Chapter 6. 不安の予兆と旅の剣士
それからまた、幾日かの時が過ぎた。
無事仲直りを果たした二人は、以前にも増して親密な関係を築きあげていた。フィアが見せる表情にも、少しずつ笑顔が戻りつつある。
彼女を子供たちと会わせる件については、次回のルークスの教室を待つことになった。ロットからの報告を聞いたペトラは「すぐにでも会いたい!」と強く主張したが、心の準備がしたいというフィアのたっての意思を尊重したのだ。
泉のほとりでの二人だけの時間は、もうじき終わりを告げる。これからはリジーたちも一緒になって、賑やかに日々を過ごすだろう。
その変化を好ましいと思う反面、ロットはどこか寂しさを感じずにはいられなかった。
「ねえ、ちょっといい?」
森へ出かけようとするロットを呼び止めたのは、母親のアニスだった。
「どうしたの、母さん?」
「市場で買い物をしてきて欲しいの。ちょうど今、手が離せなくて」
「……オレ、これから用事があるんだけど」
「用事っていっても、森へ遊びに行くだけじゃない。どうせまた、フィアちゃんに会いに行くつもりなんでしょ?」
図星を指されて口ごもるロットを尻目に、アニスは手にした藤のかごを差し出した。
「お使いを済ませたら、遊びに行ってきていいから。お願いできるわね?」
「……わ、わかったよ」
母親の頼みを断る訳にもいかず、ロットは不承ながらお使いを引き受けることにした。
市場が立ち並ぶ村の広場は、同じように買い物にやってきた人で賑わっていた。
人の往来こそ少ないが、あちこちで呼び込みをする声や値切りに熱を入れる買い物客の活気に満ちている。思えばこうして市場に顔を出すのも、随分と久しぶりだ。
馴染みの露店で手早く買い出しを済ませると、ロットは逸る気持ちを抑えながら市場を後にした。緩やかな並木道を進んでいくと、やがて拓けた分かれ道へ行き着く。
通い慣れた三叉路の中心に、見慣れない人影が腕組みをしながらじっと佇んでいた。
腰まで届く黒髪が印象的な女性だった。旅装束と効率的にまとめられた荷物が、彼女が旅慣れた人間であると雄弁に物語っている。
一際異彩を放っていたのは、彼女が腰に差している長剣だった。独特の緩やかな曲線を描く刀身は、ロットにとって見慣れない形状をしていた。
「ねえ。あなたって、この村の子?」
ロットの姿を認めると、女性は片手を挙げて手招きをした。
「ちょっと道を聞きたいんだけど、いいかしら?」
「……はい、いいですけど」
ぎこちなく答えるロットに、女性はにっと快活そうな笑みを浮かべた。相手から敵意はまるで感じられない。むしろ、その笑みには親しみすら覚えるほどだ。しかし、彼女がその身に纏う気配には、圧倒的な威圧感のようなものが感じられた。
――例えるならそれは、森で巨大な魔獣と出くわしてしまったような感覚。
警戒心を露わにする少年に、女剣士は苦笑いをこぼして肩を竦める。
「別に取って食ったりしないわ。そんなに怖がらないでよ」
「……すみません」
「ん、よろしい」
ロットが恐縮すると、女性は気さくに笑いながらぽんぽんと肩に手を置いた。
しかし、依然として彼女に対する緊張感を拭い去ることはできなかった。そして、次に発した言葉は、ロットをさらに驚愕させる。
「あ、そうそう。それで聞きたいんだけどさ。この村にある“湖畔の水鳥亭”って宿屋を探してるの。どこにあるか知らない?」
「え……?」
どうして彼女が、フィアが住んでいる宿屋を訊ねてくるのか。
そんな風に一瞬考えた後、即座に思い直す。旅人であろう目の前の女性が、村で唯一の宿屋を探しているのは至極当然であるからだ。
自分を無理やり納得させ、ロットは女剣士に“湖畔の水鳥亭”までの道順を説明した。
「やー、助かったわ。泊まる場所がわかんなくて困ってたのよね」
「宿屋までお送りしましょうか?」
「それには及ばないわ。そっちもお使いの途中なんでしょ?」
屈託なく笑うと、女剣士は手をひらひらと振りながら去っていった。
彼女の後ろ姿を見送りながら、ロットは自分が冷や汗をかいていると気付く。その姿が見えなくなった後も、心から得体の知れない不安は消えることがなかった。
お使いを済ませたロットが森の泉に向かうと、そこにフィアの姿はなかった。しばらく待ってみても、一向にやって来る気配がない。
それならば、直接フィアの家まで迎えに行けばいいはずが、今日に限ってそうする気になれなかった。もし“湖畔の水鳥亭”に行けば、先ほどの女剣士と鉢合わせするかもしれないからだ。
