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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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六日目 その弐拾

「少し休ませてやってくれよ。夜通し暴れ回って流石に疲れてるみたいだからな」

 少しではなくしっかり休んで欲しい。寝ないだけでも結構キツいのに、大量の血を流しながらそれでも狂ったように闘い続けていたのだ。普通の人間ならとうの昔に彼岸にいる。こいつだから生きているだけだ。

「それに、少し落ち着いた方がいい」

「落ち着いてられる訳がないじゃない!」

 落ち着いてもらわないと話にならないけどとても落ち着けるような状態ではない。既に導火線に火が点いているのだ。切るか揉み消すか、始末を誤るとかなり面倒な事になる。その前に精神的に参ってしまう可能性の方が高そうだった。気持ちが判るだけに、そしてそれを安易に否定出来ない現実に今にも胸が張り裂けそうだった。だから何としてでも力になりたかった。単純に気持ちを理解するだけでなく手を差し伸べる事が出来たら。

 でも、実際には満足に声をかける事も出来ずに事態を静観しているだけだった。話をややこしくするような事はしていないけど、事態の好転に寄与するような事もない。ただの観客、いや飾りくらいのものなのかも知れない。

 期待を込めて師匠を見る。力になりたいのに、何をすればいいのかも判らない。かける言葉すら見当たらない。完全に袋小路に嵌まっていた。少なくとも、イリナにはそこを脱け出す手段を見出だす事は出来なかった。

 詰まる処は他力本願だ。誰かが腕を取って引っ張ってくれなければ出る事は叶わない。それを情けないと嘆く余裕もない。

 手を載せたマハの頭を師匠はゆっくりと撫でた。

「そんなおっかない顔すんなよ。お前さんのそんな顔はあいつだって、ゲンの野郎だって見たかないハズだせ?」

 マハの顔が驚愕するように震えた。明らかに動揺している。ここに来てから初めてマハの感情に怒り以外のものが浮かんでいた。

「私はあの人の仇を討つんだ! あの人が仇討ちを望まない訳がないじゃないか!」

「そうか?」

 演技ではなく素で惚けたような顔をすると師匠は困ったように頭を掻いた。

「俺はそんな事ねえと思うけどなあ」

「どういう意味よ!」

「言葉通りさ」

 蓋を外したように声を荒げるマハとは対照的に、師匠は弟子に礼儀作法を説いて聞かせるように落ち着き払っている。親方さんにしても司祭様にしても、感情を露にする事もなく静かに事態を見守っていた。父は母の肩に手を載せると穏やかに笑う。動揺を鎮めているのだ。

 どうしてこんなに落ち着いていられるのだろう。

「笑ってくれって言うのは流石に酷かも知れねえけど、泣く顔もおっかない顔も見たいとは思わねえだろうよ、絶対にな」

 見開いていたマハの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。膝を突きそうになったマハの肩を師匠が支える。

「あんたをこの街に誘ったのはゲンだろう? あんただって言ってたじゃないか! ここに来て、ここで暮らして良かったて! 第二の故郷を与えてくれたあの人に感謝してる、そう言って笑ってたじゃないか!

 そんなゲンを奴らは殺したんだ、許せる訳がないじゃないか!」

 マハは握り締めた両手の拳で師匠の胸を何度も叩いた。師匠はそんなマハの手首を握る事も、そして避ける事もせず拳を胸で受け止めている。

 本当に心の底からゲンを、主人を愛しているのだろう。断じて過去形ではない。ゲンに先立たれてからもそれは変わらずマハの胸に深く根を下ろしている。引き抜く事など出来る訳がない。

 誰かが、人が死ぬとはこういう事だ。そして一度失われた命は二度と戻らない。身近にいる誰かに先立たれたら、有り得ないとは判っていても生き返る事を望む。でもそれが現実になる事はない。幻想は幻想でしかない、現実には成り得ない。それが判っていても、現実に耐え切れないが故に幻想にすがる。それを愚かしいとは思わなかった。

