六日目 その弐拾壱
俯けていた顔を上げた。窓から光が差し込んでいるせいで穴が空いているように見える僅かな空間が光で埋め尽くされている。
この階段を上がり切ればもう四階だった。そのすぐ先にウォッカの部屋がある。
本来ならばすぐにでも一階に、厨房に戻るべきだった。まだ調理は済んでいない。
「腕によりをかけて作りましょう」
厨房に入るなり、母はエプロンの紐を腰の後ろでしっかりと結んだ。
「お祝いだもんね」
「そういうものは盛大にやるって古今東西問わず相場が決まってるのよ」
片目を瞑ったミリアムにイリナが拳を上げて応える。決まっているのだろうか。でもしんみりした雰囲気の中でするお祝いと言うのも聞いた試しがない。あったとしても絶対に参加したいとは思わないし、むしろ全力でお断りしたい。
「よ~し、作るぞ~!」
三角巾を締めたアリスが豪快に腕捲りする。女の子にしては些か逞し過ぎる上腕三頭筋が露になる。女らしさの欠片もない。
包丁がまな板を叩く音の間隙を縫うようにしてお鍋の蓋が揺れる音が混じる。誰一人として手を止める事はしない。目の前の作業に、調理に集中している。
「椎茸は?」
「今水で戻してる」
「水は捨てないでね」
「判ってます」
お鍋の中に突っ込んでいるお玉を掻き回しながら、イリナは実に偉そうな態度で頷いた。昔、戻した水を捨ててかなり激しく怒られた。その水を料理で使うと言う発想がなかったのは確かだけどあんなに怒らなくてもいいのに。でも、それも今となってはいい思い出だった。
セージもトージもリーゼルも、みんな戻って来た。目を閉じようとすると不意に絞首台の天辺から見えた光景が甦る。目が眩むような、頭の中を捏ね繰り回されるような激しい眩暈に襲われた。
立っていられなかった。包丁がまな板に落ちると同時に床に両膝を突く。
「カティ、どうしたの?」
誰かが肩を掴んだ。ミリアムだった。泣き出しそうな、怯えた目でカティを見ている。
「ちょっと眩暈がしただけだよ、大丈夫」
殺されそうになった瞬間の出来事を思い出した、とは咄嗟に言えなかった。これ以上みんなを心配させたくなかった。
「本当?」
アリスが肩に手を置いた。泣き出しそうなのではなく本当に泣いている。
「カティ」
掌を両手ですっぽり包み込まれた。温かい何かが額に触れる。すぐ目の前にイリナがいた。
「本当に大丈夫?」
「うん」
祈るように手を合わせている姉の表情が安心したように解れた。
笑ったら笑ってくれる。哀しんだら傍にいる相手も哀しそうな顔をする。情けない話かも知れないけど、今初めてそれに気付いた。
家に戻って来られた事も、こうしてみんなで一緒に料理を作れる事も紛れもない現実だった。それが嬉しくて堪らなかった。自然と頬が綻ぶ。こうしていればみんな笑ってくれる。
立ち上がるとすぐさま母に抱き締められた。
「無理はしなくていいのよ。疲れたら休みなさい」
「だから大丈夫だって。疲れてないし、それに……」
みんなの顔を順繰りに見詰める。笑っている顔を見ているだけで嬉しくなる。
「今は、こうしてみんなと一緒にいたいから」
ここにいられる事も、みんなと一緒に過ごせる事も絶対に夢ではない。でもあの一連の悪夢のような出来事がまだ記憶の中から消えない。
胸に手を置いてゆっくり深呼吸する。
指先にまで血が巡っているのがハッキリと判った。間違いなく生きている。誰かと話したり触れたり、こうして鼓動や息遣いを肌で感じないと不安で堪らなくなる。
体の傷はウォッカが癒してくれた。でも心に負った傷は体のそれとはかなり勝手が違うようだった。相当時間がかかる上に恐らく、いや間違いなくカティ一人では治せない。恐怖に打ち克てるくらいの強靭な精神力でもない限り独力ではまず対処出来ない。
