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野蛮人は北へ行く  作者: サワキ マツリ
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六日目 その拾九

  その時だった。

 慌ただしい物音と共に入口のスイングドアが揺れた。

 年の頃五十代半ばくらいの女性が肩で息をしながらドアにすがるようにして立っていた。押し入った強盗と一戦交えるような鬼気迫る形相で食堂を睨め回している。

 その視線の動きが不意に止まった。みんなが一斉にそこを見た。

 ウォッカだった。事に於いて動じないウォッカが目をお皿のように丸くして女性を見ている。何が起こっているのか全く判っていないに違いない。それはイリナ達も同様だった。

 女性は生まれたての小鹿のような覚束ない足取りで歩くとウォッカの肩を掴んだ。

「ねえ、あんたが砦の奴らをぶちのめしたんでしょ? みんなを助けたんでしょ?」

「そ、そうですけど……」

 女性の顔が不気味に歪んだ。背筋に怖気が走るような表情だった。

「だったら奴ら全員、一人残らず殺してよ! ねえ、出来るでしょ? 殺してよ!」

 目を血走らせ、口の端から泡を飛ばす彼女の表情は正常から大きくかけ離れていた。既に目に尋常でない光が宿っている。

「マハ、少し落ち着いて……」

 肩を掴もうとした母の手を女性、マハが振り払った。よろめいた母を父が抱き止める。

「あいつらは私の主人を殺したのよ? そんな奴らを生かしておく理由なんて何処にもないじゃない!」

 少し興奮が覚めたのか、マハは大きく息を吸い込むと虚ろな目で周囲を見回す。

「あなた達は助かったけど……」

 堰を切ったように両目から一気に涙が溢れ出した。瞬時に表情が、感情が崩壊した。

「私の主人はもう死んでるのよ! あいつらに奪い取られた! そんな奴らが生きてる事が耐えられないのよ、判るでしょ?」

 手に刃物を持っていたら誰かに斬りかかっていたかも知れない。それくらい鬼気迫る面相だった。

 そして、同時に気持ちも理解出来た。痛いどころの話ではない、胸が苦しくて今にも倒れそうなくらいに判った。もしウォッカが間に合わなかったら、カティがここに戻れなかったら……。ここで叫んでいたのはイリナだったかも知れない。

 それが判るだけに尚更辛かった。少なくともイリナには彼女の気持ちを否定する事は出来ないしその資格もない。時間を戻す事と同様に一度失われた命は二度と戻らない。あって欲しいと願う事はあっても現実には成り得ない。生の摂理を、人の心を狂わせる魔性を宿した願望である事はもう十分に理解出来ている。だから彼女の言葉を、気持ちを肯定してもいけない。

 でも言葉が出なかった、体が動かなかった。指先を震わせるだけで立ち上がる事も出来ない。

「奴ら全員血祭りにしないと気が済まないのよ!」

 胸を、心臓を抉られるような言葉だった。込み上げた吐き気を口を押さえて何とか遣り過ごす。でまいつまで持つか判らない。

 カティは耳を塞いだまま顔を俯かせていた。何度も小刻みに首を横に振り続けている。アリスはそんな妹の背中を抱きながら泣いていた。ミリアムは声を上げる事も出来ず、目を見開いたままはらはらと落涙していた。

「マハ、お願いだからもう止めて……!」

 母も泣いていた。女将さんもマハを押さえようとするけど無駄だった。捕まれた腕を振り解いてウォッカに詰め寄る。

「殺してよ、殺してよぉ!」

 ウォッカは椅子に座ったまま肯定も否定もせず項垂れていた。

 マハの拳がウォッカの胸を打った。舞い散った雫が音もなく床に落ちた。


 誰かの足音が聞こえた。マハの隣に立つと腕に手を添える。

「そこまでにしときな」

 師匠が子供にお伽噺を聞かせるような顔で笑っている。

 声が出そうになった。笑う事がないとは言わないけどこんなに穏やかな顔をしている師匠をこれまで見た事がなかった。稽古の最中に見せたらそれだけで背中を押される、そして落ち込んでいる時に見たら心の底から救われる。