「そうだな。あいつが、ゲンが同じ部隊にいなかったら俺も今ここにはいなかった。だからたまに考える事もあったよ、あの時ゲンが声をかけてくれなかったら、今頃一体何処にいたんだろう、ってな」

 遠い記憶に思いを馳せているのか、師匠の目が微かに翳りを帯びた。

「家族も故郷も灰に変わっちまってたからな。戻る場所も、その必要もなかった。正直困り果てたよ。ないない尽くしじゃ始まるものも始まらねえ」

 師匠の声は不勉強故に不出来だった試験の結果を嘆くように気安く聞こえた。実際はそれどころの話ではない。

 知らなかった。今初めて聞いた。

 師匠に教えを乞うようになってから十年以上は経っているけど、身の上話は聞いた試しがなかった。奥さんや子供がいてもおかしくないのに、そんなものは影も形もなかった。常に一人だった。

 既に亡くなっていたなんて。

 考えられない話ではない。でも想像した事はなかった。師匠自身、自分の事を積極的に語ろうとはしなかった。聞かれてもはぐらかすだけで応えなかった。聞かなくなったのはそのせいかも知れない。疑問には感じていたけど気付けば師匠が一人である事を受け容れていた。

「戦地にいた頃は弟子を持つ事になるなんて考えもしなかったけど、」

 師匠は弟子一人一人の顔を順繰りに見詰めると微かに目を細めた。

「案外潰しが利くもんだな。旅芸人やるよりよっぽどいい」

 己を磨くためだけのものではない。生き残るための術だ。それを授かっていなかったら、恐らく今ここにはいられなかった。それはイリナに限った話ではない。

「何とか生き残る事は出来たけど俺自身の人生はあの時、終戦と同時に終わってたんだよなあ」

 重くならないようにする配慮なのか、やたら気の抜ける声だった。

 占領されただけなのか、それとも焼き払われたのか。かつての師匠の故郷が何処にあってどうなったのか、具体的には判らない。ただ既にこの世にない事は間違いなさそうだった。捨てた故郷、ひょっとしたら本人はそう言いたいのかも知れない。でもないのなら捨てようがない。だから師匠に責任はない。故郷をなくした事も、家族を守れなかった事も。

「俺も最初は恨んだよ」

 家族を殺した連中を、戦争を、それこそ気が狂いそうになるくらいに。 いくら恨んでも足りないに違いない。失われた命は二度と元には戻らないのだから。

 でも。

 どんな感情であれ、それを始終抱え続けるのは決して容易な事ではない。それが正の方向へ作用しないなら尚更だ。思いを遂げる事が出来ても確実に自身をも蝕む。それが出来なければ言うに及ばずだ。どちらに転んだとしても絶対に吉は招かない。恐らく、いや間違いなく心を病む。

 昨日ここに侵入して来た悪漢共を返り討ちに、いやぶちのめした時、これまでになかった凄まじい怒りに駆られた。カティが戻らなかったら、そう考えただけで恐怖で肌が粟立った。その元凶である奴らを許す理由など何処にもない。でもそこで殺していたら、奴らがカティを殺す事を認める事にもなりかねない。どんな理由があろうとも、どんな立派な大儀があったとしても殺せばそれで終わりだ。恨みであれ弾みであれ、殺せばただの人殺しだ。事情があるなら情状酌量の余地も多少はあるかも知れない。でも、罪に軽重があったとしても殺せばその事実は一生消えない。それを背負う覚悟も必要もない。持つ以前に触れてはならないものだ。そう、人であるならば。それを自分以外の誰かに押し付けるなどもっての他だ。迷惑以外の何物でもない。

 だから、みんなこうして必死に止めているのだ。マハの気持ちを理解するだけで止まっていたら仇討ちを、殺す事を容認しているも同然だ。そこで本当に手をかけてしまったら永遠に脱け出せない殺し合いの螺旋に嵌まる事になる。それに進んで加担する奴がいたらそれこそ本物の大馬鹿者だ。