久しぶりにやって来た宿泊客に、フィアも接客へと駆り出されているに違いない。そんな言い訳を自分に言い聞かせ、ロットは重い足取りで家路についた。
その日の夜、ロットは高熱を出して寝込んでしまった。
謎の女剣士に対する不安は、夢の中でもなお少年の心を苛んだ。混濁する意識の中で、ぐるぐると脈絡のない思考が繰り返される。
結局、あの女剣士は何者だったのか。
何もないはずのこの村に、何故わざわざ訪ねてきたのか。
フィアとその父親。そして、旅の女剣士。それぞれに関係などないはずなのに、何故か偶然だと片付けられない。いくら考えても答えは出ず、ロットの胸中に言いようのない焦燥ばかりが募っていく。
気付けばフィアが、ロットの目の前に立っていた。
ロットに無言で背を向けると、そのまま振り返らずに遠ざかっていく。
「待ってくれ、フィア!!」
どれだけ必死で呼びかけたとしても、少女は立ち止まろうとしなかった。
彼女を追いかけても、その差は縮まるどころか広がっていくばかり。
「オレのことを置いていかないでくれ! フィア! フィアぁっ!!」
喉が張り裂けるまで叫んでも、その声はフィアの耳に決して届かない。
ついに少女の姿は霧に紛れ、徐々にその輪郭までもがぼやけて見えなくなっていく。そして、フィアの傍らで手を引いているのは――長く黒い髪をたなびかせている、あの見知らぬ女剣士だった。
◆
それから数日もの間うなされた後、ロットはようやく体調を取り戻した。元気になった彼の様子に、看病をしていた両親もほっと胸を撫で下ろす。
しかし、回復した身体とは裏腹に、ロットの心中には夢で見た光景が克明に焼き付いて離れなかった。
今すぐにでも、フィアの顔が見たい。声が聞きたい。そう思ったロットは手早く支度を済ませ、心配する母親の制止を振り切って家を飛び出していた。
村外れの森まで続く田舎道を駆けていくと、道の途中でこちらへと向かってやってくる人影と遭遇する。
それはリジーたちと、彼らと共に歩いてくるフィアの姿だった。
「よう、ロット。思ったより、元気そうじゃないか」
「ロット君! もう大丈夫なの!?」
「……大丈夫そうだね。心配して損しちゃった」
「急に熱を出したって聞いたから、みんなでお見舞いに来たんだぜ」
口々に声をかけてくる友人に挨拶しながら、ロットはフィアに歩み寄った。
「ロット君、熱はもう下がったの!? 具合悪くない!?」
「あ、ああ。もう、すっかり元気だよ」
「よかったぁ! それじゃ、今からみんなで遊びに行こうよ!!」
「お、おい。フィア!?」
明るい声でそう言うと、フィアは戸惑うロットをよそに広場へ駆けだしていく。
今までの彼女から想像もつかないその振る舞いに、ロットは驚きを隠せなかった。
「……なあ、どういうことなんだよリジー」
「そんなの、オレが聞きたいくらいだぜ。お前、あの子から何も聞いてないのか?」
「フィアちゃんって、思ってたよりずっと元気な子だったんだね。あたし、すぐに仲良くなれちゃった!!」
嬉しそうにそう語るペトラの言葉に、ロットは思わず絶句した。
自分が知るフィアはもっと引っ込み思案で、誰に対しても臆せず話しかけられるような少女ではなかったはずだ。
「ほらーっ! みんな、早く行こうよ!!」
大きく手を振りながら無邪気に呼びかけるフィアの姿は、まるで別人のようだ。
自分が寝込んでいる間に、一体どんな心境の変化があったというのか。
「とりあえず、オレたちも行こうぜ」
「……ああ」
釈然としない気持ちを抱えながら、ロットは友人たちと広場に向かうのだった。
◆
村の広場に着いてからも、フィアは子供たちと一緒に遊び続けた。
鬼ごっこや宝探しといった定番の遊びから始まり、広場の片隅に生えている白樫の木で木登りに挑戦したりもした。
すっかり子供たちの輪に溶け込んでいるその様子に、ロットは違和感を拭い去ることができずにいた。リジー達とはしゃいでいるあの少女は、本当にフィアなのだろうか。自分はまだ熱を出して寝込んだままで、長い夢の続きを見ているのではないか。そんな突拍子もない考えまでもが浮かんでしまう。
「ロット君」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、いつの間にかフィアが顔を覗き込んでいた。
