陋劣卑賤の王、熊招
干将は一度、合肥の山中にある庵へと戻り、呉王の余樊より賜った財貨の荷を置いた。
気丈にも莫邪は、普段どおりに内助していた。
干将は、嫣然と微笑む莫邪へ事の成果と憂いを告げると、次に向かった先はもうひとりの王の許だった。
楚国の都、郢――。
数人の美女を傍らへ侍らせていた。
虎鬚で覆われたような面貌に、纏った袍衣を肌蹴るようにしては、上半身を惜し気もなく晒している。その恰幅のいい腹を揺らした楚王の姿が玉座にあった。
楚王の熊招は、階下に平伏した干将へは既に興味を逸したかのように、まるで木で鼻を括ったような態度だった。
しかし、その態度は、徐に鞘より宝剣を抜き放った途端、一変したのである。
「ほう!」
抜き放ったその一振からは眩いほどの光が放たれ、見ればその刀身には珍しくも龜文が浮いていた。
すると、感嘆の声を上げた熊招の顔へ、薄っすらと残忍な表情が浮いた。
その刹那だった。
熊招は、侍らせた数人の美女たちを、献上されたばかりの宝剣、干将の剣で斬りつけたのである。玉座には忽ち血煙が噴き登り、数個の美しい面貌が次々と刎ね飛んだ。
平伏していた干将も階上の異変を察し、顔を上げるや悲痛の声を漏らしたのである。
「な、何を――⁉」
その声に、張り出した腹の体軀は動きが止まり、熊招は微塵も眉宇を顰めることなく声の主へ炬眼を向けた。
「女人とは言え、まるで泥濘のように斬れおる。この斬れ味、まさに宝剣と呼ぶに相応しい! しかし、儂が所望したのは雌雄の二振であることを忘れた訳ではあるまい?」
「――――‼」
鮮血に塗れた王、熊招に見下ろされた干将はすっかり臆し、固唾を飲んだ。
「この宝剣に彫られておるのは、紛れもなくお主の名。故に雄剣であろうことは確か。そうであれば……」
即座に干将の背筋は凍てついた。寒さをも感じたような躰とは裏腹に、一挙に額へと噴いた汗は、面を伝い顎の先端より滴り落ちた。
それを見遣った熊招は、血汐に塗れた宝剣を手に、くわっと環眼を剝いた。
「……雌剣は、何処にある⁉」
階上の熊招より発せられた巨雷の声に、干将は慄いた。熊招にすっかり意気を飲まれた干将は、意を決したように応じたが、その声音は皺枯れたものだった。
「雌剣莫邪は、呉王余樊さまへ献上致してございま――」
干将が言い終えるや否や、やおら階上より熊招の猛姿が跳躍していた。腹が出ているとは言え、兵馬倥偬の間にあることの多い熊招にとって、何ほどもない動作だった。
熊招は、驚きの形相を呈した干将の眼前に着地するや、一道の紅光とも見える閃きを発した。
次の瞬間、胴から離れたのは干将の首だった。血飛沫を上げ、摚っとその軀幹は頽れた。
「美女、芳酒、財貨、全てにおいて最上を有する。宝剣もまた然り。天下を統べる資格は、その者にこそあろう」
王宮にあった文武百官たちは、日頃から熊招の暴挙に恐れ慄き、諫める臣はすでに皆無だった。
「今後これ以上の宝剣を拵えてもらっては困るのだ。故に、お主らには褒美として死を与える」
驚きの形相のまま転がった干将の首に、熊招は北叟笑んだ。
「直ちに名工莫邪を探し出せい!」
覇業の志は有せど、欲望のためには手段を選ばず、眼を覆わんばかりの暴挙は常である。つまり、楚王熊招は陋劣卑賤の王であった。
(雌剣莫邪はあの老骨のもとか。……面白い! 必ずや我が手にしてくれる)
凄まじいほどの眼光を東方へ据えると、熊招は再び咆えるが如く巨雷の声音を発した。
「出兵だ! 喰らい尽くすは呉の地!」
着いた血糊を無造作に振り払うと、熊招は高く烈しい音を上げ、干将の剣を鞘へ納めた。
その音はどこか、悲愁を帯びていた。