六日目 その弐拾弐
野菜を刻み、捌いたばかりの肉に塩コショウを振り、骨を煮込んで出汁を取った。手が空けば仕事が残っている誰かを手伝った。汚れた食器を洗い、野菜の切れ端が散らばっている流し台を布巾で拭いた。
疲労も退屈も感じなかったのは作業に集中、いや没頭していた証拠かも知れない。まな板に落としていた視線を上げた先にあった掛け時計を見て驚いた。とうに正午を回っていた。額に薄っすらと浮かんでいた汗を反射的に手の甲で拭う。
「お疲れ様」
流し台に置かれた湯呑みが微かに湯気を上げている。握るとほんのり温かかった。
「ありがとう」
母は微笑むと頭に手を載せた。湯呑みとはまた違った温かさが額に伝わる。
「疲れたでしょ? 少し休みなさい」
思わず周囲を見回していた。
お鍋を掻き回したり刻んだ野菜と肉を炒めたり、或いは食器を用意したり、みんな忙しそうに動き回っている。暇をもて余しているような人は何処にもいない。でも、その中に父の姿だけがなかった。間仕切りから食堂を覗いても人がいるような気配は窺えない。
「今ミリアムとアリスがお昼御飯の支度してるから。仕上がるまで少し休んでなさい」
「でも、疲れてるのは私だけじゃ……」
「いいの」
母は人差し指の先っぽをカティの唇に宛がった。反射的に唇を閉じるとにっこり笑う。
「まだ病み上がりなんだから無理しないで」
「病み上がりだなんて、そんな……」
いくらもう癒えているとは言え、みんなにしても普通なら完治するまでに何ヵ月もかかるような大怪我を負っていたのだ。自分だけ特別扱いされるのは気が引けた。だからみんなにも休んで欲しかった。
「私達なら大丈夫だから」
「そ。あなたと違って鍛えてるから」
本当に力こぶを作って見せたアリスの額をミリアムが人差し指で弾いた。やっぱり全然女の子らしくなかった。でも鍛えている事は紛れもない事実だ。高々通学時に走る程度で敵う道理はない。
動きたい気持ちは嘘ではないけど有り難い事も確かだった。立ちっ放しの動き通しは決して楽ではない。
「判った」
頷くと母が頭を撫でた。心配で堪らないのだろう、そんな顔をしていた。みんなと同じ事をしていても体力と経験の差は如何ともし難い。
「部屋で少し横になって来る」
休憩するだけなら椅子に座るだけで充分だった。でも、折角休めるならここから外せるだけの口実が欲しかった。
厨房を出る間際、イリナと目が合った。労を労うように手を上げる。カティも返すように手を上げた。穏やかな横顔だった。自然と笑みが漏れる。
目には見えない、でも確かな絆を感じた。それぞれの家族にしかない、特別な何かに包まれている。その中にいられる事が、戻って来られた事が純粋に嬉しかった。
踏み締めるようにして階段を上がる。
あの瞬間は何が起こったのか未だに判らない。最後に見たのは絞首台の天辺から見た街を一望する光景だった。高台から望むなら胸も空いただろうけど、当然ながらとてもそんな気分にはなれなかった。死にたくない、頭にあったのはその一念だけだった。
そして、実際こうしてここにいられる。
首に巻かれていた縄を切ってくれた、父はそう告げた。でもカティにその記憶はない。気が付いた時にはベッドに横たわっていた。アリスに抱き締められていた。誰かに触れて、声を聞いて初めて生きている事を知った。
彼が助けてくれたのはカティだけではない。砦に囚われていた人質全てを解放してくれた。その大仕事を終えた彼は、今ベッドで体を休めている。
一人だけ休憩をもらえた事にも、そして彼の部屋に向かおうとしている事にも喉の奥に魚の骨が刺さったような後ろめたさを感じた。みんなまだ働いているのに、彼は疲れて寝ているだろうに。そんな思いとは裏腹に足は全く止まるような兆しを見せない。ゆっくりではあるけど確実に彼の部屋に近付いている。
手摺を握って体を引き上げる。すぐ左が彼のいる部屋だった。ドアを叩こうとした手が不意に止まった。人の気配は勿論だけど、物音が聞こえる。誰かが話す声だ、独り言ではない。誰がどんな理由でウォッカと話しているのか、いや彼に何の話があるのか皆目もつかない。
ノブを握ろうとしていた手が宙に浮く。
「どうぞ」
招く声が聞こえた。気配で気付いたのかも知れない。ウォッカならば姿が見えなくても、声が聞こえなくても気配で誰なのか判別出来てもおかしくない。
「失礼します」
躊躇いながらドアを引いた。
ウォッカが椅子に座ってこちらを見ていた。向かい側にいる誰かが驚いたように少し目を丸くしてる。
父だった。
声が出そうになった。どうしてこんな所に、ウォッカの部屋に父がいるのだろう。
丸くなっていた父の目が穏やかな曲線を描いた。
「お疲れのところを申し訳ありません」
「別にそこまで疲れちゃいませんからご安心を。それに、長話したせいか変に目が冴えちゃったみたいで」
頭を下げる父にウォッカは頭を掻きながらガガガと笑った。少なくとも迷惑そうには見えない。
