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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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六日目 その弐拾伍

 最後に洗い終えたお鍋を流し台に置く。額に浮かんだ汗を腕で拭った。

 取り敢えず一つ大きな仕事は終わったけどこれで終わりではない。流しの掃除の他に食堂の清掃も残っている。やりながら次に取り掛かる作業の流れを考えておきなさい。且つ、一つ一つを確実に消化する事も忘れずに。仕事が嵩む時、母は決まってこう言う。先の事を考えながら作業を進める。それでいて目の前にある事も疎かにしない。食器を洗う事だけに集中していてテーブルを拭き忘れたのは今ではいい思い出だ。母曰く、「気持ちが先に行き過ぎると手前が見えなくなる」らしい。確かにそうかも知れない。

 流し台に浮いている水滴を布巾で拭き取る。小さい仕事もキチンと出来ないのに大きな仕事が出来る訳がない。小さな仕事が寄り集まって大きな仕事になっているからだ。それに気付いた時から少し慎重になったような気がする。少なくとも流れ作業的に安易に次の作業へ移らなくなった。指差し確認ではないけど、大抵の場合あれよしこれよしの確認はする。終わったと思った仕事が実はまだ残っていたりするとかなり真剣に萎える。それは絶対に避けたい。

 流し台を拭き終えた布巾を水で洗うと硬く搾る。それを台の縁にかけた。

 よく見ると床が少し汚れていた。今朝も、恐らく昨日も掃除をするような余裕などなかったハズだ。僅かだけど確実に埃が溜まり始めていた。

 よし、ここも掃除しよう。

 食堂や客室も勿論だけど、お料理を作る厨房も清潔を維持しておかなくてはならない。

 廊下の隅にある用具箱からホウキを引っ張り出した。そのまま何の考えもなく厨房に戻る。

 そう言えば。

 お昼以降ウォッカの姿を見ていない。と言う事はまだ部屋で休んでいるのだろう。夜通し起きて大立ち回りを披露したばかりか、人質を救出した後にはお昼近くまで起きていたのだ。普通だったらぶっ倒れて翌朝くらいまで目を覚まさない。それに、胴体を剣で貫かれたら普通は絶対に助からないのに全く問題なく動き回っている。彼が特殊な人間である事は間違いないけど、生きている事に改めてホッとした。今朝、彼は人一倍温かくて大きな手でカティの手を握ってくれた。巣から落ちた雛を掬うようにそっと、でも風が吹いた程度では小揺るぎもしないくらいに力強く。みんなとは、家族とはまた違った温もりに包まれた。出来る事ならずっとその中を漂っていたかった。そのまま眠りに就く事が出来たらどんなに幸せだろう。

 会いたい。一刻も早く。

 ミリアムが気持ちを逸らせてここを後にした気持ちが痛い程に判る。本当に、それくらい待ち遠しかった。だから、とてもではないけどじっとしてなんかいられない。気持ちを紛らわす何かがなかったら頭の中の大事な線が切れて倒れてしまうかも知れない。そう言う意味では父が仕事を与えてくれた事は結構な幸いだった。少なくとも顔を火照らせたまま呆然と無為に時間を過ごす事はない。

 胸に右手を置いた。気持ちを落ち着けるようにゆっくりと息を吐く。

 彼が起きるまでに、ここに来るまでに綺麗に掃除しよう。すべき義務を消化しよう。その方がスッキリした気持ちで彼に会える。

 気合を入れてホウキを握り直そうとした瞬間にゆっくりと、でも確実に顔が熱を帯びていった。

 待って。

 不意に周囲を見回していた。完全に無意識だった。もうみんな随分前に出掛けている。ここにいるのはカティ一人だ。

 いや、そうじゃない。

 ウォッカはまだ寝ている、かどうかは判らない。厳密にはここに姿を現していないだけだ。ひょっとしたら寝起きに逆立ちしながら腕立て伏せをしているかも知れない。いつだったかそうしていたように。或いは温泉で汗を流していてもおかしくない。それが済んだら彼は何をするのだろうか。部屋に留まる理由も、戻る必要もない。だとしたら、何をするかはもう殆ど決まっているようなものだ。

