鬼の酒
その昔、とある地方に“鬼が出る”と噂の山があった。なんでも、夜な夜な酒豪の鬼たちが集まり、どんちゃん騒ぎの酒盛りを繰り広げているのだという。近隣の村々では『夜間は決して山に近づくな』と固く言い伝えられていた。
だがある日、その噂をどこからか聞きつけた銀太という男が村にやって来た。
「へっ、鬼ってやつは確かに侮れねえが、酒好きとくりゃ話は別だ。おれより酒が強いやつはいねえ」
銀太は、これまで数々の酒飲み勝負に勝ち続けてきた、自他ともに認める大酒飲みである。
鬼どもに酒飲み勝負を挑み、負かして山から追い払うというのだ。鬼どもが酒の強さに誇りを持っているなら、必ず勝負を受けるだろう。もし、鬼どもが負けを認めずにぐだぐだ文句を垂れるようなら、懐に忍ばせた小刀で首を掻っ切ってやる。その頃には、鬼どもは酔いつぶれて、まともに動けやしねえだろうからな、と銀太は胸を張った。
村人たちは呆れながら、「そんなのは無謀だ」と止めにかかったが、「おれの血は酒でできてるんでい。負けやしねえ」と豪語する銀太には、もはや貸す耳などなかった。
とはいえ、もし本当に鬼を追い払ってくれるなら、村にとっても願ったりかなったりだ。村人たちは罪悪感をごまかすために、ささやかなもてなしを用意し、銀太を山へと送り出した。
夜。銀太は一人、山へ分け入り、獣道を踏みしめながら奥へと進んでいく。
木々が月の明かりを遮る闇の中、しばらく歩いたその先――ふと闇の向こうに紫色の光がちらちらと揺れているのが見えた。どこか藤の花を思わせる、怪しい色合いの灯りだ。
近づいていくと、そこでは鬼たちが火を焚き、大きな笑い声を上げながらちょうど宴の真っ最中だった。
「うお、なんだ!?」
「おお、人間じゃないか」
「どうした、迷子か?」
「はっはっは!」
鬼たちは銀太をまるで見世物のように扱い、口々に嘲るように笑った。だが銀太は怯むことなく、ずかずかと鬼の輪に割って入った。じろりと見回し、ひときわ体の大きな、どっしりと腰を据えて構える鬼を見つけると、その前に立った。
銀太の見立てどおり、そいつが鬼の親分だった。親分は怪訝そうな目つきで銀太を睨んだ。
「おい。人間の分際で、ここへ何の用だ?」
低く、重々しい声が腹の底まで響く。口から漏れた吐息は、腐ったカエルのような悪臭を帯びていた。銀太は思わず顔をしかめたが、すぐに鼻で笑い、肩を揺らして言い放った
「なに、お前らよりも酒が強いやつがいるってことを、教えてやりに来たのさ!」
一瞬の沈黙の後、鬼たちはどっと笑い出した。手を叩き、腹を揺らし、地面を転げ回り、咆えるように笑った。
「いやあ、いい度胸だ。酒好きは大歓迎。いっちょ勝負しようじゃねえか」
鬼たちはぞろぞろと、抱えるほどの巨大な酒瓶を持ち出してきた。
銀太はその一本を引っ掴むと、躊躇なく口に運んで、ぐいっと喉へ流し込んだ。
ぐびっ、ぐびぐびぐびっ、ぐびぐび……。
「ぷはあ、なかなかうめえじゃねえか、鬼の酒ってのはよ。まあ、ちっとばかし生臭えがな」
銀太は口元を手の甲でぬぐって、にやりと笑った。それを聞いた鬼たちは、またもや大笑い。そして、負けじと酒を飲み始めた。飲むは飲むは、銀太もまた飲む、飲む、飲み返す。
「ふーい、あ、言い忘れてたがよ。おれが勝ったら、お前さん方、もっと人里離れた遠い山にでも引っ越してもらうぜ?」
「おうよ、心得た。鬼は約束を守る」
飲み、飲み、また飲み。時に舌戦を交えては、また飲むは飲むは。ひたすらに飲み続け、空の酒瓶が次々と地面を転がっていった。
「鬼の酒も大したことねえなあ。ほら見てみろよ、親分。二人倒れたぞ、おっと、三人だ」
夜が深まるにつれ、鬼たちは一人、また一人と地に崩れていく。ついには、残るは銀太と鬼の親分だけとなった。
親分は酒瓶を握りしめ、にやりと笑った。
「なかなかやるじゃないか。だが、そろそろ限界なんじゃないか?」
「そっちこそ、目が泳いでるぜえ……」
銀太の顔色はまったく変わらない。酔いの気配など微塵も感じられないのだ。気合というより、使命感に燃えているのかもしれない。銀太自身も初めての感覚であった。
やがて、東の空がうっすらと白み始める。鳥が一声鳴き、森の空気に朝の気配が混じったそのとき――ついに鬼の親分が、でーん! と後ろへ倒れ込んだ。
「まいった! これほどの酒豪が人間にいたとはな!」
銀太はどっかりと胸を張り、大きく頷いた。
「へへっ。お前さんもなかなかだったよ。だが、約束は約束だ。この山から出て行ってもらおうか」
「ああ、もちろんだ。それと、こいつもやろう」
親分はそう言うと、ふらつきながら立ち上がり、大きな樽をドン! と銀太の前に置いた。
銀太は訊ねた。
「こいつはなんだい?」
「酒だよ。今、おれたちが飲んでたやつさ」
親分が蓋が開けると、銀太は興味津々で樽の中を覗き込んだ。
が、次の瞬間、銀太の顔から血の気がさっと引いた。
朝焼けの光が差し込むその中にあったのは、赤黒く濁った液体。どろりと波打つその表面には、人間の手足や肉片がぷかぷかと浮いていた。
「こいつが鬼の酒だ」
銀太は一瞬言葉を失ったが、静かに頷いた。
「なるほどな。血が酒なら、そら酔わんわな」
鬼の親分はすん、と銀太の首筋の汗の匂いを嗅ぎ取り、にたりと笑った。