六日目 その拾伍
「まず、忌人の弱点ってものがそもそも想像つかない」
ウォッカと同じくらい真面目腐った顔でヨハンは言った。何だかんだでやっぱりこいつも硬い。確かにミリアムとはウマが合いそうだった。
「攻撃力も耐久力も普通の人間とは比較にならないくらいに高い、そうだろ?」
「首を切り落とされても死なないんだからな」
「ま、それは忌人としても相当手練れの部類に含まれるんだけど」
ヨハンを後押ししたリーゼルにウォッカが言葉を添えた、と言うか注釈を入れた。だとするとあの詩に出て来た忌人はかなりの達人と言う事になる。何せ、首を切り落とされても尚笑いながら闘えるのだから。まともな神経の持ち主なら見た瞬間卒倒しそうな光景だった。
「黄泉人や帰死人は完全に人の、いや生物の摂理を覆した存在だよ」
だから忌人が造り出されたのだ、覆った摂理を正すために。
忌人は人とは明らかに違う存在だ。どちらかと言えば性質は黄泉人や帰死人に近い。でも奴らとも全く同類とは言い難いものがある。黄泉人や帰死人の力が完全な黒なら忌人は黒に近い灰色だ。毒を持って毒を制す、忌人に残されていた選択肢はそれしかなかった。でも決して毒には染まらない。それが彼らに残された最後の意地であり、矜持なのかも知れない。
そんな忌人にも明確な弱点は存在する。だとすればそれは一体何なのか。
「腹を刺されようが息が詰まろうが血があれば生きられる、それが忌人だ」
「ホントに、体は頑丈なんだな」
「ああ、体はな」
ウォッカは何処か投げ遣りに肩を竦めた。
「体だけは頑丈なんだよ」
独り言のように呟いた言葉がやけに耳に残った。
確かに体は間違いなく頑丈だ。剣で鳩尾に風穴を開けられても何事もなかったかのように平然としていられるのだから。
今の言い方だとそこ以外に脆い部分があるように聞こえる。否、それを狙って言っているようにしか思えない。
「忌人は黄泉人に対抗する過程で掛け値なしに頑丈な肉体を得るに到った。だが同時に人として重要なものを失った」
「何をなくしたって言うのよ」
ウォッカは真っ直ぐ立てた人差し指で胸を突いた。
「肉体の頑丈さとは裏腹に、精神的には非常に不安定なんだ」
言っている事の意味が咄嗟に理解出来なかった。
食事を妨害する無礼者を問答無用で店から叩き出す事ならまだしも、脳天目掛けて振り降ろされた真剣を電光石火の早業で叩き折るなど普通の人間にはまず出来ない。仮に実行可能な技術はあったとしても平常心を維持出来なければ、ビビってしまったら絶対に不可能だ。
少なくとも不安定な精神状態では、明鏡止水の境地にでも到っていなければ実行出来ない。それを経験の中で培って来たと思っていた。
「でも、あんたを見ている限りとても精神的に不安定には……」
「ここに来た最初の夜に言った事、覚えてるか?」
言葉に詰まったのはそれが何なのかすぐに思い出せなかったからだ。懸命に記憶の糸を手繰る。
「常に冷静でないといけない、そう言ったんだけど」
酒を酌み交わしながら雑談の中でそんな事を話していたような記憶は朧気ながらにある。でもそれかウォッカにとって、いや忌人にとってそこまで重要であるとは全く考えなかった。話の中でこぼれ落ちた一欠片の言葉に心を配る必要があるとも思えない。だから実際今の今まですっかり忘れていた。
「ウォッカさん」
手を上げると同時に父が椅子から立ち上がった。
「お言葉ですが、私にもあなたが精神的に不安定とはとても思えません。多少取り乱す事くらいはありましたが、あなたは常に泰然自若としていた。昨日も、私達を懸命に励まして下さったじゃないですか」
「それはそうしていただけに過ぎません。内心はとてもそんなに落ち着いてはいられなかった」
ウォッカと剣を交えた時、音速のような速さで木剣が飛び交う中でイリナの一挙一動をつぶさに、そして冷静に観察して全ての攻撃を綺麗に捌いていた。誰かと本気で殴り合うだけで興奮と恐怖で全身が震えるのに、そんな気配など微塵もなく実に楽しそうに短剣を振るっていた。
