危うし、干赤
秋蟲の音が一斉に止んだ。
天には悲愁の色を帯びた月が浮き、涼風は群生した草々を優しげに撫でていた。
そんなある一夜のことであった。
とある山中に息も絶え絶え、迷い込むよう逃れてきたのは、干赤という若者であった。よく見れば、魁偉の風貌の持ち主である。
熊のような軀幹に戴いた面貌は、ただ厳ついだけではない。臥蚕の眉、その間には、まるで鑿で彫られたような深い皺が刻まれている。いつ頃からか眉間尺が渾名となっていた。
今や干赤にとって、滴る汗を拭うような涼風と、足元を照らす心細げな月光だけが頼りだった。何をしたという訳ではない。だが、干赤は楚王より罪人の咎が掛けられていた。
「まだ追ってくるか……」
駈けながら一度振り返った干赤は、眉間の皺を更に深くし、月夜へ渋面を晒した。
干赤は、丈夫な体軀に加え健脚だった。それは亡き父母が、干赤を生き長らえさせるために与えてくれたようなものだった。
干赤は、月光に照り返されては青白い光を放つ得物、その柄を力強く握り締めた。それは青鋼剣だった。干赤の父と母が鍛え上げ、今やその形見となった、唯一無二の代物である。
俄かに、未だ見ぬ楚王の翳が干赤の脳裡を過ぎった。楚王への憎悪だけが生きる糧だった。干赤は、己に課していた。
「楚王の命脈を絶つまでは、死ねぬ‼」
決意を更に強固なものにするよう地を蹴っては、野鼠の如く駈けに駈けた。一心不乱に嶮峻な山道を駈け上がると、至ったのは渓川の急潭だった。
干赤は激しく肩で息をすると、弱々しい月光を頼りに渓川の流れを見遣った。
「いたぞ! 必ずや討て!」
依然として後方からは数十の捕吏たちが迫り寄っていた。どれも戟や矛などの得物を携えている。
「チッ」
舌打ちをした干赤は、渓川を背にして振り返ると臍を固めた。
「……やるしかねえ」
干赤は項垂れながらも、冷ややかな光を放った青鋼剣を眼前に構えた。
干赤を取り囲むように、捕吏たちが蝟集する。
「もはや逃れられぬぞ。眉間尺よ、さっさと観念いたせ!」
捕吏の長らしき壮漢が、干赤へ矛を突き付けるようにしてにじり寄った。
すると――。
干赤は、屹っと首を立てると、奇妙にも闇夜へ白い歯を浮かせたのである。
「――――⁉」
続々と蝟集してくる捕吏たちが、挙って狼狽した刹那だった。
捕吏たちの群れの中へ、獰猛な熊が跳躍したようだった。
干赤は鋭利な戟を撥ね上げ、機鋒の矛を掻い潜っては、次々と捕吏たちを斬りつけた。
それは、舞のようだった。
追い遣った獲物を仕留めるように、月光に切っ先を煌めかせた無数の凶刃が、四方、八方より繰り出されている。
干赤は、身を翻らせて躱しては、常山の蛇勢の如き数多の手数で必殺の一閃を放っていた。纏っている衣が引き裂かれようとも、宙に身を舞わせ膚一枚のところで躱す。躱した瞬間には、次の標的に狙いが定まっている。
「ヒッ」
捕吏たちの長が恐怖の声を上げるや否や、その首は血汐の尾を引き月夜を踊った。
まさに束の間だった。
瞬く間に死屍と化した数十の捕吏たちが、累々と倒れ伏したその中央では、返り血を浴びた干赤が、乱れた呼吸を整えるようにして、炬眼で虚空を睨み付け佇立していた。
月光に照り返された青鋼剣が、依然として静かに青白い光芒を放っている。
襤褸のようになった干赤の衣は蘇芳に塗れ、青鋼剣が悲愴な音を立てて鞘へと納まった。
刹那、干赤の背後に流れる渓川の岩場から送られているものがあった。
視線だった。
さすがの干赤も怖ず怖ずとその眼差しを向けると、渓川より小高く突き出た岩肌で、ひとりの偉丈夫が干赤へ視線を遣っていたのである。
先刻までの捕吏たちとはまるで異質だった。
月光に照らされ、闇夜から浮き出たその偉丈夫の容貌は、漆黒の襤褸に纏われている。
冷然とした気配に、干赤は固唾を飲んだ。
秋蟲たちが再び、奏で始めていた。