 師匠はその手前で辛うじて踏み止まった。掌から血が滴るくらい拳を握り締めたのか、或いは砕けそうになるほど歯を食い縛ったのかも知れない。考えただけで吐きそうになる。

「何も出来なかった。戦地にいたからな。最初に聞いた時は流石に目の前が真っ暗になったよ」

 誰も、何も口を利かなかった。嗚咽だけが狭い食堂を満たしている。

「で、終戦後にすぐに故郷に帰った。どうなったのか、自分の目で確かめたかったからな」

「どう、なってたんですか?」

 初めて聞く話だ。先が気になるのは判るけど、実際に行動に移すには相当な勇気がいる。それを震える声で素直にぶつけたアリスを無神経と詰る資格はない。

「灰と瓦礫しか残ってなかった」

 これまでに増して重い言葉だった。

 沈黙だけが蚊の羽音のように尾を引いている。

「流石にあの時は泣いたなあ」

 笑ってはいるけど、師匠の横顔は誰がどう見ても哀しげだった。哀しくないハズがない。故郷を、家族を失ったのだから。

「それで、ここに?」

「ああ。あいつが、ゲンが誘ってくれた。俺の故郷で良かったら一緒に来ないか、ってな」

 憂いを含んでいた師匠の頬がようやく少しだけ綻んだ。

 何もかも全てを失ってしまったのだとしたら、それは一体どれほどの絶望だろう。でも、どれだけ辛くても何度打ちのめされても、それでも生きていかなくてはならない。哀しみや絶望に絡め取られて身動き出来なくなるのは忌人の専売特許ではない。ただの人であっても全くそれは変わらない。

「だから、」

 師匠はもう一度弟子一人一人を、ここにいる人達をゆっくりと眺めた。これから眠りに就くように、或いは一杯やり始めるように穏やかに笑っていた。

「あいつが誘ってくれなかったら、みんなにも会えなかった」

 ウォッカと目を合わせた師匠が白い歯を見せた。

「お前さんにもな」

 光栄です、とでも言うようにウォッカは目礼した。

 マハの肩を抱く師匠の手に僅かに力がこもった。

「だからゲンを殺した奴らを許す気は俺にも一切ない。でも、同時にどれだけ奴らを憎んでもあいつが戻って来る事もない。奴らはそれ相応の裁きを受ける義務がある。だからってそれに絡んだ人間が感情に任せて裁くような事はあっちゃいけねえだろ?」

「どうしてよ!」

 肩で息をしながら睨むマハを見る師匠の目が今度は細くなった。

「奴らは自分の住み処を得たいがために無関係な俺らを襲ってこの街を根城にした。住民を好き勝手蹂躙してな。相手の事なんか考えもしねえ、獣が獲物に食らい付くみてえによ。

 許せねえってマハの気持ちは俺に限らず誰しも理解は出来る。でもそこで奴らを殺したら、お前の考えと行動を容認したら、街を襲って殺して踏みにじった奴らと何一つ変わらねえだろ」

 弟子に技や礼儀を教え諭すように、一言一句を噛んで含めるようにして丁寧に説明している。

 殺された人は絶対に生き返らない。一度起こった事実も覆らない。そして殺した連中を許す事もしないし、許される日が来る事も絶対にない。それでも、師匠は感情ではなく飽くまで理性で全てを受け止めている。だから昂るものなど何一つない。水を湛えた器のように平らで、何より泰然としていた。

