六日目 その弐拾六
どれくらいの間そうしていたのか判らない。気付けば両肩にウォッカの手が添えられていた。彼も抱き締めてくれたのだ。それだけで嬉しかった。
すぐ目の前に、息がかかるくらいすぐ傍にウォッカの顔があった。目が合った拍子に笑った。体の芯から指先まで温まるような、穏やかな表情だった。
「悪いね、仕事の邪魔しちゃって」
さっきまで握っていたホウキはいつの間にか流し台に立て掛けられていた。いつそうしたのか全く記憶にない。
「父に厨房の後片付けと食堂の掃除を頼まれてて……」
「手伝うよ」
流し台の縁にかけていた布巾を取ると食堂に向かう。動作に迷いがない。
「そんな、休んでいて下さい」
「もう充分休んだよ」
力強い動きでテーブルを拭いている。疲労が残っているような気配は到底窺えない。
昼過ぎまで父と話していたから三時間ちょっとしか寝ていない。年齢に、若さに依る部分もあるだろうけど疲労の回復の速さも尋常ではない。それほどまでに頑丈な体を備えている。同時に、全てを感情に支配されてしまう危うさも秘めている。もしあの時ウォッカが首に巻き付いていた縄を切る事が出来なかったら、間に合わなくてイリナが事切れていたら、彼は奴らを間違いなく皆殺しにしていた。こんな風に笑う事も出来なかった。
それが忌人なのだ。不死身に近い生命力を誇りながらも些細な事で大きく感情を揺さぶられ、一度それに呑まれたら確実に破滅をもたらす。ウォッカはその血を受け継いでいる一人だった。
なくす事を何より恐れていた。そして、ウォッカはそんな自分を臆病と評した。最初に聞いた時はイマイチ意味が判らなかった。でも今は違う。何かを失なう事の辛さと痛みを、そしてその意味を誰よりも知っている。すぐ傍に、手の届く距離に大切な誰かがいる。何もなくさずに済んだのだ、彼が恐れていたものはもう何処にもない。
硬く絞った布巾を握り締めて厨房を出た。食堂に入るとウォッカに倣うようにしてテーブルを拭く。隣のテーブルにいるウォッカと目が合った。子供のような顔で笑う。多少は照れ臭いのかも知れない。でもそれを感じさせないくらいに素直な笑顔だった。近くに鏡はない。でも頬が、顔が赤くなっているのがハッキリと判る。
空いている左手でテーブルの反対側を抱えながら力強い動作で拭いている。テーブルの上に僅かに残っていた食べ滓を床に落とさないように掌で受け止めていた。速い事は勿論だけど、手馴れているし実に丁寧だった。当然汚れも残っていない。テキパキとした動作で次のテーブルに移るとそこも綺麗に拭く。今度は軽い駆け足で厨房に戻った。布巾を洗って汚れを落とすと両手で硬く絞る。それを三回繰り返した彼は足早に食堂に戻った。握っていた二枚の布巾をカウンターに置くと作業を再開する。一枚の布巾でテーブル全ては拭き切れない。だから予備を取りに行ったのだ。勿論普段はカティも同じ事をしている。でも気持ちが逸っていたせいで完全に抜け落ちてしまっていた。それを偶々手伝ってくれている客人に、ウォッカに先を越されている。しまったと臍を噛むよりも彼の手際の良さに見惚れていた。慌てるようにして体の動きを速める。そうこうしている内にウォッカはまた次のテーブルに手を掛けていた。速い。
「どうしたの?」
視線に気付いたのか、ウォッカがカティを見た。でも動きは止めない。適宜テーブルに視線を移して汚れや食べ滓が残っていないか確認している。
「いえ、その……随分手馴れてるなあと思って……」
「そう? でも確かに昔からよくやってたな、そう言えば」
「そうなんですか?」
布巾にまとわりついている汚れを落とさないように大きな掌で包み込む。やっぱり馴れていた。
ようやく頭の奥で何かが閃いた。随分前に、と言っても一週間も経っていない。色んな事があり過ぎて、時間の流れが早いのか遅いのか判らなくなっている。
「そう言えば、確かご友人のご実家が食堂を……」
「ああ。何かあったら普通に入り浸ってたからなあ」
「何かあったら、ですか?」
