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日常とSF

あした返す傘

作者: くるみ
掲載日:2026/05/14

 その傘は、駅の忘れ物置き場に三週間ほど立てかけられていた。


 透明なビニール傘だった。どこにでもあるような傘だったが、持ち手に黒い名前ペンで小さく文字が書かれていた。


 あした返す


 駅員の槙野は、その文字を見るたびに少しだけ笑ってしまう。

 忘れ物なのに、まるでまだ約束の途中みたいだった。

 その日の夕方、制服の袖を濡らした女の子が窓口に来た。


「あの、透明の傘、届いてませんか。持ち手に字が書いてあるんです」


「なんて書いてあります?」


「……あした返す、って」


 槙野は、思わず忘れ物置き場を見た。


「あります。たぶん、その傘です」


 槙野が傘を渡すと、女の子は両手でそれを受け取った。なくした物を見つけたというより、ずっと言えなかった言葉を取り戻したような顔だった。


「これ、あなたの傘ですか」


 女の子は首を横に振った。


「違います。でも、私が返さなきゃいけない傘です」


     *


 野々村芽衣がその傘を借りたのは、四月の終わりだった。

 放課後、急に雨が降ってきた。校門の前で立ち尽くしていると、隣のクラスの石田奏太が傘を差し出した。


「使えば」


「え、でも石田くんは」


「走るから」


「風邪ひくよ」


「ひかない」


「でも、借りたら悪いし」


「悪くない」


「でも、なくしたら困るし」


「困らない」


「でも、明日ちゃんと返せるかわからないし」


 そこまで言って、芽衣は自分でも面倒くさいことを言っていると気づいた。

 奏太は少し困ったように笑うと、通学かばんの外ポケットを探った。


「じゃあ、こうする」


 取り出したのは、キャップの端が少し白く削れた黒い名前ペンだった。

 奏太は傘の持ち手に、きゅっと小さな字を書いた。


 あした返す


「これで忘れない」


 芽衣は、持ち手の文字を見た。

 それは命令みたいではなく、約束みたいでもなく、雨の日に差し込まれた小さな栞みたいだった。


「でも」


「まだ言う?」


 奏太が笑ったので、芽衣もつられて笑ってしまった。


「……借ります」


「うん」


「明日、返します」


「知ってる。書いたから」


 けれど翌日、奏太は学校に来なかった。

 一週間後、担任の先生が言った。


「石田くんは、しばらく入院することになりました」


 傘は芽衣の部屋に残った。


 あした返す。


 持ち手の文字を見るたびに、返さなきゃと思った。けれど、奏太とは特別親しいわけではなかった。お見舞いに行くほどの関係ではない気がしたし、今さら連絡するのも変な気がした。


 そうして迷っているうちに、芽衣はその傘を電車に置き忘れた。

 ドアが閉まる音を聞きながら、芽衣はホームで立ち尽くした。

 傘をなくしたというより、約束をなくした気がした。


     *


 それから何度も駅に通って、ようやく傘は見つかった。

 芽衣は駅を出ると、スマートフォンを取り出した。委員会のグループから追加したまま、一度も個別に送ったことのない名前を開く。


 石田奏太。


『前に借りた傘、返せてなくてごめん。まだ必要だったら、届けたいです』


 送信ボタンを押すのに、三分かかった。

 返事は、五分で来た。


『ありがとう。まだ必要』


 続けて、もう一通届いた。


『でも病院、少し遠い。無理しなくていい』


 芽衣はすぐに返した。


『無理じゃないです。あした返します』


 送ってから、しまったと思った。

 また、あした、と書いてしまった。

 けれど今度は、なくさなければいい。


     *


 翌日、芽衣は母に付き添ってもらい、奏太のいる病院へ行った。

 奏太は少し痩せていた。けれど、目は前と同じだった。


「本当に来た」


「返すって言ったから」


 芽衣は傘を差し出した。


「遅くなってごめん」


 奏太は傘を受け取ると、持ち手の文字を見た。


 あした返す。


「まだ残ってたんだ」


「石田くんが油性ペンで書いたから」


「そうだった」


「私がずっと、でも、でもって言ってたから」


「うん。めちゃくちゃ言ってた」


「ごめん」


「別に」


 奏太は、持ち手の文字を指でなぞった。


「でも、書いてよかった」


「どうして?」


「これがなかったら、野々村さん、返さなくていい理由を探してたかもしれないし」


 芽衣は言い返せなかった。

 たぶん、その通りだった。


「でも、返した」


 奏太が言った。


「うん」


「だから、大丈夫」


「なにが?」


「明日って書いた約束が、今日になっても、ちゃんと間に合ったってこと」


 芽衣は、その言葉をゆっくり受け取った。

 明日は、一日遅れたら消えてしまうものではないのかもしれない。

 守れなかった約束も、探し直して、持ち直して、相手の前に差し出せたなら、ちゃんと続きになるのかもしれない。


 窓の外では、雨が上がりかけていた。


「石田くん」


「うん」


「退院したら、また傘貸して」


「なんで」


「今度はちゃんと、その日に返す練習する」


 奏太は少し考えてから言った。


「じゃあ、雨の日に」


「雨の日じゃないと傘いらないしね」


「でも、晴れてても貸すよ」


「なんで」


「返す理由ができるから」


 芽衣は一瞬きょとんとして、それから笑った。

 病室の空気が、少しだけ軽くなった。


     *


 一か月後、駅の忘れ物置き場に、また透明なビニール傘が一本立てかけられていた。

 持ち手には、黒い文字でこう書かれていた。


 また貸す


 槙野はそれを見て、今度こそ声に出して笑った。


 夕方、傘は無事に取りに来られた。

 制服姿の女の子と、少し痩せた男の子が、窓口の前で並んでいた。


「貸す前に忘れたの?」


「違う。置いておいた」


「それを忘れたって言うんだよ」


「違う。それに、もう役目は果たした」



 窓の外では、雨が上がっていた。

 明日は、きっと晴れる。

 それでも、二人は一本の傘を持って帰った。

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