報仇の剣
玉座には袍衣を肌蹴させ、恰幅の良い腹を揺らして芳酒を呷る楚王、熊招の姿があった。
その傍らには、ひとりの謀士が侍っていた。
漆黒の襤褸を纏った余祭は、そのすぐ階下で拝跪していた。眼前に置いた包みを解くと、ひとつの首を晒した。余祭の背後でそれを見守るように、楚の文武百官が居並んでいる。
臥蚕の眉、その間には鑿で彫られたような深い皺が刻まれ、引き剥かれた環眼が、まるで熊招を睨んでいるような首だった。
「ふん。これが干将と莫邪の倅、干赤か。眉間尺とはよく言ったものだ。して、その眉間尺を討った侠客、お前は何が望みだ?」
顔を伏せた余祭は、拝跪したままよく通る声音で言った。
「これは勇士の首。弔いに王の面前にて湯鑊(鼎の大鍋)を以って煮ることこそ我が望み」
「侠客が言わんとするような望みだ」
熊招は下知すると、即座に湯鑊を玉座の近くまで持って来させた。すぐに干赤の首を煮させ始めた。しかし、盛んに火をくべ数刻を要しようが、微塵も煮えるような気配がない。
すると――。
突如として干赤の首が熱湯の中から跳ね上がり、凄まじいほどの怒りの形相で熊招を睨みつけた。
「ヒッ‼」
仰天した熊招へ、余祭は階を上りつつ静かな声音で諭した。
「それは勇士の首でありまする。王が近寄りてご覧になれば、必ずや煮え爛れましょう」
そうかと肯んじた熊招は、言われるがまま、干赤の首が煮られる湯鑊を覗き込んだ。
その刹那、余祭は一彪の如く階より跳躍するや、宝剣、莫邪を抜き放った。一道の青い閃光が迸ったのは、湯鑊を覗き込んだ熊招の首元だった。
胴から離れた熊招の首は、そのまま湯鑊の中へ落ち、軀幹は木偶のように頽れた。
「お、王が――⁉」
宮殿は忽ち狂騒と混乱の坩堝と化したかに見えた。
「静まれい‼」
困惑した文武百官を前に、宮殿に響き渡るほどの大喝を浴びせたのは、玉座に侍っていた謀士、屈建だった。
「騒ぐな。ひとりの無頼が失せたまでのこと。今、楚王熊招は、一介の侠客に葬られた」
莫邪の剣を手に、余祭が静かな眼差しで屈建を見遣った。その切れ長の眼が鋭く光っていた。
「暴君では国は保てぬ。己の傲慢で国を蔑ろにする下賎の輩が」
屈建は、熊招の亡骸を睨み据え唾した。
「侠客よ、お主の名は聞かぬ。褒美だ。この無頼の屍体が佩びし破滅の宝剣を持ち去れ。王を名乗る者には、無用の代物」
余祭は熊招の佩びていた宝剣、干将の剣を手に取ると、腰に佩きゆっくりと階を降りた。
佩いていたのは干将と莫邪の宝剣、そして、干赤が所持していた青鋼剣の三振だった。
すっかり鎮まり返った楚の文武百官の群れが、まるで波のように割れると余祭の路を開けた。
奇妙にも、王の仇を討つべく余祭へ斬り掛かる者、歩みを遮ろうとする者は皆無だった。
慌しくなり始めた街道を、漆黒の襤褸を纏った偉丈夫、余祭が俯き加減で闊歩している。
ふと顔を上げると、前方より同じような出で立ちの姿があった。額は異常に突出し、鼻はひしゃげている。紛れもなく介象だった。
漆黒の襤褸から突き出たような、木脚の右足を引き摺るようにして余祭へ近づくと、介象は擦れ違い様、反歯の微笑を浮かべた。
「名を捨て、誉れまでも捨て、お主はこれからどう生き抜く?」
「世を捨て隠棲し、浮世を傍観しよう。介象とでも名乗ろうか」
予め決めていたことのように応じると、余祭は静かに笑った。
介象は木脚を止め、山のような余祭の後背をいつまでも見送った。その眼は、月光のような悲愁の輝きに満ちていた。
さて――。
共に煮られた干赤と熊招の首だったが、遂には双方とも湯鑊の中で爛れ、どちらがどちらの首か識別が困難となった。
謀士の屈建は、どちらの首も王として祀り、王の墓へと葬ることにした。(了)