別にからかう意図はなかった。でも素直に鵜呑みにしていいものか、一瞬躊躇うものがあった。案の定、ウォッカはごまかすようにペロリと舌を出した。
「何もなくてもよく行ってた。店手伝う代わりに飯ご馳走してもらったりとか」
素直に白状したウォッカの横顔はやたら清々しかった。本人にもいい思い出なのだろう。
「何やるにしても大抵あいつらがいたからな」
「本当に、仲がいいんですね」
胸を張って親友と言える人がいる。家族とは少し違うけど、彼らの存在が大きな拠り所になる事も確かだった。
一体どんな人なのだろう。顔が見てみたかった。
「試験の前には必ずいたな。馬鹿話しながら公式覚えたり年表睨んだり書き写した箇所読み返したり、でもあまり頭には入らなかった気がする」
「試験は受かったんですか?」
「受かったよ、首の皮一枚で」
思わず苦笑いしていた。何でそれで受かるのか判らない。
でも学業成績は兎も角、ウォッカはそこまで馬鹿ではないと思う。実際、砦に侵入した時も最短距離で地下牢の入口に到達しているし、人質の安全を確保しながら兵隊全員を蹴散らしている。何も考えないような間抜けな人間には絶対成し得ない芸当だ。そもそも彼でなければ、忌人でなければまず実行不可能だけど。
「この街も小学校から高校まで一貫なんだよね」
「はい。学校そのものが一つしかありませんし」
「そういう事情は何処も大差ないんたな」
口だけでなく体も動かしながら淡々と作業を進めているし動きに無駄もない。ひょっとしたら手際の良さなら父や母に引けを取らないかも知れない。いつでもここで肩を並べて働けそうだった。そんな事を考えた瞬間、また頬が熱くなった。そうなったらどれだけ嬉しいだろう。
「ウォッカさんが育った街も、やっぱり一貫教育だったんですか?」
適当に話を振らないと妄想の中に没入しそうで怖かった。同じ話題を継続するなら動揺していてもある程度は煙に巻けうな気がした。。
「最初は中学までだったけど、俺が十四の時に高校までに変わった。学費も基本全員全額免除で」
「え」
凄い。費用は決して高くはないけど、それでも学費は支払っている。免除出来るほど街にも人にも余裕はない。
「凄いですね。全員、全額免除なんて。でも、何故免除される事になったんですか?」
気前がいいと言うか太っ腹と言うか、本来発生する費用の全てを一体誰が負担する事になったのだろう。親は大喜びの大助かり間違いなしだけど、肩代わりする方は決して楽ではない。
「領主がね。それと自治体の長が協議して領主側が七割、自治体側が三割の負担割合で交渉がまとまった」
「それじゃ、やっぱり費用は発生しているけどそれを学生側に負担させないようにした訳ですね」
「そう。給料払わなきゃ先生も干上がっちゃうよ」
タダ働きさせるような真似は絶対に出来ない。慈善事業ではないのだ、先生達にも生活はある。特筆すべきは需要と供給の仲立ちをして綺麗にまとめ上げた事と、それを実現させた人がいると言う事だ。
「子供連中からは非難轟々だったけど親は諸手を上げて歓迎してくれたのが大半だった。中にはすぐにでも子供に家業を継がせたいからって断る人もいたけど、それも人それぞれだからな」
ウォッカはそのどちらだったのか、それを敢えて聞くのも何だか馬鹿らしい気がした。いや聞くまでもなかった。
「ただ高校に進学する場合は入学試験に受からないといけない。それが条件だった」
「教育を受けるだけの資格がある、それを証明しないといけない。そういう事ですよね」
「それもあるけど、すぐにでも仕事を継がせたい親もいたしもっと勉強したい変わり種も中にはいたからな。そういう親子を納得させる意味でも試験は必要だよ」
勉強はしたい。ならば最低限の水準は越えていなければ困る。確かに道理だ。でも勉学に対してそこまで積極的な姿勢を見せているなら元々かなり出来そうな気がする。でもやっぱり試験はすべきだと思う。内容、いや結果次第ではぐうの音も出ないくらいに周囲を納得させる事も出来るからだ。
「ウォッカさんは、いかがだったんですか?」
「どうにかこうにか、高等部の教室に入る権利は与えられたよ。相当際どかったけど」
