二月二十三日(十四日目)
ほとほと、人間の本能というものが嫌になる。
スプーンを持った宮坂は、深いため息をついた。
食欲など微塵もないが、事実上の絶食が続く体はエネルギーを欲している。
歯車がズレているような気持ち悪さと、なにかを口へ運ぶたびに靄が晴れていく思考が心底不快だ。
それでも一口、宮坂は薄味の鶏粥を口に運んだ。
「……早瀬、なんであんなに鶏肉好きなんだろ」
気の置けない仲間たちと焼き肉を食べに行った時や、冬だからと皆で鍋を囲む際、いつも「お肉は鶏にして」と笑っていた早瀬を思い出し、宮坂は急に重さを増したスプーンを置いた。
音のない室内はどこまでも無機質で、別部屋で電話をしている佐野の密やかな声さえ聞こえてきてしまう。
耳が拾ったのは、『お別れの会』という言葉。
「誰と、さよならするんだろ」
そう呟き、耳が疼くほどの静寂から逃げるため、宮坂はテレビの電源を入れた。
途端、テレビから笑い声が飛び出した。黒板を引っ掻いたかのような不愉快でゾワリとする音に、思わず耳を塞ぐ。
画面に映るのは、テンションの高い女性アナウンサーと芸人の姿。晩冬の旅行先におすすめの行楽地だと言って街を散策する姿に、全身の毛が逆立った。
手元のリモコンを、ありったけの力をこめて投げつける。派手な音を立ててリモコンがぶつかり、テレビの液晶画面が割れた。先ほどまで楽しそうに笑っていた面々の顔が、亀裂で歪んだ。
「宮坂さん!?」
リビングに駆け込んできた佐野が見たのは、鼻息荒くテレビを睨みつける宮坂の横顔。
「ふざけんな!!!」
その横顔は、虚無が怒りの仮面を着けたかのようだった。怒っているはずなのに、温度も、光も、なにもない表情。
「なんで笑えるんだよ!? なんで忘れられるんだよ!?」
手元にあるありったけを投げつける宮坂など、二十年来の付き合いになる佐野ですら見たことがない。人が変わってしまったかのような態度に、佐野はひやりとしたものを背に感じた。
「早瀬がいなくなったんだぞ!? なのになんで、なにもなかったみたいに……っ!!」
わずか七日前は、あれほど大々的に早瀬の死を取り上げ、どの局も時間を割いて早瀬を追悼していたというのに。
たった七日で、世界は流れ続ける川を下り、そのどこかに早瀬を棄て置いたというのか。
「なんで……っ!」
たった七日で、人は、人を忘れるのか。
宮坂の指が、両頬に深くめり込む。
「宮坂さん!」
無意識に行われる自傷行為を止めようと、佐野は頬に爪を立てようとした宮坂の両手を掴んだ。
うっすらと、色を失った頬には八本の線が残っていた。
「なんっ、で……、俺はっ……! 一緒に寝てたのに! なんで……っ! なんで気付かなかったんだよ!」
激しく頭を振って叫ぶ声は、あまりに痛々しい。
痛々しいのに、その声はやはり、怒りの薄膜で包んだ虚無が音を得たかのように、空虚に響いた。
「なんで! 苦手なワインをアイツに飲ませたんだよ!! なんで、もっと早く起きなかったんだよ!!!」
なぜ、どうしてと。宮坂は自分を責める言葉を叫び続けた。
宮坂の手を掴む佐野の手に、思いがけず力がこもる。
佐野は知っている。宮坂と早瀬が、寄り添い支え合うようにして今日まで来たことを。
長い時間をかけて、二人が今日の関係を築いてきたことを。
「宮坂さん……」
最初からずっと、傍で見ていたからこそ、わかるものもある。
世界が早瀬を忘れるというのは、宮坂にとって、自分の一部を失うこと同義なのだろう。
宮坂の叫びは、慟哭などという言葉では、到底表現できなかった。