三月二十九日(四十八日目)
午前八時を告げるアラームが鳴る前に、宮坂はゆるゆると瞼を持ち上げた。
以前ほど寝起きが辛くないのは、睡眠導入剤の摂取量が減っているからだろうか。そんなことを考えながら、窓へ視線を向けた。
閉まりきっていないカーテンの隙間から見える外は、灰色に覆われている。今日はくもりなのか、それとも雨なのか。
空調をつけていない室内の空気は冷えていて、肌に触れる冷たさから逃げるように、掛布団を鼻元あたりまで引っ張り上げる。頬をすり寄せるように枕に鼻を埋めると、嗅ぎ慣れた早瀬のにおいがした。
「天気、ずっと、悪い……かな」
天候によっては、飛行機が羽田に着陸できないかもしれない。いや、成田か。どちらに到着するのかはわからないが、悪天候で着陸先が変わるにしても、セントレアか関西国際空港には着陸できないと、早瀬が困る。
それに、自分が早瀬のベッドを使っていることに怒りはしないだろうが、ツアーで何日も家を空けた直後にアフリカへ旅行に行っているのだ。リネンは洗いたいだろう。
夢の中で「今度、一緒にどこか行こうよ」と早瀬が言っていたことを思い出す。帰ってきた早瀬に、すべて丸投げかつ近場で良ければいいと伝えようと、宮坂は小さく頷いた。
瞼が重さを増す。もう一度閉じてしまおうかと思ったが、枕元に置いていたスマートフォンが鳴り、宮坂は閉じかけていた瞼を開けた。画面に表示されたボタンをタップしてアラームを止める。アラームを無視して寝入ったところで、佐野と藤原はなにも言わないかもしれないが、のろのろと宮坂は体を起こした。
サイドテーブルに置かれた腕時計に手を伸ばす。冬の道端に張った氷のような薄灰色に曇った文字盤を、宮坂は親指の腹で一撫でした。
布団から出て服を着替える。体を引きずってクローゼットへ向かい、扉を開く。ハンガーにかかっていた厚手のジップアップパーカーを手に取り羽織る。軽く羽織っただけでしまいこんだのだろうか。早瀬が使っているコロンの残り香がした。
自分より細身で、身長も頭半分低い早瀬の服を宮坂が着ると、袖丈が微妙に足らず、窮屈でもある。それでも、宮坂はジップアップパーカーを羽織ったまま、のろのろと寝室を出た。
「おはようございます。宮坂さん」
キッチンに立っている藤原が、宮坂に笑いかけた。
「田中さんは到着が遅れてて、今俺一人なんです」
佐野さんは、どうしても外せない用事があって午後から来るそうです、と藤原は添えた。
佐野はわかるが、田中が誰かはわからない。おそらく、毎日入れ替わりで家のことをしているスタッフの誰かを指しているのだろうと、宮坂は小さく頷いた。
バスルームへ向かい、洗顔と歯磨きをして戻ってくる。ダイニングテーブルには、既に朝食がセットされていた。
それぞれがテーブルに着いて朝食を摂る。まだ時間はかかるものの、朝食を完食した宮坂に藤原が薬を渡し、宮坂は薬を飲んだ。
食べ終わった食器をシンクまで持っていき、洗って伏せる。そこまでの作業を終えた宮坂は、なにをするでもなく、ベランダへ出る掃き出し窓にもたれかかるようにして床に座り込んだ。
ここ数日荒れっぱなしの外では、今日も強風が吹いていた。
朝食から一時間ほど経った頃。藤原が宮坂に声をかけた。
「佐野さんまだ帰ってこないので、塗り絵でもしませんか?」
宮坂に視線を合わせてしゃがみこみ、「どうですか?」と人懐っこい笑みを浮かべて小首を傾げた藤原に、宮坂は小さく頷いた。
ダイニングへ向かいがてら、藤原が本棚の空きスペースに収納していた塗り絵本と色鉛筆、それから水彩絵の具を取り出す。
「どれがいいですか?」