どの程度際どかったのかは判らない。でもウォッカは決して馬鹿ではない。ただ勉学に頭を使う事はしなかったのかも知れない。状況に応じた柔軟且つ適切な判断に加え、人の行動や心理を読み取る術にも長けている。それだけ観察力が優れている証拠だ。逆に、どういう環境に身を置くとそんな感覚が養われるのか、そちらの方が遥かに気になる。
「これで最後だな」
さっきまで白かった布巾が僅かに灰色に染まっている。
初めてから何分も経っていない。それでいて作業が雑でもいい加減でもない。明らかに手馴れている。
「ついでだし、」
西の空から差し込んでいる夕陽が床の上に浮かんでいる埃を微かに浮かび上がらせていた。
「ここもやろうか」
ウォッカは床を爪先で軽く叩きながら言った。
「はい!」
自然に声が出ていた。鏡がないから判らないけど、絶対に頬は綻んでいるに違いない。ウォッカも笑っている。
早く会場に行きたい気持ちもある。でもこうして二人で過ごせる時間を少しでも長く持ちたかった。
廊下にある用具入れまでの僅かな距離を全力で走った。モップを二本掴むと急いで取って返す。
食堂の床を二人で拭いた。何か話したい気持ちもあるけど、緊張のせいか上手く言葉にならなかった。でも、だからと言ってそれで雰囲気が悪くなる事もなかった。床を拭きながら時折ウォッカの様子をこっそりと窺った。人の視線に、いや気配に敏感なのかすぐに気付かれた。背中を向けていてもそれは変わらない。そして決まって笑ってくれた。その度に頬が熱くなった、胸が高鳴った。ドキドキして苦しいくらいなのにすぐに終わって欲しくない。大いに矛盾しているけど理由は誰にも知られたくなかった。より厳密に、そして正確に言えば知って欲しい人が一人だけいる。でもそれを面と向かって伝える勇気はまだない。
食堂が終わるとすぐに厨房に入った。元々ここから先に始めるつもりでいたのに、気付いたら食堂にいた。そうなった経緯を頭の中で整理する。カティを抱き締めてくれた後、ウォッカは布巾を握り締めて厨房を飛び出した。だから先に手をつけようとしていた厨房がいつの間にか後回しになってしまったのだ。
「あと一息だし、」
厨房をぐるりと見回すとウォッカはモップの柄で掌を叩いた。
「サッと終わらせよう」
食堂と比べると明らかに狭い。二人がかりでなくても集中してやれば長々かからない。
柄を握る手に自然と力がこもる。早く終わらせたいのか、少しでも長く二人で過ごしたいのか、自分でもよく判らなかった。一緒にいられる、それだけで小躍りしたくなるくらいに嬉しかった。
「こんなもんかな」
ウォッカはモップを流し台に立て掛けた。
床には当然埃一つない。髪の毛は言うに及ばずだ。
床だけではない。流し台や釜戸の周りにもゴミや汚れはない。そこも綺麗に掃除した。陽は傾いて来ているけどまだ時間はある。折角だからここも綺麗にしよう。手を止めるとウォッカはそう提案した。散らかっていたり汚れたりしているより片付いていて綺麗な方がいいに決まっている。それに一人なら兎も角、今は二人いる。彼がいれば百人力だ。昨夜相手にした兵隊が何人いたかは判らないけど、仮に百人以上を相手に闘っても別段大きな問題もなく片付けてくれそうな気がした。それくらいの安心感と安定感、そして信頼がある。彼が、ウォッカがいてくれるなら怖いものなんて何もない 。そして、思っていた以上に 早く済んだ。充分ではないけどまだいくらか時間はある。やっぱり、やる事を決めて良かった。綺麗になっているならそれに越した事はない。
「やる事は?」
「これで全て……」
終了ですと言おうと瞬間、思い切り息を呑んでいた。まだ肝心な事が一つだけ残っている。
「ウォッカさん」
慌てて口をつぐんだ。ウォッカは怪訝そうに眉を寄せてカティを見ている。勧められている餌を頑として食べようとしない猫に首を捻る飼い主のような目だった。
「支度して参りますので、今しばらく食堂でお待ち頂けますか?」
