Closing. その背中を追いかけて
そして、旅立ちの日。
リーザの村の正門には、ロットの門出を見送るために村人たちが総出で集まっていた。足元には朝からずっと泣きじゃくっているエルナの姿があり、旅装束の裾をいつまでもぎゅっと握ったまま片時も離れようとしない。
「本当にもう忘れ物はないの? 薬草は持った? 地図はちゃんとある? 生水は絶対にそのまま飲んでは駄目よ。ええと、それから……」
「大丈夫だって、母さん。もうそんなに子供じゃないんだからさ」
「何言ってるの、あなたはまだまだ子供でしょう! 大体、あなたって子は……」
放っておくと、小言が途絶えそうにない母親をなだめつつ、ロットは後ろで静かに佇む父親へと向き直った。
「それじゃ、行ってくるよ父さん」
「ああ、しっかりな。……ルタ殿。うちの息子をよろしくお願いします」
樫の長杖を携えたルタが鷹揚に頷くと、ルークスは彼の手を取り深々とお辞儀をした。
森から戻ったロットは、まず両親に事の経緯をすべて打ち明けた。
勝手に森の奥地へ立ち入ったことに対する叱責もあったが、修行のために旅に出たいと話すと、二人は驚きつつも最後まで話を聞いてくれた。
村を出ていくという話に難色を示したアニスとは対照的に、ルークスは意外なくらいにあっさりと旅立ちを了承してくれた。
温和だが厳格な父親の反応に戸惑いつつも理由を訊ねてみると、自分も若い頃に聖都を目指して村を飛び出したと懐かしそうに語った。
「こうして旅に出ると言いだす辺り、お前も血は争えないのだろうな。自分の信じた道を行くことは、お前にとっても有意義なはずだ。精一杯頑張ってきなさい」
そして、旅の最中に出会った薬師の娘こそ、ルークスの隣に座っている母親だと初めて知った。二人の馴れ初め話まで持ち出されてしまっては、さしものアニスも口をつぐんで引き下がるしかなかった。
「ねえ、やっぱりやめようよ。ロット君がいなくなったら、フィアちゃんだって……」
「そこまでにしとこう、ペトラ。ロット君だって、あれこれ考えた結果なんだから」
「うー、わかってるけど……」
未だに納得がいっていないペトラを、フランカがどうにかなだめようとしている。
事情を告げた友人たちは、みな一様に驚きを見せた。リジーに至っては激しく憤慨し、しまいには取っ組み合いを演じる羽目になった。
村のガキ大将である彼と喧嘩をするのは、ロットにとって初めてだった。腕力の上では到底敵わないリジーを相手にロットは何度も殴られながらも懸命に食らいつき、最終的に引き分けにまで持ち込んだのだ。
ロットとリジーの顔には、その時に殴り合った傷跡がくっきりと残っている。
「わりぃな、ロット。晴れの日にそんな酷いツラさせちまってよ」
「リジーこそ、せっかくの男前が台無しになってるぞ」
「へっ、言うようになったじゃねえか。ま、こっちはこっちで元気にやるからよ。お前も早いとこ、修行とやらを済ませて戻ってこいよな」
「ああ、任せとけ」
「旅先でのお土産、期待しとくよ。せっかくだから、とびきり珍しくて美味いやつをさ」
「ほんと、ハンスはこんな時でも相変わらずだな」
笑いながら軽口を叩き合うと、ロットはリジーたちと肩を組んで別れを惜しんだ。
「よう、ロット」
後ろから声をかけられて振り返ると、そこには門番のアルフが立っていた。彼の童顔は、しばらく見ないうちに少しやつれて老け込んでしまったように見える。
リーシャの訃報を耳にしたあの日から、彼は塞ぎがちになっていた。一時は酒場に入り浸っており、門番の仕事も手につかなかったようだ。
「その……もう、大丈夫なんですか?」
「ま、いつまでも落ち込んでたって仕方ないからな。それに、本当に悲しいのはあいつの残された家族だってことは、俺にだってわかってる」
「アルフさん……」
「教会から迎えが来た時にあいつを追いかけられなかった時点で、俺にはどうこう言える資格はないんだ。……実はさ、この間あいつの旦那さんと話す機会があってな」
リーシャの夫――フィアの父親であるザハールは、現在“湖畔の水鳥亭”で給仕として働いている。酒場に足を運ぶうち、二人は顔見知りになっていったらしい。
「あいつさ、村を出ても昔のまんまだったみたいで。でも、旦那さんと一緒になって……最後にはあんな結果になっちまったけれど、それでも幸せに暮らしてたってわかったら、何だか吹っ切れたような気がしてな」
ひとしきり話し終えると、アルフはロットの髪をくしゃりと撫でて笑う。
