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報仇の剣  作者: 熊谷 柿
3/10

英雄、余祭

 射抜くような眼光だった。


 呉国の都、姑蘇こそ――。

 その王宮の玉座より炬眼きょがんを剥き、階下を睨み付けるようにした呉王の姿は、まさに神将の趣きがあった。

 無理もない。美しいほどの白髯を蓄え、まとった鎧の上から右腕を肩脱ぎ、戦袍せんぽうを羽織っている。その姿は万夫不当ばんぷふとうの老将そのものだった。

「依頼しておったのは宝剣、雌雄二振の筈であったが……」

 呉王の余樊よはんは、じっと干将かんしょうを見詰めた。

「……やはり干将と莫邪ばくや、当代きっての名工を以ってしても、雌雄二振の宝剣は困難であったか」

 

 階上からの烈しい眼光を避けるように、干将は再び拝跪はいきした。

「宝剣ともなれば、鍛冶士が一生に一振拵えられるか否かの代物。我らが力量で王に献じられるは、その一振がやっとでございます。どうかお許しあれ」


 低頭する干将を見遣り、余樊は献上された一本の業物を鞘から抜き放った。

「な、何と――‼」

 余樊は思わずその眼を見張った。

 鞘より抜き放った剣からは冷ややかに冴えた光が放たれ、その刀身にはこれまでに見たこともないような漫理まんりが浮かんでいる。

「……莫邪?」

 面貌めんぼう怪訝けげんの色を浮かせた余樊は、剣の根元に「莫邪」の二文字が彫られていることを見定めて独りちた。


「我が妻の名、それを銘打った世に二つとない宝剣でございます」

「ほう。しかし、今日はその姿が見当たらぬが?」

「子を身篭り、山中にて養生しておりまする」

「それはめでたい。この莫邪の剣、見るからに宝剣と呼ぶに相応しい。手にした者は必ずや天下に覇を唱えられよう。干将よ、よくぞ拵えてくれた。褒美を取らす故、山中へ戻り莫邪の側についていてやるがよい」

 依然として莫邪の剣に見惚れていたような余樊が、階下で平伏した干将へ破顔を向けた。

 高く冷ややかな音を立て、莫邪の剣は鞘へと納まったが、どこかその音は悲しげに響いていた。

「有り難き、幸せ」

 干将は、余樊の言葉に再度拝跪しながら、深い安堵の息を漏らしていた。


(妻の名を銘打った剣。つまり、莫邪の剣は雌剣。名工の干将と莫邪は、確かに宝剣、雌雄二振を拵えておろう。しかし……)

 玉座より王宮を後にする干将の困憊したような後背を見遣り、余樊はそう得心していた。

(……故あって雄剣は他所へ流れたか)

 余樊は、民を安寧に導く、雅量高致がりょうこうちの王であった。その武勇を誇ったような様相とは裏腹に、寛大で気風の良い老いた好漢は、干将のやつれ果てた姿から苦労をも見て取っていた。それ故に胸中へ抱いた疑念を、干将へ詰問するような真似はしなかったのである。


さいまいをこれへ」

 しばらくして姿を現したのは、首太く、眉はがり、鼻梁びりょう高く、眼を開けばらんと輝き、白袍はくほうに銀の鎧を纏った武者振りの良い太子、余祭よさいだった。その驍勇ぎょうゆうは既に国内外に問わず鳴り響く、一騎当千の偉丈夫いじょうぶである。

 そして、もうひとりは、峨冠博帯がかんはくたいに威儀を正し、颯々たる清風を呼ぶ風格、その慧眼と思慮は計り知れない実弟の余昧よまいであった。

 余祭と余昧は、共に次代を期待された呉王余樊の子息であり、兄弟は唇歯しんしの仲でもあった。

 

 老いた余樊は、干将と莫邪へ雌雄二振の宝剣を依頼し、抱いた覇業の志と共に、兄弟へそれぞれを贈与する肚裏はらだった。

「本来であれば二本の宝剣がある筈であった。お主らにそれぞれと共に、天下平定の夢を託したかった。だが、願い適わずここには一本しかない。そうであればこの莫邪の剣、太子である祭に贈ろうと思うが」

言うなり、余樊は宝剣莫邪を再び鞘から抜き放ってみせた。


「こ、これは――」

「お、おお……」

 莫邪の剣、その刀身には見事なほどに美しい漫理が浮かび、冷ややかに冴えた光は、たちまち余祭と余昧の兄弟を魅了した。

「これこそは、太子である兄上が所持して然るべき業物。馬上で莫邪の剣を振るう兄上の姿を見ただけで、敵兵は必ずや潰走いたしましょう!」

 余昧は興奮気味に言うと、にことした笑みを兄の余祭へ送った。

「莫邪の……剣」

 

 余樊と余昧に促がされるようにして、余祭は宝剣莫邪を怖ず怖ずとその手にした。

「莫邪の剣をかざし、この乱世を、天下を平らげよ!」

「兄上、微力ながらこの余昧も尽力いたしますぞ!」

 ただでさえ武者振りの良い余祭であった。莫邪の剣を手にした姿は、見惚れんばかりに猛々しく、然も天下を平定せん英傑に映った。

「父上、この莫邪の剣、有り難く頂戴いたしまするぞ」

 余祭は、莫邪の剣を腰に佩びると、颯爽と王宮を後にした。


「余祭ならば、必ずや民を安寧に導いてくれるであろう」

「はい。兄上ならば」

 その雄々しい後背に、余樊と余祭が送っていたのは、期待の眼差しに他ならなかった。


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