「大丈夫? ……もしかして、まだ調子悪いの?」
気遣わしげに問いかけてくる表情は、見知った彼女のものに程近く感じた。
そのことに少しだけ安堵を覚え、ロットは小さく笑みを返す。
「ああ、ちょっと考えごとをしてただけだ。……あのさ、妙な質問をしてもいいか?」
「なあに?」
「フィアは……本当に、あのフィアなんだよな?」
ロットの問いに一瞬きょとんとした顔をすると、フィアはおかしそうにくすりと笑う。
「……うん、わたしはわたし。ごめんね、ロット君。やっぱり、変だったかな?」
「いや、変じゃないさ。ただ、その……無理でもしてるんじゃないかと思って」
「あはは……。実はね、自分でもそうかもってちょっと思ってる」
そう言って照れ臭そうに眉尻を下げた彼女の表情は、いつものフィアのものだった。
「あのな、フィア。そんな風に明るく振る舞わなくてもいいんだぞ。リジー達だったら、普段のままでもちゃんと受け入れて……」
「……ううん。違うの、ロット君」
ロットの言葉を遮るように静かに頭を振ると、フィアはにっこりと微笑んだ。
「わたし、変わることにしたんだ。今までみたいに俯いてるばかりじゃなくて、ちゃんと前を向いて生きていこうって決めた。だからね、これはそのための最初の一歩だよ」
「フィア……」
そう胸を張って言い切る瞳の輝きに、ロットは思わず引き込まれそうになる。
それは楚々として愁いを帯びた花ではなく、陽を受けて咲く向日葵のような笑顔だ。
フィアの決断は彼女にとって望ましいものに違いない。ロットにしても、彼女が自分の意思で立ち直ろうとしていることを歓迎したい気持ちはある。
だけど同時に、彼女の変化はあまりに急激過ぎた。自分が知らないところで、フィアに一体何が起きたというのだろう。
「あのね、ロット君」
不安に揺れる少年の瞳を、澄み渡った榛色の双眼がまっすぐに捉える。
「わたし、頑張るから。泣き虫な子供のままじゃなくて、誰かを守れるような……そんな強い人になりたい。わたしを変えてくれた――」
そう言いかけた少女の言葉を、一人の女性の声が遮った。
「フィア! 今日の稽古、そろそろ始めるわよ!!」
「……はい、師匠!!」
元気よく答えた、フィアの視線の先にいる人物を目の当たりにして――ロットは言葉を失ってしまう。そこに立っていたのは、紛れもなくあの黒髪の女剣士だったからだ。
「わたし、そろそろ行かなきゃ。ごめんね、みんな。また一緒に遊ぼうね!!」
「おう。頑張ってこいよ、フィア」
「またね、フィアちゃん!」
リジーたちの声援を背に受けながら、フィアは女剣士の下に駆けていく。
呆然と立ち尽くしたままのロットを心配して、リジーが声をかけた。
「なあ、どうしたんだロット。お前、顔が真っ青だぞ?」
「リジー……何だよ、あれ。なんで、フィアが……あいつのことを師匠って……」
「ああ、お前はまだ知らないのか。フィアの奴、あのおば……じゃなかった。あの剣士の姉ちゃんに弟子入りしたみたいなんだ」
リジーの話では、あの女剣士にフィアは自ら師事を申し出たのだという。女剣士はその申し出を快諾し、以来フィアは彼女の下で剣の稽古に明け暮れているらしい。
「オレも最初に聞いた時はびっくりしたけどな。それにあの姉ちゃん、実はめちゃくちゃ強いんだぜ。オレたちが束になってかかっても、指一本触れられないからな」
「あんなすごい人に弟子入りしたんだもん。きっと、すぐに強くなっちゃうよね!!」
友人たちの会話が、どこか遠くから聞こえる。目の前で起きている出来事が、ロットの理解の範疇を超えてしまっていた。
「……悪い、リジー。オレ、今日はもう帰るよ」
「今日はずっと調子悪そうだからな。家まで送って行った方がいいか?」
「いや、いい。一人で大丈夫だ」
「そうか? それじゃ、気を付けて帰れよ」
リジー達と別れて姿が見えなくなると、ロットの歩調は徐々に早まっていった。歩みが駆け足に、そして、全力疾走へと変わっていく。
わからない。どうして。オレじゃない。許せない。悔しい。
無数の言葉が嵐のように襲いかかり、心の中をぐちゃぐちゃにかき乱していく。
自分が知らない間にフィアは変わった。変わってしまった。自らの傷と向き合い、前を向く決意をした。泉のほとりで膝を抱えていた無力な少女は、もうどこにもいない。
それはとても嬉しくて、喜ばしいことであるはずなのに――胸が鋭い刃で突き刺されているみたいに、痛くて、痛くてたまらない。