ここに戻れた事も、無事家族全員で再会出来た事も本当に信じられないくらいの幸運と偶然が重なって初めて実現した事だった。ウォッカがいてくれた事、そして間に合ってくれた事、そこに彼が来てくれた事、その三つが上手く重なり合わなければ絶対に叶わなかった。でも、その中で負った傷は想像以上に大きい。それこそ体の芯から竦み上がって満足に身動ぎすら取れなくなるくらいに。
それくらいの恐怖だった。誰かを失いそうになる事も、そして自身が殺されそうになる事も。
ここにいる事も、みんなと一緒にいられる事も絶対に夢ではない。それはいい加減判っているのに目を閉じたら全て消えてなくなりそうな錯覚に陥る。不安で胸が押し潰されそうだった。
腕の中にいたイリナを思い切り抱き締めた。完全に無意識だった。こうして誰かに触れていないと自分自身の感覚を見失いそうで、それを確かめるには自分以外の誰かが必要だった。肌を通してイリナの体温を、そして鼓動を感じる。温かかった。
「落ち着いた?」
頷くのがやっとだった。長く、そしてゆっくりと息を吐く。張り詰めていた全身から力が抜けた。
誰かの手が頭を撫でている。母だった。
「大丈夫?」
「うん」
やっと声が出た。
母が覆い被さるように抱き締めた。ミリアムとアリスがそれに続く。
「ごめんね、心配させちゃって」
母は何も言わなかった。目を滲ませたまま首を横に振る。普段より神経質になっている事は間違いない。でも、ふとした拍子に溢れるように湧いて出るこの不安と恐怖はそれだけでは説明がつかない。
「少し、休むか?」
「ううん、大丈夫。今はこうしてみんなと一緒に過ごしたいの」
父の頬が綻んだ。それだけで重苦しかった心が軽くなる。
「母さん」
頭のすぐ上から堅苦しい声が聞こえた。イリナだった。
まるで宣誓でもするように何かしらの決意を漲らせた目で母を見ている。
「私からも、謝らないといけない事があるの」
母が目を丸くした。思い当たる節も心当たりもなければ大抵の人はこんな顔をすると思う。丸くなった目がカティを見た。条件反射のように首を横に振る。こんな神妙な顔をして詫びなければならない理由が見当たらない。
「そんな真剣な顔で謝らないといけないなんて、一体どんな事かしら?」
「あの時、母さんに言われた通りになっちゃったから」
おどけて首を傾げて見せた母に、イリナは神妙を通り越して深刻な顔で言った。
「あの時って……」
呟いた瞬間、ミリアムは鋭く息を飲んだ。記憶を刺激する何かに、いや思い当たる節に言葉が触れたのだ。
「私もカティも、ウォッカがいなかったら今こうしてここにいられなかった」
声が出そうになった。無意識に口を手で押さえていた。
何故強さを求めるのか。五人で湯に浸かっていた時、母が口にした疑問だった。同時に、それが災いを招き寄せる事になりはしないか、母はそれを危惧していた。娘達が誰かを傷付け、そして傷付けられる事を恐れていた。
そして、翌日にそれは現実のものとなった。
「ウォッカがいてくれたから助かったけど、いなかったらきっと今頃棺桶の中にいたでしょうね」
肩を剣で貫かれた光景が、骨が真っ二つに叩き折られ、肋骨が砕ける音が鮮明に脳裡に甦った。アリスは左の二の腕を、ミリアムは右側の肋骨を押さえた。考えての行動ではない、無意識に違いなかった。痛みは失せてもそれに付随する感覚や恐怖は簡単には消えない。カティも、身を以てそれを知った。
焦点を失ったのか、母の目が僅かにブレた。でも次の瞬間には真っ直ぐ前を、いや長女を見る。
「ごめんなさい」
背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、イリナは綺麗な角度で腰を折った。慌てるようにしてアリスがそれに続く。ミリアムは抱いていた母の手を取ると胸の中で抱き締めて項垂れた。
娘の顔を、いや頭を順繰りに見詰めると、母はゆっくりと息を吐き出した。
