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報仇の剣  作者: 熊谷 柿
2/10

誕生、宝剣干将と莫邪

 ときは今より遡ること二千五百有余年、大陸は大小数多の群雄勢力が覇を競う如く割拠し、現代では春秋戦国時代と呼ばれる頃のことである。


 まるで堆く積まれた一塊の薪が、自ら登っているようだった。

 蘶峨ぎがたる山嶽さんごく、その嶮峻けんしゅんな山道を、ひとりの男が足取りも確かに悠々と登っている。熊のような軀幹くかんの背には、どういう訳か身の五倍ほどもの薪を負っていた。


 鬱葱うっそうとした狭隘きょうあいの山道をしばらく登ると、渓川の急潭きゅうたんへと辿り出た。そのすぐ脇には、ひとつの簡素ないおりが結ばれている。

「お帰りなさいませ、干将かんしょうさま」

 男の帰還を察しては、庵より繊々細歩で楚々と姿を現したのは、細腰雪肌さいようせっぷの美質だった。

 大きな眼は明瞭で、感情の光を宿した黒い瞳は理智に輝いている。一束にされた長く艶やかな黒髪とは反するように、まとった衣は質素な上に薄汚れていた。


 その手弱女たおやめの声に、うつむき加減で大きな歩を進めていた巨軀きょくの男も、はたとその顔を上げた。背負った薪を揺らしては、大きな口許に微笑を刷き、臥蚕がさんの眉尾を垂れさせた。

莫邪ばくやよ、これを見るがよい。南山、それも良質の薪が手に入った。加えてここの水は生気に溢れ、まさに天が与え賜うたもの。これで王の依頼に応えられよう」

「はい」

 意気揚々と言った干将に、莫邪も嬉々とした。


 干将と莫邪、共に欧冶子おうじしという老爺ろうやを師と仰いだ、当代で一、二を競う鍛冶士である。

 志を同じくする干将と莫邪が、夫婦の契りを交わすのも至極当然の成り行きだった。己らの腕を更に昇華させんと、干将と莫邪が隠棲したのは大陸をたゆたう長江、それに程近い合肥がっぴ(現在の中国は安徽省合肥市)という地の山中だった。

 二人が更なる高みを目指し、研鑚けんさんの日々が続いていた、そのような折柄のことだった。


「しかし、困ったことになったものだ」

 ずしりと薪を地へ下ろした干将は、やれやれ顔で無造作に額の汗を拭った。

「確かに、困ったものです」

 干将へ歩み寄った莫邪が、薪の質を確かめるように身を屈めた。その優美な顔にも憂いの色が浮いている。


 今より二年ほど前、紀元前五六一年――。

 どう聞きつけたのか、その干将と莫邪夫婦のもとに、楚王の使者が訪った。

「天下に覇を唱えるに相応しい、雌雄二振の宝剣を拵えよ」

 そのような依頼だった。

 それから間もなくして、別の使者が二人の許を訪った。それは呉王の使者だった。依頼の内容は偶然にも、楚王からのそれと全く同じだった。

 つまりは、隣接するように位置した楚国と呉国、それぞれの王から干将と莫邪へ宝剣の所望があったのだった。


「宝剣を拵えろとは言うが、我らが生ある内に一本鍛えられるかどうか、それほど困難な代物であるぞ?」

 干将は言うや否や長嘆息した。

「それは重々承知でございます。鉄剣、鋼剣、柔鋼剣の類であれば拵えるに容易な代物。しかし、宝剣ともなれば話が別でございます。二人で歳月を費やし、これまでに納得できる代物は青鋼剣の一振」

 莫邪は薪から干将へ視線を移したが、干将を見詰めたその顔には、依然として憂いの色が浮いていた。


 この時代、並大抵の鍛冶士であれば、せいぜい鉄剣から柔鋼剣を拵えるのが限度だった。腕の良い鍛冶士が何百振と鍛える中で、一振の青鋼剣が得られるか否かという塩梅あんばいだった。

 鍛え方にも差があり、鉄を長いこと練ると鋼となり、その鋼を更に練り上げていくと、ようやく純粋でしなやかな硬さが出る。それをまた鍛え上げると、やがて青みを帯びてくるのだった。

 そして、その更に上へ位置するのが宝剣だった。どうすれば宝剣となるのかさえ、干将と莫邪を以ってしても、暗中模索の体だった。


 加えて、楚、呉の王それぞれからの依頼である。合わせて四本もの宝剣を拵えねばならなかった。

 試行錯誤の末、何振も鍛えたのだが、どうもこれというものにならない。清らかな水に加え、干将が南山の神木、その薪を手に入れてきた。遂には、師である欧冶子より臨終の際に賜った、鉄塊を使用するより他になかったのである。


