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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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六日目 その弐拾四

 割った卵を器に移すと箸で手早くかき混ぜる。油を引いたお鍋が待ち焦がれるようにチリチリ音を立てていた。そこに円を描くように解いた卵を落とす。油が跳ねる音に卵が覆い被さる。忘れていた食欲がようやく目を覚まし始めていた。

「はい」

 水で洗ったモヤシが山のように積まれた器をアリスが目の前に置く。両手いっぱいに掴むとお鍋に放り込んだ。火加減を調節しながらモヤシを解いた卵で包み込む。ある程度モヤシに熱が通ったところで薄切りにした肉を入れる。肉の焼ける香りを嗅ぐだけで天にも昇りそうだった。

「それが最後だから」

「判ってる」

 料理の入った特大のお鍋の取っ手を掴みながらイリナが言った。本来ならば冷ました方がいいんだけど、どうせ食べるなら出来立てがいいしもうじき日も暮れる。これ以上気温も上がらないから傷む心配もない。

「上がった?」

「うん」

 お鍋に蓋をすると鍋掴みを嵌めたミリアムが取っ手を握った。厨房を出ると表に歩いていく。

 額に滲んだ汗を腕で拭う。作りながら片付けていたお陰で食器や調理器具はそこまで残っていない。でも流し台は滴や油で汚れているし剥いた野菜の皮が所々に水で貼り付いていた。清潔とは言い難いしこれでは明日以降すぐ次の作業に移れない。今日の仕事は今日の内に片付ける事が昔からこの家の決まりだった。今の状態で家を明ける事は絶対に考えられない。

「カティ」

 玉葱の皮を袋に放り込みながら父が言った。

「一つ、頼みたい事があるんだが」

 手についた滴を前掛けで拭う。どうしてこんなに神妙な顔をするのだろう。

「さっき、ヨハンが来たのは知ってるよな?」

「うん」

 これから遠足に行く子供のように息を切らして店に駆け込んで来た。滴る汗を腕で拭いながら誰かと目を合わせると、ヨハンは嬉しそうに笑った。反射的に視線の先を追う。心の底から沸き上がる喜びを堪え切れないような表情でミリアムが手を振っていた。

 しばらく交互に二人を観察していた。カティだけでなく、アリスも露骨に驚いた顔を隠そうともせずにマジマジと二人を見ていた。そして、面白い事にそのド真ん中にいる二人は周囲の視線に全く気付いていなかった。会えた事がただただ嬉しくて、ここに来てくれた事に、迎えに出て来てくれた事に感謝するように笑っていた。

 全く知らなかった。一体二人の間に何があったのだろう、いつの間にこんなに距離を縮めたのだろう。確かに気にならないと言えば嘘になる。でも別にあれこれ詮索する気はない。それに二人共気持ちが通じ合っているのは間違いなさそうだった。だって、これだけジロジロ見てるのに二人共全っ然気付かないんだもん。イリナが露骨に、いやわざとらしく咳払いしてやっと二人は我に返った。顔を真っ赤にしたまま互いに目を背ける。

 下手くそな役者の芝居を見ているようだった。でも逆にそこがおかしくて笑いを誘った。声には出さずに喉元で抑える。

 まだ調理の途中だったから食堂の様子を気にしつつも厨房に戻った。だからその後どんなやり取りがあったのかは知らない。少なくとも聞き耳を立てられるような精神的な余裕はなかった。調理に、美味しいと言ってもらえる料理を作る事に夢中だったせいで全く耳に入らなかった。

「会場の設営の手伝いを頼まれてな」

「会場の設営?」

「かなり集まりそうなんだよ。溜まりに溜まった鬱憤を晴らしたいのはみんな変わらないみたいだな。で、大勢参加するなら場所もそれに見会うだけのものを用意しておいた方がいいだろ? 」

 そうすりゃみんな楽しめる。父はカティの頭に手を載せた。カティ自身がどれだけ多くなっても父の手の大きさだけは変わらない。

「でも、今日決まった事なのに大丈夫かな」

 相当な突貫工事になる事は避けようがない。昨日の今日どころかお昼前後に持ち上がった話を日が暮れる前に形にしようとしている。果たして間に合うのか、そちらの方が心配だった。

