Chapter 2. 最果て村の小さな私塾
サンクティア大陸の南西、七日間の船旅を要する場所にラースと呼ばれる島がある。
神代から続くとされる広大な森林と、豊かな水源に恵まれたこの島一帯を統治しているラルファーン聖王国は、光の女神セレスティアを信仰する光王教会が強大な影響力を誇る宗教国家としても知られていた。
春は色とりどりの花が一斉に芽吹き、夏は鮮やかな陽射しの下に様々な命が育まれる。落葉の舞い散る秋は豊かな実りを約束し、静謐たる冬の銀世界に抱かれながら、人々は新たな一年の訪れを待つ。
美しい自然は四季の折々に様々な顔を見せ、創世の女神の聖地と呼ぶに相応しい風情で巡礼に訪れる者たちを温かく迎え入れた。
島の南端に位置する辺境の地に、リーザという小さな村があった。
三十戸にも満たない家屋が身を寄せ合って息づいているこの村は、かつて世界を救った英雄リューク生誕の地であるとされている。
しかし、聖都セレスタインから遠く離れており、目立った観光資源にも乏しい村に立ち寄るような者は少ない。
村を訪れるのは領主の命で派遣される徴税官と流しの行商。そして、偏屈で変わり者の考古学者くらいのものだ。村人たちは狩りや農耕で細々とした糧を得ながら、慎ましやかに日々を過ごしていた。
村の外れにある小高い丘の上に、一軒の古く大きな民家が建っていた。切妻屋根を頂く木造の二階建てで、周りの平屋とは一線を画した佇まいだ。
玄関を抜けた先にある広間は吹き抜け状になっており、村人たちが一堂に会するだけの広さを有している。
普段は村の寄り合い所として使われている場所に、今は子供たちが集められていた。立派な樫の長机を囲うようにして座り、木枠で補強された淡黒色の石板に蝋石を使って文字を書き写している。
子供たちを相手に教鞭を執っているのは、村長でありロットの父でもあるルークスだ。熊のように大柄な体つきをしている壮年の男で、眼鏡の奥にある碧石色の瞳には、温厚で理知的な光を宿している。
彼は余暇を縫っては村人たちを家に招き、小さな私塾を開いていた。そんな彼の尽力の甲斐もあって、村で読み書きに不自由する者は少ない。僻地にある閑村において、それはとても珍しいことだ。
ルークスが書き取りの題材として扱っているのは、女神セレスティアによる創世神話の一節だった。女神の信望厚いこの国では、誰もが知る有名な説話だ。
◇
天地定からぬ無明の世界に、双つなる女神が降りたまう。
蒼穹に輝く光、太陽を司るもの。
秩序の象徴、至高たる一柱。
その御業により、世界に光生まれたり。
宵闇に映る光の影、月を司るもの。
千変万化の象徴、白銀たる一柱。
その御業により、世界に昼と夜の別生まれたり。
かく尊き雙子の女神は、自らの僕として『始まりの四竜』を創りたまう。
猛り荒ぶる緋竜王。
慈しき清廉の海竜王。
天翔ける翼竜王。
そして、峻険にして堅牢なる地竜王。
四元を司る竜の神威によりて、世界に確固たる形が与えられたり。
二柱の女神と古き四騎の竜は亜人種と獣たちを創られ、最後に人間を生み出せり。
かくて、務めを果たした女神と竜は天の座へと還りたまう。
されど、今もなお女神の眼差しは絶えることなく、昼は太陽の光、夜には月の影となり我らが行く末を照らさん。
◇
早々に課題を終えてしまったロットは、頬杖をつきながら押し寄せる欠伸をかみ殺していた。隣の席ではまだ小さな妹のエルナが、神妙な面持ちで机に向かっており、文字とも落書きともつかない代物を一生懸命にこさえている。
ひと通りの読み書きを既に覚えた少年にとって、授業の内容はひどく退屈でつまらないものに感じられた。今さらこんな授業に意味はないという主張に対し、ルークスはまるで取り合おうとしない。
時間を持て余した少年の頭の中は、一刻も早くルタの屋敷へと遊びに出かけたいという気持ちでいっぱいになっていた。
ロットが深き森の奥にある屋敷の存在を知ったのは、友人たちと一緒に森で隠れんぼをしていた時のことだ。絶対に見つからない場所を探してやろうと息巻いて、気付けば森の奥深くにまで足を踏み入れてしまっていた。
帰り道を探し森を彷徨っていたところ、偶然に通りがかったのがあの自動人形だった。差し伸べられた白磁の指は、空腹と心細さで途方に暮れていたロットにとって、頼もしく温かいものに感じられた。
アウラに手を引かれて屋敷を訪れた少年は、そこでルタとの出会いを果たす。物語から抜け出てきたかのような老魔法使いの知識は、瞬く間に少年の心を虜にした。
村に帰された後も、ロットは村人たちの目を盗んでは足繁く屋敷に通い詰めた。熟練の狩人ですら近寄らない森の深部には、獰猛な獣より凶悪な妖魔の類いが潜んでいる。