物理的な技術だけでは成し得ない。冷静さを維持出来る強靭な精神力がなければ闘う以前に腰が引けてしまう。
だから余計に混乱した。とてもそれがウォッカの、ひいては忌人の弱点とは思えない。そして人並み外れて落ち着いている(ように見える)この男の精神が不安定には見えない、絶対に。
マジマジとウォッカの顔を見ると難解な数学の問題を前にした学生のように頭を掻き毟った。
「何と言うか」
右手で顔を覆った指の隙間から宙を睨んだ。伸ばした左手の人差し指を振り子のように左右に振る。
「感情の振幅が激しいんだよ」
「振幅?」
「忌人は師から技を授かる前に必ず教えられる事がある」
軽く溜め息を吐くと曲がりそうになった背中を無理矢理真っ直ぐ伸ばした。
「哀しみは自身の、怒りは周囲へ破滅をもたらす」
眉間にシワが寄ったのがハッキリと判った。隣にいるミリアムも困ったように首筋を掻いている。
「笑っちまうだろ?」
笑うと言うより困惑する。突然何を言い出すのか。
「つまり、それだけ深く哀しむしそれだけ激しく怒る、そういう解釈で宜しいでしょうか」
「結構でございます」
ウォッカはおどけるように肩を竦めている。そこまて肩肘張る事もなかろうに。言っても直らないだろうな。性格だけは変えようがない。
「具体的にはどんな問題があるんだ?」
ヨハンを見るウォッカの目が僅かに細くなった。あまり言いたくはないけど興醒めするような顔だ。
「あの時、お前目の前にいただろ」
いきなり言われても困る。一体どの時の話をしているのか。
「ま、一瞬だっただろうから見落としたとしてもおかしくはないか」
「一人で勝手に話を進めるなよ。置いてけ堀食らうこっちの身にもなれって」
「そうだな」
悪い悪い。人懐っこく笑う。笑ってくれるだけでこんなにもホッとするなんて。心なしか食堂全体の雰囲気もいつのまにか和やかなものに変わっている。それに気付いて改めてホッとした。
「ヨハンが血相変えて店に来て、カティが、その……どうなるか聞かされた時、」
ウォッカは気不味そうに唇を歪めるとそこで言葉を区切った。
「髪の色が変わったろ? さっきも見せたと思うけど」
息を吸い込んだと思った時にはウォッカの髪が赤く染まっていた。
ウォッカは今、自らの意思で髪の色を赤に変えた。さっきもやって見せたように。力を、いや血を制御出来ている証拠だ。
でも、これが意思を介さずに荒れ狂うような事があったら。ハッとすると言うよりゾッとした。背筋を走り抜けた悪寒が延髄を突き抜けて脳天を貫通する。
「だがあの時は違った。俺の意思とは関係無く血が、忌人としての力が発現していた」
「そうなると、どうなるんですか?」
そんな事は聞かなくても判りそうなものだけど、いやそうじゃない。聞きたくても怖くて聞けないのだ。アリスの素直さは思わず二の足を踏むような怖さを完全に素通りして真っ直ぐ気持ちを伝えている。
一歩間違えれば無神経と言われかねないところだけど、いつも伝える気持ちには嘘も偽りもない。今がそうであるように。
「筋力や体力が大幅に増強された状態だからまともに動けるなら兎も角そうでないなら非常に危ない。ホントに触るな危険、ってところだな」
ウォッカは顔を上げると笑った。酷く歪な笑みだった。
「それだけじゃない」
全身から力を抜くようにゆっくりと深呼吸した。拡げた掌から黒い霧、いや焔が舐めるようにして上がっている。
「黒炎まで勝手に出ていた」
大人の拳大はあった氷が音もなく消滅するような、あらゆるものを消し去る焔が勝手に体から溢れ出たら。
「悔しいですけど、本当にあいつの言う通りなんですよ」
「彼の事ですね?」
ウォッカが頷く。父は安堵するように溜め息を吐いた。
「勝手に血が覚醒していたばかりか黒炎まで発現していた。忌人がそんな単細胞じゃそれこそ一大事だよ」
「つまり、非常に怒りやすいって事ですか?」
「少し違うかな」
アリスは顔をしかめた。済まなそうに笑うウォッカを抗議するように睨む。
「喜怒哀楽全てが非常に激しいんだよ。怒ればそれこそ本当に火が点いたみたいと言うか火が出るし、哀しければ漬物石抱えて池に飛び込んだように沈むし」
