あした返す傘
その傘は、駅の忘れ物置き場に三週間ほど立てかけられていた。
透明なビニール傘だった。どこにでもあるような傘だったが、持ち手に黒い名前ペンで小さく文字が書かれていた。
あした返す
駅員の槙野は、その文字を見るたびに少しだけ笑ってしまう。
忘れ物なのに、まるでまだ約束の途中みたいだった。
その日の夕方、制服の袖を濡らした女の子が窓口に来た。
「あの、透明の傘、届いてませんか。持ち手に字が書いてあるんです」
「なんて書いてあります?」
「……あした返す、って」
槙野は、思わず忘れ物置き場を見た。
「あります。たぶん、その傘です」
槙野が傘を渡すと、女の子は両手でそれを受け取った。なくした物を見つけたというより、ずっと言えなかった言葉を取り戻したような顔だった。
「これ、あなたの傘ですか」
女の子は首を横に振った。
「違います。でも、私が返さなきゃいけない傘です」
*
野々村芽衣がその傘を借りたのは、四月の終わりだった。
放課後、急に雨が降ってきた。校門の前で立ち尽くしていると、隣のクラスの石田奏太が傘を差し出した。
「使えば」
「え、でも石田くんは」
「走るから」
「風邪ひくよ」
「ひかない」
「でも、借りたら悪いし」
「悪くない」
「でも、なくしたら困るし」
「困らない」
「でも、明日ちゃんと返せるかわからないし」
そこまで言って、芽衣は自分でも面倒くさいことを言っていると気づいた。
奏太は少し困ったように笑うと、通学かばんの外ポケットを探った。
「じゃあ、こうする」
取り出したのは、キャップの端が少し白く削れた黒い名前ペンだった。
奏太は傘の持ち手に、きゅっと小さな字を書いた。
あした返す
「これで忘れない」
芽衣は、持ち手の文字を見た。
それは命令みたいではなく、約束みたいでもなく、雨の日に差し込まれた小さな栞みたいだった。
「でも」
「まだ言う?」
奏太が笑ったので、芽衣もつられて笑ってしまった。
「……借ります」
「うん」
「明日、返します」
「知ってる。書いたから」
けれど翌日、奏太は学校に来なかった。
一週間後、担任の先生が言った。
「石田くんは、しばらく入院することになりました」
傘は芽衣の部屋に残った。
あした返す。
持ち手の文字を見るたびに、返さなきゃと思った。けれど、奏太とは特別親しいわけではなかった。お見舞いに行くほどの関係ではない気がしたし、今さら連絡するのも変な気がした。
そうして迷っているうちに、芽衣はその傘を電車に置き忘れた。
ドアが閉まる音を聞きながら、芽衣はホームで立ち尽くした。
傘をなくしたというより、約束をなくした気がした。
*
それから何度も駅に通って、ようやく傘は見つかった。
芽衣は駅を出ると、スマートフォンを取り出した。委員会のグループから追加したまま、一度も個別に送ったことのない名前を開く。
石田奏太。
『前に借りた傘、返せてなくてごめん。まだ必要だったら、届けたいです』
送信ボタンを押すのに、三分かかった。
返事は、五分で来た。
『ありがとう。まだ必要』
続けて、もう一通届いた。
『でも病院、少し遠い。無理しなくていい』
芽衣はすぐに返した。
『無理じゃないです。あした返します』
送ってから、しまったと思った。
また、あした、と書いてしまった。
けれど今度は、なくさなければいい。
*
翌日、芽衣は母に付き添ってもらい、奏太のいる病院へ行った。
奏太は少し痩せていた。けれど、目は前と同じだった。
「本当に来た」
「返すって言ったから」
芽衣は傘を差し出した。
「遅くなってごめん」
奏太は傘を受け取ると、持ち手の文字を見た。
あした返す。
「まだ残ってたんだ」
「石田くんが油性ペンで書いたから」
「そうだった」
「私がずっと、でも、でもって言ってたから」
「うん。めちゃくちゃ言ってた」
「ごめん」
「別に」
奏太は、持ち手の文字を指でなぞった。
「でも、書いてよかった」
「どうして?」
「これがなかったら、野々村さん、返さなくていい理由を探してたかもしれないし」
芽衣は言い返せなかった。
たぶん、その通りだった。
「でも、返した」
奏太が言った。
「うん」
「だから、大丈夫」
「なにが?」
「明日って書いた約束が、今日になっても、ちゃんと間に合ったってこと」
芽衣は、その言葉をゆっくり受け取った。
明日は、一日遅れたら消えてしまうものではないのかもしれない。
守れなかった約束も、探し直して、持ち直して、相手の前に差し出せたなら、ちゃんと続きになるのかもしれない。
窓の外では、雨が上がりかけていた。
「石田くん」
「うん」
「退院したら、また傘貸して」
「なんで」
「今度はちゃんと、その日に返す練習する」
奏太は少し考えてから言った。
「じゃあ、雨の日に」
「雨の日じゃないと傘いらないしね」
「でも、晴れてても貸すよ」
「なんで」
「返す理由ができるから」
芽衣は一瞬きょとんとして、それから笑った。
病室の空気が、少しだけ軽くなった。
*
一か月後、駅の忘れ物置き場に、また透明なビニール傘が一本立てかけられていた。
持ち手には、黒い文字でこう書かれていた。
また貸す
槙野はそれを見て、今度こそ声に出して笑った。
夕方、傘は無事に取りに来られた。
制服姿の女の子と、少し痩せた男の子が、窓口の前で並んでいた。
「貸す前に忘れたの?」
「違う。置いておいた」
「それを忘れたって言うんだよ」
「違う。それに、もう役目は果たした」
窓の外では、雨が上がっていた。
明日は、きっと晴れる。
それでも、二人は一本の傘を持って帰った。