スクラッチ塗り絵、色鉛筆の塗り絵、水彩絵の具の塗り絵を提示された宮坂は、真ん中――色鉛筆の塗り絵を選んだ。
ペラリ、ペラリと、気だるげにページをめくる。まだ色の付いていない線画の一枚で、宮坂の手が止まる。ジッと線画を見つめたあと、宮坂は色鉛筆に手を伸ばした。
時計の秒針の音がするでもない。窓の外を吹き荒れる風の音だけがする室内で、宮坂は黙々と線画に色を付けていった。
塗り絵を始めてしばらく経った頃。来客を告げるチャイムが鳴り、藤原は席を立った。
「今日は風が凄いですね」
「ですね。それにしても、時間かかりましたね」
「はい。ちょっと、道中色々ありまして」
藤原と共にリビングダイニングへ入ってきた、はつらつとした女性の声に、宮坂はのろのろと顔を上げた。彼女が先ほど藤原の言っていた田中なのだろう。
「おはようございます、宮坂さん」
声と同じ、はつらつとした笑顔を宮坂へ向けて、田中が朝の挨拶を告げる。それから視線を下げ、「わぁ!」と感嘆の声をあげた。
「宮坂さん、塗り絵お上手なんですね! すごく綺麗!」
積極的に会話に加わることを良しとされていない彼女の口を突いた言葉を聞いた藤原も、宮坂の手元を見て思わず感嘆の声をあげた。
「メチャクチャ綺麗ですね!」
宮坂が開いていたのは、アネモネの花が何輪も描かれた線画。
塗りの甘さはあるものの、重なるように咲くアネモネは、濃淡の付いた赤、紫、ピンクを基調とし、黄色やオレンジ色でグラデーションをつけた、鮮やかな色に塗られていた。
「……小学校の、花壇に……、同じ、花が、植えられてて」
出したままにしていた色鉛筆をしまいながら、ポツリ、ポツリと宮坂は喋り始めた。
「この花は、同じ色……、同士で、咲かない、ことがある……って。混ざるって、教えて、もらった」
「そうなんですね。勉強になりました」
佐野さんが戻られたら、佐野さんにも見せてあげましょう。そう言って藤原は笑顔を見せた。不思議そうに手元の鮮やかなアネモネを見て首を傾げる宮坂の手元では、瑞々しいアイスブルーの文字盤が、きらきらと輝いていた。
昼食を食べ終わってから時間を置かず、藤原のスマートフォンが着信を告げた。電話の相手は佐野で、内容は予定が大幅に遅れていて、いつ戻れるかわからないことを伝えるものだった。
「うーん……」
腕を組んで唸る藤原に、どうかしたのかと田中が訊ねる。藤原が佐野の戻りが遅くなることを伝えると、田中は「ああ」と合点がいったような声を出した。直接ケアすることはまずないとはいえ、宮坂への会話療法が始まっていることは彼女も聞かされている。
藤原の悩みは、佐野が不在で頭数が足りないため、会話療法ができないことか。
「……田中さん」
「なんでしょう」
「雑談形式の会話療法をお手伝いいただくのって、無理ですかね」
言葉にしない代わりに、田中は表情で難色を示した。
それはそうだ。これはただの雑談に見せかけた認知行動療法のひとつで、多数の制約が存在する。自分が口にした小さな言葉がきっかけで宮坂の状態が悪化する可能性があるのだから、そんな重大な雑談を、田中としては安請け合いできない。
「NGの話題は事前にお伝えします。話の取っ掛かりだけ話してくだされば、あとは俺が質問する形を取りますから。『はい』や『いいえ』、もしくは簡単な回答を二言三言返していただくだけでいいので」
三十分だけ協力してくれと拝むように手を合わせた藤原を見て、マズいと思ったらすぐに止めること、事前の徹底的な内容確認を約束させ、田中は鼻から息を吐いた。
