舞台を降りた後
別の夜も、同じ時間帯にジムにいた。
マシンに座って、いつもの重量で回数を数える。
もう少しだけ上げようとして、指がレバーにかかった。
そのとき視界の端で、誰かがこちらを見た気がした。
目が合いそうになって、反射で負荷を一段上げた。
床を見る。
回数を数える。
隣に人が来た気配がした。
振り向く前に声が落ちてきた。
「星野くんだよね、久しぶり。覚えてる?」
学生の頃みたいに、苗字でくん付けで呼ばれた。
顔を上げた。 知ってる顔。
大学のとき、誰かの彼女だった。
かける言葉を探して、何も浮かばなかった。
「覚えてる。名前が出てこない、ごめん」
相手が笑った。
「高橋。渡辺くんの友達だったよね」
「うん」
「渡辺くんとは今も?」
「連絡してない。卒業してからずっと」
「そっか。私も」
それだけのはずだった。
なのに会話が止まらなかった。
マシンを替えながら、また話した。
インターバルの間、高橋はぽつぽつ喋った。
高橋は最近このジムに変えたと言っていた。
職場が合わなくてストレス発散、と笑う。
転職したいけど何がしたいかわからない、と続けた。
僕はただ聞いていた。
高橋の話を、判断するほど知っているわけじゃない。
知らないのに何かを言うことはしたくないと、なんとなく思った。
「星野くんは今の仕事、好き?」
「やりがいを感じることあるよ、好きかどうかはよくわからないな」
「それ、どっちなんだろうね」
「他を知らないから、悪くはないと思う」
言ってから、自分で驚いた。
考えてから言ったんじゃない。
口が勝手に、今の感触だけを出した。
高橋が少し笑った。 さっきと違う笑い方だった。
「私、もう辞めたいなって考えてる。あんなに入りたかったところなのに」
その言い方は軽かった。
でも目が真面目だった。
「辞めようか悩んでる、星野くんはそんなことない?」
昔の僕なら、ここで答えを渡していた。
背中を押す言葉を作って聞きたい言葉を考えて、気分のいい着地にする。
純さんの声が浮かびかけて、消えた。
何か言おうとして、口が止まった。
作れなかった。
「そっか、大変そうだね」
「今はないかな」
「高橋のことはもっと話を聞かないとわからない」
高橋が瞬きをした。
「そうだよね、わからないのって普通だよね」
「私もずっとモヤモヤしてて」
「親がさ、『せっかくいいとこ勤めてるのに』って、うるさくて」
「あー、それは嫌だね」
その言い方が少しだけ苦しそうだった。
「でも、それを聞いて不安になるんだけどね」
高橋は自分で言って、自分で笑った。
笑いながら、肩が少し落ちた。
僕は何もしていない。
それなのに、胸が静かだった。
ロッカーの前でも少し話した。
気づいたら三十分が過ぎていた。
次に何を言うか。
どう見せるか。
そういうことを、していなかった。
「また来るの?」
「週三くらいで」
「じゃあまた会うかもね」
外に出ると、空気が冷たかった。
高橋がスマホを出した。
「連絡先、交換しとく?」
「うん。ちょうど言おうとしてた」
思ったことを、そのまま口にした。
交換したあと、高橋は軽く手を振って帰っていった。
帰り道、何かが違うと思った。
久しぶりに身体が軽い感じがする。
いつもより早く歩いてる気がした。
ジムに来るたびに、入口で周りを見るようになった。
少し恥ずかしくなった。
「星野くん、ご飯はどうしているの」
「自炊してるよ、そろそろ買い出しに行かないと」
「私も帰って作らないと、たまにはサボりたくなっちゃう」
「どこかに食べに行こうか、駅前の洋食屋はどう」
言いながら、声が少し大きくなった。
「いいね、行こっか」
自然と笑顔になったと思う。
高橋が久しぶりに誰かと食事をした、と言った。
僕もそうだった、僕もだよ、いいもんだと言った時、お父さんみたいと笑われた。
高橋がふと真顔になって言った。
「必死に頑張ってきたけど、何かが切れちゃって」
そう言って、下を向いて苦々しく笑った。
「そっか、しんどかったね」
しばらく沈黙があった。
「切れた、って何に」
高橋は少し考えてから言った。
「入りたくて入ったけど、何がしたかったのかわからなくなって」
「悩むね、難しい」
「そうなのよ、本当にね」
駅までの短い時間、何も話さず並んで歩いた。
彼女のペースに合わせながら。
別れ際、高橋が言った。
「ねえ、気分転換に景色でもみに行こうよ」
「それだったら私、植物園がいいな」
「じゃあ、またジムで続き聞かせて」
「うん」
そう言って、僕たちは別れた。




