表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
111/139

六日目 その弐拾参

 部屋からあっという間に足音が遠ざかっていく。廊下は走るな、階段は駆け降りるなと普段からあんなに口を酸っぱくして言っているのに完全に頭から飛んでいる。他の子が、世間一般の十六歳の立ち位置がどんなものなのかは判らないが、純粋と言える範疇にいると思う。良くも悪くもすれた部分がない。いつも真面目で、何事にも一生懸命だった。今がそうであるように。いやそれ以上か、気合の乗りが普段とは比較にならない。

 その源に向き直ると背筋を伸ばしたまま腰を折った。

「本当に、申し訳ありません」

「お気になさらずに」

 ウォッカは至って穏やかな表情で笑いながら首を横に振る。

 言葉の意味合いを図りかねているかも知れない。

 娘にしてもこの少し変わった客人にしても、二人だけの時間を過ごしたかった事は間違いない。それを店主の勝手な都合で妨害してしまっている。通常ならば絶対にあってはいけない事だった。それに対する詫びだ。

 料理の支度が一段落した頃、妻にだけ断るとこっそり厨房を抜け出した。出来るだけ早い段階で知っておきたかった。時間が経てばそれだけ機会が失われる事は明らかだった。ならば彼がここにいる間に、店を出る前に話を聞いておきたかった。それだけ気持ちが焦っている顕れでもある。

 部屋のドアを叩くとすぐさま返事が聞こえた。寝ていなかったのか眠れなかったのか、それとも寝ていたけど物音で目を覚ましたのか。戸を開けたウォッカは実にサッパリした顔で店主を出迎えた。

 睡眠を妨害した事を丁寧に詫びると、寝ていませんから大丈夫です、と笑いながら応えた。目が冴えていたと言う話は強ち建前ではなさそうだった。

 手短に用件を伝えると初めてウォッカの顔が曇った。こちらの意図を伝える事に関してはやぶさかではないがそれは極力避けたかった。下手にこちらに気を遣って守勢に回られたら事実から遠ざかってしまう。

 そう、飽くまで知りたいのは事実だ。たとえそれがどんなに残酷でも受け容れなければならない義務がある。だから非礼を承知の上で客人を起こしたのだ。実際には寝ていなかったが。

「ハッキリした事は俺にも判りません」

 質問に対してウォッカは首を横に振った。実に素直な反応だった。嘘を吐いているようには思えない。ただ真実を知っていた場合、それを隠すために事実の一部を伏せて伝える可能性は大いに考えられる。敵と自分には非常に厳しいが親しい間柄の人間には本当に優しい。でもそれが故に真実が見えづらくなる事も有り得ない話ではない。

 余計な言葉は必要ない。核心を突いた返答を期待するなら的を射た質問を、言葉を選ばなければならない。要は誘導するしかないのだ。彼がそうしたように、ダンも求めている事実に辿り着けるよう事を運ぶ必要がある。

「あなたが砦に踏み込んだ時、首謀者と思われる男女二人は既に殺されていた」

「はい、先程も話しましたがそれは間違いありません」

 死人に口なしとはよく言ったものだ。当事者から話を聞く機会はこれで完全に失われた事になる。それに安堵しつつも言い様のないもどかしさに苛まれる。

「死体は?」

「全て焼却しました。人の目に触れるには少し形が崩れ過ぎてましたから」

 人質を解放した後、痛めつけた兵士を牢屋にぶち込み死体全てを焼き払った。ここに戻るまで多少時間がかかったのはそのせいだろう。

「何も、あなたがそこまでする必要は……」

「別に大した事をした訳じゃありません」

 ただの後片付けですよ。

 死体なら戦場で数え切れないくらいに見て来た。だが今更それを見たいとは思わない。しかも人としての原型を止めていないのが大半を占めているなら尚更だ。

「何故、彼はそこまで私を気遣ってくれたんですかね」

 ウォッカは黙って首を横に振った。

 彼にはその女を殺すだけの動機が、その女には殺されなければならないだけの理由があった。彼はそれを何の躊躇いもなく実行した。それも凄惨極まりない方法で。ただ殺すだけでは飽き足らなかった。それだけ凄まじい怒りを、殺意を抱いていた事の証拠だった。

 報いを受けさせた、彼の言葉を借りるならそういう事になるのだろう。ならばその報いの源にあるものは一体何なのか。

「俺も、最初はかなり混乱してたんです」

「混乱?」

 ウォッカは悩み事を打ち明けるように重苦しく溜め息を吐いた。

「旦那が誰かから恨みを買うような事をするなんてとても思えなくて、でもその件の女は尋常じゃないくらいの恨みを抱いていた。その理由が全く判らなかったんです」

 恨まれる側にしてみても、まともに顔も見た事もないような相手にそこまで恨まれる謂れはない。

 その女とは知り合いでも何でもない。面識すらない。

 そんな女が何故そこまで凄まじい恨みを抱くに到ったのか。妻以外に関わった女などいないと言うのに。

 女?

