急襲と急逝
楚王の熊招の許に二つの報が齎された。
熊招にとって、ひとつは良き報、ひとつは悪しき報だった。
細作が齎した良き報とは、名工の莫邪の所在を摑んだというものだった。更に、干将と成した男児と共にあるという。
その報に熊招は、面貌を不敵に歪めた。
「莫邪とその息子を必ずや抹殺いたせ。後に禍根を残さぬようにな」
熊招は莫邪と干赤の暗殺に、幾人かの刺客を解き放った。
そしてもうひとつ、密偵が齎した悪しき報とは、楚の属国である舒鳩が反旗を翻し、呉国へ鞍替えしたというものであった。
その報に虎鬚で覆われていてもなお、それとわかるほどに、熊招の顔には忽ち朱が刷かれた。
「謀りおったな、余樊――‼」
玉座にあった熊招は、怒りで巨雷の音声を張り上げ、佩びていた干将の剣を抜き放つや、眼前の奏案を一閃裡に両断した。
「これは余昧による謀でございましょう」
階下に集った文武百官の中、一歩進み出で具申したのは謀士、屈建だった。
「熊招さまは、直ちに舒鳩まで兵を繰り出しなさいませ。必ずや余樊の身は先陣にありましょう。余樊を討つはそのときかと」
「全て用意は整っておるのか、屈建?」
苛立ちを隠しきれず、声を荒げる熊招に、屈建は冷然と応じた。切れ長の眼差しが、鋭い光を放ったようだった。
「万事、滞りなく」
その返答に、熊招は環眼をひき剥くと、即座に舒鳩へ向け出兵の号令を下した。
楚国の出兵は、いつもと様子が違えた。
呉本国へ向け二万の軍を、反旗を翻したばかりの舒鳩の地へは、僅か三千の軍。大小合わせて二軍を繰り出していた。
「我らに参じたばかりで、舒鳩の者らも不安があろう。斯の地へは儂が兵を率いて参る。余祭と余昧は残り、楚軍を蹴散らしてくれ」
「御意」
呉王である余樊の命に、余祭と余昧は何の疑いもなくそれに応じた。
至急、舒鳩へ馳せ参じた余樊は、同数の三千の兵を以って楚軍を迎え討った。
中央に騎兵、外縁に歩兵を配しては一塊となり、無闇に押してくる楚軍であったが、押し返そうにも一向に崩れる様子がない。
どうにもままならない戦況に業を煮やした余樊は、遂に自ら騎兵を率い、楚軍への突入を試みるべく勇んで駒を鞭打った。
纏った鎧の上から右臂を肩脱ぎ、戦袍を羽織った余樊が白髯を颯爽と靡かせ、剣戟の巷を掻い潜っては、疾風の如く白馬を駈る姿に、両軍の兵らは忽ち魅せられた。その勇姿はまさに戦場を疾駈する神将さながらだった。
余樊が率いた騎馬軍の勢いに、楚軍が怖じた狼虎のように、後退りしたその刹那――。
突如、真二つに割れた楚軍の中軍から、宙を切って飛ぶように躍り出たのは、三百の騎馬軍だった。それもただの騎馬軍ではない。駒さえも鎧袖を纏った重騎兵の一団だった。
その先頭には、楚王熊招の猛姿があった。
楚の重騎兵が進むところには瞬く間に血煙が噴き、首が、手が、刎ね飛んだ。その進軍に益々の拍車が掛かった重騎兵は、垂涎の的の如く唯一騎へと迫った。
その一騎こそ、呉王の余樊だった。
この猛進撃に、歴戦の余樊もさすがに狼狽した。無理もない。馬鎧に覆われた重騎兵は、原野の如く戦場を駈り、抗しようにも手段がなかった。
すると、余樊の眼前まで迫った重騎兵の一団より、一彪の如き騎馬が飛び出した。
「老いたな、余樊‼」
鬼気せまる姿で大喝したのは、紛れもなく楚王の熊招だった。
熊招は佩びていた宝剣、干将の剣を引き抜くや、凄まじい咆哮と共に紅光の一閃裡を余樊へと浴びせた。
「――――⁉」
刎ねられた余樊の首は、白髯を靡かせ、鮮血を吹き散らし、血の虹を宙へ描いた。瞬く間に屍体と化したその体軀は、力なく馬上より摚っと頽れた。
「呉王余樊、討ち取ったり‼」
熊招が大音声を発するや、王を失った呉兵らは忽ち混乱の体を成し、我先にと潰走した。
(必ずや宝剣を佩びて……)
辺りの無慚な光景と騒擾には一瞥もくれず、熊招は慌しく腹を揺らして下馬すると、余樊の亡骸を隈なく探った。
しかし、である。
(……ない⁉)
辺りへ鳴り響いていたのは、地をどよもすほどの楚軍による鬨の声だった。