「こういう時、大抵の場合は何とかなるものなんだよ。人間、ここぞって時は物凄い力を発揮出来る。そういう風に出来てるみたいだな」

 自信たっぷりに話しているけどそれを下支えするような根拠は何処にもない、と思う。お尻を叩かれて、或いは火がついて初めてまともに動き出すような人もいれば、お祭り騒ぎでいつも以上に馬力が効く人もいるのかも知れない。

 カティにはちょっと想像出来ない。でも実現すると思えるだけの何かを感じさせるには充分な言葉だった。生き馬の目を抜くような戦禍を掻い潜って今に生きている人の言葉はそれだけで結構な説得力がある。そしてそれは父だけではない。

「みんなを手伝いたいんだ」

 同じ時代を生きて、そして同じ街で過ごしている。手の届くところにはいなくてもすぐ傍にいつも誰かがいた。だからカティも今こうしてここにいられる。一人で生きているように思える時はあっても、必ず何処かで誰かと関わっている。そして一度関わったら、その人とはもう他人ではない。

「判った」

 父が微笑んだ。もう一度頭に手を載せる。

「じゃ、後片付けを頼む」

 え、と言いそうになってしまった。半開きになった口を慌てて塞ぐ。

 振り向いて厨房を見回した。

 粗方片付けていてはいるけど細かいところにゴミが残っていたり汚れがついたりしている。そこまで汚れていないし散らかりもしていない。でもいつもの水準には程遠いものがある。

「一人で?」

「ああ。人手が多い方が作業も捗るからな」

 よくよく見てみると捌き切れなかったお鍋が床にいくつか転がっている。当然洗ってない。そこまで多い訳ではないけど手間としては決して小さくはない。それ以外にも細々とした作業がいくらか残っている。一人でこなすには正直少しキツい。

 でも。

 父は既に半分以上任せたつもりでいる。それに中身を見てから断るなんて失礼にも程がある。まだ仕事の選り好みが出来るような立場ではない。家族の中で歳も技術も消化出来る仕事の量も間違いなく一番低い。今後のためにも、自分を磨く意味でも受けて立つのが筋だと思う。

「任せて」

 無意識に胸を叩いていた。体が少しずつ熱を帯びて来た。いい感じに入り始めた気合を呼気に変えてゆっくり吐き出す。

「ついでに食堂の掃除もな」

 今度こそ本当にズッコけそうになった。

「朝から大勢お客さんも見えたし今日は掃除もしてない」

 そうだ。

 いつもなら一日はお店の掃除から始まる。でも今日はそれが叶わなかった。それどころではないくらいに目まぐるしくて喜ばしい朝だった。でも、だからと言って日課をすっぽかしていいと言う理由にはならない。こういう時でも妥協を許さない父の姿勢に頭が下がると同時にちょっとだけ恨めしいものを感じた。なら、少しは手伝ってくれてもいいのに。昔から家族には厳しかった。それでもやるべき事をこなした後はいつも大きくて温かい腕で抱き締めてくれた。

 ここで頑張ればみんなに少し近付ける。そう思うならむしろ歓迎すべきだ。

「出来るか?」

「うん」

 腕を直角に曲げて拳を握り締める。

 流し台の前まで走った。布巾を石鹸にこすりつけると思い切りお鍋を擦る。たちまち白い泡が立った。

 後ろを通り過ぎる間際に父が頭を軽く叩いた。泡のまとわりついた手を振る。日暮れまでにはまだしばらく時間がかかる。父も、いやみんなもそれまでに作業を済まさなければ始めようにも始められない。

 気が付いた頃には既にみんなの姿はなかった。でも出掛けたような気配は感じなかった。何処に行ったのだろう。そう思って周囲を見渡すと廊下の方から足音が近付いて来た。思わず声が出そうになった。いつも履いているようなジーンズではなく丈の長いスカート姿のミリアムが厨房の出入口から顔を覗かせて手を振っていた。長袖の白いブラウスに紺色の厚手のジャケットを羽織っている。いつも何処か少年のような雰囲気を漂わせているけど、今日の格好は年頃の女の子そのものだった。可愛い。