どうしてこんな堅苦しい言葉で話しているのだろう。尊敬語も謙譲語も一緒くたになっているような気もするけどそれを確かめる余裕はない。
「はいよ」
ウォッカは軽く片手を上げると素直に厨房から出ていく。気持ちを抑える事に慣れているのかその術を心得ているのか、本当に余計な事は言わない、そしてしない。そう思うとさっきのウォッカの行動は例外中の例外なのかも知れない。
彼が抱き締めてくれたのは、我を忘れたのは。
助ける事が出来て、こうしてまた会う事が出来て、本当に心の底から嬉しかった。それ故の行動なら。
そこまで考えた瞬間、また全身に火が点いた。
感情の制御と抑制が出来なければ存在そのものの存続が危ぶまれる。それで自滅するならまだしも、最悪周囲まで派手に巻き込み兼ねない。それが忌人だ。そんな忌人が、ウォッカが我を忘れるくらい何かに心を奪われたのだとしたら、それは一体どういう事なのだろう。
考えていたら体の動きがすっかり止まっていた。
いかんいかん。
ふらつく頭を右手で支えると厨房を出た。いつまでも彼を待たせる訳にはいかない。階段を一気に駆け上がると突進するように部屋のドアを開けた。背中を押し付けて無理矢理ドアを閉める。心臓が破れそうなくらいに早鐘を打っている。胸に手を置いてゆっくり深呼吸する。のんびりしている暇はない、早く支度を済まさなければ。
ふと見るとベッドに綺麗に畳まれた服が置かれている。声が出そうになった。一番気に入っている普段着だった。何かあった時は、特別な時は大抵いつもこれを着ている。自然と頬が綻んでいた。誰が用意してくれたのだろう。嬉しい気遣いだった。服を脱ぐと早速袖を通す。微かにお日様の匂いがした。引き出しを開けると一番上にあったものを手に取る。三角形に折ると肩にかけて端と端を結んだ。上着を羽織るには少し暑い、いや熱い時や首の周りが寂しい時はよくこのショールをかける。すぐ取り外しが利くし見た目の印象を適度に変える事も出来る。
不意に指先に髪が触れた。そう言えば髪はいつも下ろしたままだった。肩にかかる程度の長さの髪を何度か撫でつける。彼は、ウォッカはどんな髪型が好みなのだろう。そんな事を考えていたらまた眩暈がして来た。振り子のように揺られる頭を何とか支えると椅子を引いた。首筋に指を這わせて髪を纏め上げる。髪全体を櫛で綺麗に梳いた。指で巻き取るように纏め上げた髪を頭の後ろで一括りに結わえた。溢れた髪がいくらか垂れているけど紐一本で纏め切れる量ではない。でも、こうすると普段は髪に隠れて見えない首筋が露になる。いつもなら誰にも見られない所を人目に晒すだけで少し緊張と言うか、胸がドキドキする。手鏡しかないから全体的なまとまりや印象を確認出来ないのが悔やまれるけど、何れにしても時間的な余裕はない。肩にかかていた髪を払い、服に寄ったシワを伸ばす。自然と背筋が伸びていた。
よし、準備万端。
部屋を出る前に胸に手を当ててもう一度深呼吸した。嬉しいのに、それより緊張が勝ってしまっていたらそれこそどういう顔をすればいいのか判らなくなる。気持ちを落ち着けて、真っ直ぐな気持ちで彼と向き合いたかった。最後にゆっくり息を吐き出すとドアを開けた。
部屋に戻った時とは対照的に一段一段を踏み締めるようにして階段を降りていく。店の中では走るなと幼い頃から口を酸っぱくして言われているのに完全に頭から飛んでいた。これ以上、彼を待たせたくなかった。それに、早く戻ればそれだけ多くの時間を彼と一緒に過ごせる。そう考えていたせいで気持ちばかり焦っていた。でも今は違う。彼は下で待ってくれている。カティ一人をここに残して先に行ってしまうような真似は絶対にしない。だから焦る理由は何処にもない。ゆっくり歩けばいい。
一階に近付いて行くに連れ、鼓動が速さと激しさを増していく。そこまで動いた訳でもないのにどうしてこんなに息切れするのだろう。しかも登りなら兎も角下りで。もう胸に手を当てていなければ満足に階段も降りられない。
一階に着いた。
厨房の前を通り過ぎるとそのまま食堂へ向かう。カウンターの向こう側にあるテーブルに見覚えのある広い背中が見えた。