「なあ、ロット。お前は俺みたいに後悔するなよ。……あの子はリーシャの娘なんだろ。悲しませたりしたら、俺だって許さないからな」
ロットの背中を勢いよく叩くと、アルフは手を振りながら持ち場へ戻っていった。
「それにしたってフィアは遅いな。そろそろ、出発の時間だってのによ」
「今日もレイリさんと、剣の稽古してるのかなぁ」
「あの子もちょっと冷たいよねー。下手をしたら、これが最後になるかもしれ……って、あだだだだっ!?」
「ハンス、いつも一言多いって言ってるでしょう?」
「じょ、冗談に決まってるじゃないか。ていうかフランカ、ボクの扱いがどんどんひどくなってきてない?」
「そう? 自業自得じゃないの?」
恨めしそうにぼやくハンスから視線を逸らすと、ロットは改めて生まれ育った村をその目に焼き付けた。
次に村へと戻ってくるのは一人前の魔術師になってからだ。それがいつになるか、今のロットには見当もつかない。
最後に“湖畔の水鳥亭”の方角を見遣り、胸をよぎる感傷を断ち切ろうとしたその時。
「ロットくーんっ!!」
振り返ると、そこには息を弾ませながら駆けてくるフィアの姿があった。
「はぁ、はぁ、はぁ……。よかった……間に、あった……」
ここまで全速力で走ってきたのだろう。ロットの目の前にまでやって来た少女は、膝に手をつきながら肩で大きく息をしていた。
やがて息を整えたフィアは顔をあげ、澄んだヘーゼルの眼差しでロットを見つめる。ロットはふと、彼女の栗色の髪が後頭部の高い位置で結い直されてると気が付いた。
「フィア、その髪型……」
「うん。動きやすいようにって。……似合ってるかな?」
「ああ、よく似合ってると思う」
「ふふ……ありがとね、ロット君」
はにかみながら誇らしげに笑う今の彼女に、初めて出会った時の弱々しい面影はない。それが嬉しくもあり、また同時に切なくも思えた。
「……本当に、行っちゃうんだね」
「ああ。もう、決めたことだから」
「そっか。ロット君がいなくなると、寂しくなっちゃうね」
少しだけ眉尻を下げ、それでもなお彼女は気丈に微笑ってみせる。
「ロット君にね、これを受け取って欲しいの」
そう言ってフィアが差し出したのは、見慣れない精緻な文様が無数に刻まれた金属製のレリーフだった。先端に革紐が通されており、首からかけられるようになっている。
「これは……?」
「わたしが住んでた地方に伝わるお守りだよ。旅人が無事でありますようにって、本来は家族から贈られる物なの。初めて作ったから、ちょっと不恰好かもだけど……」
レリーフの細工はすべて手作業によるもので、相当な手間をかけて作られているのだと一目に見て取れた。
それに、よく見てみればフィアの目にうっすらと隈ができていた。どうやら、お守りを仕上げるため、夜を徹してくれていたらしい。
「……ありがとう、フィア。このお守り、絶対に大切にするよ」
旅立ちを決意してから、ロットはフィアに対して素っ気ない態度ばかりを取っていた。彼女と接することで、決心が鈍ってしまうのを何より恐れていたからだ。
だというのに、フィアはそんなロットの無事を願ってお守りまで用意してくれたのだ。意固地だった自分の行動が、ひどく子供じみて思えてしまう。
「あのね、ロット君」
「ん?」
「ロット君が決めたことだから、これ以上はもう何も言わない。でも、せめてこれだけは言わせて。わたしは待ってる。ロット君が修行を終えて、この村に帰ってくるのをずっと待ってるからね」
「フィア……」
「ちゃんと無事に帰ってきて。約束だよ」
「ああ、もちろんだ」
今はまだ、自分より少し背の高い少女の顔を見上げる。
「……絶対に追いついてみせるからな。誰にも負けないぐらい強くなって、きっとここに帰ってくる。だから、フィアもそれまで元気でな」
「うんっ!!」
差し出されたお互いの手を取り、二人は力強く握手を交わした。
名残りを惜しむようにゆっくりと繋いだ手を解き、正門で待つルタの方へと向き直る。
「行こうぜ、爺さん」
「うむ。それでは出発じゃ!」
そうしてロットは、村人たちに見送られながら生まれ育った故郷を後にした。
樹々が奏でる葉擦れのざわめきと小鳥たちのさえずりが、少年の旅立ちを祝福するかのように優しく響き渡っている。
いつしか春は終わりを告げ、緑葉が萌ゆる初夏へ。
街道を往く少年の後ろ姿を、フィアは見えなくなるまでいつまでも見送り続けていた。