 待って、ちょっと待って。

 長湯で逆上せた時のように頭がボーッとしている。頬に触れた指はハッキリそうと判るほど熱かった。頬だけでなく、指先まで火に晒されたヤカンのように火照っている。

 ホウキを握ろうとした指が震えた。木が床を叩く甲高い音で我に返る。床に膝を突くと真っ暗闇の中を手探りでものを探すようにあたふたとホウキを手に取った。指先だけでなく、腕が音を立てて震えている。しばらく立ち上がれなかった。

 どうしよう、どうしよう。

 やるべき事はあるのに、決まっているのに体が動かなかった。激しい眩暈と動悸のせいで立つ事も儘ならない。そのままフラフラと流し台に凭れ掛かった。もう一度胸に手を当てる。服の上からでもハッキリそうと判るくらいに心臓が早鐘を打っていた。全力疾走で学校まで行ってもここまで息は乱れない。それくらい動揺している。

 微かだけど、硬い何かが床を叩く音が聞こえる。足音だ、間違いない。それがゆっくりとこちらに、厨房に向かって近付いている。

 すぐ後ろで足音が止まった。口から心臓が飛び出したかと思うくらいに驚いた。耳の裏側で血管がやかましく脈打っている。下手に耳でも塞ごうものなら余計にうるさく感じるのは明白だった。

「あれ?」

 胸を押さえたまま振り向くと、声の主は何処か訝るような雰囲気で狭い厨房を見回していた。カティと目が合うと朗らかに、そして穏やかに笑った。

「おはよ」

「お、おはようございます」

 窓から差し込んでいる陽は既に力を失っている。おはようと言うには明らかに的外れな時間帯だった。挨拶としてはむしろこんばんはの方が遥かに相応しい。もうじき日が暮れようとしている。凄く間抜けな気がするし実際間抜けだけどそれが今の雰囲気に妙に噛み合っていた。

「厨房って何処もこんな感じなんだな……」

 首を右から左に、或いはその逆に振りながら厨房を見回すウォッカの横顔は秘密基地を見つけた子供のようにも見えた。こういう顔を維持出来たら、彼の見方も少しは変わるのかも知れない。そう、彼を知らない人には。

 忙しい最中にわざわざ時間を割いてお弁当を届けてくれたウォッカに怒鳴り付けた事が随分前の出来事のように感じる。でも実際にはホンの数日前にあった事だ。そもそもウォッカと出会ってまだ一週間も経っていない。それが半ば信じられなかった。たった数日の間にどれだけの出来事が起こったのだろう、その内のいくつを彼と共有しているのだろう。

「君一人で留守番、って訳じゃなさそうだけど」

「はい。父と母も、それに姉達も会場の設営があるそうなんです。その手伝いをするみたいで先に行きました」

「会場? 設営?」

「今夜は街を上げてのお祝いだから、それに相応しい場を作ろうってみんな張り切ってるみたいで」

 長い事離れ離れだった家族とようやく再会出来たのだ、喜びも一入に違いない。子供のように跳び跳ねて喜んだって何処もおかしくないのだ。考えただけでワクワクする。

 でも今はそれ以上にドキドキしている。階段を駆け上がった直後のように心臓は早鐘を打っているし息も苦しい。

 ここにはカティとウォッカの二人しかいない。本当に二人きりだった。

 ホンのついさっきまでこの瞬間が来る事を待ち詫びていたのに、実際には嬉しさよりも緊張が勝ってしまって満足に話す事も出来ない。そんな自分が歯痒くて情けなくて、思わず頭をボカスカ叩きたくなった。

「そうなんだ。起こしてくれりゃ手伝ったのに」

「ダメです!」

 慌てて両手で口を塞ぐ。信じられないくらい大きな声だった。

 握っていた布巾を流し台に置いた。顔を上げて真っ直ぐウォッカを見ると一歩ずつ歩み寄る。距離が縮まる度に鼓動が少しずつ、でも確実に速まっていく。

 ウォッカの目の前に立つと顔を上げた。これだけ近付くと見上げなければウォッカの顔は見えない。

「ウォッカさん、一昨日のあの後からみんなの傷を治したり、助けてくれたり、ずっと大変でしたよね。だから、お願いですから休める時はちゃんと体を休めて下さい。でないと……」

