誕生、宝剣干将と莫邪
ときは今より遡ること二千五百有余年、大陸は大小数多の群雄勢力が覇を競う如く割拠し、現代では春秋戦国時代と呼ばれる頃のことである。
まるで堆く積まれた一塊の薪が、自ら登っているようだった。
蘶峨たる山嶽、その嶮峻な山道を、ひとりの男が足取りも確かに悠々と登っている。熊のような軀幹の背には、どういう訳か身の五倍ほどもの薪を負っていた。
鬱葱とした狭隘の山道を暫く登ると、渓川の急潭へと辿り出た。そのすぐ脇には、ひとつの簡素な庵が結ばれている。
「お帰りなさいませ、干将さま」
男の帰還を察しては、庵より繊々細歩で楚々と姿を現したのは、細腰雪肌の美質だった。
大きな眼は明瞭で、感情の光を宿した黒い瞳は理智に輝いている。一束にされた長く艶やかな黒髪とは反するように、纏った衣は質素な上に薄汚れていた。
その手弱女の声に、俯き加減で大きな歩を進めていた巨軀の男も、はたとその顔を上げた。背負った薪を揺らしては、大きな口許に微笑を刷き、臥蚕の眉尾を垂れさせた。
「莫邪よ、これを見るがよい。南山、それも良質の薪が手に入った。加えてここの水は生気に溢れ、まさに天が与え賜うたもの。これで王の依頼に応えられよう」
「はい」
意気揚々と言った干将に、莫邪も嬉々とした。
干将と莫邪、共に欧冶子という老爺を師と仰いだ、当代で一、二を競う鍛冶士である。
志を同じくする干将と莫邪が、夫婦の契りを交わすのも至極当然の成り行きだった。己らの腕を更に昇華させんと、干将と莫邪が隠棲したのは大陸をたゆたう長江、それに程近い合肥(現在の中国は安徽省合肥市)という地の山中だった。
二人が更なる高みを目指し、研鑚の日々が続いていた、そのような折柄のことだった。
「しかし、困ったことになったものだ」
ずしりと薪を地へ下ろした干将は、やれやれ顔で無造作に額の汗を拭った。
「確かに、困ったものです」
干将へ歩み寄った莫邪が、薪の質を確かめるように身を屈めた。その優美な顔にも憂いの色が浮いている。
今より二年ほど前、紀元前五六一年――。
どう聞きつけたのか、その干将と莫邪夫婦のもとに、楚王の使者が訪った。
「天下に覇を唱えるに相応しい、雌雄二振の宝剣を拵えよ」
そのような依頼だった。
それから間もなくして、別の使者が二人の許を訪った。それは呉王の使者だった。依頼の内容は偶然にも、楚王からのそれと全く同じだった。
つまりは、隣接するように位置した楚国と呉国、それぞれの王から干将と莫邪へ宝剣の所望があったのだった。
「宝剣を拵えろとは言うが、我らが生ある内に一本鍛えられるかどうか、それほど困難な代物であるぞ?」
干将は言うや否や長嘆息した。
「それは重々承知でございます。鉄剣、鋼剣、柔鋼剣の類であれば拵えるに容易な代物。しかし、宝剣ともなれば話が別でございます。二人で歳月を費やし、これまでに納得できる代物は青鋼剣の一振」
莫邪は薪から干将へ視線を移したが、干将を見詰めたその顔には、依然として憂いの色が浮いていた。
この時代、並大抵の鍛冶士であれば、せいぜい鉄剣から柔鋼剣を拵えるのが限度だった。腕の良い鍛冶士が何百振と鍛える中で、一振の青鋼剣が得られるか否かという塩梅だった。
鍛え方にも差があり、鉄を長いこと練ると鋼となり、その鋼を更に練り上げていくと、ようやく純粋でしなやかな硬さが出る。それをまた鍛え上げると、やがて青みを帯びてくるのだった。
そして、その更に上へ位置するのが宝剣だった。どうすれば宝剣となるのかさえ、干将と莫邪を以ってしても、暗中模索の体だった。
加えて、楚、呉の王それぞれからの依頼である。合わせて四本もの宝剣を拵えねばならなかった。
