英雄、死す
紀元前五四四年――。
余樊が鬼籍に入り、三年余りが過ぎていた。
新たな王として、その座に就いていた余祭は、気鬱の体で城外を独歩していた。
余祭は父の余樊に従騎して、舒鳩へ同道しなかったことを悔いた。そして、父を討った仇敵、楚王の熊招誅殺、その想いが日増しに募った。
余樊の武勇を色濃く享け、一騎当千と謳われる余祭のことである。後悔の念は、楚国へ幾度となく報復の兵を向けさせようとした。
しかし、突如として王を失った呉の国内は混乱を極めた。内政、外交、あらゆることに新王となった余祭は忙殺された。
楚国も虎視眈々と呉国の隙を突くよう窺っていたが、呉王となった余祭は、国境へ兵を割き、常時、守勢を保っていた。
ふと、余祭が陰鬱な顔を上げると、奇妙にもひとりの隠者の姿があった。
藜の杖を突いている。額は異常に突出し、鼻はひしゃげ、その体軀は右脚が木脚だった。五尺にも満たない全身を漆黒の襤褸で纏っていた。
「王たる者がそのような顔をしておっては、国事に支障をきたすぞ」
銅鑼のような声音で言うや、にやりとその面貌へ反歯の微笑を浮かせた。
「貴方さまは……?」
「浮世を傍観する隠者とでも申そうか。今は、方士の介象と名乗っておる」
怪訝の色を浮かせた余祭に、介象は冴えた眼差しを据えて続けた。
「王の座が念願を妨げておるようだのう。いっそのこと、王の座など捨ててしまわれい。なあに、そなたには颯々たる清風を呼ぶ弟、余昧がおるではないか」
「――――⁉」
余樊亡き後、弟の余昧は内政、外交と辣腕を振るい、新王となった余祭の良き助けとなっていた。
(王の資格は、余昧にもある。確かに余昧ならば、呉国を安寧に導けよう……)
黙考の中にあった余祭は、はっとして振り返ったが、そこにはもう介象の姿はどこにもなかった。
余祭は父より賜った宝剣、莫邪の柄をきつく握り締めた。
呉王、余祭が急逝した。
その報は、忽ち国内に知れ渡った。
訃報に嘆き悲しむ民の姿をよそに、葬儀はしめやかに執り行われた。それは王らしからぬ極めて質素なものだった。
城郭から葬儀の列を、ひとり静かな眼差しで眺めている者がいた。
余祭である。その体軀を漆黒の襤褸で纏い、腰には宝剣莫邪を佩びていた。
「本当に良いのでございますな、兄上?」
余祭の後方より、静かに質したのは、新王となった清雅な衣装の余昧だった。
「王たる者がいつまでも怨恨に苛まれておっては、国事を司ることなどできぬ。俺の中にあるのは、父の仇、楚王熊招を討つという一念のみ。そんな俺に王たる資格はない」
「…………」
「余昧よ、お前は近隣諸国へも名の知れた深慮遠謀の主。民を統治する王にこそ相応しかろう」
「……兄上」
「お前の兄、余祭は死んだ。そしてこれがお前との、真の今生の別れとなろう。余昧、父の遺志どおり、民を安寧に導け!」
「……御意!」
余祭は急逝を装い王の座を余昧へと譲ると、楚王熊招に報仇すべく出国した。