「腕があと二本欲しいところね」
イリナとアリスは丸くした目を互いに見合わせた。ミリアムは虚を突かれたように小首を傾げている。
「どうして?」
母が笑った。伸ばした右手で一人ずつ順番に頭を撫でていく。
「娘が四人いるからよ」
抱いていた腕を解くと母はイリナの前に立った。
「いつまで下を向いてるの? 顔を上げなさい」
口調も態度も穏やかで優しいけど、雰囲気に有無を言わさぬものがあった。怖い訳ではない。でも不思議な重圧があった。
イリナが顔を上げた。バツが悪いのか、或いは申し訳ないものを感じているのか、唇を噛んだまま目を背けている。イリナの肩を母が掴んだ。そのまま抱き寄せる。一瞬だけ驚いたように見開かれた目からたちまち涙の粒が溢れ出した。
「ごめんなさい……!」
長女を抱き締めると頭を撫でる。小さな子供をあやすようだった。
「何故、謝る必要があるのか判らないわ」
「誰も守れなかった」
母は笑いながらゆっくりと首を横に振った。
「あなたは精一杯闘ってくれた。相手が悪かっただけよ」
目を閉じたまま、今度はイリナが気持ちを落ち着けるように長く、そしてゆっくりと息を吐いた。頬にはまだ少しだけ涙の痕が残っているけど、目の色にも雰囲気にもさっきまでの動揺を窺わせる気配はない。
「昨日も話したと思うけど、あなたがそこまで責任を感じる必要はないわ」
イリナは頭を振った。決して譲れない、見えない一線が明確に引かれているかのように決然とした雰囲気だった。
「昨日、父さん達がカティを助けに行ってる時に、奴らの兵隊がここに来たの」
「そうみたいね。でもあなたが全員返り討ちにしてくれた」
改めて聞くまでもなくかなりとんでもない事だった。普通だったらロクに抵抗も出来ずに殺されるか輪姦されるか、少なくともタダでは済まない。
「立派な娘を持てて鼻が高いわ」
「違う、そうじゃない」
イリナは尚も首を振り続けた。何が違うのか、そして何を言わんとしたいのか。
「殺す事も出来た」
喉元にナイフを突き付けられたように呼吸が止まった。
何人いたのかは判らない。でも、恐らく帯刀していたであろう大の大人の男を難無く返り討ちにしている。そしてその時に傷を負ったとも聞いていない。
殺せる程度の余裕は充分に、いや間違いなくあった。踏み切るだけの殺意があればここに死体の山が築かれていた事になる。
「でも、そうはならなかった」
静かな声だった。母は依然としてイリナを包み込むように抱き締めている。
「あいつらは憎たらしいし許す気もない。でもそれが殺す事を正当化する理由にはならない」
「だから殺さなかった」
頷く娘の頭を母が撫でた。労るように背中を擦る。
「でも、あんな連中であっても傷付けた事に変わりはない」
怪我の程度は判らない。でも満足に動く事も出来ないようなら相当な傷だろう。骨も折れたのか砕けたのか、それとも陥没したのか。それを遥かに凌ぐ可能性も大いに有り得るのだ。
許せなかった、許し難かった。
でも殺してしまったら、奴らと同じ穴のムジナだ。
だから敵討ちを誰一人許さなかった。そして、敵とは言え殺してしまえばその事実が覆る事も絶対にない。綺麗事云々ではなく人として越えてはいけない一線だった。
「あなたは感情に流されなかった」
頭を撫でていた手を、指先を髪に絡ませた。母は自分の頬を娘の頬にくっつける。
「それだけで充分よ」
感情に支配されてはいけないのは彼らだけでは、忌人だけではない。人も全く同じだ。
だから彼も、ウォッカも人だ。少し違うものを持っているとしても、使い方を誤るような事は絶対にない。街の住人を、この小さな家族を救ってくれたのも彼とその力があってこそだ。
ありがとう。
その言葉をもう一度ウォッカに伝えたかった。
「お願いがあるの」
イリナは体を離すと真っ直ぐに背筋を伸ばした。
「何かしら?」