 首を切り落とされても死なない、不死身に近い生命力を誇る化け物、それが忌人だ。ウォッカが忌人であったとしても絶対に彼を化け物だなんて思わない。それに疲労が重なれば倒れてしまう事もあるに違いない。だから無理はして欲しくなかった。もっと、自分を大切にして欲しかった。

 不意に、頭の上に何かが載った。大きくて温かい何かがゆっくり前後に動いている。

 ウォッカの手だった。

「ありがとう」

 体の芯に火が点いたように頬が熱くなった。耳の先から湯気が出ているようだった。

「誰も死なずに、なくさずに済んだ」

 呟くような、囁くような声だった。それが貫くようにして耳の奥まで吸い込まれる。

「こうして、君にもまた会えた」

 ウォッカの指が頬を撫でた。この時始めて涙を流していた事に気付いた。悲しい事なんか何処にもない。それどころか嬉しくて堪らないのにどうして涙が溢れるのだろう。

「それだけで充分嬉しいよ」

 ありがとう。

 肩を掴まれた。そう思った時には抱き寄せられていた。ウォッカの太い腕で全身をすっぽり包み込まれている。不思議と緊張はしなかった。もっとゴツゴツしていて硬いと思っていたウォッカの体は想像よりもずっと柔らかくて温かかった。

 体の間に挟まれていた腕を解いた。ウォッカの背中に廻すとゆっくり力を込める。彼の力には到底及ばない。でも力一杯抱き寄せた。

 異性を抱いた事も、そして抱かれた事も生まれて初めてだった。温かかった。

 初めて見た彼は埃にまみれていて薄汚れていた。それに鼻が曲がりそうになるくらいに汗臭かった。でも、食べる事と呑む事には呆れるくらいに素直で、何より見ていて楽しかった。年齢が判らないくらいに老けているのに笑うと子供に戻る。そこがまた笑いを誘った。

 だから、最初は怒った顔が想像出来なかった。実際に怒った顔を見た時は背筋が一瞬で凍りついた。それくらいに怖い顔だった。

 笑っていて欲しかった。そうすればカティも笑っていられる。誰も怖い顔なんか見たくない。笑顔はそれだけで人を幸せにする。笑う門には福来る。先人の言葉に誤りはない。

 しばらく彼の温もりに包まれていた。今日は朝からみんなに取っ替え引っ替え抱き締められた。その度に嬉しくて体が熱くなった。でも彼は家族とはまた違った温かさがあった。それが彼の中に流れる血に依るものなのか、単に体温が人より高いだけなのか、それは判らなかった。傷を癒してくれた時、血を分けてくれたのだろうか。彼と同じ血がカティの中にも流れているとしたら、それは純粋に喜ばしい事だった。

「温かい」

 何気なく呟いた瞬間、ウォッカの腕が激しく震えた。と思った時には体が引き離されていた。体の隙間に入り込んだ空気が無神経に温もりを奪っていく。

「ごごご、ごめん! な、何やってんだ、俺……」

 泳ぐと言うより踊るように目が震えている。顔も火が点いたように真っ赤だった。抜き身の刃を突き付けられても実弾が装填された銃口を向けられても全く動じなかったウォッカが完全に狼狽えている。その落差が不思議なおかしさを誘った。綻んだ口元を慌てて手で隠す。

 ウォッカは赤らめた顔を背けたまま苦しそうに咳払いしていた。首を伸ばして半ば無理矢理ウォッカの顔を覗き込むと頬を赤く染めたまま目を逸らした。 照れ臭いのだ。

 無骨で少し不器用で人の三倍は逞しいこの男を、初めて可愛いと思えた。

 ウォッカの前に立つとぶら下がっていた手をそっと握った。動揺するように強張ったけど、それも本当に一瞬の出来事だった。しっかり仕付けられた猟犬のように大人しくしている。よし。労を労うようにそう言ったら、果たして彼はどんな顔をするだろう。

「謝らないで下さい」

 握ったウォッカの手を胸に押し当てる。不思議と恥ずかしさは感じなかった。こうする方が彼の動揺を鎮められる、そんな気がした。実際ウォッカモ手を引くような素振りは見せない。そこに手がある事を自然に受け容れている。

 手を解くと今度はカティがウォッカを抱き締めた。胸一杯に彼の匂いを吸い込む。心地好かった。


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