宮坂の耳には届かない声量で、二人は雑談の話題にしてはいけないこと、避ける言葉の再確認、それから田中が雑談の話題とする内容を確認し合った。
確認を終えた藤原は、すぐに雑談形式の会話療法を始めようとしたが、田中はそれに待ったをかけた。念のため、こちらにも目を通しておきたいと彼女が掲示したのは、竹中が佐野と藤原に渡した、死を受け入れるためのプロセスをまとめた小冊子。二人が何度も、何度も何度も何度も何度も読み返したせいで、小冊子はすっかりよれて、ページの角が丸くなってしまっていた。
小冊子を読み終え、もう一度話す内容を確認してから、藤原と田中はリビングへ移動した。
「宮坂さん、少しお話ししましょうか」
藤原の言葉に、宮坂は視線を彷徨わせてから頷いた。迷ったのではなく、壁掛け時計を探したのだろう。そして、壁掛け時計が指し示す時間を見て、日課となりつつある雑談をするのだとわかったから頷いたのだ。
「今日は、佐野さんの代わりに田中さんが参加してくれます」
「よろしくお願いしまーす」
田中は宮坂に笑みを受けたが、宮坂からの反応はない。
「早速なんですけど、私甘いものが大大大好きなんですよ。藤原さん食べます?」
「俺、あんこ好きですよ。ちなみに練り餡派です」
「つぶ餡かこし餡かで分かれるのは聞きますけど、練り餡は初めて聞きました」
これは話しても問題ない話題だ。早瀬は甘いものが苦手で、宮坂も好んでは口にしない。早瀬につながるものはないはずだ。
「練り餡派の藤原さんには悪いんですけど、洋菓子の話です。最近、うちの近所にカフェができたんですよ。そこのケーキがもう、すっごい美味しいんです」
ひく、と宮坂の肩がわずかに跳ねた。
「どれが一番おいしかったです?」
「フルーツタルトですね。フルーツがキラッキラに輝いてて」
「へえ。映えってやつですね。テイクアウトですか?」
「イートインです。ドリンクも凝ってるんです、そのカフェ。こう、ガラスカップの中で層ができてたりして」
「いいですねえ。桜餅が食べたくなりました」
「なんでですかっ」
「知ってます? 桜餅って二種類あるんですよ」
雑談を続ける二人の軽快なやり取りを、宮坂は数度目を瞬かせて見ていた。
雑談を終えてしばらくして、藤原のスマートフォンが再び震えた。
電話の相手が佐野だったなら、藤原はリビングで電話に出た。だが、自分を呼び出しているのは事務所だ。数秒悩み、藤原はドアを開け放ったまま廊下へ出た。
もう一人のスタッフである田中は、掃除のため離席している。そのため、宮坂を一人にしてしまうことになるが、ドアを開けておけば、宮坂の様子を確認したまま、かつ会話を聞かれずに済む。
認知行動療法の一環として、今はキッチンで洗い物をしている宮坂は、洗い物が終わったらすぐにベランダへ出る掃き出し窓に場所を移すはずだ。
「お待たせしました。藤原です」
そう思いながら、藤原は電話に出た。
洗い物を終えた宮坂はタオルで手を拭いた。いつもの宮坂なら、藤原の予想通り、このまま定位置となっているベランダへ出る掃き出し窓に向かっただろう。
だが、宮坂はキッチンの隅に置かれている踏み台を取りに行き、再びシンクの前に立った。
踏み台に乗り、シンク上の戸棚を開く。
上から二段目。ちょうど真ん中の段に当たる部分を見て、宮坂は首を傾げた。
そこには、置かれているはずの純ココアがない代わりに、薬袋がふたつ置かれていた。
上段、下段にも視線を走らせてみるが、やはり純ココアは見当たらない。あるのは小瓶のインスタントコーヒーと薬袋だけだ。
微糖のカフェモカが好きな宮坂のために、早瀬が自宅に常備していたもの。