「そんなもんじゃ済まねえよな?」
「ああ」
ヨハンの顔から少しずつ血の気が引いていく。今にして思えば、昨日ウォッカに放り投げられて怪我がなかったのが不思議なくらいだった。ウォッカに残されていた最後の理性がそれを可能にしたのかも知れない。
「もし、本当に我を忘れたらどうなるんだ?」
「血が覚醒すると同時に制御を失う。そこから先はさっき話した通りだよ」
さっき何を話したのか、それがすぐ甦らない事が純粋に腹立たしかった。こいつは何を語ったのか、目を閉じて記憶を整理する。そして並行して考えた。制御が失われたら、果たして忌人はどうなるのか。
そこに行き着いた瞬間、愕然と目を見開いていた。
「全てを……」
「ああ、目の前にあるもの全てを破壊する」
理性のタガが外れれば獰猛な獣も同然、いやそれより遥かに質が悪い。獣ならば精々人を何人か食い殺す程度だろう。人数も規模も獣の比ではないハズだ。
「もし、本気で怒るような事があったら、一体どうなっていたんですか?」
震える手で口を覆いながら、怯えたような目でウォッカを見詰めたままカティが言った。
「どの程度理性が残っているかにも依るけど、直接怒らせた奴が目の前にいて俺がそいつを認識出来るようならば確実に殺してるだろうな」
「……それ、完全にキレてないじゃない」
相手が誰なのか認識出来るくらいならば、冷静とは言えないまでもある程度の判断力はある。
「一概にそうとは言えないだろ。相手が誰かも、自分が何をしているかも判ってるなら判断力がある分余計に質が悪いんじゃないのか?」
何気なく呟いたのか、それとも何かしらの意図があるのか。何れにしてもセージの投げて寄越した言葉はやたら深く胸の奥に残った。
昨日店に不法侵入した奴らをぶちのめした時、その気になるまでもなくいつでも殺す事が出来た。喉仏を潰しても肝臓を爪先で蹴り続けても、首をへし折ってもいい、奴らの息の根を止める事など何の造作もなかった。その手間を惜しまない明確な殺意と人としての一線を超える覚悟があれば死体の山が築かれていた。ただそうしなかったのは踏み止まれるだけの理性があったからだ。人を傷付け、蹂躙する事に些かの躊躇いもない。そういう連中を殺す事に躊躇いを感じなかったら同じムジナも同然だ。だから殺さなかった。
そしてそのタガが外れてしまったとしたら。
ウォッカは、忌人はそれが簡単に外れてしまうのだとしたら。
「もし理性が完全に消え去ったら、体が動く限りあらゆるものをひたすらに破壊するだけの存在になる」
見境などない。馭者のいない馬車が荷台ごと家屋に突っ込むように、いやそれ以上の規模の破壊が延々と繰り返される。
「砦から一里ちょっと南東に行った辺りなんだけど、地形が変わってる」
言っている意味がサッパリ判らない。唐突過ぎるにも程がある。
「いきなり何言い出すんだよ、少しは前後の脈絡ってものを……」
抗議しようとしたヨハンの声が尻窄みに小さくなる。
唐突でもないし脈絡もある。ただ繋がりが見えづらかっただけだ。
「昨夜、と言ってもホンの数時間前だけど、奴と少し派手にど突き合ったら結構、いやかなり自然を破壊した」
「かなり破壊したって、どの程度なんだよ」
「そうだな、直径一里から一里半くらいは見る影もないくらいにズタボロになってる、と思う」
「ズタボロって……」
「原形を留めてない」
店内で客が喧嘩をした事は流石にないけど、仮にあったとしても精々椅子やテーブルが壊れる程度だろう。巻き込まれた側の被害としては決して軽くはないけど。
地形が変わり原形を留めてないと言うのは最早個人同士がぶつかる喧嘩の域を超えている。こうなるとほぼ戦争と変わらない。そこまで考えてハッとした。人型兵器、確かにそう言った。姿形は人と変わりはない。でも持っているものは人のそれを遥かに凌駕する。
ウォッカは、忌人はやはり人ではない。それはもう認めざるを得ない。
でも、絶対に化け物なんかじゃない。それは断じて違う。そう言いたいのに、伝えたいのに、どういう訳か凍り付いたように喉が動かなかった。