「夜通し動き回ってお疲れのお客様の安眠を妨害しに来たとしたら、些か感心しないな」
決まりが悪いのか、父は頬に浮いた汗を指先で弾いた。
「父さんこそ、どうして……」
ここにいるの? とは聞けなかった。訳も判らず頬が熱くなる。
「彼にどうしても聞きたい事があってな」
「聞きたい事?」
父はまるで何かを思い出したようにはたと口を手で塞いだ。口が滑った、それに気付いて大慌てで後悔するような顔だった。
「カティ」
厳かな声だった。岩が唸る方がまだマシな気がした。
「済まないが、彼ともう少し話したい事があるんだ」
取って付けたような咳払いがやたらわざとらしく聞こえた。人に客の安眠を妨害するなとか何とか言える立場ではない。
それくらいにどうしても聞かなければならない事なのだ。少なくとも、父には彼に会わなければならないだけの理由がある。ただ何となく話がしたくて部屋のドアを叩こうとした誰かとは明らかに違う。
それに。
視線に気付いたのか、ウォッカが小首を傾げた。目が合った途端、にっこり笑う。年齢に不似合いな素直さだった。こっちはそれどころではない。頬や耳の先を通り越して、いや突き抜けて全身が瞬時に熱くなる。
二人きりになれなければ意味がない。誰かがいたら聞きたい事も聞けないし話したい事も話せなくなる。そこまで考えてハッとした。何を聞きたくて何を話したかったのだろう。何も考えていなかったけど、胸の奥には形にしたい気持ちが無造作に転がっていたのかも知れない。それを拾い上げる勇気がなかっただけだ。
「席を外してくれると非常に有り難い」
そして、父はウォッカから一体何を聞こうとしているのか。退席を指示すると言う事は、カティにここにいられると都合が悪いのだろう。相当疲れているハズの客を無理矢理叩き起こしてまで聞かなければならない事とは一体何なのか。
一歩身を引いた。
「大変失礼致しました」
腰を折って丁寧に頭を下げる。
父にはウォッカと話をする明確な理由がある。ならばこの場は父に譲るのが筋だろう。
「悪いな」
父が軽く頭を下げた。本当に申し訳なさそうな顔だった。どうして娘にここまで気を遣うのだろう。
「お父さんもそんなに彼を付き合わさないでね、疲れてるんだから」
部屋を出ようとした間際に半身を捻って父に釘を刺す。
「判ってるよ」
「って、私が言えた義理じゃないか」
「そうだな」
苦笑いしながら頬を掻く父の顔はさっきと違って申し訳なさそうと言うより仕方なさそうだった。病むに止まれずここに来た、そんな娘の気持ちをしっかりと理解している。
改めて考えるとそれだけで頬が熱くなる。カティがいない間に何があったのだろう、父は何を知ったのだろう。でも別に構わなかった。それを知っているが故の反応だからだ。むしろ有り難かった。その気持ちが温かく、そして嬉しかった。
「ウォッカさん」
「はい」
何でしょうか? 先を促すように、或いはおどけるように首を傾げた。
最初にこの男を見た時、年がいくつなのか全く判らなかった。より厳密に言えば二十歳と言う年齢を聞いた瞬間耳を疑った。確かに年齢以上に老けている。風貌も佇まいも雰囲気も、信じられないくらいに落ち着いている。そうだ、ここに来た時から彼は全く動じた事がない。少なくともカティは動揺したウォッカを見た試しがなかった。悪漢二人を店から叩き出す時も、素手で十人以上の兵士を相手にした時も、日向ぼっこしながら昼寝でもするように動揺なんてものは微塵も感じさせずにアッサリ蹴散らしてしまった。いつもそれくらいに落ち着いていた。
だからと言う訳ではないけど、人並み程度に慌てる彼を見てみたくなった。頬を真っ赤に染めるのか、目に見えて慌てふためくのか。そんなウォッカの表情を想像すると奇妙な笑いが込み上げた。
無意識に背筋を正していた。体の前で手を揃えたまま真っ直ぐウォッカを見る。
「美味しいもの、ご用意してお待ちしてますね」
「ああ、期待してるよ」
頬が自然と綻んでいくのがハッキリと判った。こんなに嬉しい言葉も他にない。穏やかに笑っていたと思ったら、今度は白い歯を覗かせている。
「はい!」
さっきとは打って変わって勢いよく頭を下げた。お客様に対するお辞儀としては明らかに不的確だろうけどそんな事を考える暇もなかった。
勢いよく踵を返すとそのまま部屋から飛び出した。さっきはゆっくり踏み締めるように上がっていた階段を一気に駆け降りる。
美味しい、そう言ってくれるものを作ろう。喜んでくれたら、笑ってくれたら。考えるだけで嬉しくなる。それこそ声を出して飛び上がるくらいに。
疲労も空腹も跡形もなく消し飛んでいた。
どんな形でも、やり方でもいい。お礼を、感謝の気持ちを伝えたかった。ここに来た時も、カティが作った料理を口いっぱいに頬張っていた。脇目も振らず一心不乱に食べ続ける様は、作った側には最高に嬉しい瞬間でもある。
笑って欲しかった。だから精一杯心を込めて作ろう。それだけだった。