髪に絡ませた指先で娘の頭を撫でる。何処までも優しい目だった。
「誰かを傷付けるような真似は絶対にしない。だから剣術と格闘はこれからも続けさせて」
「私も」
ミリアムとアリスの声が綺麗に重なった。互いに見合わせた顔を少し気不味そうに俯ける。
母は三人の顔を一人ずつ順番に見た。視線がイリナのそれと真っ正面からぶつかる。
「何故力を、強さを求めるのか、あの時聞いたわよね」
「そうね」
目を閉じるとイリナはゆっくり肩を上下させて深呼吸した。卒業生代表で答辞を読み上げる学生より遥かに緊張しているように見えた。
「自分か、誰かを守るため。剣も拳も、傷付けるために振るうような真似は絶対にしない」
守りたかった。でも守れなかった。命を落とす寸前にまで追いやられ、辛うじて死の淵から生還した。こんな思いは二度としたくない。そして誰にもさせたくない。
あの日の夜、ウォッカも自身を臆病と評した。最初に聞いた時は彼の何処が臆病なのか皆目検討もつかなかった。でも今なら、今だから判る。
彼に限った話ではない。みんな臆病だ。なくす事を極端に恐れている。でも普段はそんな事など考えもしない。なくしてから初めて気付くからだ。
でもその瞬間が訪れてからではもう遅いのだ。
だから、なくさないための力を、強さを求める。
「おいで」
母は娘四人に手招きした。片腕で二人ずつ、まるで円陣でも組むように抱き締める。
「あなた達はなくす事の痛みも、怖さも知ってる」
娘を抱えたまま頭を撫でる。触れ合う肌から人の、母の温かみが伝わる。
「そういう人なら、絶対道を誤ったりしないわ」
大丈夫。励ますように肩を叩く。
こうして誰かに背中を押してもらう事がこんなに心強いなんて、それがこんなに嬉しいなんてこれまで考えた事もなかった。
確かに経験するには辛いを通り越して非常に過酷な出来事だった。でもそれを乗り越える事が出来たのはみんなが、家族がいてくれたからだ。生きてここに戻る、あの時牢屋でそう心に誓った。
寄り添える誰かが傍にいてくれる。特別な事は何もない。信頼出来る、そして信頼してくれる誰かの存在だけで人は強くなれる。温かかった。
「みんな、立派に育ってくれた」
母の目尻が微かに光っている。そして声も震えていた。
「何処に出しても恥ずかしくないわ」
両腕に抱えた娘の頭をそれぞれ撫でながら頬を擦り寄せる。何だか懐かしい香りがした。
「ガイデルさんも、さぞ鼻が高かろうな」
父が腕を組んだまま天井を見上げた。実に誇らしげな横顔だった。
「父さんは高くないの?」
「そりゃ高いさ」
カティと目を合わせた父は歯を見せて笑った。父親と言うより悪巧みを考える悪戯小僧のようだった。娘の肩を抱き、髪に指を絡ませる。
「誇りに思うよ」
ありがとう。
頭の天辺に手を置くと父は子供のように頬を綻ばせた。
命をなくす事も、そして誰かをなくす事も絶対に誰も歓迎しない。むしろ全力で忌避する。だから誰しも懸命に生きようとする。安易に生を諦めようとはしない。人であれ動物であれ、自ら積極的に生を受ける事は出来ない。でも折角こうして生まれ落ちる事が出来たのだ、ならば笑って生きたい。特別な事なんて何処にもない。当たり前過ぎて誰も考えない。わざわざ時間を割いて考えるとしたら余程暇なのか、或いは本当に誰かを失いそうになってなくす事の怖さを身を以て知ったかのどちらかだ。
「作ろう」
腕によりをかけて、それ以上に心を込めて。
父は釜戸に薪を放り込んだ。ペダルを踏んで風を送る。
改めて腕捲りしたアリスが包丁を握った。まな板を手早く洗うとミリアムは静かに流し台に置く。動きに無駄がない。芽を取り終えたジャガイモの皮をイリナは淡々と剥いている。薄っぺらい皮がトグロを巻く蛇のように積もっている。
喉が、肩が震えた。でもそれを外に放り出す事はせず、気持ちを新たにしてまな板の前に立った。