「ウォッカ」
ヨハンは縋るような目でウォッカを見た。
「でも、それは理性をなくした訳じゃないんだろ?」
「ああ。かなり熱くなってはいたけど意識はハッキリしてたし血に呑まれる事もなかった」
力を制御した状態でも地形が変わってしまうくらいの破壊力を備えている事に血の気が引く思いがした。もし忌人が我を忘れるくらいに怒りに震えたら、もし誰か一人でも殺されていたら一体どうなっていたのだろう。
「ただ、」
注意書の下に更に但し書きを付け加えるような感覚でウォッカは言った。かなり心臓に悪い。
「あいつの名誉もあるから黙っておこうと思ってたけど」
「あいつって、例の……」
声が露骨に引き攣っている。青褪めた顔を隠そうともしない。
何人殺したか正確には判らない。でも考えられるだけでも軽く二十人以上は死体に変えている。
話を聞くだけで肝が冷える。そしてその男をある程度ではあるにせよウォッカが買っている事に改めて驚いた。勿論仲間だと言う事もあるだろうけど。
「あいつは、バルガは血の制御を失った」
「どうして?」
「大量に出血したからだよ」
思わずウォッカの鳩尾の辺り、縦に裂けた切れ目を見る。出血した事が直接の原因なら、ウォッカもその憂き目に遭っていてもおかしくないハズだ。
「その人は、死んだの?」
「いや、正気に戻したよ。でないと周囲にまで害が及ぶからな」
血の制御を失う事が理性をなくす事と同義なら、彼は破壊をもたらすだけの存在になっていた事になる。それを元に戻す義務はウォッカにもあった。何せその直前まで同じ忌人として死闘を演じていたのだから。
「正気に戻したって、そんな簡単に出来る事なのかよ」
何を何処から信じていいのか判らないのか、トージは目を白黒させながらウォッカを見る。
「十分近く首を絞め続けてようやく絞め落とせたから簡単ではないけど、まあ何とか」
通常ならば絞め落とすのではなく息の根が止まる。そのまま二度と目を覚まさない。でも忌人は何事もなかったかのように生命活動を再開する。
トージに限らず、話を聞いている全員が顔色をなくすのも無理はない。
「怒りに駆られると我を忘れてしまう、そういう事でしょうか?」
「怒りは他の感情に比べてその傾向がより顕著だと言うだけに過ぎません。哀しみに囚われすぎて身動きが取れなくなる事もそこまで珍しい話でもありませんし」
「でも、それは普通の人間も変わらないですよね?」
ある種の期待を込めた父の言葉は見ている方が哀しくなるくらいにアッサリ否定された。
首を横に振ったウォッカは何処か冷めたような目でテーブルに置いた掌を見た。
「怒りは他の感情に比べて振れ幅が激しいと言うだけです。どんな感情であれ、それが何倍にも増幅されて降りかかって来るんですよ」
それが怒りならより激しく、哀しみならより深く心を蝕まれる。だから怒りに駆られる事も哀しみに呑まれる事もあってはならない。全ては自分の身を、ひいては周囲を守るためだ。
無駄に深い溜め息が聞こえた。何かを引っ叩いたような甲高い音がそれに続く。頬を両手で張ったウォッカが肛門と腹筋に力を入れるような表情で宙を睨んでいた。
「何て事を考えるとますます気分が落ちるからここまでにしよう」
頬がすっかり赤くなっている。音を聞いただけで痛そうだった。気合か、或いは喝を入れたのか判らないけど、少しやり過ぎだ。それに気付かないのだとしたら、それがウォッカが言う処の不安定な部分なのかも知れない。
「男って、ガキの頃から大声上げて喚きながら走り回ったりとか、兎角無駄に騒ぐだろ」
「そうだな」
「でもそれは男に限った話ではないと思う」
直ぐ様同意を示したヨハンにミリアムが続く。隣にいる妹は微妙に表情を歪めたままそっぽを向いている。
「それは問答無用で禁じられた」
「何でですか?」
頭をもたげた疑問を脇に退けておくとか喉元で抑えるとか言う発想がそもそもない。別の意味で素直だった。
「怒る訳じゃないんだし、嬉しい時くらい素直にそれを表現しても……」
「ダメだよ」
「どうして!」
