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昏迷の皇子〜賢淑な令嬢との婚約破棄から始まる、愚者の王位継承と王国改革〜

作者: 白凪しおり
掲載日:2026/08/06


「アンティーヌ・クレア・シルセ嬢!君に婚約破棄を言い渡す!」


煌びやかなドレスを纏った令嬢たちが集う、豪華な装飾が施されたダンスホールに、よく通る中低音が響いた。


宴もたけなわ、そろそろお開きかと誰もが思っていた矢先のことだ。


その声の持ち主は、ラエルテース・ヘルメイアス・ケパレーネス——紛れもなくこのカティハ王国の第一皇子だ。


濃紺のドレスに身を包み、シルバーの髪飾りをあしらったアンティーヌ嬢は、ゆっくりと顔をあげ、まっすぐにラエルテース皇子を見据えた。


「……理由をお伺いしても?」


「あぁ、聞かせてやろう」


ダンスホール中の視線が、中央にいる二人に注がれる。


「君は芸術にうるさすぎる。いつも絵を描いているようだが、色の違いなんて僕にはさっぱりわからない」


貴族たちがヒソヒソと囁き出す。


「今度は婚約破棄ですか」

「普通こういう時は、真実の愛のお相手がいらっしゃるのでは?」

「それすらもわからないのでしょう」

「馬鹿皇子ですから」

「それにしても婚約破棄の理由は理解に苦しみますな」


側近たちも皇子の後ろで、何か言いたげな表情を必死に抑えている。


(近々王位継承を控えてるというのに……)

(タイミングが悪すぎる)