小瓶のインスタントコーヒーなのは、香りが抜けてしまう前に飲みきれるように。純ココアなのは、甘さの調整がしやすいように。
先ほどカフェと聞いて、そういえばコーヒーを久しく飲んでいないと思い、そこからカフェモカが飲みたくなったのだが、どうして早瀬の自宅にあるはずの純ココアがないのだろう。
早瀬が純ココアを切らすことなど、あるはずがないのに。
「冬のツアーだったし、湿気るのヤだったのかな」
そう呟く一方で、宮坂はジッと薬袋を見つめていた。
風呂を済ませ、就寝の時間を迎えた宮坂は、大人しく寝室へ下がった。着ていたジップアップパーカーをクローゼットへ戻し、就寝時と入浴時以外は肌身離さず着けている、早瀬お気に入りの腕時計を外してサイドテーブルに置く。
身を横たえようと掛布団をめくったところで、小さな違和感に宮坂の手が止まった。
「?」
室内を見渡してみるが、朝と特別変わったところはない。電球が切れかけているわけでも、カーテンが開いているわけでもない。
枕元に置かれたままのスマートフォンの画面をタップすると、画面に現在時刻だけが表示された。こちらも、表示内容が変わったわけでも、電源が切れているなどの不調を抱えているわけではなさそうだ。
気のせいだろうかとベッドへ横になった途端、宮坂は跳ね起きた。
頭を預けようとした枕を取り上げ、顔を近づける。数秒枕のにおいを嗅いだのち、今度はめくれ上がった掛布団を引っ掴んでにおいを嗅ぐ。
掛布団から顔を上げた宮坂の顔は、真っ青になっていた。
ベッドから下り、ふらつきながらクローゼットを開ける。ハンガーラックにかかっていた服に鼻を寄せてにおいを確認し、再びベッドへ戻る。
再度枕に鼻を寄せてにおいを嗅いだ宮坂は、枕を胸に抱いてベッドにへたり込んだ。
枕から、掛布団から、パーカーから香っていたはずの早瀬のにおいが、薄くなっている。
その代わり、枕から、掛布団から、パーカーから、自分のにおいがする。
「早瀬……?」
おかしいではないか。早瀬は旅行に行っていて、自分は留守番をしているだけなのに。
なのになぜ、早瀬のにおいが薄くなっているのだ。早瀬が消えていくのだ。
シャンプーもボディーソープも、なにもかも早瀬の自宅に置かれているものを使っているのに、どうして早瀬だけが消えていくのだ。
どうして、自分が早瀬を上書きしているのだ。
「違う……」
枕を抱く宮坂の手に力がこもった。
そんなことあるはずがない。早瀬はもうすぐ帰ってくるのだ。自分の誕生日までに帰ると、早瀬は宣言していたではないか。
「早瀬……」
ヒュ、ヒュ、と短く荒い呼吸音が立ち始める。
約束したではないか。昔、根を詰めすぎた自分を見かねた早瀬が、我儘を言うふりをして散歩に連れ出してくれた先で見つけた中華料理屋が、まだあるか探しに行こうと。近いうちに、二人でどこかへ出かけようと。
なにより、誰よりも早瀬本人が楽しみにしていた約束があるではないか。
「はや……」
ガタガタと、宮坂の体が震え出した。
早瀬は約束を違える人間じゃない。早瀬は帰ってくるのだ。自分は留守番で、留守番をしているだけで、帰ってくる早瀬を迎え入れるのだ。これまでもずっとそうしてきたように、早瀬と「おかえり」と「ただいま」を言い合って、一緒に明日を当たり前のように過ごしていくのだ。
早瀬は旅行に行っていて、自分が早瀬を書き換えていて、早瀬と小さな約束をたくさんしていて、早瀬だけが少しずつ消えていって、早瀬だけがいなくて――。
「早瀬……は、帰って……くる、よ、な……?」
サイドテーブルに置かれた腕時計の文字盤は、色を失っていた。