六日目 その拾六
石につまずくようにして空気が固まった。言っている意味がまるで判らない。
「あの、」
ミリアムが遠慮がちに手を上げる。
「そういうものって、その……」
本人もぼかしたつもりはないのだろう。でもハッキリしない事もまた事実だった。
どうやって先を続けたらいいのか判らないのか、ミリアムは悩ましそうに眉を潜めた。
「どういうものなんですか?」
アリスが子供のように首を傾げた。反応が素直過ぎる。
「恋愛感情だよ」
仰天するように目が見開かれた。
息を呑む音が聞こえた。
カティが呆然と、或いは愕然とウォッカを見ている。
「何て言えばいいのかな」
ウォッカは思い切り顔をしかめるとガリガリ音を立てて髪を掻き毟った。
「厳密に言うとないって訳じゃない。ただ異性に対してそういう感情を抱く事が極めて稀なんだ」
今度こそ本当に訳が判らなくなった。
だったら、だったら何であの時、あんな目で妹を見ていたのか。絶対に普通ではなかった。何があろうと常に落ち着き払っていたウォッカが真っ赤に頬を染めて眠りこけていた妹を呆然と、心を何処かに置き忘れたような顔で見詰めていた。
いつものウォッカとは明らかに違っていた。間違いなく動揺していた。その直後に、一時的にではあるにせよ二人は引き離された。目の前に、手の届く距離にいながらカティを助け出す事は叶わなかった。だから死に物狂いで走ったのだ、絶対に取り戻すために。怒りに全身を震わせ、髪と目を真っ赤に染めて。
「一ついい?」
睨むと言うより射抜くような目でウォッカを見た。ウォッカはそれを真っ向から受け止める。
「極めて稀って事は、全くないって訳じゃないんでしょ?」
「ああ。ただ滅多にない」
「滅多って、どれくらいよ」
「忌人の九割強が生涯異性と一切交流を持たないと言われている。実際の処どうなのかは判らないけど積極的に交流するような事はまずない」
「交流って……」
どういう意味? とは咄嗟に聞けなかった。既にこれまでとはまた違った危うさが見え隠れしている。
「肉体関係って事だよ」
図星だった。弱火にかけた薬缶が少しずつ沸騰するように顔が下から徐々に熱を帯びていく。
間を繋ぐ、或いは持たせるような咳払いがすぐ近くから聞こえた。物凄く不自然に聞こえるし何よりわざとらしい。でも、そうでもしないとこれから襲い来るであろう微妙な空気に抵抗出来ない。
カティだけが矢で貫かれたような顔で愕然とウォッカを見詰めている。
「ちょ、ちょっといいか?」
ヨハンが微妙に頬を引き攣らせながら言った。あからさまに声がどもっている。
「忌人は後継者に力を繋いで行かなきゃいけない訳だろ? その……誰かと一緒になって、子供を作らなきゃ継ぐものも継げないんじゃ……」
「忌人には課せられている義務が二つある」
堅苦しい声でウォッカは言った。例に依ってクソ真面目な表情だった。
「一つは黄泉人及び帰死人の殲滅、もう一つは忌人の血を後世に伝える事、つまり伝承だ」
「え?」
恐ろしく間の抜けた声だった。アリスが両手で頭を抱えている。そりゃそうだ。
「力を伝承しないといけないのに、その……異性と関わりを持たないんですか?」
「所謂交配をしなくても血を伝承する事は出来る。だから交配自体は伝承に於ける絶対的な条件じゃないんだ」
「でも、忌人や古代種の力は元々遺伝する性質があるんですよね? 子供を作ってその子に授ける方が流れとしても自然なんじゃ……」
誰もがウォッカを窺うような目で見ている。
反論する余地など何処にもない。むしろそうすべきところだろうに大多数の忌人は子を持とうとはしない。それが事実なら矛盾もいいところだ。力を伝承していく事が最大の義務なのに、伝える手段として一番自然な方法を率先して避けているようにしか思えない。
「どうして?」
意図した言葉ではなかった。頭の中で整理する前に疑問が口から飛び出していた。
「どうしてあなた達に与えられた義務と真っ向から矛盾するような事が起こるのか、全く以て理解出来ないわ」
有り得ないような事実に対して、それを知りつつ受け容れようとしているウォッカに対して怒りに近い感情を覚えていた。こんなに筋の通らない話があって堪るか。
「生殖能力は当然男女共に備えてる。でも生殖本能が発現する事が、本当に極めて稀なんだよ」
本気で頭を抱えた。
別に忌人でなくても種の保存と繁栄は生物全てが共通して持っている本能だ。それが作用しないとなると自らの存在意義のみならず生物の持つ摂理にすら反する事になる。忌人の存在自体が矛盾そのものだ。
「どうしてなんだよ!」
ヨハンが拳骨でテーブルを叩いた。殺気だった目でウォッカを睨んでいる。