しかし、ついに二人の側近は同時に頭を抱え、静かに深いため息をついた。


周りの反応とは打って変わって、アンティーヌ嬢は眉一つ動かさずに優雅なカーテシーを披露した。


そして、彼女はそのままダンスホールを後にした。


———


差し出された従者の手に、アンティーヌ嬢はそっと指先を乗せ、ドレスの裾を少し持ち上げて馬車に乗り込んだ。


流れる街の風景を馬車の窓から眺める。


つい先日、ラエルテース皇子と一緒に訪れたアンティークを取り扱っているお店が目に入る。


あの日は、春の木漏れ日が優しく地面を斑(まだ)らに染めていた。


「買ったものを先に馬車へ運んできてくれ」と従者に命じたラエルテース皇子は、その場に残った。


アンティーヌ嬢は、古い意匠が施された皿を隅々まで眺めてうっとりとする。


しっかりと細部まで見るのが彼女の癖なのだ。


いつもなら「まだ見てるのか、早くしろ」と従者を引き連れて催促してくる皇子が、その日は珍しく側で静かに見守っているだけだった。


そんなことを思い返しながら、アンティーヌ嬢は窓の外へ向けていた視線を戻し、そっと瞳を閉じた。


———


シルセ邸に着くと、使用人たちが迎えてくれた。


「アンティーヌお嬢様、ラエルテース皇子より贈り物が届いております」


「そう……まずはお父様にご報告があるから、部屋に運んでちょうだい。あとで確認するわ」


ふわりとドレスを翻すと、アンティーヌ嬢は父の書斎へと入って行った。


話し合いが終わった彼女は、部屋へと戻るとすぐに贈り物を確認した。


丁寧にラッピングされた包装紙を開けると、洗練されたペアのティーカップが顔を覗かせた。


白く艶のある表面が美しい。


アンティーヌ嬢はティーカップをゆっくりと照明にかざしながら回し、見つめた。


ふと持ち手の下の影になっている部分に違和感を感じる。


光が陶器を透かして、ほんの少しだけ色味の違う白い王家の紋章が僅かに浮かびあがる。


チリンチリン……


手元のベルを鳴らし、専属の使用人を呼ぶアンティーヌ嬢。


コンコンコン……


「お呼びでしょうか」


「えぇ、エマ。私(わたくし)が婚約破棄されたことはもうお父様から聞いたでしょ?」


「……はい」


「先程の贈り物だけれど、特注品で届くまでに時間がかかったみたいなの。まさか婚約破棄後に届くとは思わなかったのね。……ラエルテース皇子らしいわ」


彼女は、そう一気に言葉を紡ぐと、くすくすと小さく笑い声を上げた。


「アンティーヌお嬢様……」


「いつ返還を求められるかわからないから、大切にしまっておいて」


「かしこまりました」


パタンと部屋のドアが閉まる音を聞いた瞬間、アンティーヌ嬢は静かに寝具へ身を沈めた。


———


執務を終えたラエルテース皇子は、王家の談話室へ向かった。


今の時間なら、母であるキティ・メーア・ケパレーネスは読書をしているはずだった。


しかし、ドアの向こうから聞こえてきたのは母の泣き声だった。


ガチャッ——


急いでドアを開けるラエルテース皇子。


目に飛び込んできたのは、予想通り、母を怒鳴りつけるエウリュ・ルーカス・ケパレーネス——現王であり実の父親だった。


その後ろでは側近であるポリーテスとポルキウスが控えている。


キッ、と父王を睨みつけると、母に駆け寄った。


「お前は馬鹿な上に、まだ母親離れも出来ていないのか。全くっ、お飾り王妃でも、子の躾くらいはしたらどうだ」


冷めたトーンで話し終えると、王はポリーテスに顎で合図をして、母の足元に転がっていた水晶を拾い上げさせた。


水晶を拾うポリーテスと目が合った瞬間——昔のことを思い出した。


あの日の彼の目も今と同じように、光を写してはいなかった。


六歳の生誕祭を終えたラエルテース皇子は、眠りにつきウトウトとしていた。


コンコンコン……


薄れゆく意識を、ドアを叩く音が呼び起こす。


眠たい目を擦り、返事をするとポリーテスが一冊の絵本と手燭を手にして入ってきた。


「ラエルテース皇子、お眠りでしたか?」


返事を待つより早く、彼は続けた。


「六歳の誕生日を迎えられたということで、誠におめでとうございます。王より直々に、私ポリーテスがラエルテース皇子にこの由緒正しき絵本の読み聞かせの命を承りました」


蝋燭の光に照らされたその顔は、笑顔を形作っているものの、目は笑っていなかった。


絵本には、この王国に伝わる外交の神ウーティスの伝承が絵と共に記されていた。


婚姻の儀を終えた妻が、悲しみや苦しみ、絶望の涙を流す。

その涙は水晶となり、外交問題を解決に導く予言が映るというのだ。


にわかには信じられない話だった。


しかしポリーテスは最後にこう付け加えた。


「これは王と王妃とラエルテース皇子と私とポルキウスしか知り得ません。この事は絶対に他言無用でございます。」


その一言で、母がいつも悲しそうな顔で窓の外を見つめている姿が思い浮かんだ。


「母様はつらくないの……?」


ポリーテスはドアを閉めながら「それがこの国の王妃の務めですから……」と薄ら笑顔を残して去っていった。


「ラエル?」


王妃の声で、ハッとしたラエルテース皇子は、握っていた母の手を優しく、そして決して離さぬように握り返した。


———


王エウリュは、水晶を静かに見つめた。


予言を見終えると、水晶をポルキウスに手渡し、処分を命じた。


背後に控えていたポリーテスが、ラエルテース皇子の婚約についてため息を漏らす。


「ラエルテース皇子の婚約破棄には困りますな」


王は、フンと鼻で笑う。


「アンティーヌ嬢は聡明ゆえ、あの馬鹿息子(ラエルテース)のプライドをへし折ったのやもしれんな」


「では、いっその事、ペリー第二皇子を継承者にするのはいかがでしょうか?」


書類に目を通しながら、少し考えてから言った。


「あれも利発さを装ってはいるが、いささか感情的すぎる。それにあれの家臣が気に食わん。……馬鹿皇子(ラエルテース)には、即位後に思慮の浅い、もっと凡庸な令嬢を当てがえばいいだろう。」


書類にサインを終えるとペンを置き、傍に置いてあったテキーラを一気に煽った。


「それに、馬鹿皇子(ラエルテース)の方が操りやすい。」


ショットグラスを、ゴトリと机に置いた。


それから立ち上がりドアの前まで行くと顔だけ振り返る。


「私が隠居して、別荘で可愛い小鳥たちを侍らせている間、馬鹿皇子(ラエルテース)についててやれ」


その口角は信じられないほど綺麗な半円を描いていた。


———


朝から雨がシトシトと降り続いていた。


アンティーヌ嬢は趣味の編み物をしながら、物思いに耽っていた。


窓辺から差す柔らかな光が、サマーマフラーを編む手元の白い木綿糸を淡く照らしていた。


コンコンコン……


「アンティーヌお嬢様、紅茶をお持ちしました」


「ありがとう。少し休憩にするわね」


儚げに微笑む。


「……あの日からずっと編んでおられますね。解いては編み直してずいぶん慎重なようで」


そう言うとエマは心配そうにアンティーヌ嬢を見つめた。


ティーカップを手に取り、一口飲む。


「えぇ……そうね。でも、いつか完成する日が来るわ」


紅茶を見つめるアンティーヌ嬢の長い睫毛が、頬に影を落とす。


エマはそれ以上何も言えなかった。


(アンティーヌお嬢様……無心で編み続けることでお心を独りで癒してらっしゃるのですね。なんて健気なのでしょう!私たちでお守りしなくてはっ!!)