「悪いわね」

 首を横に振ると済まなそうと言うより嬉しい気持ちを思い切り放り出すような顔で笑った。彼に、ヨハンに一刻も早く会いたいのだろう。居ても立ってもいられないのは間違いなさそうだった。

「早く行って来なよ」

「うん」

 零れ落ちそうな笑顔で頷く。見ているこっちの方が恥ずかしくなりそうだけどそれ以上に嬉しかった。笑顔はそれくらい人を幸せにする力がある。

「荷台に積む荷物は?」

「もう済んでる。いつでも行けるわよ」

 妹の返事にイリナは満足そうに笑った。三人の妹をまとめ上げる長女としての貫禄に溢れた笑顔だった。

「あなたじゃこうは行かないからね」

 腕を組んで不敵に笑うイリナをしかめた顔で睨み付ける。

「ちょっとイリナ姉、馬鹿にしてるの?」

「事実を申し上げたまでよ」

 語気を強めても、驚くどころか怯みもしない。末っ子の抗議にビビるような道理など既にないのかも知れない。小さい頃から何をやっても到底敵わなかった。それは今も変わらない。

 イリナもミリアムと同様に裾がくるぶしまであるスカートを履いている。黒い上着の裾の下の辺りを左右で結んでいた。可愛らしいと言うより明らかに逞しい着こなしだった。二人とも年の割には胸はかなり豊かな方だけど安易にそれを強調するような真似はしていない。もう少し大胆になりたい気持ちもあるだろうけど人の目以上に親の目もある。抑えるべきところはやっはり抑えておかなくては。そう、女の子なんだから慎みと恥じらいは持たないとね。

 イリナは腕を組みながら厨房全体を見回す。最後に流し台に積まれたお鍋の山に視線を移した。

「これくらいの量なら別に問題ないでしょ?」

 簡単に言ってくれる。

 確かに洗わなければならない食器の量は決して多くはない。でもすべき事もそれだけではない。三人なら差して苦労もなく片付けるだろう。作業を継続する体力は勿論だけど、姉三人ほど手際も要領も良くはない。それを補うにはひたすら経験を積むしかない。そう、何事も経験だ。

「頼んだわよ」

 イリナが頭を鷲掴みにしたかと思うと紙でも丸めるようにクシャクシャにした。

「もう、何するのよ!」

 手櫛で髪を整えながらイリナに抗議するとからかうように笑った。何かある時は決まって髪をクシャクシャにされる。ここまで来ると殆ど儀式のようなものだった。

「カティ」

 遅れて出て来たアリスが例の如く抱きつく。

「一人で大丈夫?」

 ここまで心配されると心なしか少し馬鹿にされているような気がして来てしまう。でも、まだその程度なのだろう。まだみんなに遠く及ばないのは事実だ。それを受け容れる事から始めよう。

「大丈夫だよ」

 ゆったりとした裾を靡かせてアリスが頭を撫でる。ズボンも悪くないけど、こういうふんわりとしたスカートもアリスには似合っている。女の子らしい格好をすれば普通に可愛い。それに行動が伴わないのが珠にキズだけど。

「行こう」

 支度を終えた父と母が慌ただしく上から降りて来た。

 みんな正装こそしていないけどそれなりに様になる格好をしている。確かにあまりみっともないナリで出掛ける訳にもいかない。

「行って来るわね」

 店を出る母に、みんなに手を振る。父はお店の売上を金庫にしまうと鍵をかけた。母が受け取った鍵を鞄の中にしまう。

 馬の嘶く声が聞こえた。蹄の音に荷台を引く音が微妙に混ざりながら店から少しずつ遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなるまで差して時間はかからなかった。

