謀臣の屈建と遠謀の余昧
莫邪捕縛の報が一向に入らない熊招は、遂に各地へ細作を放つに至った。
そして、もうひとつの宝剣を手中に納めんがため、熊招は呉国攻略に躍起となった。
「さすがは呉王の余樊。老いたとは言え、そう易々と豊土を明け渡しはせぬか」
楚都の郢、その王宮の玉座では、熊招が虎鬚を逆立て眼を剥き、苛立ちを隠せずにいた。
階上にあった熊招の猛姿に、文武百官は逆鱗に触れぬようすっかり静まり返っていた。無理もない。迂闊に具申しようものなら、死さえ賜り兼ねないのである。
確かに、熊招の度重なる成果のない出兵、それに国内の疲弊を懸念し、進言する報国の臣もあった。
しかし、その悉くが、熊招の有する宝剣、干将の餌食となっていた。故に、暴君の熊招に媚び入るように、国政などを省みず、侵攻の献策をする臣もいたのである。
切れ長の眼差しに鶴の如き痩軀だった。道袍を纏った壮臣、屈建もそれを試みていた。
「呉国は、常に先陣に身を置く王の余樊、驍勇で名を馳せる長子の余祭、そして、次男の余昧の軍略が冴えるが故、容易に崩れぬものと存じまする。然もあれば、その内のひとりでも亡き者にすることが出来ますれば……」
「仕留めるは余樊じゃ! 余樊が宝剣を佩びているに決まっておる!」
「この屈建、必ずや次の戦で呉王余樊を屠る策がございます」
屈建は、不敵な笑みを口辺に刷いた。切れ長の眼差しが異様に光って見えた。
一方、呉都の姑蘇では――。
呉王余樊の統治の下、実りの秋を迎えていた。田園には灌漑を敷き、近隣諸国から流れ来る人々を受け入れては、収穫量、人口共に年々右肩上がりだった。それは、余樊が民に安穏の日々を与えるべく、努めた成果に他ならなかった。
しかし、近年の楚国による侵攻のため、出兵を余儀なくされた呉国も、穀物の備蓄は有り余るものではなかった。
そんなある日の昏れなずむ頃合、余樊と子息の余祭、余昧は、長閑にも秋の収穫に勤しむ民の姿を望みながら、轡を並べて駒を進めていた。
「近年の楚の侵攻は、眼に余るのう」
自慢の白髯を扱きながら、余樊は余祭と余昧、そのどちらへともなく呟いた。
楚軍は兵と民の区別なく、年端のゆかぬ童ですら手に掛ける。呉国に侵攻し、邑々を蹂躙しては掠奪、暴虐の限りを尽くす。
「楚王を討たずして、呉の安寧はありませぬ」
呉国が誇る一騎当千の勇猛、余祭も平穏な民の姿を眼前に、その精悍な顔に悲愁の色合いを浮かせていた。
唯ひとり、余昧だけは秋風にその身をなぶらせるようにし、厳しく冴えた眼差しで深慮遠謀の中にあった。
「近年に次ぐこれだけの連戦、必ずや楚の国力は疲弊しておりましょう。楚の侵攻を止めるには、その国力を更に削ぐ。然すれば、侵攻は自ずと止みましょう」
「そのようなことができるのか、余昧?」
瞳を輝かせた余樊と余祭が、馬上で身を屈し、余昧の顔を覗き見るようにした。
「父上、兄上、私に一計がございます」
余樊と余祭の眼に映ったのは、余祭の清雅にも柔らかな微笑だった。