 そんな笑顔だった。

「ものを頼むのは構わねえが口にするなら内容をもう少し吟味した方がいい」

「うるさいわね! 偉そうに指図なんかしないでよ!」

「釣れないな。昔はお前の旦那とよく一緒に呑んでた仲なのに」

「だったら尚更口出ししないでよ!」

 まるで芝居でもするように大袈裟な身振りで腕を振り払うと、マハは師匠を睨み付ける。その目から大粒の涙が零れ落ちた。

「あの人に、ゲンに死なれて辛いのはあたなも変わらないでしょ? だったら何で判ってくれないのよ!」

 俯いているマハの頬から雫が落ちた。それを拭う事もせず嗚咽と共に肩を震わせている。

「気持ちを理解する事とそれに応える事は全くの別物だ」

 詩の一節を朗読するような声だった。

  親方さんが腕を組んだまま椅子にふんぞり返っていた。口元が不格好にに歪んでいる。あからさまに不機嫌そうな表情だった。

「って誰か教えてやれよ」

「少し厳しすぎるな」

「でも意味合いは変わらねえだろ?」

 師匠は仕方なさそうに溜め息を吐くと苦笑いして見せた。

「奴らを殺したところで何がどう変わる? 殺したからってお前さんの旦那が生き返る訳じゃない」

 正論過ぎるくらいに正論だった。反論の余地など欠片もない。

 でも、殺意を覚えている彼女の心理も同時に理解出来た。胸が縄で締め付けられるように痛む。

 理屈では理解している。でも感情は執拗にそれを、理屈を受け容れる事を拒んでいた。

「殴られたからって殴り返してたら半永久的に殴り合いが続く事になるな。そもそも殴るべきじゃない。だからここの一連の件に関してはあいつらに一方的に否がある。それに関してはお前を責める輩は一人もいないだろうな」

 親方さんは溜め息を交えながら時折マハを見た。

 奴らがこの街でやった事は絶対に誰も許さないし許されるべきものでもない。人質を捕って街を牛耳り、我が物顔で住民を蹂躙した。何より、奴らは最初に砦にいた自警団全員を皆殺しにしている。マハの夫もその犠牲者の一人だ。

 なくしたものを取り返したいが故の行動だ。彼女の気持ちも痛みも理解するには容易い。

 でも。

 喉の奥に魚の骨が刺さったような、歯の隙間にほうれん草の切れ端が挟まったような居心地の悪さが胸を満たす。イリナ自身が彼女に成り代わっていたとしても何らおかしくはない。なのに、マハの一連の行動に釈然としないものを感じている事も確かだった。心理と行動、そして態度も含めて一貫性があるように見えるけど何処かで何かが噛み合っていない。

「やられたからってやり返してたら、お前さん自身が殴る事を結果的に容認する事になるよな。こんな判り切った事、敢えて今更言うまでもねえがそこら辺にいるガキでも判る理屈だぜ? それを判って言ってるのかよ?」

 石礫より遥かに痛い。鳩尾に拳の直撃を食らったように息が詰まる。

「で、自分は直接手を下さず人の尻を蹴飛ばすだけと来た日には、」

 親方さんはマハを思い切り睨み付けた。

「呆れてものも言えねえなあ」

 決して大きな声ではない。耳を澄まさなければならないほど小さい訳でもないけど、弟子二人は説教でも聞いているかのように真っ直ぐ背筋を伸ばしている。恐らく、いや間違いなく本気で怒っている。

 言っている事もやろうとしている事も全く筋が通っていない。理解出来るのは気持ちくらいだ。

「そんなに殺りたきゃ自分で殺れ」

「ダメですよ」

 冷たく突き放す親方さんに司祭様は静かに言った。睨み付ける親方さんに臆する事もなく穏やかな表情で首を左右に振る。

「如何なる理由があろうと、絶対に殺生は許されません」

 判ってるよ、とでも言うように親方さんは口元を大きく歪めた。それを承知した上で敢えて指摘している司祭様の気持ちも勿論把握している。

「誰かを許せなくて心の底から恨んだところで、その人の心が救われる事はありません。むしろ確実に黒く濁ります、言うまでもありませんが」

 マハは親方さんと司祭様を交互に睨んだ。

 一瞬血の気が引いた。それくらいに凄まじい形相だった。 道理も合わず筋も通らない事を喚き続ける自分を諭す二人に対して怒りの矛先を向けている。無理難題を突きつけていると言う最低限の自覚くらいはあるのかも知れない。

