼は傷付いた誰かを救う。でもその責任自体に大きな力が宿っている事に変わりはない。それすら取るに足らないものなのか。

「精々傍にいる誰かを何とか救える、その程度のものかな」

「その程度なんて、そんな……」

 身も蓋もないにも程がある。そのお陰で命拾いしているのに、また家族に戻る事が出来たのに。かける言葉が見当たらなかった。

「ヨハンには、本当に感謝してる」

 頭に載っていた手が軽く前後に揺れた。何故突然ヨハンが出て来たのか、それが判らなかった。頬を撫でるとウォッカの口元が綻んだ。

「昨日、ヨハンが知らせてくれたんた。君が危ないって」

 どうやって助かったのか、その詳細をまるて把握していない事に今初めて気付いた。ハッキリしているのはウォッカが助けてくれた、傷を癒してくれた、それだけだった。そこに到る過程が完全に抜け落ちている。

「あと一分遅かったら間に合わなかった」

 腰が抜けそうになった。

 一体どれだけ際どかったのだろう。首の皮一枚とはよく言うけどたったそれだけの差で首を、命を繋げる事が出来たのだとしたら、ヨハンもまたカティを救ってくれた事に他ならない。ウォッカと、それともう一人の誰かだけではない。ヨハンにも命を救われている。

「だから、カティからもお礼を言っておくといい」

「はい」

 お礼では済まない。背筋を垂直に伸ばして最敬礼しても足りないくらいだ。流石に抱き締める事はしないけど。そんな事をしたらミリアムがどんな顔をするか判らない。

「間に合ったから今ここにいてくれる。でもそれは俺一人じゃ絶対に不可能だろ?」

 カティが吊るされそうになった事を誰かがヨハンに伝えてくれた。だから彼も息せき切って知らせてくれたのだ。そして知ったからこそウォッカも懸命に走った。

 無意識に腕を、体を見ていた。

 みんなが繋げてくれた命だった。だからこうして生きていられる。生きている事、ここにいられる事、みんながいてくれる事、全てに感謝したくなった。

 誰かと関わらなければ、繋がらなければ人は生きられない。人の営みの中で人は生かされ、新たな生を育む。ウォッカも、そしてカティもその中にいる一人に過ぎない。

「人一人に出来る事なんてタカが知れてるんだよ。厳密に限界が決まってる、それ以上の力は逆立ちしたって出せない」

 傍にいる誰かが懸命に走ってくれたから助けられた。裏を返せば手を貸してくれた誰かがいなかったらここには戻れなかった。同時にそこがウォッカの、忌人ではなく一人の人間としての限界でもあった。

 大層なものじゃない、その意味が少しだけ判った気がした。

 自分の手の届く範囲にしか力は発揮出来ない。その外側には絶対に届かない。その意味を彼は恐らく骨身に沁みて知っている。だから大したものではないと一刀両断したのだ。

「ウォッカさん」

 手を繋いだまま隣にいる大男を見た。ウォッカは何処か惚けたような顔で頬を掻いている。

「忌人としての力を受け継いでいますけど、ウォッカさんはやっぱり人間です。それ以外の何者でもありません」

 彼は与えられている責任の重さも意味も、そして限界も知っている。だから誰に対しても感謝する。たとえ死に到るような傷を一瞬で癒せるような力を与えられていても出来ない事は、不可能は確実に存在するからだ。

 特殊な力を与えられた人とは少し違う存在でも、ウォッカが人である事に変わりはない。むしろ彼ほど人間らしい人間も他にいない。自信を持って欲しかった。あなたは絶対に化け物なんかじゃない。

 ウォッカは繋いでいた手を、いや指を解いた。僅かに湿り気を帯びた手を頭に載せる。

「君にそう言ってもらえると本当に嬉しいよ」

 照れや気恥ずかしさは微塵もない。演じている気配もない。雑じり気なしの本心だ、間違いない。

 時や状況を問わず、自分の本心を素直に晒した事などこれまで数える程しかない。それだけ日常からかけ離れているし、何より勇気がいる。彼の一連の行動には全く躊躇いがない。言うべき事と言ってはいけない事を区別するくらいの分別は間違いなく備えているけど、伝えたい事に関して言えば気持ちを覆い隠しているものが完全に取っ払われているとしか思えないくらいに真っ直ぐだった。普通だったら絶対に出来ない。少なくともカティには無理だ。