 血走っていたマハの目が明らかに泳いでいる。腕や肩が激しく震えているのは何も怒りのせいだけではないハズだ。

「でも、でもそんな事全部ただの綺麗事じゃないか! 奴らは絶対に許されない罪を犯したんだ、相応の報いを、罰を与えるのが当たり前じゃないか!」

 師匠は困ったように苦笑いした。言葉の意味が少しずつ浸透して来ているけど理解には到っていない。冷静さの欠片も窺えない今の状態では無理のない話かも知れないけど。

「報いを受ける義務もあるし罰も与えられなきゃならない。でもそれは法律の役目であって俺らじゃない。当事者の感情や恣意が介在したら途端に歪んじまう。殺されたからって殺してたら永遠に殺し合いが続くだろ?」

 先に手を出した方が負けだとも、やり返せばそちらも同罪だとも昔から異口同音に散々聞かされた。マハもここで下手にかけたら、奴らと同じ穴のムジナに成り下がる。

「少なくとも、俺は弟子にやり返せなんて事は絶対に教えられないぜ」

 何があってもな。

 自分や誰かを守るためのものであって、人を傷付けるための手段ではない。それを破れば直ちに破門にする。まだ破門の意味すら満足に理解していない子供に、師匠は差して躊躇う様子もなくそう言ったのを今でも鮮明に覚えている。嘘でも冗談でもない。教え子にも厳しかったけど自分にはそれ以上に厳しい、そういう人だった。たとえ殺されたとしても仇討ちを望むような事は絶対にない。弱肉強食を推奨するような真似もしないけど、仮に負けたとしても「弱かったから」と言う事以外に理由を見出だす事もしない。だから負けたくないなら稽古に励め、四の五の言わずにさっさと動けとよく背中を叩かれたものだ。それが今になっても変わっていない事が純粋に嬉しかった。

「だから仇討ちなんて考え方は捨てた方がいい。お前のためにもならない」

「そんな綺麗事聞かせるくらいならあの人を、ゲンを生き返してやってくれよ! それが出来ないから奴らを殺したいんじゃないか!」

 マハは両手で頭を抱えると絶叫した。

 これからやろうとしている事が誤りであると言う事は流石に理性では理解していても感情がそれを頑なに拒んでいる。理性と感情の狭間でどちらに傾くべきなのか苦悶していた。

「だから言ってるだろ、それは出来ない相談だって」

 震えるマハの肩を師匠は労るように優しく叩いた。振り払われた右手で仕方なさそうに頭を掻くと少し決まりが悪いように苦笑いする。

「確かに綺麗事以外の何物でもねえけど、それが口に出来るだけまだまともな世の中になったよ」

 綺麗事を言える事が何故世の中がまともにら事に繋がるのか。

 師匠は相変わらず子供をあやす親のような顔で笑っている。実際、泣きじゃくるマハの頭を優しく撫で続けている師匠は保護者のようにしか見えなかった。

「戦時中はこうは行かなかった。地域に依って多少の差はあるだろうが本質的には変わらねえ」

 師匠の目が明らかに細く、そして鋭くなった。空気が少しずつ張り詰めていく。

「まだ決して豊かと言えるようなご時世じゃねえが、俺らがガキの頃に比べりゃ遥かにマシさ」

 目を見開いて睨み付けるマハを前にしても、師匠は相変わらず動揺するような気配も見せない。

「こうして、大手を振って綺麗事が言えるようになったんだからな」

 親方さんはしかめた顔を背けた。父も今朝から疼き始めた虫歯の痛みを堪えるような顔をしている。

「金も食い物もロクにない、あるのは時間だけだったな。猫の額くらいしかない畑を耕しても奉公してもほとんど何も食えなかった。だから人の目を盗んで大抵の事はやったよ、食うためにな。そうしないと俺自身も、家族もやっていけなかった」

 今も決して豊かと言える状態ではない。戦争が終わったとは言え限られた食料を家族で分け合ってようやく繋いでいる。確かにそんな時もあった。でもそれを遥かに凌ぐくらいに大変な時代があった事も、それを経験した人がいる事も確かなのだ。師匠がそうであるように。