尚も食い下がるアリスにウォッカは静かに頭を振った。
「嬉しい程度で周りが見えなくなるくらいに騒いでたら、それより激しい怒りや哀しみを抑え切れる訳がないでしょ?」
虚を突かれたようにアリスの表情が歪んだ。考える事すらしなかったのだろう。ウォッカはうんざりしたような顔で頬を掻いていた。
「肉体的な、技術的な修行は勿論だけど、精神的な修行を積む事の方が忌人には重要なんだ。どんな感情であれ安易に爆発させる訳には行かないからな。それは絶対にご法度だ」
事に於いて常に動じず泰然と構えていたのは単純に誰かと拳や剣を交えた経験が人一倍豊富だから、安易にそう考えていた。でもそれだけではない。感情の起伏そのものを抑える事がその礎になっている。
嬉しかろうが楽しかろうが、吐き出す前に一旦飲み込む。内容を吟味した上で相応しい形に変える。それが表情か言葉か、それだけの違いでしかない。
「自分の一方的な感情で誰かを傷付けるような真似だけは絶対に出来ない。それが判らないような奴は血を受け継ぐ資格すら与えられない」
こいつがここに来た時、カティの作った料理を本当に嬉しそうな顔で無心で掻き込んでいた。まともな食事にありつけた事が心の底から嬉しかったに違いない。だからその感情だけは素直に表情に出した。酒を呑む時にしてもそうだ、これ以上ないくらいに嬉しそうに笑っている。それこそ見ているこっちが恥ずかしくなるくらいに。感情を発散させる瞬間がそこにしかないのだ。だからそんな時くらいは好きにさせてやろう。でないと息が詰まって死にそうだ。
「大変、ではないんですか?」
カティが顔を半分俯かせたまま言った。他にも何か言いたい事があるのか、膝の上で合わせていた手をもどかしそうに動かしている。
鍛えるのは肉体だけではない。何が起ころうとも動じる事のない強靭な精神力も同時に養わなければならないのだ。泣く事は勿論怒りをぶちまけるような真似も絶対に許されない。
「確かに最初は戸惑う事も多かったような気がするけど、それも慣れれば何とかなるもんだよ」
「なるもの、なんですか?」
「ある程度はね」
そのある程度とはどの程度なのか、そこから溢れた部分はどうなるのか。少なくとも慣れだけで済むものではない。
「その何と言うか、コツみたいなものはあるんですか?」
放課後に授業で聞き逃した要点を質しに来た生徒のような熱心さでアリスが手を上げた。そうだ、お前は特にしっかり聞いておけ。今でこそ多少は落ち着いて来たけど一昔前までは口より先に手が出るのが常だった。そういう意味では日々の稽古の賜物でもある。その過程で幾度となく師匠に怒鳴り付けられたけど。
「口から言葉を出す前に中身をよく考えろ」
ウォッカが右手の人差し指を立てた。
「喚くな、騒ぐな、図に乗るな」
今度は中指を真っ直ぐ伸ばした。何かを思い出したのか、小刻みに何度か頷く。
「それとあれだな」
思わずどれだよ、と突っ込みたくなった。口を開くまでの僅かな時間がやたらじれったく感じられた。
「普通にしてろ」
「普通?」
口から出た言葉が普通過ぎてピンと来ない。そもそも普通って何だよ。
「騒ぎも喚きも怒りもせず、楽しい時だけ素直に笑えばいい。ただ馬鹿笑いは禁じられた」
「泣く事は?」
「どんなに哀しくても涙は見せるな、それが師匠の教えだった。だからそういう時は黙って話を聞いてくれた。お陰で随分楽になったよ」
少し遠い目をしたウォッカは懐かしそうに笑った。
どんな気持ちでも、そして感情でも、胸の内に溜め込む事でそれが少しずつ歪んでいったり、トゲが生えて来たりする事がある。それが自分に刺さって痛いと言うならまだ我慢も出来る。でもそれで誰かを傷付けるような事だけは絶対にしてはいけないししたくもなかった。
気持ちを言葉に変えて吐き出して、たったそれだけなのに信じられないくらいに胸が軽くなって驚いた事が何度かある。両親には話せなくても、友達や妹達に胸の内を明かして自分の立ち位置を確かめた。何が正しくて何が間違っているのか、そんな難しい事は別に判らなくていいし知りたいとも思わない。ただ悶々として膝を抱えて丸くなるより誰かに話して前に進めるならそれに越した事はない。