「ありがとう」

 今度は指の背で頬を撫でてくれた。

 羨ましかった。今はそれ以上に嬉しかった。

 ウォッカが差し出した手に自然と手が伸びた。彼の手が掌を綺麗に包み込む。

 不意に流れた風が微かに髪を揺らした。濃紺が埋め尽くす空の中を名前も知らない鳥が雲の隙間を縫うように飛んでいく。もう家路に就く頃だ。普段なら間違いなく家にいる。店の手伝いをしているか、宿題をしているか、或いは温泉に浸かっているかも知れない。少なくとも外を彷徨くような事はまずない。



  最初に彼を見た時は熊が服を来て歩いているのかと思った。それくらい馬鹿みたいに大きかった。そして全身が埃に塗れていて汗臭かった。訳も判らず奴らに殴れそうになった時、いつの間にか彼が目の前に立っていた。と思った時にはカティを取り囲んでいた二人が情けない声で悲鳴を上げていた。それから二人が店から叩き出されるまで一分もかからなかった。ゴミでも放り捨てるように投げ飛ばした時は本当に何かと思った。

 そのお礼を伝えに言ったら素っ裸の状態で出迎えてくれた。姉三人のように武術の嗜みがあったら鼻っ柱に拳を叩きつけるか、或いは反射的に手が出ていたかも知れない。有り難うございましたと頭を下げに行っただけなのにどうして知り合って間もない男のアラレもない姿を拝まなければならないのか。

 その前後の記憶は非常に曖昧だった。目が覚めた時には自室のベッドに、そして目の前に彼がいた。何が何だか判らなかった。お礼を伝えに行っただけなのに、どうしてこんなに目に遭わなければならないのか。その時そこで初めて彼の名前を聞いた。どうして酒の名前なのか。ご両親が余程の酒好きなのかも知れない。

 その翌日、彼は学校の図書室で帽子を顔に被せて居眠りしていた。一体何をしているのか。まさかわざわざ寝に来た訳ではないと思うけど、馴染みのない場所で衆人環視の中、平気で寝息を立てられる神経に呆れた。だから巾着袋を手渡された時、何故ここにそれがあるのか、一体何処から湧いて出たのかまるで判らなかった。忘れたお弁当を時間を割いてわざわざ届けてくれたのに、お礼を伝える事も出来なかった。あまりに突然だったから、と言うのは体のいい言い訳に過ぎない。有り難うすらまともに言えなかった事に変わりはないからだ。

 穴があったら入りたかった、恥ずかしくて死にそうだった。どうしてまともにお礼も伝えられないのだろう。それどこらか逆におかしな感情に任せて怒鳴り付けてしまった。全く、礼儀知らずの非常識にも程がある。それに関しても彼は一切顔色を変えなかった。顔が赤くなるとか目が釣りあがるとかしてもおかしくないのに、むしろそうなる方が遥かに自然で当たり前だろうに昼寝でもするように呑気に笑っていた。彼が大人なのかカティが子供なのか、敢えて考えるまでもなかった。

 気持ちを改めて、そして逸らせてお礼、もといお詫びを伝えに行ったら唐突に殺されそうになった。剣を抜いた物騒な連中に取り囲まれた時は本当に何が何だか判らなかった。普通なら命が危ぶまれる状況だろうに彼は全く動じていなかった。気が付いた時には全てが終わっていた。目を瞑ったまま飛んだり跳ねたり駆け回ったりしただろうに吐き気のはの字も感じなかったしその暇もなかった。それくらいに必死だった。だから無事を知らされた瞬間、涙と一緒に感情が一気に溢れ出した。彼はそれを余す事なく綺麗に受け止めてくれた。何より驚いたのは切り裂かれた皮膚を、真新しい傷を瞬時に消してみせた事だ。開いた口が塞がらなかった。何が起こったの

かまるで理解出来なかった。常識では考えられない事が起きた、判ったのは精々その程度だ。

 秘密だよ。悪戯っぽく笑いながら彼は言った。誰にも話せないし話す気も最初からなかった。信じられる訳がないからだ。それに、彼と秘密を共有出来る事が純粋に嬉しかった。昼間学校で会った時よりも間違いなく距離が縮んだ、そんな気がした。