 初めて性別に疑問の針の先端が触れた。

 故郷に女を残して来た。当時上官だったあの男は杯を酌み交わしながら唐突に言った。ならばせめて手土産くらいは用意してやりたいだろ? 敵地への進軍を主張する上官はそんな言葉を交えながらダンに詰め寄った。気持ちは判らんではない。だがそんな安っぽい手土産の出汁に人の命を使われた日には呆れてものも言えなくなる。

 連日の尋問責めから解放されてしばらく経っても件の上官の姿を目にする事はなかった。退役したと聞いたのはそれから更に時間が経過してからだった。そう言えば婚約者とはその後どうなったのだろう。普通に考えれば破談は避けられない。それ以上の事を彼はしている。他人の命を出世の道具にするような男だ、全うな感覚は既に失われている。それとも最初から持ち合わせていないのか。何れにしても、今それを確かめる術はない。

「その後、混乱は収まりましたか?」

「お陰様で」

 表情はいくらかスッキリしたが、まだ喉の奥に何かが詰まったような居心地の悪さが残っている。

「差し支えがなかったら、何故それが解消したのかお聞かせ願えますか?」

 ウォッカの顔が見てハッキリそうと判るくらいに歪んだ。思い切り差し支えている。

 本人もさぞかし臍を噛んだ事だろう。そこにつけこむ訳ではないが、そうでもしないと事実を集める事は出来ても真実には辿り着けない。

「逆恨みだと、あいつはそう言っていました」

 ゆっくり、本当にゆっくりと溜め息を吐いた。

 言い澱むのも無理はない。意味合いを理解している証拠だ。

 彼にも、ウォッカにも不可解に感じる部分はあった。それが本人の意図を介さずに零れ落ちてしまった、そんなところだろう。それを抑え込めるだけの理性はまだ持ち合わせていないか、或いはそれを振り切るくらいに感情が昂ったか。怒りの導線に火を点けるような真似は絶対に出来ない。だが感情を完全に殺す事も不可能だ。それを若さの一言で片付けるのは流石に乱暴だろう。そこまで万能な人間など何処にもいない。

 膝に手を置くとゆっくり立ち上がった。腰が、全身が非常に重い。ウォッカは右手で頭を抱えたまま項垂れている。姿勢を正すとウォッカに深々と頭を下げた。

「本当に、申し訳ありませんでした。私の勝手な都合に無理矢理お付き合いさせてしまって」

「いえ……」

 そう応えるのがやっとなのかも知れない。俯かせた顔を上げる気配はない。

「今、家族全員で今夜の支度をしています。まだしばらくかかると思いますのでそれまで休んでいて下さい」

「有り難うございます。そんなに気を遣わないで頂いて結構ですから」

 全く、無茶を言ってくれる。砦に殴り込み人質を解放して死体を焼却し負傷した兵士を牢屋に叩き込む。それだけの事をたった一人でしているのに、気を遣わない道理などないではないか。

 それでも彼は今の姿勢を変える事は絶対にしない。血を継ぐ者としての義務を忠実にこなし続ける。それが忌人の責任なのだろう。

「それでは」

 戸を閉める間際にもう一度頭を下げた。椅子に座ったまま、ウォッカも礼を返した。

「少し、休みます」

「是非、お願い致します」

 自分で言っておいて耳が痛い。今回はウォッカの厚意にすっかり甘えた格好になってしまったが、それでも確かめずにはいられなかった。考えるだけで胸が針で刺されたように痛んだ。出来る事なら考えたくなかった。目を背け続けたところでそれが一生ついて回る事に代わりはない。死ぬまで背負う方が余程苦役に思えた。

 心の何処かではいつかこんな日が来るような、そんな気はしていた。早いか遅いか、それだけの違いでしかない。背負っていた因果をようやく清算する時が来た、そう思う事にした。左手を見る。薬指と小指は根元から綺麗に欠けている。これを受け容れるようになるまでどれだけの時間を要したのか、今となってはもう思い出す事も出来ない。でも、誰一人助けられなかった訳ではない。一番大切にしているものは手を伸ばせば届くところにいる、それでいいではないか。亡くなってしまった人も、そしてなくした人もいる。それ以上を求めるのは贅沢だろう。指は欠けていても家族を抱く事は出来る。

 取り敢えず、今は目の前にあるすべき事に集中しよう、そして大切にしよう。それが済んでからでなければ始まるものも始まらない。下を向いた。階段を踏み外して転びでもしたらそれすら儘ならない。

 廊下に当たった陽射しが目に突き刺さる。春の陽はまだ高い。沈むまでまだかなり時間がかかりそうだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