「通りすがりの若造に一生消えない十字架を無理矢理背負わせようとしてたのに、言葉も態度も随分優しいんだな」

「別に優しいなんて事はありませんよ。人として見過ごせない、それだけの話です」

 司祭様が笑いかけると親方さんは唇を肩を怒らせたままそっぽを向いた。

「女性が相手ですから、もう少しお優しくして頂けると」

「筋が通らない事は嫌いなんだよ。男も女も関係ねえ」

 理性が完全に失われた状態で理屈を説いたところで馬耳東風だろうけど、だからと言って説得を諦める訳にはいかない。そんな覚悟が二人の横顔から窺えた。

「どんな事にも因果は存在します。いや、ついて回ると言った方が正確でしょうかね」

 司祭様はごまかすように笑った。対するマハは表情から力を抜く事もなく何かに憑り依かれたような表情で司祭様を見ている。

「犯した罪が重ければ後々降りかかる因果も必然的に大きくなります」

「そんな事は関係ないわ! 奴らが死ねばそれでいいの、下らないゴタクなんか並べないで!」

 ゴタクでも何でもない、ただの道理だ。それ以上でも以下でもない。ただ今のマハにはそれを聞き入れるだけの冷静さも理性も失われている。家族が殺された事も、その一方でなくしかけた家族を取り戻した人達がいる事も今の彼女には許し難く、そして妬ましいのかも知れない。

「このまま恨みを、怒りを募らせればあなたの身を滅ぼす事にもなりかねません。憎しみを捨てるのは口で言うほど容易ではありませんが、後生大事に抱えるほどの価値もない」

 心に忍ばせた短剣は、憎むべき相手だけでなくやがて自身をも傷付ける。仮に最悪の事態が起きていたら、殺した相手を殺すだけでは絶対に満たされない。恐らく正気は保てない。遠からず気が狂う。

 怒りや哀しみに囚われる事は自ら足枷を嵌める事と変わらない。何れ身動きすら取れなくなる。忌人でなくても、人間も同様だった。

 ウォッカは、忌人は特殊でも異質でもない。怒ると相当怖いし井戸の底に落ちるように落ち込む事もある。でも、泣きもすれば笑いもする。何処にでもいる人間そのものだ。怒りに苛まれ哀しみに憑り依かれているマハの方が遥かに人からかけ離れているように見えた。

 違う、そうじゃない。

 怒りを抑え、哀しみを抱えながら生きる事は誰にでも起こり得る。永遠に生き続ける事が出来る人間など何処にもいないからだ。それに耐え切れず、行き着く先で生み出されたものが帰死人だ。なまじ過ぎた力を中途半端に与えられたが故に歪んだ欲望の温床となり、世界に混乱をもたらした。

 一度起こってしまった現実は覆らない。どれだけ過酷な事実であろうと、必死に目を背けたところで何がどう変わる訳でもない。それも含めて一つの摂理と言えるのかも知れない。

 マハの気持ちはよく判る。それこそ胸が痛むくらいに。でも、そこで止まっていた。前を向いて歩き出さない限り、決して途は拓かれない。多少乱暴でもいい、どうにかしてマハの背中を押したかった。誰にも彼女は責められない。

 でも、殺す事でしか満たされないなら憎悪も末期に近い。人質が解放された事でこれまで胸の内に抑え込んでいた感情が一気に溢れ出したのかも知れない。時間をかけて煮えたぎった憎悪が理性のタガを外して牙を剥こうとしている。鎖に繋がれた獣が懸命に、執拗に抵抗するような凄まじい形相で周囲を睨み付ける。

 とても一筋縄ではいきそうもない。

 話の渦中に無理矢理引き摺り込まれそうになっているウォッカは表情を不格好に歪めたまま黙っていた。少しだけ俯けている顔を上げようともしない。奴らを殺す事が解決する手段にならない事を既に承知している、でもそれを安易に言葉に変える事が出来ないもどかしさにのたうちたくなるのを懸命に堪えている。肛門のすぐ手前に来ている便を我慢しているように見えなくもない。

 そんな顔をしていた。

「もう、気は済んだろ?」

 誰かがマハの頭に手を置いた。師匠だった。


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