 信じられないくらいに、馬鹿みたいに強い。殆ど負け知らずだった姉三人が全く太刀打ち出来なかったのだからそれは間違いない。でも彼はそんな自分を臆病と言った。曰く無くす事が怖い、だから無くさないために力を求める。取り敢えず理屈は通ると思う。力があれば、それで誰かを守る事が出来れば無くす事は避けられる。でも絶対ではない。彼の目の前で起きた出来る事なら兎も角、必ずしもそうとは限らない。

 血相を変えて、目を血走らせて馬車を追って来てくれた。でも、あの時彼の手を掴む事は許されなかった。もしそうしていたら、今朝目を覚ました時にイリナに会う事は叶わなかったかも知れない。血に塗れた彼の背中が完全に視界から消えた瞬間、絶望で目の前が真っ暗になった。いつ家に戻れるのか、みんなと再会出来るのか、もう二度と会えなかったら……。涙で視界が歪んだと思った時には意識が飛んでいた。

 真っ暗な地下牢で獣のような男に襲われた時も、応接間や馬車であの女に拷問された時も、絞首台に吊るされそうになった時も、体中の力が完全に抜け切って何も考えられないくらい絶望に打ちのめされても生に対する執着だけは捨てなかった。絶対に生きて帰る、そう信じる事で気持ちを奮い立たせていた。

 今にして思えば、絞首台の床が抜ける直前に誰かの声を聞いたような気がした。凄く馴染みがあるのに誰なのか判らない、そんな不思議なもどかしさに苛まれた。

 それからどれくらいの時間が流れたのか、そして何が起こったのか。目を開いた先に見えた茶色い壁が天井だと気付くまでざっと一分はかかった。思うように体が動かなかった。それが殺されそうになった恐怖に依る後遺症でないとハッキリ判ったのはアリスが体にのし掛かっていたのを知ってからだった。そして生きて帰って来られた事を同時に知った。

 改めて隣にいる彼の横顔を見る。真っ直ぐ前を見据えたまま実にゆったりとした雰囲気で歩を進めている。緊張も動揺も欠片もない。でもいつもとは違う何かがあった。

 真っ直ぐで真っ黒な目がこちらを見た。

 声はかけなかった。ただ嬉しそうに笑う。手押し車で遊ぶような子供でもこんな風には笑わない、そう思ってしまうほど年に不相応であどけなかった。

 彼がカティの命を繋ぎ止めてくれた。カティだけではない。イリナを、そしてみんなを絶望の淵から救ってくれた。そんな人とこうして手を繋いで歩ける事がとんでもないような幸運に思えて、そんな現実が俄に信じられなくて頬をつねりたくなった。でも、そんな事をしなくてもこれが現実である事は間違いない。こうして生きて、歩いて彼と手を繋いでいるのだから。嬉しくて掌が、頬が熱くなった。

 いつの間にかすっかり暗くなっていた。いつものこの時間帯なら民家の灯りが窓の隙間から僅かに漏れる程度だけど今日は違った。

 街の中心にある広場の手前辺りから赤い光が見え始めた。ここに集まる人々を奥へ導くように等間隔に立てられた台に火が焚かれていた。中心に組まれた矢倉は更に赤々とした炎を放っている。まるで昼間のような明るさだった。そしてそこら中、人で溢れ返っていた。鳥のように日暮れと共に眠りに就くほど早寝ではないにしても、日が落ちてからこれだけの数の人達が一堂に会した事は、その光景を目の当たりにした事はこれが初めてだった。子供は元気いっぱいに走り回り、親は我が子を叱るでもなく気の合う者同士でお喋りに興じたり杯をぶつけ合ったり到るところに置かれているテーブルに並べられた料理を適当に摘まんだり、完全に寛いでいた。ギターを弾いたり笛を吹いたりしている人もいる。広場全体が、いや街を取り巻く全てが活気に満ち溢れていた。いるだけで気持ちが昂って来る、胸がワクワクする。

「カティ!」

 聞き覚えのある声だった。

 顔を向ける間もなかった。何かが体にぶつかった。いや体当たりと言った方がいい。痛くはなかったけどビックリした。

 サラが今にも泣き出しそうな顔をしながら首に両腕を巻きつけていた。と思ったら本当に雫が落ちた。たちまち顔がクシャクシャになった。

「良かったぁ」

 泣きながら、心底安心したように笑っている。今朝、いや今日何度も見た表情だった。笑っている本人だけでなくそれを見ている人の心も軽くなる、そんな笑顔だった。

「やっと起きたのね」

 誰かがやれやれと肩を竦めたくなるような雰囲気で突っ立っていた。

「で、寝覚めはどう?」

「最高よ」

 ここに来てようやくエレンは笑った。

 ありがとうとごめんなさいはしっかり伝える。でもそれ以外の気持ちを表に、表情に出す事は滅多になかった。いつもツンと澄ましていて隙を突くように皮肉を言う。結構痛いけど内容はいつも的確だった。当然の事ながら口喧嘩で勝った試しは一度もない。もっとも、喧嘩なんてこれまで数えるくらいしかした事はないけど。