その夜、使用人たちはエマから話を聞き、アンティーヌ嬢への忠誠をより一層強固なものとした。


———


ラエルテース皇子は、本宮と離宮を繋ぐ空中回廊を歩いていた。


朝から続く弱い雨は、空中回廊の屋根を叩きつけるように強まっていた。


ふと足を止め、視線を外に向けると、遠くに霞む王都が見える。


コツ……コツ……


足音に振り返ると、そこには実弟のペリー・メデス・ケパレーネスが長い前髪を掻き上げながらこちらへ歩いてきている。


「やぁ、兄さん。このタイミングで婚約破棄するなんて、いかにも聡明であらせられる」


ペリー皇子はニヤニヤと笑みを浮かべながら、ラエルテース皇子を上から見下ろした。


「それは……褒めてないことだけは、私でも分かるよ」


「ハハッ、5歳まで神童と呼ばれていた兄さんが、まさかここまで落ちぶれるとはね。今では父さんの立派な操り人形。俺ならもっと上手くやるのに」


ペリー皇子は、目を細めて囁いた。


「明日の即位、楽しみにしてるよ」


そのまま肩がぶつかるのも気にせず、本宮へと消えていった。


空中回廊には、先ほどより強い風が吹き、ラエルテース皇子の白く美しい頬に雨粒が跡をつける。


ラエルテース皇子は片手で顔を覆い、肩を僅かに震わせている。


「…………」


ザァーザァーと振り続ける雨だけが空中回廊に響いていた。


———


春麗らかな日。


咲き誇る花々の香りが辺りに満ち、蝶が舞い、鳥がさえずっている。


戴冠(たいかん)の宣言を目前に控えたラエルテース皇子は、大きな鏡の前で、数人の近侍に豪華な衣装や髪を整えさせていた。


鏡の中に映る自分の顔を見つめていると、兄弟だからだろうか、ふとペリー皇子の面影が思い起こされた。


(……昨日は笑うところだった。ここまで気を付けていたのに、危うく台無しになるところだったな)


全ての支度を終えた彼らに小さく笑いかけると、ラエルテース皇子は謁見バルコニーへと進み出た。


ニコニコとした笑顔を浮かべ、民衆を端から端までしっかりと見渡し手を振る。


盛り上がる民衆たちをよそに、前王から引き継がれた側近たちはハラハラしていた。


(あの皇子(バカ)スピーチなんかして、ヘマをしないだろうな!?)

(どうしてもスピーチをするとごねられて手がつけられなかった、もし失敗したら……)

(お願いだ、ちゃんと、用意した書類をそのまま読むのだぞ)


マイクのスイッチが入れられる。


キーーーーン……


ラエルテース皇子は書類にチラリと目をやると、傍に置いた。


(!!??)


凍りつく側近たち。


「麗しきわがカティハ王国の民よ!……本日をもって私、ラエルテース・ヘルメイアス・ケパレーネスは王位を継承し、即位したことをここに宣言する!」


わあぁぁぁ!


民衆たちの手から一気に白いリンゴの花が投げられ、拍手喝采が沸き起こる。


銀色の髪が、春の柔らかな日差しを受けて、優しく照り返す。

その輝きと美しい立ち姿はまるで一枚の絵画のようだった。


誰もがその神々しい姿に息を呑んだ瞬間、王は次の言葉を力強く宣言した。


「今日をもって、この国の悪しき風習は終わる」


ペリー皇子は「悪しき風習……?」とポカンとしている。


側近のポリーテスとポルキウスは、ギョッとして顔を見合わせる。


ラエルテース王が無言で右手を挙げると、待機していた近衛兵が動いた。


ラエルテース王は、後ろに控えていた母キティの方を振り返り、温かい笑みを浮かべた。


民衆が放った白いリンゴの花びらが、春風に舞い上げられて、まるで天使の羽のように、微笑むラエルテース王の周りで踊っている。


母キティの頬には、温かい涙が溢れていた。

頬から顎へ伝い、落ちた涙はそのまま静かに地面に吸い込まれていった。


———


演説が終わるや否や、ラエルテース王は衣装もそのままに馬車に乗り込んだ。


屋敷にたどり着くまでの道のりが、もどかしい。


伝えたいことが、たくさんある——


ラエルテース王は、手の中で母から譲り受けたペンダントを握りしめた。


屋敷に着くと、使用人たちが慌てふためくのも横目に一目散に部屋の前まで向かった。


コンコンコン……


ノックをしてから、下を向いて息を整えた。


ガチャリ……


開いたドアの足元から、柔らかなベルベットの室内靴が覗く。


そのまま視線を上げると、聖母のような微笑みを湛(たた)えたアンティーヌ嬢がこちらを見つめていた。


「……お迎えにあがりました」


一礼して手を差し伸べるラエルテース王。


アンティーヌ嬢は、その手の上にゆっくりと手を重ねた。


その細く長い指先に唇を落とし、見上げたラエルテース王の瞳にはうっすらと膜が張っていた。


「やっと演技をやめてくださったのね」


くすくすと笑う口元を反対の手で押さえながらアンティーヌ嬢は目尻を下げた。


不作法を避けるために、ドアを開けたまま室内に入る。


「紅茶はいかがですか?」


「あぁ、いただこう」


窓際の机の上にはラッピングが施されたサマーマフラーが置かれている。


緩やかな午後の光が、二人を包み込み、ここだけ時間が止まったかのような——あるいは失われた時間を取り戻すかのような、穏やかなひとときを過ごした。



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