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Ep.40 灰色の空を仰ぐは

【家主の家出、その静かなる決別】


カイルは、ついに「家主の家出」という、この屋敷の歴史上もっとも矛盾に満ちた暴挙に出ました。


「ありがとう」を繰り返した一週間で、仲間たちの情緒を最大までブチ上げておきながら、一転して激辛カレーとトイレットペーパー水没事件で全員をどん底に叩き落とした代償。セシリアによる三時間の正座説教と、ガイアスの「一か月イタズラ禁止令」。そして、何より無垢なレオンが向けた「悲しそうな目」。


それらは、カイルが自分自身に抱いている「自己嫌悪」を鏡のように映し出し、耐えがたいほどの息苦しさを与えました。



「……もういい! 僕は屋敷の主だぞ! 自由がないなら、家出してやる!!」



逆ギレ気味に叫び、深夜、皆が寝静まった隙に、カイルは窓からロープを垂らしました。持ち物は、ガイアスが彫った不格好な木彫りのクマ、セシリアが焼いた三枚のクッキー。無一文のまま、Lv 1の心細い体でカイルは森へと足を進めます。


しかし、歩き始めて三十分。Lv 1の体力は早くも限界を迎えつつありました。ガサリと茂みが揺れるたびに「ひゃっ!?」と飛び上がり、誘拐された時の記憶がフラッシュバックしそうになる。

必死に木彫りのクマを握りしめながら、カイルは初めて、「あの大きな手」が後ろにない恐怖を突きつけられていました。




【背後の眼差し、届かぬ祈り】


背後に五つの「気配」を感じたのは、それから間もなくのことでした。ガイアスは頭上を飛び、セシリアは音もなく浮遊し、レオンは風で転倒を防ぐ。彼らはカイルの家出を「見守り隊」として全力でサポートしていました。


しかし、カイルはその優しさに触れるほどに、胸の奥が焼けるように痛みました。


(……なんで、追いけてくるんだよ。……放っておいてくれればいいのに)


カイルはわざと険しい獣道へと踏み込みました。泥を撥ね、小枝に服を引っ掛けながら、必死に心臓を動かして進みます。彼らが背後で、倒れそうな木を粉砕し、害獣を追い払い、酸素濃度を高めて自分の歩行を助けている。その「過保護な愛」が、今のカイルには自分を責める刃のように感じられました。


(……僕は、ただのみんなの『足手まとい』だ。イタズラをして気を引かなきゃ繋ぎ止められない。そんな歪な関係、いっそ僕が消えてしまった方が、みんなにとって『正解』じゃないのか?)


タイミングを合わせるかのように、空から冷たい雨が降り始めました。パジャマ同然の薄着は一瞬で濡れ、Lv 1の体温は急速に奪われていきます。




【虚無の頂、灰色の空を仰ぐ王】


森の奥、崖の縁を見下ろす高台で、カイルの足はついに止まりました。

膝が笑い、視界が雨と涙で滲んでいく。カイルは大きな木の傍らで立ち尽くし、ゆっくりと、その顔を天へと向けました。


そこにあるのは、どこまでも続く真っ白な灰色の空でした。


「……あはは。……虚しいな」


掠れた声が、雨音に溶けて消えます。

空を仰ぐカイルの瞳には、もはや何も映っていませんでした。自分の存在が、彼らの人生に喜びではなく「心配」ばかりを強いている。高い知力を持つからこそ、その「負の計算」が止まりません。


(……僕は、何をしてるんだろう。……ただ、みんなに甘えたかっただけなのに。……自分のことがこんなに嫌いなのに、なんで彼らは、こんな僕を追いかけてくるんだろう)


