鏡の前の男
既読がついて、返信が来なかった。
深夜の0時17分。スマホの画面に「既読」という小さな文字が浮かんで、それから何も動かなかった。
送ったのは三時間前だった。「今度の土曜、どこか行きませんか」。
短い文章だ。
ナナさんとは二週間、毎日やり取りをしていた。
最初はお互いの近所の飲食店の話で、それから仕事の話になって、
彼女が猫を飼っているという話で少し盛り上がった。
続いていた。続いていたのに。
既読は一瞬でついた。
つまり読んだ。読んで、スマホを置いた。
その「置いた」という動作を、頭の中で何度も再生した。
どんな顔をしていたんだろう。困った顔か。それともため息をついたのか。
いや、もしかしたら関係ない話をしながら片手でスルーしたのかもしれない。
スマホを伏せる。
また手に取る。
画面をつける。
変わっていない。
伏せる。
眠れないまま朝になった。
翌日、返信は来た。「ごめん、バタバタしてて!しばらく難しそうです」。
感嘆符がついている。
感嘆符に意味があるのかないのか、しばらく見つめた。その後、返信は途絶えた。
僕はトーク画面を閉じながら、ぼんやりと思った。
漠然と、誰かいれば違うと思ってた。
でも何が違うのかは、考えたことがなかった。
六ヶ月間の記録は、身体の記憶として残っている。
プロフィール文より、写真を選ぶ時間の方が長かった。
自撮りで何度も笑顔を作って、でも画面の中の顔が自分じゃない気がした。
それでも一番マシなのを選んで、送信した。
最初にマッチングした女性に挨拶を送った。
相手からも同じ絵文字と定型文が返ってきた。
二往復で止まった。
次の相手のプロフィールに「旅行が好き」とあった。
「最近どこか行きましたか」と聞いた。
長い返信が来た。
指が熱くなった。
なのに翌日から「笑笑」で終わるようになって、三日後に途絶えた。
初めてデートに繋げた夜があった。
カフェで一時間。
コーヒーの味を覚えていない。
会話も残っていない。
帰り際の「また誘ってください」だけが残った。
次のメッセージを送ったが、返信は来なかった。
喋れないわけじゃない。
仕事では毎日話している。
取引先との交渉も、初対面の人への対応も、それなりにこなせる。
なのに、なぜ続かないのか。
何が欠けているのか、分からなかった。
自分が何を出しているのかも。
職場から歩いて十分のところに、小さなバーがあった。
カウンターだけの店で、椅子が八脚しかない。照明が低くて、昼間の目には少し暗い。最初に入ったのは偶然で、仕事帰りに雨が降り始めたからだった。その後も何度か来るようになったのは、自分でもよくわからない。
そこで飲む一時間が、何も考えなくていい時間だった。スマホを見ながらビールを飲んで帰る。それだけだった。
ある夜、女性バーテンダーの声が変わった。
ずっと事務的だった声が、違う音になった。顔を上げる前に、視線が動いた。
隣に男が座っていた。いつからいたのか分からない。グラスを置いて、言葉を終えたところだった。
男は僕と目が合っても何も言わなかった。また正面を向いた。
その夜、僕はスマホを出さなかった。