試行錯誤の末、何振も鍛えたのだが、どうもこれというものにならない。清らかな水に加え、干将が南山の神木、その薪を手に入れてきた。遂には、師である欧冶子より臨終の際に賜った、鉄塊を使用するより他になかったのである。
「しかし、求めた材は全てここに揃った。我らが心血を注ぎ入れ、丹念に練り上げれば……」
長旅の疲れなど微塵も感じさせないほど、干将の眼差しには精気が溢れていた。
「余生など惜しまず、命を燃やすよう鍛え上げれば……」
莫邪は嫣然と微笑んだ。
それを見遣った干将も、釣られたように微笑を浮かせた。
「うむ。名工として謳われる我らが名にかけ、やってやろうではないか」
「はい。やってみましょう」
干将と莫邪は互いに臍を固めると、再び宝剣を鍛え上げることに傾注したのである。
その工程を熟視するに――。
干将と莫邪はそれぞれに鉄を鍛えた。
南山の神木から成る薪、その炎で師より賜った鉄を練り、渓川よりくべた水で冷ましては、昼夜問わずひたすら鍛え続けた。
それは、まさに心血を注ぐと言うに相応しいものだった。
その証に、干将は剥いだ己の爪に念を込め、煌々と燃え上がる炉の中に投じては鉄を練った。その行為は十指に及んでいた。
一方、莫邪は腰まで伸びた艶やかな黒髪を切り落し、渓水をくべた鼎に投じては鉄を冷ました。美しき黒髪は見る影もなくなった。
そうして数か月のときを要したある日――。
日輪が中天に達した頃合であった。
干将が炉より剣を取り出すと、朱の火炎に包まれた幾羽もの雀が飛び出した。
「ヒャッ!」
頓狂な声を上げる中、炎を上げた朱雀たちは、その干将の身辺を頻りと飛び回るや、取り出した剣に吸い込まれるようにして消えたのである。
今度は冷然とした月光が降り注ぐ頃合のことだった。
莫邪が剣を冷まそうとしたそのとき、渓水で満たされた鼎より躍り出たのは、頭大ほどの玄々とした蛇頭の亀だった。
「あらっ⁉」
眼を円くした莫邪が興味の声を発する中、甲羅を玄く光らせた玄武は、その蛇頭を伸ばし渓水に浸かった剣に巻き付くや、吸われたかのように消えてしまったのである。
干将と莫邪がそれらを鍛え上げてみれば、宝剣と呼ぶに相応しい業物に仕上がった。
「こ、これは見事!」
「は、はい。まさに……渾身の仕上がり!」
干将と莫邪は驚嘆して賞賛し合うと、双方その出来栄えに眼を見張った。
干将の一振は眩いほどの光沢を放ち、よく見ればその刀身には龜文(亀裂模様)が浮いている。
ひとつ、二つと振ってみると、眼前には煌々とした光が放たれ、耳元には熱き風が鳴った。振り上げて鉄柱を斬ってみると、その鉄柱はまるで泥のように斬り裂かれた。
一方、莫耶の一振は冷ややかに冴えた光を放ち、その刀身には漫理(水波模様)が浮かんでいた。
ひとつ、二つと振れば、眼前に冷ややかな光が煌き、耳元へは冴えた風が鳴り響いた。これも振り上げて鉄柱を斬ると、今度も泥のように鉄柱を斬り裂いたのだった。
「これ以上の代物はもう鍛えられまい」
「確かに、二度とは鍛えられますまい」
干将と莫邪は、揃って黙考した。暫し、二人の間に沈黙の時が流れた。
口を開いたのは、干将だった。
「では莫邪、それぞれを楚と呉の王に献じることにしようではないか」
「そうしましょう、干将さま」
干将と莫邪が身命を賭して鍛えた二振は、その身をやつれさせ、蝕むほどだった。
それもその筈、干将が剥いだ十指の爪は、それ以降伸びることはなく、莫邪の黒髪もすっかり白んでしまったのである。
やつれ果てた干将だったが、依然としてその瞳には強い光が宿っていた。
「それでは、己がそれぞれの名をこの剣に銘打とうではないか」
「それは名案でございます。私たち夫婦が拵えた雌雄二振、一対の宝剣。干将と莫邪――」
骨と皮だけになったような白髪の莫邪が、莞爾として笑った。
こうして雄剣(陽剣)干将、雌剣(陰剣)莫邪とする、雌雄二振の宝剣がここに誕生したのである。