あの女剣士だ。あの黒髪の女剣士との出会いがフィアを変えた。彼女に寄り添っていた毎日も、喧嘩をしてしまったあの日も。たった一日で、意味がなくなってしまった。
「何だよそれ……何なんだよ、それは……ッッ!!」
息が上がり、喉が焼けるように熱い。フィアが「師匠」と呼んでいた声を思い出すと、どす黒い感情が心の中を塗り潰していく。
「ぅ……あぁ……ッ、ああぁぁ……ッッ!!」
行きどころのない感情が、叫びになってロットの口を衝いて出た。
あの女剣士が妬ましい。悔しくって、憎らしくって――そして何より、素直にフィアを祝福できない、自分自身が嫌で嫌で仕方なかった。
「はぁ、はぁ……」
気が付けば、ロットの足は自然と森の奥の屋敷を目指していた。
自分がいま抱えている葛藤のすべてを、ルタに打ち明けて聞いて欲しかった。
乱れた呼吸を整えようと足を止めたロットは、そこで自らが犯した過ちに気付く。
「ここは、どこだ……?」
背筋を伝う冷や汗が、熱くなった身体を急速に冷やしていく。無我夢中で走るあまり、ロットは通い慣れた道から大きく外れてしまっていた。
辺りに漂う空気は重々しく、肌を刺すような緊張感が森全体に漂っていた。黒々とした樹々の枝葉で光は遮られ、暗く陰鬱な空間がどこまでも広がっている。
早く来た道を戻らないと。焦りに駆られて踵を返したその瞬間、ざり、と小さな足音がした。音のする方向に目を向けたロットは、驚愕のあまり目を見開いた。
「ひ……ッ!?」
そこにいたのは小鬼の群れだった。大人よりは小柄だが、それでも自分よりは背の高い妖魔。醜悪に歪んだ顔と、頭から伸びた二本の角。弓なりに曲がった矮躯に粗末な腰布を巻きつけ、手には赤錆の浮いた小剣を握っている。
「う、うわぁああああああッ!?」
初めて目にした妖魔に恐怖を覚えて駆けだすと、小鬼どもは久しぶりに見つけた獲物に奇声をあげながら追いかけてきた。
すばしっこい小鬼どもの追跡は、子供の足で完全には振り切れなかった。臆病で取るに足らぬ妖魔だが、無力な相手にはどこまでも残虐な殺戮者でもある。
暗い森をひた走りながら、少年は己の浅慮さを呪った。どうして今まで、平気だなどと勘違いをしていたのだろう。
森の奥は魔境であると、大人たちからずっと言い聞かされてきた。自分は非力な子供でしかなく、妖魔と遭遇すればひとたまりもないと、わかりきっていたはずなのに。
「……ッ!?」
足がつんのめる感覚と共に、視界がぐるんと反転する。
そのまま地面に叩きつけられ、木の根に足を取られて転んだことに遅れて気が付いた。慌てて立ち上がろうとした足に鈍い痛みが走る。転んだ拍子に挫いてしまったようだ。
「あ……あ、ああっ……!!」
振り返れば、そこには追いすがった妖魔が群れをなしていた。ロットのあげた悲鳴が、仲間を次々と呼び寄せていたのだ。
けたたましく笑いをあげながら、小鬼どもが剣を手にゆっくりと近付いてくる。自らの死が刻一刻と迫る様を、ロットはただ見ているしかできなかった。
飛びかかろうとする妖魔の群れを、彼方から飛翔する一条の閃光が貫いた。
金色に輝く光の軌跡を描きながらロットの目の前に降り立ったのは、真紅の衣装に身を包んだ白磁の自動人形だ。
「ア、アウラ……?」
自動人形はロットを優しげに見遣ると、金色の鬣をなびかせながら信じられない速度で疾駆した。鋭く繰り出された手刀が、妖魔の群れを紙細工のように引き裂いていく。
瞬く間にすべての妖魔を屠ったアウラは、放心したまま座り込んだロットに駆け寄り、そっと身体を抱き起こした。
一命を救われて安堵を覚えると同時に、ロットはある事実へと思い至る。
「ひょっとして……アウラはずっと、オレを守ってくれて……?」
無貌の自動人形は問いかけに応える術を持たない。しかし、自分が気付いていなかっただけで、彼女が陰ながらにロットを見守ってくれていたことは、もはや明白だ。
わかってしまえば、実に単純明快だった。自分がルタの屋敷を訪れる際、一度たりとも妖魔に襲われなかったのは、常にアウラの庇護下にあったという、ただそれだけの理由に過ぎなかったのだ。
「っ、うぐっ……あ、うぁ、あぁぁ……っ」
自分など所詮は、ただ小賢しいだけの子供に過ぎないと。無力で己の身ひとつ守れない存在なのだと、心の底から思い知らされた。
アウラの腕に抱かれたまま、声をあげて泣き続けるロットの頭を、彼女は気遣わしげに撫で続けるのだった。