「さてと」

 気合を入れるように両手で頬を張った。ちょっと痛い。でも今はこれくらいが丁度いい。

「やりますか」

 石鹸を擦り付けた布巾に少しだけ水を染み込ませた。あまり泡立ち過ぎるのも良くない。泡切れが悪くなるからだ。

 フライパンを擦る。焦げてこびりついていた肉の切れっ端に布巾が引っ掛かった。


「大丈夫かなあ」

 積み重ねた食器の山を押さえながらアリスは首を捻って背後を見る。硝子だと割れる恐れがあるので食器は全て木製のものにした。

「ホントに」

 母が溜め息を吐いた。

 手がかかる訳ではないけど能力的には明らかに見劣りするものがある。一緒に肩を並べて仕事はしているけどやっぱり経験の差は如何ともし難い。

 でも、これだけの量の食器を運ぶとなるとこれくらいの人手があった方が明らかに楽だった。それに出来る事ならすぐにでも店を出たかった。きっと、彼ももう来ている。考えただけで自然と熱くなった頬が綻ぶ。動いている訳でもないのに、荷台に座っているだけなのに胸が高鳴る。

「どうしたの?」

 隣に座っている姉がお鍋の取っ手を掴みながら横目でこちらを見ていた。

「どうしたのって、何が?」

「さっきから随分ソワソワしてるみたいだから」

 心臓が音を立てて跳ねた。胸を押さえながら抗議するように睨むと、イリナは悪戯坊主のような顔で笑った。

「別にソワソワなんてしてません」

 お祭りみたいなものだから多少ワクワクはしているけど。でもそれも方便でしかない。指摘されたせいで余計にドキドキして来た。試験の時でもこんなに緊張はしない。こんな状態で彼に会ったら一体どうなってしまうのだろう。考えただけで失神しそうだった。

「そう言うイリナだって、セージに会えるんだから少しくらいは……」

 拗ねたように唇を尖らせながら姉を睨む。

 イリナの様子に大きな変化は窺えない。でも心なしかさっきより頬に赤みが差しているように見えた。苦しそうに、いやわざとらしく咳払いする。

 みんな、考えている事は変わらない。

「イリナは心配じゃないの?」

「カティの事?」

 頷いたミリアムとは対照的に、姉はアッサリ首を横に振った。動作に迷いがない。

「ちょっと冷たいんじゃない?」

「別に冷たくないわよ。それに、多分この方があの子にも好都合だと思うし」

「そうだな」

 手綱を握る父が前を見たまま頷いた。石を弾いた拍子に荷台が少しだけ跳ねる。

 意味が判らなかった。

 カティ一人を店に残していく事の何が好都合なのだろう。そして父とイリナはそれを理解している。母が一瞬驚いたように目を丸くした。と思ったら穏やかに笑いながら二人を見る。何かを察したに違いない。

「時間もないだろうからな」

 誰かに向けられた言葉ではない。囁くような呟きだった。でも決して空耳ではない。

 時間がないって、一体どういう事だろう。

 陽は少し傾いて来たけど暮れるにはまだいくらか余裕はある。設営にどれくらい時間がかかるかは判らないけど、人海戦術で対応すれば何とかなる公算が大きいからこそ早めに店を出ただろうに。

 深くは考えなかった。独り言をそこまで気に掛ける必要もない。

 それより気になる事がある。

「イリナ」

 前を向いていた姉の脇腹をアリスが人差し指で突っついた。

「好都合ってどういう意味?」

 聞き方に遠慮も配慮もない。何処までも素直だった。でもこういう時はその方が助かる。

 イリナは面倒臭そうに頭を掻いた。挑発しているのか本当に馬鹿にしているのか判らない。

「終始あの子一人でやる事にはならないわよ」

「どうして?」

 今度は疲れ切ったように溜め息を吐いた。いちいち言葉にするのも億劫なのだろう、顔にそう書いてあった。

「少しは自分で考えなさい」

 アリスは露骨に剥れて見せた。それこそ頬を針で突いたら破裂しそうなくらいに。

 咄嗟に口を押さえていた。出そうになった声を慌てて喉元で飲み込む。

 イリナが仕方なさそうに笑っている。ミリアムも苦笑いしていた。

 成程、確かに好都合かも知れない。

 アリスだけが子供のように頬を膨らませていた。


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