「お帰り」

「ただいま」

 そっと腕を伸ばすとエレンは抱き締めた。肩が微かに震えている。落ちた雫が腕を濡らした。頬を伝う涙を二人は指で優しく拭ってくれた。

 家族以外に、こうして無事を心の底から喜んでくれる友達がいる。なんて幸せなんだろう。それだけで跳び跳ねたくなるくらいに嬉しかった。

 視界の片隅にウォッカの姿が映った。嬉しそうに手を振っている。二人が顔を上げてウォッカを見た。腕を解くとエレンはウォッカの前に立った。

「ありがとうございました」

 サラが慌ててそれに倣う。

「あなたがいなかったら、カティにはもう会えなかったから」

「俺一人で何かをした訳じゃない。何処かで何かが誰かと必ず繋がってる。それを切りたくなかっただけだよ」

「謙虚なんですね」

「ただの一般論だよ」

 照れ臭そうに苦笑いしているウォッカとは対照的に、エレンはクスクス笑っている。

「何れにしても、あなたがカティにとって英雄である事に変わりはない訳だし」

 目配せすると器用に片目を瞑る。

 途端に顔中が熱くなった。人目につかない場所ならまだしも、衆人環視の中で何を言い出すのか。

「あら、別にこの子だけって訳じゃないでしょ?」

 サラは広場で無邪気にはしゃいでいる人達を眺めながら言った。

「この街にとっても、彼は立派な英雄よ」

 そうた。

 ウォッカがいなかったら人質も解放される事はなかった。あの薄暗い地下牢でいつ来るかも判らない助けを待つ事しか出来なかった。悪漢共を根刮ぎ蹴散らし、人質を家族の元に返してくれた。考えるまでもなく立派な英雄だった。彼がどう言うかは判らないけど。

「ただの方向音痴の旅人だよ。道を間違えて流れ着いた街で一騒動あったってだけの話だってば」

 だから別に英雄なんかじゃない。そう言いたげに頭を振る。

 元々彼は人に頭を下げられる事を極端に嫌う。ならばそんな風に呼ばれる事も絶対に歓迎しないハズだ。

「今夜は街を上げてのお祝いですから、是非楽しんで下さいね」

「勿論」

 白い歯を見せて笑った。二人きりだったら間違いなく抱きついていた、そんな笑顔だった。

「あ!」

 誰かが叫んだ。酒瓶を片手にこちらを指差している。そのままこちらに向かって一目散に突っ走って来た。

「遅えじゃねうかよ馬鹿野郎! 主役が遅刻してどうすんだ!」

「別に主役じゃねえよ」

 ヨハンさんは一気に早口で捲し立てた。お酒が入っているのか、既に呂律が怪しくなっている。

「遅刻も何もいつ開始かなんて何一つ聞いてねえしな」

 真顔で突っ込むところがいかにも彼らしかった。漫才でもするような掛け合いだった。

「遅くて待ちくたびれたわ」

 いつの間に現れたのか、イリナが腕を組んだままウォッカを睨んでいた。

「あなたが来ないと始まるものも始まらないの。ぶつくさ言ってないで早く来なさい」

「はいはい、判りましたよ」

 腕を引こうとした二人の手を丁寧に払うとウォッカは広場の中心に向かって歩いていく。歩くだけで彼の周りに人が集まって来る。歓声を上げる人もいれば頭を下げる人もいる。その一人ひとりに彼も丁寧に頭を下げている。見た目以上に律儀で真面目だった。

 彼の背中が少しずつ遠ざかっていくけど別に寂しくはなかった。またすぐ一緒に、二人きりになれる。その時思い切り寛げば、甘えればいい。

「行きましょう」

 サラが手を引いた。早く行きたくて居ても立ってもいられないのだろう。こういうところは小さい頃からちっとも変わらない。

「ええ」

 子供のように駆け出した。逸る気持ちを抑えられない。

 まだ夜は始まったばかりだ。


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