 母の生い立ちを、この街に来た経緯を初めて聞いた時も言葉が出なかった。何も言えずに俯く娘を母は優しく抱いた。父が戦場に駆り出されている間、母はずっとここで父の帰りを待っていた。生きていられたから、生き残れたからイリナ達が生まれた。そして今もこうして一緒にいられる。

「ゲンもマハもそういう時を知ってるだろ? 何があろうとあんな目に遭うのは金輪際ごめんだ。だから、何があってもそんな時代に時間の針を戻しちゃいけねえんだよ」

 時世と共に心も荒ぶ。明日があるかも満足に判らないような状態では周囲に、誰かに気を配れるような余裕も暇も持てない。でも今は違う。

「やっと戦争が終わってようやく一息吐けたんだ。胸に手を置いて今どんな顔をしてるか少し考えてみな」

 鬼に悪魔が憑り依いたようだったマハの顔が少しずつ崩れていった。憎悪に支配されていたマハの体から憑き物が落ちるように怒りが消えていく。そして哀しみだけが残った。

「ガキの頃、餓えで一番下の弟が死んだ時もきっとそんな顔してただろうな。毎日腹減らしてたのに、みんなが満足に食えるだけな食料は得られなかった。終いには体を壊して、後は見守る事しか出来なかった」

 哀しいのに、辛いのに、それを何処にぶつければいいのかも判らない。みんな精一杯頑張っていたハズだけど、それを形に変える事は出来なかった。

 一体どれほどの無念だろう、どれだけ辛かっただろう。哀しくて悔しくて、身の周りにあるもの全てに怒りをぶちまけたくなる。それがどれだけ理不尽な事か、それくらいは理解している。でもそんな目に遭ったら、絶対自制が効かない。感情が堰を切って溢れ出す。

「もっとも、故郷にいた家族はみんな灰になっちまったけどな」

 師匠はゆっくり溜め息を吐くと天井を仰いだ。

 大切なものを沢山失って来たけど、だからこそ絶対に手離してはいけないものも見つけている。それがあるから、こうして懸命にマハを止めているのだ。

 誰かが息を飲むような、しゃくり上げる音が聞こえた。アリスが力一杯拳を握り締めながら顔をクシャクシャしていた。俯き加減だったミリアムの頬が光を跳ね返して明らかに光っている。ヨハンに至っては人目も憚らずに泣いていた。双子の兄弟も目を硬く閉じたまま背中を震わせている。弟子の中で、リーゼルだけが真っ直ぐに背筋を伸ばして師匠を見ていた。

「殺されちまったのは確かに悔やまれるが、それでも幸せだと思うけどな」

「どうしてよ、殺されてるのに何で幸せなのよ!」

「だってそうだろ」

 師匠はマハの肩を抱くと真っ直ぐ立たせた。涙で潤んだマハと目を合わせると顔に、より正確に言えば目尻にシワを寄せた。普段から動きまくっているせいでかなり若く見られる事が多いけど、笑うとようやく年相応になる。

「こんなに想ってくれる嫁さんを娶ったんだからな」

 マハの頬を流れる滴を指で掬う。

 師匠の行動とは裏腹に、マハの両目から一気に涙が溢れ出した。頬を伝うと音を立てて腕に落ちる。

「羨ましいよ」

 なくしかけていた記憶に思いを馳せるように、師匠は遠い目で虚空を見た。

 師匠の記憶の中にあるものが一体何なのか、ハッキリとは判らない。それを今でも大切に持っている。たとえ本当に失ってしまったとしても、それは間違いなく師匠の記憶の中で生きている。目を閉じるまでもなく、ハッキリと思い出せる。