そんなヨハンを一瞥するとウォッカは人差し指を真っ直ぐに立てた。
「忌人の持つ力の性質そのものが軽々しく扱えるような類いのものじゃない、簡単に言うと取り扱い注意ってところだな。これがまず一つ」
指先に灯した焔を吹き消す。
「そしてそれ故に自分の子にそれを受け継がせる事を無意識に拒んでいるのではないか、忌人の間ではそう考えられている。それがもう一つ」
「どういう意味だよ」
「お前は本当に想像力ってものが足りねえなあ」
親方さんは面倒臭そうに頭を掻くと弟子の、義理の息子の頭を人差し指で弾いた。
「俺が今お前らに授けてるのは刀を打つための技術だ。技術としてはそこまで役に立つようなものじゃねえが必ずしも誰かに授けなきゃならないような大袈裟な代物でもない。判るな?」
「はい」
「だが忌人は伝承する事が絶対条件だ、何が何でも継がせなきゃならない。しかも人を跡形もなく消し去るような、確実に人を殺める手段を後世に遺す事が義務として与えられている」
親方さんは横目でヨハンを睨み付けた。怯む弟子に対して尚も鋭い視線を浴びせる。
「それをはいそうですかって手前の子供に簡単に渡せるか?」
しばらくヨハンは虚空に視線を泳がせていたが、やがて濡れた土が乾くようにして体が固まった。目は微かに震えるばかりで焦点を結ばない。
「お前、その年なんだから好きな娘くらいはいるんだろ?」
親方さんにからかう意図があったかどうかは判らない。確かに多少唐突だった感は否めないけど意表を突くような言葉ではない、と思う。
熟れ過ぎた柿のように頬を赤らめると、ヨハンは手繰った糸に引かれるようにしてゆっくりと顔を俯けた。その向かい側では不自然に背中を伸ばしたミリアムがやっぱり顔を赤くして下を向いていた。どうにかしてくれ、こいつら素直過ぎる。羨ましいなあとも思うけど。
「仮にお前に血を継がせる意思があったとしても、母親がそれを承諾するかな」
母の、そして女将さんの顔からゆっくりと血の気が引いていった。隣にいる父の腕を掴むと懸命に首を横に振る。
「私が親だったら、絶対に継がせません」
「同感だ。仮に子供を設けたとしても肝心な部分は絶対レンには継がせねえな」
一片の迷いもなく否定した父に親方さんが頷いた。隣のテーブルに座っている弟子二人を交互に見る。
「要はそういう事だろ?」
「おっしゃる通りです」
ウォッカは相変わらず真っ直ぐ前を向いている。でもウォッカの目を見続ける事は出来なかった。
何を考えているのかよく判らなかった。少なくとも、最初にウォッカと会った時は。泥と埃に塗れているのに全く意に介さず嬉しそうに食事を頬張る姿を見た時は正気を疑った。店から馬鹿二人を叩き出した後は当たり前のように食事を再開していた。その図太すぎる神経に呆れたのは最初だけだった。
何人分もの食事を平気で平らげたかと思えばいつのまにか高いびきをかいていた。おかげでお礼を言いそびれてしまった。その夜は二人で杯を交わしたけど、全く初対面と言う感じがしなかった。案外、前に何処かで会っているのかも知れない。そう思えるくらいに自然だった。
帯刀した兵士十五人を素手で返り討ちにしたと聞いた時は何かの冗談かと思った。その夜、兵隊共が大挙して店に来てそれが事実である事を改めて思い知らされた。しかも、大の大人を十人も潰すオマケ付きだ。
それを確かめたくて組み手を申し込んだ。一太刀すらまともに入れられなかったけど。あんなに見事に負けたのは生まれて初めてだった。でも悔しさや全く感じなかった、むしろ清々しかった。その気になればいつでも息の根を止める事が出来た、それくらいの力は優に備えていただろうけど肘が軽く痺れる程度の衝撃で綺麗に組み手を終わらせて見せた。打ち負かした当の本人は勝ち誇る事も、変に卑屈になる事もなく酒呑みが空きっ腹に酒を注ぎ込むように穏やかに笑っていた。その気になるまでもなく息の根を止める事も容易く出来ただろうにそんな気配は欠片も感じさせなかった。この底無し胃袋は一体何処まで呑むのか本気で頭を抱えたくなかったけど、こいつはそうしている方が遥かにらしかった。
まさか、その翌日には本当に死にかけるなんて事は欠片も考えなかった。膝を潰されまともに身動きを取れなくなった処で肩を、その下の動脈ごと綺麗に切断された。全く太刀打ち出来なかった、一太刀すら入れられなかった。渾身の一撃すら難なく回避され、同時に死の危機に瀕する重傷を負った。生まれて初めて、死を覚悟した。あいつを殺す、最低でも刺し違える覚悟で真っ直ぐ突き出したハズの突きは難なくかわされ、肩を貫かれた。そこから先は意識も記憶もない。気が付いた時はベッドに横たわったままぼんやりと天井を眺めていた。見覚えはあったけどこの世の光景とは思えなかった。生きていても死んでいても始まる場所は変わらない、最初はそれを信じて疑わなかった。それが誤りである事を知ったのは母が、妹が、ヨハンが涙を流してくれたからだ。ウォッカだけが微妙に表情を歪めたまま頬を掻いていた。