薄暗くて険しい森の道のりはいかにも恐ろしく、もし他の村人たちに知られでもすれば厳しい叱責は免れなかったが、少年の好奇心の前ではさしたる障害にならなかった。
「……ロット。なあおい、ロット」
「なんだよ、リジー。言っとくけど、代わりにやってくれっていうなら聞かないぞ」
物思いに耽るロットの脇腹を、横からつつく者がいた。小声でひそひそ話しかけてくる相手に、同じく潜めた声で応える。
声をかけてきたのは鍛冶屋の息子のリジーだった。村の子供たちを束ねるガキ大将で、癖の強い赤毛と陽に焼けた肌がいかにも腕白ものという印象を与える。
「相変わらず、シケた面してんな。なあお前、この後ヒマか?」
「何だよ、急に。どうかしたのか?」
「その様子じゃ、まだ知らないみたいだな」
訝しげに首を傾げるロットに、リジーはにやりと笑ってみせる。挑発するような態度にむっとして、ロットは「もったいぶるなよ。何があったんだ?」と問い返した。
「ふふん、聞いて驚けよ。なんと、この村に他所から誰か越してくるらしいぞ」
「……なんだ。またいつものリジーの早とちりか」
興奮気味に語る友人に対し、ロットは冷めた様子で鼻を鳴らした。聖都から遠く離れたこの僻地の村に、わざわざ移住してくる変わり者などいないからだ。
「早とちりって決めつけるなよ」
「だって、そうやって自信満々に持ってきた話が本当だった試しなんてないだろ?」
「いやいや、今度は本当なんだって」
「どうだか」
「今じゃ村中が、この噂で持ちきりになってんだ。むしろ、まったく知らないなんてのはお前くらいのもんだぞ」
「そこまで言うなら、せめて根拠ってものを示して欲しいね。一体誰が、そんな話をふれ回ってるんだ?」
いかにも生意気そうなロットの物言いを、リジーは気にした風もない。
体格から性格までまったくの正反対な二人だったが、不思議と気だけは合った。一緒に悪だくみをしては大人たちを揶揄って回るのが、彼らにとっての日常だった。
「雑貨屋のトム爺さ。なんでも、“湖畔の水鳥亭”に引っ越してくるらしい」
「“湖畔の水鳥亭”に?」
雑貨屋の主人であるトム爺さんは、村でもきっての情報通として知られている。ロバに引かせた荷車で三日はかかる隣町まで出かけ、商品と共に情報を仕入れてくる。
そんな彼が言っているのなら、リジーの話もあながち出鱈目ではないかもしれない。
“湖畔の水鳥亭”とは年老いた夫婦が営んでいる、村で唯一の宿屋である。もっとも、平時からこの村に宿泊客が訪れるはずもなく、食堂と酒場を兼ねた店は村人たちが集まる憩いの場として利用されていた。
「しかし、どうして“湖畔の水鳥亭”なんだ? 本当に引っ越して来るつもりだったら、宿じゃなくて家を探すはずだろ?」
「いや、それなんだがな。あの家には、何年も前に村を出ていった一人娘がいたんだと。大人たちはみんな、彼女が家族を連れて戻ってくるって噂してるぜ」
リジーの話に耳を貸すうちに、ロットも段々と興味を惹かれ始めた。わからない部分も多かったが、すべてを作り話として片付けることもできそうにない。
そんなロットの反応に気をよくして、リジーはさらに先を続ける。
「で、ここからが本題だ。どうやら、その誰かが村にやって来るのは今日らしい。これが終わったら、みんなで見に行こうって話になってる。な、お前も一緒に来るだろ?」
周囲を見回してみると、授業を受けている子供たちもどこかそわそわとしていた。
唐突に舞い込んだ友人の誘いを受けて野次馬に乗るか、それとも断ってルタの屋敷まで遊びに行くか。ロットは両者を秤にかけ、しばし頭の中で逡巡する。
リジーの気持ちもわからなくはない。旅芸人すら滅多に立ち寄ることがないこの村での娯楽といえば、せいぜい豊穣を願って毎年行われるささやかな収穫祭くらい。
単調な日々に訪れたかもしれない転機に対し、少なからぬ期待を抱いているのは想像に難くない。そして、それはロット自身にとっても同じだった。
誰が一体、何のためにこの村へと越して来るのか。もし本当に村を出ていった“湖畔の水鳥亭”の一人娘だったとして、それはどんな人物だったのか。
口では気のないそぶりを見せつつも、ロットの好奇心は大いに刺激されていた。
「わかった、オレも行くよ」
「よっしゃ、話は決まったな」
その言葉を待っていたとばかりに、リジーはにやりと笑ってみせた。
しかし、そんな二人に背後からかかる声があった。
「そこの二人。さっきから、随分と盛り上がっているようだな」
「げっ……」
「と、父さん」
振り返ると、腰に手を当てたルークスの姿があった。咎めるような、呆れるような顔を向けられ、ロットとリジーはばつが悪そうに顔を見合わせる。
「まったく、お前たちときたら……」
深々と嘆息をこぼすと、ルークスは二人に授業後の片付けをするように言いつけた。