雨に打たれ、微動だにせず空を見つめ続けるその姿は、かつての孤独な「神」の残影を思わせました。

その光景を、数歩後ろから見守っていた五人は、息を呑んで立ち尽くしました。


「……勇者様、が……消えてしまいそう……」


フローラが震える声で呟き、セシリアは自分の口を両手で覆いました。カイルから放たれるのは、圧倒的な「拒絶」ではなく、あまりに深い「自己喪失」。そこにいるのに、魂だけがどこか遠く、彼らの手の届かない灰色の空へ吸い込まれていくような、恐ろしいほどの静寂。


「……先代様……」


レオンが足を踏み出そうとしましたが、その足は震えていました。今のカイルに下手に触れれば、その脆い精神は鏡のように砕け散ってしまう。そう直感させるほど、カイルの横顔は冷たく、そして美しく絶望していました。




【魔王の歩み寄り、静かなる降伏】


その沈黙を破ったのは、ガイアスでした。


彼はいつもなら「バカ野郎」と怒鳴り散らし、無理やりカイルを担ぎ上げるところでしたが、今は違いました。彼は武器を持たず、殺気も消し、ただの「一人の男」として、ぬかるんだ地面をゆっくりと踏みしめて近づきました。


「……おい。……首が痛くなるぜ、そんな空ばっか見てるとよ」


ガイアスの声は、驚くほど穏やかでした。カイルの隣に並び、同じように灰色の空を仰ぎます。カイルは視線を下ろさず、ただ掠れた声で返しました。


「……ガイアス。……もう、いいんだよ。……僕なんて、いない方がいいんだろ。……僕のイタズラだって、本当は煩わしいだけだろ……」


カイルの悲鳴のような告白。ガイアスはそれを否定せず、ただ大きな手でカイルの濡れた頭を、不器用なほど優しく包み込みました。


「……煩わしい? ああ、全くだ。テメェが激辛カレーを作るたびに俺の胃袋は悲鳴を上げてるし、アヒルが飛ぶたびに屋敷の掃除が大変だ」


カイルがわずかに肩を震わせます。


「……でもな、カイル。……俺たちが生きてるって感じるのは、テメェがそうやって俺たちの平和を引っ掻き回してくれる時なんだよ。……テメェがいない『完璧に正しい平和』なんて、俺にとっては死んでるのと変わらねぇんだ。……だから、謝るな。……もっと俺たちを困らせろ。それが、俺を相棒にしたテメェの責任だろ」


ガイアスの体温が、手のひらを通じてカイルの冷え切った頭に流れ込んできます。カイルはゆっくりと顔を伏せ、隣に立つ大男の、泥だらけの靴を見つめました。



「……僕を、……嫌いにならないの?」



「……ハッ。テメェが自分を嫌う分まで、俺たちがテメェを愛してやるよ。……それで、お愛想だろ?」



背後からセシリアが、レオンが、そしてフローラが、一歩ずつゆっくりと寄り添ってきました。セシリアはカイルの泥だらけの手を、自分の温かな両手で包み込みました。


「……自重などさせません、カイル様。……あなたの眩しいくらいの悪意に、私たちは救われているのですから」




【泥まみれの帰還、新しい明日】

「……あ、は……。……みんな、本当にバカだね……」


カイルはついに、耐えきれずに吹き出しました。

自分を嫌い抜こうとする「義務感」さえも、彼らの圧倒的な肯定の前に、粉々に砕け散りました。


(……ああ。分かったよ。……僕は一生、この大嫌いな僕を、彼らのために守り続けるよ)


カイルはガイアスの大きな手を、今度は悪戯っぽく少しだけ強く握り返しました。


「……ガイアス。お屋敷に帰ったら、覚悟しておいてね? ……次はもっと、驚かせてあげるから」


「……ああ、望むところだ、相棒」


泥にまみれ、雨に濡れた帰り道。カイルの足取りはまだ弱々しいものでしたが、その背中を支える五人の手は、何よりも力強く、揺るぎないものでした。

世界一幸せな「迷子の王」が屋敷へと帰還する。


そこには、神の孤独さえも寄せ付けない、騒がしくて愛おしい日常の続きが待っていました。

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