死に直結する傷を負いながら生き永らえる事が出来た理由が最初は判らなかった。不器用で、何を考えているのかよく判らないこの男が消えかけていた命の灯火に再び光を与えてくれた、それは紛れもない事実だった。目を覚ましてから、妹が拉致された事を改め知った。そして、こいつは不安と絶望ですっかり冷え切った体を芯から温めてくれた。いや、冷え切っていたのは体だけではない。殺されかけ、家族を傷つけられ、妹は拉致された。絶望と混乱の中から掬い上げてくれたのもウォッカだった。
まさか翌日には妹を、更にその翌日には人質全員を奪還しようなんて事は想像すらしなかった。それも、ほぼたった一人でだ。誰かの手を借りるどころか逆に利用されていたけど、過程はどうあれ偶々この街に訪れた旅の男が一つの家族を、一つの街を救った事は確かなのだ。
全く、一体何なんだお前。
突然現れたかと思ったらいつの間にか心の中の抜け出せないくらい深いところにまで入り込んでいる。絶対に忘れる事なんて出来ない。
だから余計に判らなくなった。
こいつって、忌人って一体何なのだろう。
「ウォッカ」
イリナを見る目がこれまでとは明らかに違っていた。無駄に硬い。いつものように多少だらけた感じの方が話も振りやすいのに。
根が真面目なのはよく判った。そういう硬い部分がないと忌人の血を継承する権利を与えられない事くらいは容易に想像がつく。完全に切り替わっているのだ。今はウォッカと言う大飯食らいの大酒呑みではなく、一人の忌人としてイリナ達に接している。
「忌人の九割は異性と関わりを持たない、それは間違いないの?」
「多少の変動はあるだろうけど大きく変わるような事はまずない」
「そういうものなのかしら」
「何百年も前から脈々と受け継がれているものだからな、そんな簡単には変わらないよ」
疑問に感じる部分はある。でもその前に少し考えた、いや想像してみた。血を伝承しなければならない立場だとして、果たしてそれを我が子に継がせるか。少し考えただけで胸が押し潰されそうになった。自分自身が義務や責任を負うならまだしも、それを血を分けた子供に継がせるなんて絶対にイヤだ。たとえ子供が望んだとしても全力で拒否する。
父が即座に首を横に振った理由が改めて判った気がした。確かに、忌むべきものなのかも知れない。
「でも、残りの一割は異性と関わるんでしょ? 何がどう違うの?」
何気なく聞いたつもりだった。特別これと言った含みを持たせたつもりはない。
だから、何故ウォッカが咄嗟に俯けた顔を僅かに逸らしたのか、頬に赤みが差しているのか判らなかった。
「大して変わらないよ」
「変わらない?」
「好いた惚れたは人の自由、さっきも誰かが言ってたと思うけど」
母が嬉しそうに笑っている。ウォッカの頬が更に赤みを増した。
「ただ忌人はそうなる確率が極端に低い、簡単に言うとそういう事だよ」
普段通り平静を維持して、いや装って話しているウォッカの言葉はやっぱりいつもよりいくらか早口に聞こえた。事実はどうあれ顔が赤いのは最早隠しようがない。
平手で軽く頭を叩かれたような気がした。
どれだけ殴られようが、全身を切り裂かれようが、胴に風穴を開けられても生きていられる。普通の人間には絶対に有り得ない。
一度感情に火が点けば街一つを瓦礫の山に変える事もさして珍しくも、そして難しくもない。忌人はそれだけ激しく感情を揺さぶられる。自身と、そして周囲に確実に滅びをもたらす程に。故に涙を流す事も、うっかり怒る事も許されない。「ついカッとなって」手を上げるような事など絶対にあってはならないのだ。
そして、誰かに寄り添う事もない。誰とも関わらず一生孤独に生きていく。最初は安易にそう考えた。
体は有り得ないくらいに頑丈だけど、反面感情も信じられない程に不安定だ。元々持っている頑丈さに胡座をかく事なく日々修行に励み、同時に脆い精神を鞭打つようにして多少の事では揺らがない強固なものへと磨き上げていく。
人を好きになる事がない訳ではない。ただ極端になりにくい、それだけの話だ。
体も心も、全てが極端に頑丈か脆いかで中間がない。体の頑丈さを維持しながら気持ちを落ち着ける場所を絶えず探している、それが忌人なのかも知れない。
そして感情に火が点きやすいのが忌人の常ならば、怒りが激しいならばその逆もまた然り、そうはならないのだろうか。