「しかし、求めた材は全てここに揃った。我らが心血を注ぎ入れ、丹念に練り上げれば……」

 長旅の疲れなど微塵も感じさせないほど、干将の眼差しには精気が溢れていた。

「余生など惜しまず、命を燃やすよう鍛え上げれば……」

 莫邪は嫣然えんぜんと微笑んだ。

 それを見遣った干将も、釣られたように微笑を浮かせた。

「うむ。名工として謳われる我らが名にかけ、やってやろうではないか」

「はい。やってみましょう」

 干将と莫邪は互いにほぞを固めると、再び宝剣を鍛え上げることに傾注したのである。

 

 その工程を熟視するに――。

 干将と莫邪はそれぞれに鉄を鍛えた。

 南山の神木から成る薪、その炎で師より賜った鉄を練り、渓川よりくべた水で冷ましては、昼夜問わずひたすら鍛え続けた。


 それは、まさに心血を注ぐと言うに相応しいものだった。

 その証に、干将は剥いだ己の爪に念を込め、煌々と燃え上がるの中に投じては鉄を練った。その行為は十指に及んでいた。

 一方、莫邪は腰まで伸びた艶やかな黒髪を切り落し、渓水をくべたかなえに投じては鉄を冷ました。美しき黒髪は見る影もなくなった。


 そうして数か月のときを要したある日――。

 日輪が中天に達した頃合であった。

 干将が炉より剣を取り出すと、朱の火炎に包まれた幾羽もの雀が飛び出した。

「ヒャッ!」

 頓狂とんきょうな声を上げる中、炎を上げた朱雀すざくたちは、その干将の身辺を頻りと飛び回るや、取り出した剣に吸い込まれるようにして消えたのである。


 今度は冷然とした月光が降り注ぐ頃合のことだった。

 莫邪が剣を冷まそうとしたそのとき、渓水で満たされた鼎より躍り出たのは、頭大ほどの玄々とした蛇頭の亀だった。

「あらっ⁉」

 眼をまるくした莫邪が興味の声を発する中、甲羅を玄く光らせた玄武げんぶは、その蛇頭を伸ばし渓水に浸かった剣に巻き付くや、吸われたかのように消えてしまったのである。


 干将と莫邪がそれらを鍛え上げてみれば、宝剣と呼ぶに相応しい業物に仕上がった。

「こ、これは見事!」

「は、はい。まさに……渾身の仕上がり!」

 干将と莫邪は驚嘆して賞賛し合うと、双方その出来栄えに眼を見張った。


 干将の一振は眩いほどの光沢を放ち、よく見ればその刀身には龜文きもん(亀裂模様)が浮いている。

 ひとつ、二つと振ってみると、眼前には煌々とした光が放たれ、耳元には熱き風が鳴った。振り上げて鉄柱を斬ってみると、その鉄柱はまるで泥のように斬り裂かれた。


 一方、莫耶の一振は冷ややかに冴えた光を放ち、その刀身には漫理まんり(水波模様)が浮かんでいた。

 ひとつ、二つと振れば、眼前に冷ややかな光が煌き、耳元へは冴えた風が鳴り響いた。これも振り上げて鉄柱を斬ると、今度も泥のように鉄柱を斬り裂いたのだった。


「これ以上の代物はもう鍛えられまい」

「確かに、二度とは鍛えられますまい」

 干将と莫邪は、揃って黙考した。暫し、二人の間に沈黙の時が流れた。

 口を開いたのは、干将だった。

「では莫邪、それぞれを楚と呉の王に献じることにしようではないか」

「そうしましょう、干将さま」

 干将と莫邪が身命を賭して鍛えた二振は、その身をやつれさせ、蝕むほどだった。

 それもその筈、干将が剥いだ十指の爪は、それ以降伸びることはなく、莫邪の黒髪もすっかり白んでしまったのである。

 やつれ果てた干将だったが、依然としてその瞳には強い光が宿っていた。

「それでは、己がそれぞれの名をこの剣に銘打とうではないか」

「それは名案でございます。私たち夫婦が拵えた雌雄二振、一対の宝剣。干将と莫邪――」

 骨と皮だけになったような白髪の莫邪が、莞爾かんじとして笑った。


 こうして雄剣(陽剣)干将、雌剣(陰剣)莫邪とする、雌雄二振の宝剣がここに誕生したのである。



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