「お待たせ致しました」
余程驚いたのか、号令をかけられた兵隊のように勢いよくウォッカの背筋が伸びた。彼なら足音や気配で人が近付いている事くらいすぐ気付くだろうに、普段なら間違いなく機能している感覚が全く働いていないようだった。今敵に襲われるような状況だったら一体どうなっていたのだろう。
椅子の足にかなり派手に躓いたけど、残った片足で体を軽く跳ね上げたかと思うと宙に浮いていた間に体勢を立て直した。取られていた方の足で静かに着地する。巨体に似合わない身の軽さだった。椅子から立ち上がろうとしただけなのに、どうしてここまで派手に体が動くのだろう。何だか一人芝居でも見ているような気分になって来た。でもそこが面白い。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫」
別にからかっているつもりはない。何とか凌いだけど、本当にコケていたらただの怪我では済まなかった。もっとも、彼ならばすぐに治してしまうだろうけど。
ウォッカは仕上がった仕事の出来映えを自慢するような感じで大袈裟に胸を反らした。照れ隠しなのか見栄を張っているのか判らない。でも、胸とは違う意味で微妙に目を剃らしている。格好悪いところを見られて少しバツが悪いのかも知れない。
「俺の方こそ、申し訳ない」
「お気になさらないで下さい」
笑いながら首を横に振るとようやくウォッカの表情が解れた。
俯きそうになった顔を上げるとウォッカの前に立つ。降りて来てから、ウォッカが初めて真っ直ぐカティを見た。
「あの……いかが、でしょうか?」
肌を晒している訳でもないのにどうしてこんなに恥ずかしいのだろう。でも、こうして彼の傍にいられる事がそれ以上に嬉しかった。似合うと言ってもらえれば何よりだけど、手を伸ばせば届く距離にいてくれている。それだけで充分満たされていた。
ウォッカは何かに憑かれたように茫然とカティを見詰めている。真夏の炎天下で延々と草むしりをしてもここまでにはならない、そう言いたくなるくらいに真っ赤な顔をしている。一瞥しただけでは何処を見ているか判らないけど、焦点の真ん中にいるのはカティがいるのは間違いない。揺れているけど視線の矛先は全くぶれる気配がなかった。
膝が微かに震えたかと思うと、ウォッカが椅子に腰を下ろした。腰が利かなくなったのかも知れない。椅子がなかったら間違いなく床に尻餅を突いていた。
「髪も、服も凄く、似合ってる……」
学芸会の舞台で劇を披露する子供よりも遥かにたどたどしく、小さな声だった。最前列にいなければまず聞こえない。でもそれで充分だった。カティにだけ聞こえればいい。それだけでウォッカを独占しているような気がした。
屈んだのか膝を突いたのか、気付いた時には椅子に座っているウォッカの手を握っていた。綱引きでもするように思い切り引っ張ると無理矢理立たせる。そのままウォッカの胸に抱きついた。
良かった。温かな安堵で胸が満たされていく。不安な気持ちもあった。でもウォッカの言葉はいい意味でそれを打ち消してくれた。目を閉じたままウォッカの胸に耳を当てる。体温の向こう側から確かな生を感じさせる鼓動が聞こえる。両肩に載っていたウォッカの手がいつの間にか背中に宛がわれていた。ウォッカが抱き寄せた瞬間、思わず息が漏れた。やけに湿っていて、やたら艶っぼい溜め息だった。熱を帯びた頬を彼の胸に埋める。
「行こうか」
見上げると目の前にウォッカの顔があった。心の底からホッとするような顔で笑っている。
「はい」
差し出された手を握る。その人の温もりがそのまま宿っているように温かな掌だった。
もし誰かがここにいたら、ここまで大胆な事は出来なかった。やっぱり人の目は気になる。況してや家族なら尚更だ。何故父がカティ一人を家に残したのか、その理由が初めて判った。
恥ずかしさは感じなかった。むしろその気遣いが温かく、そして嬉しかった。
二人きりで過ごせる事に感謝するように、掌を包み込むウォッカの指に指を絡ませた。