「だから、覚えてやっていてくれよ。そうすりゃあいつも向こうで笑っていられる。見る事も触れる事も出来ねえけど、マハが覚えてる限りあいつはずっと傍にいるよ」

 声も言葉も温かかった。息を吐いた瞬間、頬が濡れた。

 マハがここに駆け込んで来た時は気持ちが判るだけに辛くて苦しくて、今にも涙が出そうだった。体中が冷たかった、指の先まで冷え切っていた。

 今は何かに包まれるように、誰かに抱き締められているように温かい。なのに、何故涙が溢れるのか判らなかった。

「ゲンを忘れる事はねえだろうが、そのうちあいつの事を思い出しても今みたいに涙を流さなくなる日もきっと来る」

「そんな事……」

 考えたくもないのか、マハは懸命に頭を振る。

「それでいいんだよ。泣かなくなるって事は、ゲンがいなくても生きていける。そういう強さを得られたって事なんだからな」

 絶えず嗚咽を漏らすマハの肩を師匠は優しく抱き締めた。

 忘れてはいけないし、何より絶対忘れたくない。でも、その記憶が自分自身を傷付けているのだとしたら、それは誰かの死を乗り越えた事にはならない。ぬかるみに足が嵌まっているだけだ。それが哀しみなのか悔しさなのか、或いは怒りなのか、それは本人にしか判らない。哀しみであれ怒りであれ、それに囚われて完全に嵌まってしまったらそれこそ底無し沼のように永遠に脱け出せない。だから、みんな手を伸ばして必死に引き上げようとしてしている。

「そうだな、こういうのはどうだ?」

 師匠はすっかり重くなった空気を吹き飛ばすように殊更明るい声で言った。

「祝いの席を設けるってのは? 勿論参加は自由、家族でゆっくり過ごしたいならそれでもいいし、騒ぎたいなら大歓迎だ。参加する家族や個人で一品二品多少多めに作って持ち寄れば馬鹿みたいに食い過ぎない限りそう簡単にはなくならねえだろ」

 思わず誰かに視線が引き寄せられた。

 渦中にいる当人は自覚があるのかないのか、それとも白を切ろうとしているのかどちらかと言えば素っ呆けたような顔で頬を掻いている。

「いい案ですね、お祭り騒ぎが好きな人も大勢いるでしょうし」

 父は穏やかに笑いながら頷いた。

 カティも昨日の昼まで奴らの手中にあった。何より殺されかけたのだ、胸を撫で下ろす程度の安堵では済まされない。そして、みんなにしてもいつ戻るかも判らない家族と今日になってやっと再会を果たした。

 出来る事ならみんなで馬鹿みたいに騒ぎたい、素直にそう思う。でもマハのように奴らに家族を殺されている人もいる。無神経に喜びを爆発させるのは流石に気が引けるけど、鬱積した気持ちを解放したい思いもある。

 笑いたいのを懸命に堪えているのか、親方さんは眉間に深いシワを刻んだまま宙を睨んでいた。同意を示すように一度だけ深々と頷いた。

「じゃ決まりだ、俺みんなに知らせて来ますよ。善は急げって言うし」

 言うが速いか、ヨハンは立ち上がると店から飛び出した。

「おい、待てよ!」

 トージがそれに続く。椅子を引く事もなく僅かに舞い上がった砂煙の後を追う。

「あの馬鹿」

 額を叩くとリーゼルが表を睨んだ。

「まだ話の中身も詰めてねえのに」

「いいじゃねえか」

 親方さんは腕を組んだまま肩を揺らしている。

「良くも悪くもあいつらしいよ」

 もっとも過ぎるくらいにもっともだった。込み上げた笑いが喉を震わせる。

「今は、感情を抑える必要はない」

 師匠がマハを両腕で包み込むように抱き締めた。

「吐き出せば少しは楽になる」

 頭を撫でられても、マハは一向に顔を上げようとはしなかった。咽ぶように声を、感情をひたすらに吐き出している。

 椅子に座ったまま項垂れていたウォッカが立ち上がった。師匠の前に立つと背筋を伸ばして深々と頭を垂れる。

 師匠が笑った。まるで息子か孫の労を労うような笑顔だった。

 啜り泣く声が徐々に大きくなっていく。

 慟哭が、狭い食堂にいつまでも響き渡っていた。


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