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近すぎて見ていないもの

その夜、バーに行った。


ドアを押すと、音が少なかった。


グラスが触れる音と、冷蔵庫の低い唸りだけが残っていた。


カウンターの奥で、バーテンダーがコップを拭いていた。


純さんはいた。


いつもの席に、いつもの姿勢で。


グラスを回して、正面を向いていた。


僕は隣に座って、息を整えるふりをした。


言うことは決めていたはずなのに、口に出す瞬間だけ迷う。


迷う理由がわからない。




「認められてる気がするのに、空っぽな感じがします」


純さんは顔をこちらに向けなかった。


グラスだけが、ゆっくり回り続けていた。


「お前が認めてほしいのは、何だ」


その一言で、喉が詰まった。


答えが出なかった。


何を認めてほしいのか。


認められていると言ったのは自分なのに、その中身がない。


カウンターに肘をついて、しばらく黙っていた。


泡が消えていくのを見ていた。


消える速度だけが正確だった。




「純さんにはなんでも話してしまいます」


言ってから、自分で驚いた。


なんでも話してしまう。


そんなつもりはなかった。


でも、そういう言葉が自然に出る関係が、この人との間にだけある。




純さんは短く言った。


「望んでない。期待するな」


期待。


その言葉が胸のどこかに当たって、鈍い音がした。


期待していたのか。


僕は。


純さんが何か言ってくれることを。


正解でも救いでもなく、ただ、何かを。




その瞬間、真衣のことが浮かんだ。


最近、真衣はどんなことでも意見を求めるようになってきた。


この間の2人で過ごした時の会話を思い出す。




今日の服、どっちがいいと思う?


この店どう思う?


今度の週末、どっちがいい?


亮が決めて。




僕はそのたびに、言い方を選んで返す。


否定しない。


傷つけない。


角を立てない。




メッセージでも同じだ。


気づく前に指が動いている。


相手が安心する文章。


柔らかい語尾。


絵文字は少なく。




真衣のこと、最初は素直だと思った。


僕の言うことをよく聞くな、と。


でも毎回だと、何かが引っかかる。


意見を求められているのに、僕がここにいない感じがする。




これまでの女性は、結論を持って聞いてきた。


背中を押してほしいとか、共感してほしいとか。


真衣は違う。


僕の言葉に、喜んで従う。


それが、少し怖い。




「一緒に住もうかな」


そう言われた夜のことが、はっきり浮かんだ。


真衣の部屋の照明。


皿を洗う音。


何気ない顔で言ってきたのに、その言葉だけが重かった。


僕は反射で言った。


「まだ早いよ」


その瞬間、真衣の顔が変わった。


怒りじゃない。


絶望したような顔だった。


何かが抜け落ちたみたいな顔。




その顔を見た瞬間、僕の中の別の役が立ち上がった。


折れる役。


空気を戻す役。




「もう少ししたら考えよう」


言ってしまっていた。


真衣は納得していなかった。


納得してないのに、頷いていた。


その頷きが、あとからずっと残った。


折れていた。


いらないほうを、また差し出していた。




グラスの底に少し残った液体を見て、僕は思った。


今の僕は、誰の顔色を見て動いている。


真衣の顔か。


純さんの声か。


それとも、どちらでもない何かか。




純さんが席を立った。


グラスを置く音が小さく響いて、僕の背中が勝手に反応した。


立ち上がる背中を追いかけるみたいに、口が動いた。


「一緒に住みたいって言われました」


純さんは止まらなかった。


振り返りもしなかった。


ドアへ向かう途中で、淡々と吐くように言った。


「俺はお前とは住みたくない」


それで終わりだった。


ドアの閉まる音が、一拍遅れて戻ってきた。


僕は笑ってしまった。


声は出なかった。


口の端だけが動いた。


そうだよな、と思った。 僕も住みたくない。


住みたくないのに、折れていた。


絶望の顔を見て、戻していた。


否定しない僕を作って、差し出していた。


近すぎて見ていないものがある。


それが自分だと分かっているのに。


会計をして、外に出た。


夜風が冷たかった。


街灯の光がやけに白く見えた。




帰り道、ひとつだけ考えた。


僕はなぜパートナーが欲しいと思ったのか。


必要とされたいからか。


安心したいからか。


寂しさを埋めたいからか。


どれも、正解みたいに聞こえる。


だから余計に、答えにならない。




家の鍵を開けた。


靴を脱いで、部屋に入った。


電気をつけなかった。


暗いままの部屋は、何も映さない。


鏡も、ただの黒い板みたいだった。



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