そういう人が傍にいてくれる。
そしてそれはイリナも変わらない。
妹の頭に順繰りに手を載せたくなった。
ただウォッカの場合は少し、いやかなり勝手が違う。怒りも哀しみも、イリナ達とは比較にならない重さで全身にのし掛かって来るのだ。それに耐え得る精神力がなければ自我が崩壊しかねない。人を跡形もなく消し去る焔が胸の内で渦巻いているだけならまだいい、それが何かの弾みで外に飛び出したら。現に昨日はそれが人の目に触れていたのだ、ついうっかりでは済まされない。
「それ、口で言う程簡単じゃないだろ」
「ええ、非常に」
怒るに怒れず、涙を見せる事も許されない。荒れ狂う感情の奔流を鎮めなければ力が暴走してしまう。
比較的感情が表に出やすい弟と違い、言葉こそ辛辣だけど態度は穏やかな兄ですら苦々しく顔を歪めていた。彼もまた、抑える事の辛さを知っているのかも知れない。
「肉体的な強化は勿論ですが、忌人にはある意味精神修行の方が遥かに重要なんです。先に感情に蓋をする術を身に付けなければ力は養えないし授けられない」
「あんたは永久に無理ね」
「ウルサイ」
横目でアリスを睨むと微妙に視線を逸らした。案の定セージも弟にねちっこい視線を送っている。やっぱり考える事は変わらない。
「だからガキの頃はひたすら怒るなと言われ続ける。それと、人には絶対に手を上げるな、ってな」
それは絶対に、本当にダメだ。顔でも殴ろうものなら首から上が弾け飛んだとしても何らおかしくないのだ。
「怒らなくなったら今度は中身が少し変わる」
「どう、変わるんだよ」
間違いなく興味はある。でもそれを無神経な好奇心で満たそうとする事に後ろめたいものを感じているのかも知れない。ヨハンは気不味そうに顔を歪めている。
「怒ってもいい。ただ絶対に、何があってもキレるな。そう教えられる」
思春期真っ盛りの頃、友達に囃し立てられて泣き喚いていた男子を何度か見かけた記憶があるけど、見苦しくて格好悪くてダサくて最悪だった。囃す方も囃す方だけど、男が人前で大声上げて泣くなよ見苦しい。
「つまり、そういう事をされても一切心を乱してはいけないのね」
「笑って流せるくらいの図太さは最低限必要だよ。後は弄られたり突っ込まれたりする要素を作り出さない事、そっちの方が大事かな。
でもそういう意味では問題はないか。ネタになるようなものがそもそもないし」
「どういう意味だよ」
ヨハンが眉を潜めた。言っている意味が判りそうで判らない。
寝起きのような眠そうな目でヨハンを見ると、ウォッカは頻りに何かを思い出そうとするように眉間を指先で叩いている。
「男女問わず、その年頃の連中が一番盛り上がる話って言ったら、一体どんなものがある?」
視線の先が知らず知らずの内に誰かの前に向いていた。気付いた相手が慌てて逸らした。少しだけ気不味いものを感じたけど、たとえ一瞬でも目を合わせてくれた事が純粋に嬉しかった。一時足りとも忘れた事はない。今は目の前に、手の届く距離に彼がいる。
でも、その気持ちには蓋をしておきたい。誰かに知られるのは、知られたとしたらやっぱり恥ずかしい。
アリスは子供のようにニコニコ笑いながらトージを見詰めている。ミリアムは赤らめた顔を窮屈そうに俯けていた。
リーゼルの手を握り締めたレンは顔を覗き込むと本当に嬉しそうに笑った。そんな娘を見詰める女将さんの目は何処までも優しかった。
母は母で父の横顔を穴が開きそうなくらいに見詰めている。頬を赤らめる事はないけど、それでも父は恥ずかしそうに目を逸らした。
カティだけがもどかしそうに、でもとびきり嬉しそうに上目遣いにウォッカを時折窺っている。
どいつもこいつもどうしてこんなに素直なんだ。
親方さんだけが無理矢理繕ったような不機嫌な顔で唇を歪めていた。それを見た司祭様と師匠が子供のようにクスクス笑っている。
ウォッカは仕切り直すように食堂を順繰りに眺めた。そして実にあっけらかんとして言った。
「そういうものが、忌人にはないんだよ」




